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第574回 文豪たちの「言い訳」集

2024-05-03 | エッセイ
 文豪といわれる人たちも、やむを得ざる事情で、「言い訳」を書くことがあるようです。「すごい言い訳!」(中川越 新潮文庫)には、それらの方々の言い訳も集められています。どう文才を発揮されているのか、ちょっぴり好奇心まじりで、覗いてみました。なお、<   >内は、同書からの「言い訳部分」の引用です。
★宮沢賢治★
 宮沢賢治といえば、清貧にして、高潔な人格者とのイメージがあります。お馴染みの画像です。

 でも、実家は岩手花巻で大成功を収めた商家でした。30歳の賢治は、チェロ、タイプライター、エスペラント語を学ぶため東京にいました。そして、本来、自立していいはずの賢治は、その遊学費用を一切父親に頼っていたのです。お金の支援を求める手紙では、東京での奮闘ぶりを伝えた上で、<今度の費用も非常でまことにお申し訳ありませんが、前にお目にかけた予算のような次第で、殊(こと)にこちらへ来てから案外なかかりもありました。・・・第一に靴が来る途中から泥がはいっていまして、修繕にやるうちどうせあとで要(い)るし、廉(やす)いと思って新しいのを買ってしまったり、ふだん着もまたその通りせなかがあちこちほころびて新しいのを買いました。>「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」の質実で抑制的で、物欲とは無縁・・・・のはずが、違う顔を見せています。賢治ファンにはちょっとショックかも。
★高村光太郎★
 昭和22年、菊池正という詩人から、詩集の序を頼まれた時、光太郎は、こんな説明をして断りました。作品は評価した上で、<ところで、序文という事をもう一度考えましょう。なんだか蛇足のように思えます。小生は昔から序文をあまりつけません。「道程」の時も書きませんでした。他の人の序文は一度ももらいません。貴下も自序を書かれたらどうでしょう。・・・>
 独自の「序」不要論です。ところが、その3年前に、菊池の詩集「北方詩集」に序を書いていました。また、他の詩人にもいくつも序を書いています。大上段に不要論を説いていますが、単にその時は面倒だっただけかな、と想像したくなります。
★坂口安吾★
 D・H・ロレンスの「チャタレイ夫人の恋人」(伊藤整訳 小山書店)が、猥褻物頒布罪で、東京地検から起訴されたのは、昭和25年のことです。多くの作家、評論家が伊藤と小山書店を支援する中、坂口安吾も協力を惜しみませんでした。しかしながら、安吾は、東京地裁からの証人召喚状を受けた時、急迫する原稿の〆切を理由に、拒絶しました。<小生、・・・目下至急執筆中・・・まったく寸刻のヒマもありません。召喚状の文中、応ぜない時は過料に処せられ且(かつ)勾引せられる、とありますが、・・・それに従わざる時は法律上の制裁をもって脅迫されても、私情やむを得なければ仕方がありません。>
 公権力に対して、私的な事情で対抗する・・・・戦後無頼派の面目躍如です。

★森鴎外★
 明治の医学界、文学界に君臨した巨人にして、その唯一といっていい弱点が「悪筆」でした。明治34年、鴎外34歳の時、新進の歌人・金子薫園から頼まれた揮毫を断っています。金子の作品への敬意を表した上で、<小生大の悪筆にて、かようのものに一字たりとも筆を染めしことなく、今又当惑いたし居候(おりそうろう)。地方人に責められしときは、大抵友人に代筆せしめし事にて候。>と断っています。鴎外直筆の手紙を見た本書の著者も「達筆には程遠い筆跡で、味わい深いヘタウマ文字ともいえない感じです」と評していますから、そうなのかも。
★尾崎紅葉★
 贈り物の礼状を上手に書くのは難しいものです。知人から朝鮮飴を贈られた紅葉は、それが美味しかったこと、謝意などを縷々(るる)述べた上で、<是は決してあとねだりの寓意あるにあらず。美味に対するお礼とも申す可きかお蔭にて久しぶりにてうまき物腹に入り申候>と書いています。「あとねだりの寓意」とあるのは、飴をまたねだりたい気持ちをほのめかすものではない、との意を伝えたかったのでしょう。でも、これだけお礼を言われた方は、かえってまた贈らねば、と感じ、双方が気遣いの無限ループに入ってしまいそうです。
★夏目漱石★
 明治39年、39歳の漱石は、東京帝大の先輩、菅虎雄に100円(現在の100万円くらい)の借金がありました。その必要性を、彼への手紙で、<僕のうちでは又去年の暮れに赤ん坊が生まれた。又女だ。僕の家は女子専門である。四人の女子が次へ次へと嫁入る事を考えるとゾーッとするね。>とだいぶ先のことを言い訳にしています。その上で<君に返す金は矢張り(毎月)十円宛(ずつ)にして居る。今年中位で済むだろう>と、借りた方が、返済計画を決める勝手ぶり。大文豪漱石も、こと借金となると、なりふり構わぬ調子が微笑みを誘います。

 いかがでしたか?私には、文豪の皆さんが少し身近になった気がします。それでは次回をお楽しみに。

第573回 本をこよなく愛する人たち

2024-04-26 | エッセイ
 本は面白く読めて、時にブログ用のネタが拾えれば私には十分です。でも、世の中には、本を様々に楽しみ、ユニークな付き合い方をする人たちがいます。演劇集団・天井桟敷を率い、文才も発揮された寺山修司氏(1935-83年)の「書物に関する本の百科」(「幻想図書館」(河出文庫)所収)では、それらの話題が、幅広く、かつ興味深く語られています。一端をご紹介しますので、最後までお付き合いください。

 ある時、氏はパリで、その名も「本」という1842年出版の本に出会いました。著者は、トーマス・フログナル・デイブダン博士なる人物。出版の動機は「エラスムスのように、まず本を買い、残った金で衣類や食料を買うような」本好きのために、この本を書いた」というのです。なかなかの意気込みを感じます。
 博士によると、次のような徴候があれば「本狂い」と認定できるといいます。
 1.大きな本を集め始める
 2.ペーパーナイフの入っていない本に興味を抱く
 3.イラストの入った本を欲しがる
 4.上製革製本を隠し持つ
 5.第1刷の本を入手したがる

 読むためというより、モノとしての本を重視するのが条件だとわかりました。確かに当時は、本は貴重なモノでしたから、見た目が立派、ひとが読んでないもの、出たばかりのもの、珍しいもの、などにこだわるのもわかる気がします。
 もちろん、博士も「本は物ではない、知識を交換し、媒介するもの」としっかり釘を刺しているので安心しましたが・・・・
 そんな一節を読みながら、以前、当ブログの記事にした仏文学者・鹿島茂氏のことを思い出しました(文末にリンクを貼っています)。18、19世紀フランスの挿絵、写真入りの豪華本が収集のメインですから、条件の3と4をクリアしています。収集するだけでなく、じっくり読み込み、立派な著作も送り出しておられますが、ほぼマニアと認定されそう、というのがちょっと笑えました。

 さて、寺山氏の本に戻ります。
 そこには、世界一大きい本の話題が出てきます。1626年に、アムステルダムの商人が、イギリスのチャールズ2世に贈った地図の本です。こちらがその本(同書から)。

 高さ5フィート(150cm)、幅3フィート6インチ(86cm)という大きさで、大英博物館が所蔵しています。イギリスゆかりのモノとはいえ、大英博物館も物好きです。

 氏は、レイ・ブラッドベリのSF小説「華氏451」にも触れています(映画にもなりました)。そこで描かれる近未来の社会では人々は、電波だけでのコミュニケーションが許されています。すべての本は焼却炉に投げ込まれ、町から姿を消します(華氏451度は紙が燃え出す温度です)。
 ブラッドベリは、本が焼かれることに抵抗し、愛する本を完全に暗記して、「本になった人」を描いています。
  <あそこにいるのが、エミリ・ブロンテの「嵐が丘」です>
  <そして、、むこうにいるのはバイロンの「海賊」です>
 人を焼却炉に送るわけにはいきませんから、見事な「抵抗」です。「本離れ」が言われて久しい昨今、「ホントに本がなくなっていいの?」と皮肉たっぷりに未来を先取りしているSFといえそうです。

 最後に、寺山氏が引用しているユニークなエピソードを紹介します。
 1862年、イギリスのケンブリッジの魚市場に入荷した魚の中の一匹の腹を裂くと、1冊の本が出てきました。粘液にまみれて汚れきった船員のシャツで包まれています。調べてみると、ジョン・フリスという反カトリックの牧師が書いた宗教的論文でした。
 宗教裁判で有罪となり、魚倉庫に閉じ込められていた時に、魚の腹に隠していたようです。彼は後に、塔に幽閉され、火刑となりました。幸い、その論文は、社会状況の変化もあり、ケンブリッジの有力者の手で印刷、出版されました。「魚の声」または「本の魚」というタイトルで、16世紀の宗教弾圧の内実を伝える貴重な資料になっているといいます。こんな数奇な運命をたどる「本」もあったんですね。

 いかがでしたか?ご紹介した記事へのリンクは、<第437回 古書マニアの面白苦労話>です。合わせてご覧いただければ幸いです。それでは次回をお楽しみに。 

第572回 ゾクッ、「怖い絵」を観る

2024-04-19 | エッセイ
 「怖い絵」の「続」編ですので、タイトルに「ゾクッ」と付けて、シャレてみました(文末に、前回記事へのリンクを貼っています)。 独文学者で西洋絵画に造詣の深い中野京子さんの、今回は「新 怖い絵」(角川文庫)をネタ元に、3点の「怖い絵」をご紹介します。最後まで「こわごわ」お付き合いください。

★まずご紹介するのはこちら。ミレーの「落穂拾い」です。

 よく知られた名作で、「えっ、どこが「怖い」の?」と言われそうです。著者による謎解きは後ほどのお楽しみにしまして、まずは、作品と向き合うことにしましょう。
 舞台はパリから南へおよそ50キロのバルビゾン村です。19世紀の半ば頃から画家が次々に集まってきて、一種の芸術村のような様相を呈していました。都会暮らしに疲れ、売れない画家であったミレーが妻子とともに、この村に移ってきたのはこの頃です。パリ画壇は、伝統的な新古典主義派と情熱的なロマン派の闘いで活気づいていました。一方、新興の市民階級の中では、もったいぶったそれらの絵より、写実的な絵が好まれました。とりわけ自然に恵まれた田舎生活、農村風景を描いた絵が人気を集めていました。農村出身でもあったミレーにとって、バルビゾンへの移住は自然な流れだったのかも知れません。
 作品を見てみましょう。夕暮れのやさしい陽射しの中、後景には、麦わらが高く積み上げられ、おおおぜいの人たちが収穫の喜びに湧いています。
 前景の3人の女性は、腰を折って黙々と落穂を拾っています。それにしても彼女たちの逞しいこと。決して暮らしは楽ではなく、落穂を拾うのは、地主の目を盗むか、黙認されているのでしょう。とても生計の足しになるとも思えません。著者によれば、「落穂拾い」については、旧約聖書の「レビ記」や「申命記」に記述がある、というのです。「曰く、「畑から穀物を刈り取るとき、刈り尽くしてはならないし、落穂を拾い集めてはならない。それらは貧しい者、孤児、寡婦のために残しておきなさい、と。」(同書から)
「喜捨の精神」「貧者の権利」などと呼ばれる教義です。ミレーは敬虔なクリスチャンでしたから「説得力ある描写に信仰がミックスすることで彼の絵は普遍性を獲得した。」(同)とあって、ただの素朴な農村風景画でないことが理解できました。
 さて、著者によれば、ミレーと同時代の人の中には、この絵を本気で「怖い」と感じ、忌み嫌う人々がいたというのです。この作品が発表される9年前の1894年にマルクスとエンゲルスによる「共産党宣言」が世に出て、プロレタリアート(無産階級)の団結を呼びかけました。
 上流階級の中には、「宣言」の影響を受けた人々が「身分」の境界を越え、自分たちの神聖な領域に割り込んでくるのでは、と本気で心配する人たちもいました。そんな人たちは、文学であれ、美術であれ、そんな気配を感じると、それらの作品を叩き潰そうとした、といいます。そんな意図は毛頭なく、信仰心に裏打ちされて描いたミレーにとっては迷惑な話です。それだけインパクトのある絵だったから、ともいえるわけで、有名税かなと感じつつ、同情を禁じえません。

★お次は見るからに「怖い」こちらの絵です。

 ユダヤ系ルーマニア人のブローネル というモダン・アートの画家が、1932年、28歳の時に発表した自画像です。なぜか右目だけ、どろりと溶けて流れたかのように不気味に描かれています。もちろんこの時の彼は隻眼ではありませんでした。どうしてこんな縁起でもない絵を描いたのかは謎です。モダン・アートのひとつの手法と考えていたのかもしれません。
 事件が起こったのは、7年後です。ブローネル は知人が殴り合いの喧嘩をする仲裁に入りました。割れたガラスが飛んできて左目に突き刺さり、眼球を摘出するはめになったのです。右目と左目の違いはありますが、自身の未来を予見したような絵です。夢で未来を予知する「予知夢」というのがあります。「予知絵」というのもあったんですね、確かに「怖い」です。

★最後の作品はこちらです。

 19世紀、ヴィクトリア朝時代のイギリスの画家・マルティノーによる物語絵画です。豪華な館の主である画面右の男性はシャンパングラスを高く差し上げ、傍の息子ともどもハッピーそうです。でも中央の椅子に座る妻は、不安そうで浮かない表情を浮かべています。左端の祖母が涙を拭いながら執事となにやら相談をしています。そばの新聞には「貸間情報」が載っているのです。なんともちぐはぐな家族の様子の裏にあるのは、この立派で歴史の重みにあふれた家を、明日は出ていかなければならないという現実です。「懐かしい我が家での最後の日」という作品タイトルが、それをもの語ります。一体何があったのでしょう。著者によれば、絵の中にそのヒントが隠されているというのですが・・・・
 左下隅に競走馬を描いた絵が、あえて横向きに置かれています。これがヒントだといわんばかりに。王室主催のレースもあるという競馬にのめりこんだ男性貴族が、全財産を蕩尽してしまった、というわけです。ヤケクソなのか、またゼロから出直せばいいや、と楽観的にふるまっているのか、この男のヘンな明るさが「怖い」絵画です。
 いかがでしたか?なお、前回記事へのリンクは<第541回「怖い絵」をこわごわ観る>です。それでは次回をお楽しみに。

第571回 「〜さかい」ほか-大阪弁講座57

2024-04-12 | エッセイ
 大阪弁講座の第57弾をお届けします。

<~さかい>
 先日、車で出かけていた時、ラジオから懐かしい歌のアタマが流れて来ました。

踊り~疲れた~ディスコの帰り~/
これで青春も終わりかな~とつぶやいて~/

 少し年配の方ならご存知だと思います。「大阪で生まれた女」(作詞・作曲・歌 BORO)です。こちらがBORO(ボロ)さん。こんな方だったんですね。知りませんでした。

 曲はやがて、サビに入ります。

大阪で生まれた女やさかい/
大阪の街 よう捨てん/
大阪で生まれた女やさかい/
東京へは ようついていかん/

 聴きながら、「そや、「~さかい」て、コテコテの大阪弁で、講座のネタに使えるな」と思ったのが、我ながら貧乏性で、苦笑いしてしまいました。
「~なので」「~だから」と理由を説明する言い回しです。前に名詞が来る場合は、「~だ」とか「~である」を意味する大阪弁の「や」を付けて、歌詞のように「女や「さかい」」となります。
「アイツは悪知恵が働くヤツや「さかい」、気ぃつけや」のような用例も。
 そして 動詞に続く場合は、「さかい」をつけるだけです。
「こっちはワイがやる「さかい」に、そっちはアンタがやってくれるかな」、「あんたがワァワァ言う「さかい」、まとまる話がまとまらへんがな」なんてのを思いつきました。

 調べてみると、この曲は、1979年にリリースされています。私が30歳ちょっとの頃です。もう少し若い頃に聞いたような気がしていましたが・・・
 東京の女性が、大阪へいくのをいやがる・・・これだとリアル過ぎて、歌になりにくい気がします。大阪で生まれ育って、この街にすっかり馴染んでいる女性が、いまさら男について東京へ行くのを「堪忍(かんにん)してぇ~」となるから、可哀そうやなと(特に大阪のオッチャンなんかは)気持ちが動き、ホロっとなるのでしょうね。
 ここまで東京と大阪を対比させる大胆さ、ストレートさに新鮮な驚きを感じたことを思い出します。

<正味な>
 食品などに、よく「正味○○グラム」などと表示があります。容器とか外装材を除いた実質的な内容量のことです。「正味8時間」働いた、といえば、休憩などを除いた実質労働時間を指します。

 大阪弁だとこれを「正味な」と無理矢理に形容詞化します。どんな使い方してたかなぁ~、と考えて、思い出したのが、かつて人気を誇った「横山やすし・西川きよし」の漫才コンビです。

 とにかく愛用していたのが、横山やすしさん(故人)です。
 「付き合うてる男の子のこと、どう思うねん、てその女の子に訊いても、うつむいた顔を赤らめて、もじもじするばっかりで、要領を得えへんねん。どない思う」と話を振る「きよしさん」に、
「そら、ふたりはデキとるわ。「正味な話し」がっ」と一刀両断する「やすしさん」。
 
「ぶっちゃけて言えば」「早い話が」「結論をはっきり言えば」「遠慮なく言わしてもらえば」などの意味合いです。「話」とセットで使われることが多いような気がします。いらち(短気)な大阪人愛用の「大阪弁」です。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。


第570回 アポロ同時通訳の裏話

2024-04-05 | エッセイ
 アポロ11号が月面着陸したのは、1969年7月20日。私は大学生で、生中継で刻々と送られてくるテレビの映像を見ながら、英語と日本語の同時通訳に接して、大変なスキルと能力が必要な仕事があるのを知りました。メインで通訳をされた西山千さん(故人)の「こちらヒューストン」「万事順調」などは、今でも耳に残っています。
 その時、若くして同時通訳に参加され、その後、日本の英語教育分野でも活躍されているのが鳥飼玖美子さんです。女史の「通訳者たちの見た戦後史」(新潮文庫)を読んで、その時の同時通訳の裏話に大いに興味をそそられました。話題が話題ですので、少しだけ英語も登場しますが、エピソードをご紹介します。お気楽に最後までお付き合いください。

 欧米で初めて同時通訳が採用されたのは、ナチスの戦争犯罪を裁くニュールンベルグ裁判でのことで、比較的新しいシステムです。そして、日本では、7号以来、一連のアポロ宇宙船の報道で、その存在が注目を集め、11号の月面着陸で一挙に脚光を浴びることになりました。
 その背景には、テレビ側の事情もあったといいます。ドラマチックな場面がそう刻々と入ってくるわけではありません。そこで、スタジオに特設のブースを設けて、同時通訳ぶりをテレビ的に「絵として」伝えることにしたのです。顔の売れた西山氏などは、街でオバちゃんに声を掛けられこともあったといいます。

 さて、最大のハイライトである月面に降り立つ瞬間が来ました。

 その時のアームスロング船長の言葉は、公式の交信録では、
< That's one small step for a man, one giant leap for mankind. >
(一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ)となっています。
 教科書にも載るほどの名言ですが、そこを担当した西山氏には「実際には< man >の前の不定冠詞< a >は聞こえなかった」(同書から)というのです。< a man >なら一人の人間(この場合は、アームストロング船長自身)ですが、不定冠詞の付かない< man >だと人間(人類)一般という意味になります。
 「同時通訳は聞いたそばから訳して行くので、「これは小さな一歩です。人間(人類)にとっては」と訳し、次に< giant leap>「大きな飛躍」と続いたので「?」と思いながら訳していったところ、最後に< mankind >(人間、人類)が登場したので、「あれっ??」となる。人類にとって小さな一歩だが人類にとって大きな飛躍では、まるで意味をなさない」(同)というわけです。
 中継終了後、同時通訳の仲間内でも、不定冠詞< a >はなかったはずだと随分話題になった、と女史は書いています。後日談として、船長もやはり緊張していて、あらかじめ用意していた「名言」の< a >を発音し忘れたのが事実らしいとも書いています。通訳の皆さん方の耳、そして瞬時に通訳していく技術がいかにスゴイかを物語るエピソードです。

 西山氏のサポートとして同時通訳を担当した國弘正雄氏もこんなエピソードを残しています。船長が月の石を拾いながらしゃべっているのを同時通訳することになりました。ところがガ~ガ~と雑音がひどく、ろくに聴き取れません。唯一、< origin >(起源、組成などの意味)という単語が聞こえたのを手がかりに、こんな「訳」をでっち上げたというのです。
「「私がこうやって石を集めているのは、こうすることによって月のオリジン(origin)ねー僕は組成と訳したような気がするんだけどー月の組成が明らかになるかもしれないと思って、それを望んで今やっているんです」というふうに訳したわけよ。僕はほっとして、「ああ,良かった。どうやらもっともらしいことを言えたな」と思ったわけよ」(同)
 この訳はニュースでも流されました。後日、交信録で、まったくの「勧進帳」であったことがバレ、テレビ局からお叱りを頂戴した、とあります。後年、同時通訳として名をなした國弘氏にしてこのエピソード。演技力とクソ度胸も同時通訳に必要な資質のようです。

 女史自身のエピソードです。放送前のスタッフとの勉強会で、月に存在すると予想される石の名前を、彼女はだいぶ覚えました。その中の< basalt >という単語が交信の中で出てきました。「「しめた、出た!」と勢いづき、「玄武岩がありました」と大きな声ではっきり訳した」(同)
 正しい訳でしたが、スタジオの学者は騒然となりました。玄武岩は火山の溶岩で出来る石ですから、月でも火山活動があったことになります。月と地球の成り立ちなども含め、専門家を興奮させた、とちゃっかり自慢話をしているのが、ほほえましくて笑えました。

 いかがでしたか?同時通訳の世界をちょっぴり知っていただけたなら幸いです。それでは次回をお楽しみに。

第569回 正岡子規の食と艷話

2024-03-29 | エッセイ
 正岡子規(1867-1903年)といえば、「写生」を唱え、俳句の革新運動に取り組む一方、晩年は壮絶な闘病を強いられた一生が、,断片的な知識として思い出されます。

 司馬遼太郎のエッセイ「渡辺さんのお嬢さん」(「以下、無用のことながら」(文春文庫)所収)では、病の中でもいっこうに衰えることがなかった食欲と、亡くなる直前のちょっと艶っぽい話題に触れています。それをご紹介かたがた、彼の晩年の人生に想いを馳せることにしました。

 明治30年代、精力的に活動してきた子規ですが、36年の生涯で、最晩年の6年は寝たきりの生活になりました。結核性の脊椎カリエスを発症したのです。明治34年4月20日、医師から、人と話すことを厳しく禁じられました。そこで部屋に「対談をお断り申候、4月20日」と貼り出しました。でも、人と話すのが何より好きな子規は守るつもりはありません。「すぐに「客よ。お前だけ話せ」と書き添えた。」(同エッセイから)といいます。この頃は、ユーモアが出せる余裕があったのですね。
 脊椎カリエスでは、体にいくつもの穴があき、膿が出てきますから、定期的に包帯を取り替える必要があります。根岸の自宅でそれを担当したのが、妹の律(りつ)です。激しい痛みに号泣する彼を、俳句の門人である高浜虚子が「よしよし」とまるで子供をあやすように慰めたとのエピソードを私は思い出したりします。

 そんな中、かつて記者として勤めていた新聞「日本」への寄稿、山会(やまかい)という新しい散文を研究する会の主宰、そして、定期的な句会の開催(当然、子規の枕頭で行われました)など活動は精力的でした。それを支えたのが「食欲」ではないか、と司馬は書きます。
 死の前月まで食欲は衰えませんでした。死の前年(明治34年)9月26日の食事内容を、子規の日記ともいうべき「仰臥漫録」から引用し、その猛烈な健啖ぶりを紹介しています。
<朝は、 ぬく飯4わん、あみ佃煮、はぜ佃煮、なら漬、そして、包帯を取り換えてから、牛乳1合、餅菓子1個半、菓子パン、塩煎餅。
昼は、 まぐろのさしみ、胡桃、なら漬、みそ汁、梨1つ。
おやつに、 葡萄、おはぎ2つ、菓子パン、塩せんべい。
夜は、 キャベツ巻1皿、粥3わん、八ツ頭、さしみの残り、なら漬、あみ佃煮、葡萄13粒。>

 重い病と闘っている人間の食事とはとても思えません。これだけ食べれば、出るものも大量に出ます。その世話をしたのが、先ほどの律です。居合わせた人がいれば、匂いのことにも気を使う必要があったことでしょう。一旦は嫁ぐ話が決まりかけましたが、兄の病気が理由で破談となりました。献身的に兄を支えたその生き方に感動を覚えます。

 さて、艶話(女性との色っぽい話)の話題に移りましょう。
 柳原極堂(やなぎはら・きょくどう)という人物がいます。子規の松山中学以来の友人で、俳句に師事するなど、格別に親交を深めていました。その彼が書いています。
<居士は一生の間に恋をし得たか何(ど)うか女を愛し得たか何うか。此点(このてん)は私さへ更に知るところがない>(「友人子規」(昭和18年 前田書房刊)から)
 そして、明治17年、子規18歳の頃と思われるエピソードです。<・・・或晩居士は私の下宿をたづねて、君は吉原に遊ぶそうだね、僕を今晩その吉原へ案内して呉れ給へという>(前掲書から)。あまり大きな妓楼も無理があろうと考えた柳原は、中規模の店に案内しました。さらに<翌朝、居士の曰くに、遊郭といふものは予想したやうに面白いものではないねと其の失望の情がまことに気の毒にかんぜられた>と書きます。どうも本来の目的は達せられなかったようです。子規には、肉欲よりもむしろ江戸情緒への憧れがあったのではないか、と司馬は好意的に推測しています。その後も、女性が絡む艶っぽい話はありません。唯一ともいえるこんなエピソードを、子規の「病状六尺」から引いています。
 死の年の明治35年(子規36歳)の8月、知人である若い男二人が、「渡辺さんのお嬢さん」を連れて、根岸の病床を訪ねてきました。子規も美人との評判は聞いていましたが、初対面です。<お嬢さんはごく真面目に無駄のない挨拶をしてそれでなんとなく愛嬌のある顔であった。>そして<いはば余の理想に近い>(引用は、「病状六尺」から)というのです。
 病気見舞いを終え、彼女を連れて帰ろうとする二人を、子規は必死に説得し、とにかく置いていってもらうことになりました。その上で、彼女を貰い受けたい、との意向を伝えました。翌日、若い男二人連名の手紙が届きました。「根岸に泊めていただくことに異存はないものの、お譲りすることはできない、というしだいである。」(同エッセイから)
 諦めきれない子規は、二人に恨みの返事を書き、俳句を添えました。
 <断腸花(だんちょうか) つれなき文の 返事かな>

 華やかな女性を伴って、子規の無聊を慰めようとしたであろう男二人の好意は、結果的にアダになったのでした。

 いかがでしたか?俳句の革新では大いに名を成したものの、実らなかった一世一代の恋。ちょっと哀切な思いが私の胸をよぎりました。それでは次回をお楽しみに。

第568回 しかも起きた不思議事件-2

2024-03-22 | エッセイ
 「ウソかホントか?」などとアツくならず、「世の中、不思議なことがあるもんやなあ」と、ユルくそのテの話題を楽しむのが私流です。だいぶ以前に「しかもそれは起こった」(フランク・エドワーズ 早川書房)をネタ元に、「不思議な夢の話」とのタイトルでお届けしました(第331回ー文末にリンクを貼っています)。もう少しご紹介したいエピソードがありますので、改題の上、第2弾としてお届けすることにしました。どうぞ最後までお付き合いください。

<<「エドウィン・ドラッドの謎」の謎>>
 イギリスの作家チャールズ・ディケンズが、当時はマイナーなジャンルであった推理小説を書く気になったのは、友人ウィルキー・コリンズのすすめによるものでした。ある雑誌に12ヶ月にわたって掲載する契約が整い、1870年に、「エドウィン・ドラッドの謎」のタイトルで連載がスタートします。

 ところが、6回分を書き上げたところで、彼はあの世に旅立ってしまいました。続編の手がかりになるものは何ひとつ残さずに。
 ディケンズの死の翌年、バーモント州のプラトルボロという街に、トーマス・ジェームズという名の若い印刷工がふらりとやってきます。印刷工としての腕はいいのですが、教養もなく、いい加減な性格の人物でした。自分で探し当てた下宿の女主人が、当時流行の交霊術(故人の霊を呼び出して会話などをする一種のオカルト)の信者だったのがコトの始まりです。会に参加していた彼は、1872年10月3日、女主人に告げます。「自分はチャールズ・ディケンズの霊と交信しており、この大作家から未完の小説「エドウィン・ドラッドの謎」を完成するよう代筆権を与えられた」(同書から)と。
 多くの目撃者が証言している彼のその後の振る舞いです。女主人の計らいで部屋に閉じこもると、椅子に身を沈め、長い時間、交霊状態に入ります。そのあとで、彼は狂ったように原稿を書き出すというのです。それは数ページ分のこともあり、数行のこともあったといいます。
 新聞も取り上げるほど街の大きな話題となり、なんと「書き始めて」1年後には出版される運びとなったのです。店頭に並ぶや、文学界の重鎮たちは賛嘆の声を惜しまず、しがない印刷工は、一夜にして文壇の寵児となりました。

 だいぶ後になって、シャーロックホームズの生みの親、コナン・ドイルがこの「事件」を調べています。それによれば、ジェームズの学力はせいぜい小学5年生程度であり、後にも先にも、文学的才能を示しておらず、この作品が生み出されたのは奇跡だと断じています。
 さて、ジェームズのその後ですが、おちぶれた生活ぶりで、いつどこで死んだのかも知られていません。最後の最後までミステリーいっぱいの「不思議な事件」です。

<<消えた死体>>
 1856年11月のある日、南アフリカのケープタウンで、絞首刑が執行されました。執行されたのは、殺人容疑で死刑判決を受けたものの、冤罪を訴え続けていたゲブハードという人物です。執行の直前まで無実を訴え続けていました、型通り祈祷文を読み上げる神父にも「神父さん、そんな面倒なことはやめてください。かれらは私の肉体を亡ぼすことはできても、わたしの魂まで殺すことはできないのだ!」(同)と叫ぶ中、刑は執行されたのです。
 広く世間の関心を読んでいましたから、2時間掛けて慎重に検死が行われ、棺のフタには厳重にクギを打ちつけ、封をした上で、山の中腹にある囚人専用の墓地の地下2.5メートルに埋葬されました。その後2ヶ月間、武装した警備員が日夜見張るという厳重な監視体制まで取られたのです。

 しばらくして、新たな展開がありました。殺害された人物がいた農場の労働者の一人、ピーター・ローレンツが、被害者の財布を所持しているのを、農場主が見つけたのです。逃げ出そうとしたローレンツを警察に突き出し、調べてみると被害者の時計、指輪なども発見され、ゲブハードに罪をかぶせた、との証言も得られました。
 非を認めた当局は、ゲブハードの遺族に対し、十分な金銭的補償を行うとともに、通常の墓地への再埋葬を命じたのです。
 棺が引き上げられ、封印が元通りなのを刑務所長が確認しました。その上で、棺を開けてみると、なんと、中は空っぽでした。その後の調査でも、再埋葬までの間、棺はまったく触れられていないことが判明しているといいます。魂は天国へ行ったはずですが、肉体はいったいどこへ行ったのでしょう?こちらも、最初のエピソードにも劣らぬ「不思議な事件」です。

 いがでしたか?冒頭でご紹介した前回記事へのリンクは、<こちら>です。なお、もう少しネタがありますので、いずれ続編をお届けする予定です。それでは次回をお楽しみに。

第567回 柿右衛門磁器が呼んだ幸運

2024-03-15 | エッセイ
 皆様は骨董に興味をお持ちでしょうか?私は一時期、アンティークフェアなどに足を運び、わずかな小遣いから「骨董まがい」のキッチュな品の収集をちょっぴり楽しんでいました。今や熱はすっかり冷めてますけど・・・
 今回は、以前、ネタ元にしました上前淳一郎さんの「読むクスリ」シリーズ(文春文庫:文末に簡単な書誌を付記しています)からの話題です。良心的な古美術商さんに思わぬ幸運が舞い込んだエピソードを、第15巻の「柿右衛門に福あり」からご紹介します。専門的な知識は一切不要です。どうぞ最後まで気軽にお付き合いください。

 絵を志して渡米し、画家として成功する一方、ニューヨークで古美術品のギャラリーを経営する東典男さんの経験です。ご本人が「こんなうまい話があっていいものか」と思うほど、かの有名陶工・柿右衛門の逸品がどんどん集まってきた時期がありました。「柿右衛門窯公式オンラインショップ」からお借りした画像です。

 氏の言葉です。<それも、誰も悪いことをたくらんだわけじゃない。学者をはじめ、みんなが良心的であろうとした結果、私が儲けることになってしまったのです>(同書から)その顛末です。

 10年ほど前からニューヨークのサザビーズやクリスティのオークションで競売される柿右衛門の磁器の値段が、がくんと落ち込んだのです。それまでは、日本の陶磁器の中でも横綱格の柿右衛門の逸品にはオークションでも法外な値段がつき、東さんも手が出せませんでした。
 ところが、ある時期から買手がつかなくなり、信じられないような安値で手に入るようになったのです。どのくらい安くなったのかを東さんは、著者に明らかにされませんでしたが、大暴落といってもよい状況だったといいます。しかも柿右衛門に限っての状況です。「ニセモノでも出回っているのかな」と情報を集めてもそれらしい事実はありません。オークションに持ち込まれるのは、どう見てもまぎれもない本物ぞろいです。自分の目を信じた東さんは、片はしから買い集めていきました。

 そんな状態が数年続き、おびただしい数の柿右衛門が手元にそろったころ、オークションのカタログを見ていた東さんはあることに気が付いて、膝を打ちました。
 以前は、ただ「 KAKIEMON 」 とだけ記されていた目録が「KAKIEMON STYLE 」となっています。そうか、これが原因か、と思い当たったのです。
 佐賀・有田の陶工柿右衛門が、赤の色を美しく出したいと苦労を重ねる話は、私も教科書か何かで読んだ覚えがあります。このエピソードのせいもあって、柿右衛門焼きは彼の独創であり、その秘法は彼の子孫だけに伝えられてきた、と一般に信じられてきました。
 ところが、近年の専門家による研究の結果、その技法の元は、中国の民窯(みんよう=民間の陶磁器製作工房)にあることがわかったのです。
 また、柿右衛門焼として当時ヨーロッパに輸出されていた最高級の磁器は、必ずしも柿右衛門ひとりが作ったわけではなく、有田で多くの陶工たちの共同作業で焼かれたことも明らかになってきました。
 東さんの言葉です。<そこで専門の学者たちは、単に柿右衛門というのはおかしい、正確には有田焼の中の柿右衛門様式、と呼ぶべきだと十数年前から唱えはじめたのです>(同)
 この主張は徐々に浸透し、美術書の説明も柿右衛門様式とするのが一般的になりました。

 学問的には正確になったのですが、これが英訳されて話がややこしくなりました。「様式」に当たる英語は、STYLE(スタイル)です。大手オークション会社も、日本の偉い学者が言うことだからというので、良心的にカタログの表記を「 KAKIEMON STYLE」 に改めました。でも、STYLEには、「亜流」、「贋物(にせもの)」との意味合いがあり、そう受け取られてもやむを得ない、といいます。
 <競売用のカタログに、柿右衛門スタイル、とあるのを見た人たちは、これは贋物だと思って買わなくなった。だから暴落したに違いないのです>(同)と信じた東さんは、自分の考えを関係者に伝えたのです。表記が元の KAKIEMON に戻されると、値段はたちまち跳ね上がって、再び東さんの手の届かないものになりました。<それで、いいのです。でも、あんな頬(ほほ)をつねってみたくなるようなことは、もう起きないでしょうねえ>(同)と東さん。
「安く買い求めた柿右衛門のほとんどは、いま東さんのギャラリーの重要なコレクションとして展示されている」(同)と著者は締めくくっています。

 いかがでしたか?最後の東さんの発言からすれば、十分商売にはなっているようですね。自分の目を信じ、良心的に商売を続ける人には幸運が舞い込む(こともある)というちょっとイイ話でした。それでは次回をお楽しみに。
<付記>「読むクスリ」シリーズは、1984年から2002年まで、著者が週刊文春に連載したコラムを書籍化したものです。企業人たちから聞いたちょっといい話、愉快な話などを幅広く紹介しています。文春文庫版は全37巻です。

第566回 クイズで楽しむ3語英会話-英語弁講座44

2024-03-08 | エッセイ
 第44弾をお届けします。
 先日、書店の英語実用書コーナーで、ある本の帯の宣伝コピーが目にとまりました。
 X  My job is an English teacher.(私の仕事は英語教師です)
  → ○  I teach English.(私は英語を教えています)

 「英語は3語で伝わります」(中山裕木子 ダイヤモンド社)がそれで、通読して、なるほど!がいっぱいでした。後ほど、クイズ形式で、そのエッセンスを楽しんでいただくことにします。私なりに感じたこの本の優れた点は、次の2つです。
・まず第一に、「3語にこだわらない」ということです。
 この種の本の中には、3語を絶対のシバリのようにして、素っ気なかったり、不自然だったり、子供っぽかったり、の例文が混在しているものも見かけます。本書は、コア(核)となる情報を「基本的に3語」で、コンパクトに伝える、のを主眼としていますので、最低限必要な冠詞、代名詞、形容詞、付加情報などが入って、3語で収まらない例文もあります。でも、本当の意味で、実用的かつ役立つ表現が身につく工夫です。
・第二に、「3語で語るための発想、コツをしっかり教えてくれる」ということです。
 対応する英単語を探し、語順を整えて・・・という日本人的「英作文」をやっていると、3語「英会話」になりません。いかに英語的発想に切り替えるかのコツが、例文と合わせて、具体的に紹介されます。丸暗記ではなく、応用力がつく仕掛けです。
 それでは、4つのコツをキーに、クイズ付きでお楽しみください。

<コツ その1>be動詞を使わない工夫
 冒頭の宣伝コピーが格好の例です。be動詞を使わず、この例のように、「何をしているか」を表現すれば、その人が行っていることがダイナミックに、かつ、コンパクトに伝わります。
「I am a student of ○〇University .」(〇〇大学の学生です)ではなく、
「I study linguistics(言語学)at ○〇University.』と専攻分野も含めて表現すれば、学生の本分たる勉強に打ち込んでいる(らしい?)ことが、しっかり伝わります。それではクイズです。
「He is a leader of the project.」(彼はプロジェクトのリーダーだ)を3語英語にしてください。
   → 「He leads the project. 」と出来ましたか?力強くプロジェクトをリードしているのが目に見えるようですね。

<コツ その2>短く力強い能動態を使う 
 受動態(受身形)は主語が明確でない上、文が長くなりがちです。能動態を使いましょう。
「This product can be used for many applications.」(この製品は、多くの用途で使うことが可能です)→「This product has many applications.」のように。こういうhaveの使い方も身に付けたいですね。それではクイズです。
「Tax is included in the price.」(税金は、価格に含まれています)を、能動態にしてください。 
  → 「The price includes tax.」な~んだ、「含まれる」という受身の日本語にとらわれなければ思いつく表現でした。

<コツ その3>条件節は、省略、または後ろに置く
 「もし~なら」とか「~する時は」のような条件節は、日本語でも英語でも当然の前提として省略する手があります。英語だとコンパクトにするこんな工夫もあります。
「When you watch TV, I get irritated.』(あなたがTVを見ていると、私はイライラする」を、
「Your watching TV irritates me.」(君がTVを見ることが、私をイラつかせる)とするのです。
「Your watching TV」を主語にするというのがいかにも英語的。ここで、クイズです。
「If you have questions, you can ask now.」(もし質問があれば、訊いてください)をコンパクトにしてください。
  → 「You can ask questions now」
訊きたいことがある人にとっては、これだけで十分ですよね。

<コツ その4>notを使わず否定する
 notを使うと文が長くなります。それを使わない工夫として、反対語を使うテクニックがあります。「I don't like English.」⇨「I dislike English.」(英語が嫌い)
「no +名詞」を使う手もあります。「I don't have any idea.」⇨「I have no idea.」(考えが浮かばない)のように。ここで最後のクイズです。「今朝は朝食を食べなかった」を「not」を使わず表現してください。 
  → 「I skipped breakfast this morning.」朝食を抜いた、でよかったんですね。

 いかがでしたか?ほんのサワリだけのご紹介でしたが、おススメの一冊です。関心をお持ちの方は、是非ご一読ください。それでは次回をお楽しみに。

第565回 21世紀への伝言by半藤さん4

2024-03-01 | エッセイ
 第4弾をお届けします(文末に過去分へのリンクを貼っています)。作家・半藤一利さんの「21世紀への伝言」(文藝春秋刊)がネタ元です。ちょっと仰々しいタイトルですが、ご安心ください。1960年代のお気楽で、興味深いエピソードをセレクトしました。どうぞお楽しみください。なお、<  >内は私なりのコメントです。

★現代版ロミオとジュリエットだ ★
 日本の映画界にはミュージカルは当たらない、というジンクスが根強くありました。それで、配給元のユナイトがプリント到着前につけた題名がなんと「ニューヨーク愚連隊」。
 「ウェスト・サイド物語」として1961(昭和36)年12月に封切られ、爆発的ヒットとなったこの映画にはそんな裏話があったんですね。映画の一場面です。

 ロングランはなんと511日に及び、観客動員152万人との記録が残っています。「なあに現代版ロミオとジュリエットだ」と酷評する人もいたようですが、ヒットさせたもん勝ちです。
<当時は珍しかったカタカナ入りのタイトルもヒットに貢献している、というのが私の見立てです。>

★ タダ酒は飲むな★
 戦後、新しい大学制度がスタートして、卒業式での総長、学長の告辞がなにかと話題になるようになりました。1954(昭和29)年の京都大学総長滝川幸辰の「タダ酒は飲むな」を聴かせたい人が、今時あちらこちらに居るような気がします。
 そういえば、1964(昭和39)年に、東大総長の大河内一男の「太った豚になるよりも、やせたソクラテスになれ」というのも随分話題になりました。
<近頃は、そのテの名言をあまり耳にしませんが・・・>

★給与支払いにつかうな★
 1万円札が初めて発行されたのが、1958(昭和33)年12月1日。戦後のインフレもあって、5年前から計画されていたのですが、大難産でした。
「そんな高額の札を出されたら釣りはどうする」
「インフレをいっそう助長するおそれがある」
「月給袋が薄くなって働く元気が失せる」などの意見まで出る始末。大蔵省は「一般の給与支払いには使わぬように」との指示を銀行に出したとか。
<昨今は、だいぶ有り難みが薄れたような・・・10万円札、なんて噂も耳にします。>

★ チョウのように舞い、ハチのようん刺す★
 不世出のボクサーといえばカシアス・クレイ(のちにブラック・モスレムに改宗して、モハメッド・アリ)。彼がリストンを破って、世界ヘビー級チャンピオンになったのが1964(昭和39)年2月25日。81年に引退するまで、3度ヘビー級チャンピオンの座についた唯一のボクサーです。数々の名言を残しています。
「オレはチョウのように舞い、ハチのように刺す」(リストン戦を前に)
「こてんぱんに殴ってやるさ、帽子をかぶるのに靴ベラがいるようになる」(パターソン戦について)
「大勢の黒人は地獄を見ている。連中が自由でなければ、オレたちにも自由はない」(1975年)

★ ゼニの顔見んと、走らんのや★
 競馬にはほとんど関心がない私ですが、「シンザン」の名前だけは覚えています。1965(昭和40)年12月26日、中山競馬場で第10回有馬記念レースが行われました。スタンド前からミハルカスがトップに立ち、逃げ切るとだれもが思った展開に、4コーナーの大外から鋭く追い込んで優勝したのがシンザンです。史上初の5冠馬が誕生した瞬間です。
 無敵のこの馬ですが、併(あわ)せ馬(芦坊注:調教のため、2頭以上で行う練習レース)をすると二流馬に負ける変な癖があったといいます。新聞記者が栗田調教師に訊くと、けろりとしてこう言った。「この馬はゼニの顔見んと、走らんのや」

 いかがでしたか?中高年の皆様には懐かしく、若い方々には「へぇ~」とお楽しみいただけたなら幸いです。なお、過去分へのリンクは、<その1><その2><その3>です。合わせてご覧ください。それでは次回をお楽しみに。