★★★ 芦坊の書きたい放題 ★★★

   
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第556回 笑い納め2023年

2023-12-29 | エッセイ
 いいことも、よくないこともあった(ような)2023年が暮れようとしています。笑い納めていただくのがなによりと、年末恒例(って私が勝手に決めてるんですけど)の企画のお届けです。ネタ元は、「最後のちょっといい話」(戸板康二 文春文庫 1994年)で、今回が第5弾になります(文末に直近2回分へのリンクを貼っています)。引用は原文のままとし、いささかお古い話題ですので、適宜、人物に関する情報、私なりのコメントなどを<  >内に注記しました。合わせてお楽しみください。

★渡辺美佐子<女優>は仲間から、ミチャコと呼ばれて来た。時には、メチャコだの、ムチャコといわれたりもした。その美佐子が俳優座の養成所にいて、芝居をすることになったが、舞台稽古の時、客席で見ている千田是也<演出家>が、大声で叫んだ。「アチャコ!」<「アチャコ」は、昭和初期にエンタツと組んで活躍した関西の漫才師(画面左)。戦後もソロで活動し、笑いの世界で人気を集めました。千田の口からその名前が出る場面を想像して笑えました>

★中村伸郎<俳優>はガンではないかと疑って癌研に入院した。その時、もうだめだと思ったので遺言を書いておいたが、幸い無事退院したあと、それを読み返したら、じつにくだらないことが書いてあった。「ピアノの上の九谷の壺は高価なものだから、人にはやらずに、売ったほうがよろしい」

★浅香光代<剣劇女優>が去年の秋大阪で西城秀樹と共演、同じホテルに泊まっていた。エレベーターで上がって先に降りる時、西城から「一人で寝られますか」と突然いわれた。夢見心地で部屋に帰ったが翌日そわそわしながら、「きのうあんなこといったけど、寝られないといったら、どうするつもりだったの」といったら、西城がニッコリ笑って、「睡眠薬をあげようと思ったんです」
<秀樹も随分罪な言葉を掛けたものですね>

★初場所で19歳の貴花田<のちの第65代横綱・貴乃花>が優勝した。厚生省から相撲協会に電話がはいって、「祝杯はお酒でなく」といって来たそうだ。ご親切な話である。

★三木のり平<喜劇俳優>はセリフをおぼえるのがへたでいろいろ苦心した。ある時、茶碗の内側にセリフを書いておいたら、いたずら好きな共演者が、ほんとうに飯をよそってしまったので、急いでそれをかっこんで、セリフを辛うじて読んだという話もあるが、なんともおかしいのは、幽霊のセリフを手の平に書きとめていた時の話。舞台で「うらめしや」と両手を垂れたので、何も読めなかったという。

★明石家さんまというタレントが家を建てたという話をしたテレビ局の女性が、付け加えて「それがおかしいんです。場所が目黒なんです」<落語に「目黒のさんま」という演目があります。たまたま目黒で美味しい秋刀魚を食べた殿様が、その味を忘れられず「さんまは目黒に限る」とのセリフがオチです>

★笠智衆<俳優1904-1993>は、生来無口だった。つまり愛想がよくない。同期生よりも昇格が遅れる。岩田祐吉<俳優>が「たまには監督にもお世辞や冗談がいえるようでなくちゃぁ、いい役はもらえないよ」と忠告してくれた。それで或る日清水宏監督に「先生、いいお天気ですね」といってみたら「なにをいってるんだ、君は。こっちは忙しいんだ」

★徳川美術館に見学に来たベルギーの女性が、母国で読んだ漢語の多い美術書などでおぼえた、むずかしい忖度(そんたく)、恣意(しい)というような表現を日常会話で使うので、館長の徳川義宣がやまとことばも勉強したほうがいいとすすめた。まもなくホテルでアルバイトをしていた彼女が報告した。「みなさんの「なりわい」を垣間(かいま)見ることも、よきはげみと思っています」

★小沢昭一の家の近くの信用金庫から、訪ねて来た青年が名刺を出した。見ると小沢昭一。彼が「小沢昭一という名前で随分トクをしております。皆さんがまずお笑いになって、すぐ名前を覚えて下さるのです」といったので、小沢はつい定期を一口契約してしまった。

 いかがでしたか?笑い納めていただければ幸いです。なお、直近2回分の過去記事は<2021年><2022年>です。
 来たる年は、1月1日(月)に新年のご挨拶とミニ記事を、そして、1月5日(金)から通常の記事をアップの予定です。本年も「芦坊の書きたい放題」をご愛読いただきありがとうございました。2024年も引き続きご愛読ください。皆様方のご健勝、ご多幸を心よりお祈りいたしております。

芦坊拝

第555回 面白「そうな」本たち-3

2023-12-22 | エッセイ
 シリーズ第3弾をお届けします(文末に過去2回分へのリンクを貼っています)。ネタ元にした「面白い本」(成毛眞 岩波新書)の続編となる「もっと面白い本」を見つけました。読んではいないのもありますので、相変わらず「面白「そうな」」となりますが、著者のガイドで3冊をご紹介します。最後までお付き合いください。

★京職人のこだわり
「京職人ブルース」(米原有二著、掘通広・絵 京阪神エルマガジン社)は、「京都の伝統工芸を支えてきたる職人たちの飾らない姿を切り取る一冊だ。」(同書から)

 塗師(ぬし)、蒔絵(まきえ)師、京焼職人、指物師、表具師、そして友禅職人などを扱っています。職人さんたちの生き生きした言葉(<  >内)が、この本を、よくある職人本とは一味違うものにしています。
<やっぱりパーマではあきませんわな>
 漆を塗るために塗師が使う刷毛には人間の髪の毛が使われているといいます。ただし、なんでもいいというわけではなく、パーマとか茶髪はダメなのです。一番は海女(あま)さんの髪だそう。日頃から潮風に当たっているので適度に脂が抜けていて、漆との相性がいいとのこと。
 蒔絵師さんが使う根朱筆(ねじふで)にもこだわりがあります。コメを運ぶ木造船の船底に住む野ネズミの背中か脇の毛に限る、というのです。米の栄養が行き渡り、野原を駆け回っていませんから毛先が擦り切れてないから、というのがその理由。「そのへんにいるネズミじゃだめなんですかね」との著者の(当然のような)質問への職人さんの答えがこれ。
<将来のことも考えて代用品はいつも考えてるんやけどね。化学繊維なんかも含めて。でも、職人の道具は昔の人らがいろいろと試した末にたどり着いたものばかりやから。まぁまぁというのはあっても、完全に代わりになるものはないよ、絶対に。>これぞ本物のこだわりです。
★ランドセル俳人の誕生
「ランドセル俳人の五・七・五」(小林凛 ブックマン社 2013年)はちょっとセツなく、哀しい本です。

 著者の凛くん(出版当時、小学6年生で、やっと12歳になったばかり)は、生まれた時の体重が944グラムの超未熟児で、水頭症の疑いもあり、毎年MRI検査が必要な体です。頭部への打撃は禁物で、入退院を繰り返しながら幼稚園に通う中で文字を覚え、物語や小説に親しむようになりました。そして、五・七・五を指を折らずに詠めるまでになっていたのです。ところが小学校に入って事態は一変します。体が小さく、視覚にハンデのある彼をいじめる同級生が出てきたのです。後ろから突き飛ばされて顔面を強打するという命に関わる暴行まで受けます。担任は無実の生徒を犯人に仕立て上げ、両親に謝らせるという卑劣な策まで講じ、本気で彼を守ってくれません。自らの命を守るため、不登校になるしかなかった凛くん。家族の心の内を想像するだけで胸が締め付けられた、との成毛氏の思いは私も存分に共有しました。
 しかし、凛くんは文才を授かっていました。不登校となって家で作った句は300を超えました。ある時、お祖母さんから「凛、生まれてきて幸せ?」と聞かれ、「変なこと聞くなあ、お母さんにも同じこと聞かれたよ」と答え、作った句です。
<生まれしを 幸かと聞かれ 春の宵>(同書から) そして、こんな句も。
<春嵐 賢治のコート なびかせて>「ーー嵐のような日、コートのえりを立てて歩いていると、宮沢賢治のコート姿の写真を思い出しました。(10歳)」(同)
<乳歯抜け すうすう抜ける 秋の風>「ーー乳歯が抜けました。息をすると、そこだけ風が通り抜けるようです。(9歳)」(同)
 出版から10年。立派な青年に成長され、活躍しておられることを願わずにはいられません。
★小説より奇なる平和
「謎の独立国家ソマリランド」(高野秀行 本の雑誌社)の著者は冒険作家です。私も、この本を含めいくつかの作品に接してきました。

 ソマリランドは、アフリカ大陸東北部、ソマリア共和国の北半分ほどを占める「自称・独立国家」です。南半分の正規国が内戦状態で、国民の生活も苦しい一方、ソマリランドは、平和で、食べ物には困らず、携帯電話まで使えるというのです。著者が探り当てた秘密の一端は、アラビア語の「へサーブ」(精算)という仕組みと、その掟を指す「ヘール」という言葉にありました。
「へサーブにおいて重要なのは、誰がやったとか何が原因とかでなく、人が何人殺されたとかラクダが何頭盗まれたかという「数」だといいます。例えば、人が一人殺された場合、殺した側はラクダ百頭を被害者の遺族に差し出して償う。ソマリ人の伝統的な掟を「ヘール」というらしい。ヘールに従い、まさに「精算」していく。」(同)
 族長とか長老が決めたヘールに従うことで争いごとが解決し、平和な生活が維持される仕組みです。ソマリランドは、かつてイギリスが、現地の制度や社会の仕組みを尊重しつつ統治する間接統治をしていました。そのため、族長や長老が争い事を仕切るへサーブという仕組みも存続し、平和が維持されているというのです。
 一方、南の共和国は、イタリアが自国の制度を持ち込み、直接統治しました。そのため、争い解決の有効な手段がなくなり(現地ガイドの「戦争のやめ方もわからない」との発言をを著者は引用しています)、争乱状態が続いている、というのが、現地の人たちとの交流を通じて得た高野の分析です。へサーブの件をあくまで一例として、単なる冒険、探検を超えて、そこまで踏み込んだ取材ができる高野氏のパワーにあらためて感服しました。
 いかがでしたか?過去分へのリンクは<第523回><第543回>です。もう少しネタがありますので、いずれ続編をお届けする予定です。それでは次回をお楽しみに。

第554回 椎名誠のオバケ話

2023-12-15 | エッセイ
 「オバケとか幽霊の存在を信じますか?」と訊かれたら、私の答えは「う~ん、会ったことはないですけど、「いる」かもしれませんねぇ。関心はあります。」となります。
 世界、日本のあらゆるところを旅してきた作家・椎名誠のエッセイ「旅先のオバケ」(集英社文庫)を読んで、久しぶりに「世の中、不思議なことがあるもんやなぁ」心が刺激されました。オバケや怪異現象の体験だけを集めているのではありません。でも、私が興味引かれるのは、そのテの話ですので、椎名自身のオバケ話を2つと、旅に同行した知人のそれ1つをお届けします。どうぞコワゴワお楽しみください。

 まずは「ぼくの体験した例でもっともすごかったのはロシアのニジニ・ノヴゴロドという古い街のホテルだった。」(同書から)という椎名の体験談です。夜の街並みです。

 訪れたのは、気温がマイナス30度にもなろうかという厳寒の季節です。粗末な食事をウオッカで流し込んで、すんなり眠りにつきました。幸福な眠りは夜更けにいきなり破られました。すさまじい騒音に叩き起こされたのです。まるで工事が始まったかのようなものすごい騒音です。
「何かドリルのようなもので壁にギリギリ穴をあけているような音がする。ハンマーでがしんがしんと壁を叩きつけるような音。何かが投げられ、それが壁に飛んできたような音。」(同)
 監視役としてついていたKGBの係官からは、夜はどんなことがあっても部屋から出ないようにいわれていましたから、椎名は部屋の壁に斧を打ち付けて対抗します。しかし、騒音は収まらず、結局、ちょっとまどろんだ程度で辛い朝を迎えました。
 一体、どんな連中が騒いでいたのか確かめるべく、翌朝、部屋を出た椎名は衝撃を受けます。隣に部屋などなく、レンガとコンクリートでできた陰気な下り階段があるだけだったのです。
 朝食の席で、昨夜の騒動のことをKGBの係官に話すと、返ってきたのは、「それはラッキーだったね」という言葉。そしてこう続けました。「典型的なポルターガイスト(騒音を立てる幽霊)さ。この街はそれが出るので有名で、それを体験したくてあちこちの過去に出てきたという噂のあるホテルを探している連中がけっこういるくらいだ。君は、それを一晩で体験したんだよ」(同)
 彼の言ってることを理解するのに少し時間がかかった、と椎名は書いています。こんな体験をラッキーだといわれても、そりゃ戸惑いますね。

 さて、次なる舞台は、シングルモルトウィスキーで有名なスコットランドのアイラ島。こちらは有名な「ラフロイグ』の蒸留所です。

 カメラマンと取材で訪れた椎名は、一日早くホテル入りしていたカメラマンから、前夜のこんな体験を聞かされます。
 夜中にいきなり起きるなどいうのを経験したことのない彼が、夜更けに息苦しくなって、目がさめました。体は動かず、どんどん息苦しくなってきます。ツインの部屋でしたから、なんとか動かせる目で、隣の空きベッドを見て、恐怖が走りました。
「なんとその一部がゆっくり沈んでいくのが見えたのだという。ひとりでにシーツの「ある部分」だけが沈んでいくのだ。やがてそれは「ある部分」だけでなく、ベッド全体に連動したものであることに気がついてきた。しだいにそれはヘコミだけである明確な形になっているのがわかってきた。はっきり人間があおむけに寝ている形になってきているのだーーという。」(同)
 なんとか体は動くようになり、枕元の読書灯をつけることはできました。しかし、しばらく動悸が止まらなかったといいます。目には見えないけれど、こんな形でその存在をありありと示すーーそんなオバケも「いる」のですね。

 最後は、椎名の日本での体験です。山口県の牛島(うしま)という小さな島を、土着の祭り取材の一環で訪れました。同行メンバーとの麻雀をひとり早めに切り上げた椎名は、部屋ですぐ眠りに落ちました。すると、夜中になんの前触れもなく目が覚めたのです。隣室でも麻雀は続いていますが、布団の裾のほうになんだか違和感を感じます。
 最初は、犬が布団の裾の匂いをかいでいるように思えました。「でも、目をこらすと、それは犬ではなく人間だった。しかもひどく小さい人間だった。犬ぐらいの大きさでハダカだった。」(同)
 追い払おうとした腕は空を切り、吐き気を催しましたが、吐けなかったといいます。なんともユニークなオバケとの遭遇で、不謹慎ながら、ちょっと頬が緩みました。

 オバケなんて幻想か、幻聴だ、と言い切る人もいます。でも、私は本書のオバケ話を堪能し、「いるかもしれない」度が10ポイントほどアップしました。
 皆様はいかがでしたか?それでは、次回をお楽しみに。

第553回 えらい、やんちゃー大阪弁講座56

2023-12-08 | エッセイ
 第56弾は、<えらい>と<やんちゃ>を取り上げます。どうぞお楽しみください。

<えらい>
 「偉い」という字を当てて、立派である、優れているという意味では、大阪でもごく普通に使います。
 例えば、「「えらい」さん」という言い方があります。「お「えら」がた」と同じ発想ですが、「さん」をつけて、カジュアルっぽいニュアンスです。ホントに「えらい」人には、ちょっと使い辛いかも。まぁ、ここまでいくと、ただ威張ってるだけのオヤジですけど・・・

「まあ、いつの間にやら、「えらいさん」になりはって(おなりになって)、それに引きかえ、ウチ(私のとこ)のバカ息子ときたら・・・」
 それなりの事を成し遂げた時なんかに、褒めてかけられるのが、「「えらい」やっちゃ(「ヤツや」の転)」です。ちょっと上から目線ですけど。

 大阪弁の場合、それ以上に幅広い使い方ができます。まずは、「すごく」「とても」と、英語だと"very"に当たる使い方です。
「「えらい」ええ服着てお出かけやけど、デート?」
「「えらい」人出(ひとで)やけど、お祭りでもやってんのかな?」
「「えらい」大きな声出してからに、何かあったんか」のように。
 その応用形で、ひどさ、悪さが甚だしい時にも使えます。「「えらい」こっちゃ」「「えらい」目に会(お)うてもた」といえば、客観的にはともかく、本人にとっては、とんでもないこと、悲惨な事態が起こった時に誰もが口にします。まあ、聞かされるほうは、そう深刻に受け取らないことが多いようですが・・・
 「偉い」の意味を引きずりながら、当然やってしかるべきことをやっているのを、やや上から目線的に褒める、という用法もあります。
 「ちゃんと学校の宿題やってんねんな。「えらい」やんか」
 カラダが疲れる、負担がかかる、というのも表わせます。
 「毎朝5時起きで仕事やて?そら、カラダが「えらい」はずやわ」
 さて、最後に上級クラスの用法をご紹介します。とても出来そうもないと思っていたことが、努力して出来るようになった自分を褒める、ちょっとひけらかす言い方です。
 「この歳になって、運動なんて無理やと思てましたけど、軽いジョギングを毎日続けてたら、「えらい」もんで、あまり苦にならんようになりましたわ」

<やんちゃ>
 子供から大人までのキャラ、言動を表現できます。ただし、ニュアンス、意味合いは、微妙に異なります。
 子供だと、元気で活発な感じ。時には子供同士でケンカしたり、親の言うことを聞かなかったりもしますが、それも含めてポジティブなイメージです。「うちの子ゆうたら、「やんちゃ」で困るわ。この前もガキ大将にケンカふっかけたのはええけど、泣かされて帰ってきてたわ」なんて、本当に困っているとは思えません。ちょっぴり自慢が入ってる気がします。
 高校生ぐらいで「やんちゃ」やってるとなると、ちょっとグレてる感じです。学校をサボる、隠れてタバコを喫う、不良と付き合う・・・そんな荒れた生活ぶりが想像できます。
 サラリーマンの場合はどうでしょうか?「おまえも「やんちゃ」やな」と言われれば、ちょっと喜んでいいんじゃないでしょうか。時に上司に楯(たて)突いたり、不満をぶつけたりはするものの、やるべき仕事はきっちりする、という評価(のよう)ですから。
 さて、「実は、オレ、若い頃「やんちゃ」してまして・・・」と告白されると、ちょっと緊張します。反社会的とされる稼業に関わっていた連中が、自分たちのことを冗談っぽく「やんちゃ」と称することがあるからです。まあ、私の経験からすると、ちょいワル程度のことを自虐的に言ってることが多いんですけどね。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。

第552回 蜂須賀家の困ったご先祖様

2023-12-01 | エッセイ
 歴史上高名なご先祖を持つことは、誇らしいであろうと十分想像できます。でも、良からぬ所業などの伝説が付いて回るご先祖様だと、子孫の方々には、なかなか辛いものがあるようです。蜂須賀家の場合を、司馬遼太郎のエッセイ(「司馬遼太郎が考えたこと 5」(新潮文庫)所収)で読んで、いろいろ考えさせられました。エッセンスをお届けします。

 その始祖とされる蜂須賀小六(はちすか・ころく のち正勝)が有名になったのは、江戸時代の「真書太閤記」や「絵本太閤記」などの読み本で、のちの秀吉との出会い、そして、ともに盗賊として働いたことなどが面白おかしく語り伝えられたのが大きく寄与しています。
 その語り伝えです。岡崎(現・愛知県下)の矢作(やはぎ)橋で流浪の少年であったのちの秀吉が寝ていると、そこを盗賊の親分である小六が一味とともに通りかかり、秀吉の足を踏んでしまいました。無礼を堂々と咎(とが)める秀吉の態度に感服した小六は、彼を一味に加えます。そして、その夜、富家に押し込んだ時に、秀吉は内から門を開いて小六一味を引き入れ、財宝を奪うのに貢献した、というのです。そういえば、私も小さい頃、絵本か何かで読んだような覚えがあります。小六のこんな画像が残っています。

 当時、矢作橋というのはありませんでしたから、司馬はこれは史実ではないとしています。小六に盗賊の自覚があったかどうかも、本人に聞いてみないとわからないとも。 
 ともあれ、小六と徒党を組みつつ秀吉は、天性の要領の良さと智略で、織田家の下級将校として自前の兵を10人ほど持つ身分になりました。一方、小六は500~1000人の野伏(のぶし=山野で陰武者狩りなどを行う武装した民衆の集団)を率いていました。部下の人数からいえば小六が上位ですが、秀吉には織田家家臣というブランドがあります。小六は秀吉のサポート役に徹することに自らの存在意義を見い出し、彼の信頼を勝ち取ったようです。

 事実、織田家から命じられた美濃(現・岐阜県)攻めには野伏集団を率いて参加し、その攻略に貢献しています。また、一夜城として有名な墨俣(すのまた)城の守備も任されました。なかなかリーダーシップに富んだ人物だったようです。「さらに小六のおもしろさは、秀吉が織田家の軍団長になってから、野戦攻城よりもむしろ、敵の城主を懐柔したり、新領地の土豪たちを安心させたりする仕事に大いに器量を発揮することである。」(同エッセイから)とあります。政治力にも富んだ人物像が浮かび上がってきます。
 その後の蜂須賀家は、関ヶ原の戦い、大阪城落城の激動を乗り切りました。代々、人物を得たこともあり、徳川幕府にそつなく仕え、幕末には阿波の国(現・徳島県)27万7千石の国主でした。

 さて、維新の世となって、蜂須賀家は、侯爵に列せられました。しかしながら、小六というご先祖様の汚名をそそぐのは大変だったようです。同エッセイがこんなエピソードを紹介しています。
 明治帝が、蜂須賀侯爵と対談中に中座しました。卓上にあったタバコを1本取り、ついでに数本をポケットに入れました。席に戻って、そのことに気づいた明治帝は、「いかにもおかしげに、「蜂須賀、先祖は争えんのう」といわれた。」(同)
 明治帝のユーモアに感心しつつ、ちょっぴり侯爵に同情します。

 蜂須賀家も「俗説」を正すべく、昭和のはじめ、いろいろ手を打ちました。
 まず、小六に、従(じゅ)三位を追贈するよう政府に働きかけ、実現させました。
 さらには、渡辺世祐(よすけ)博士なる人物に家蔵の文書を挙げて提供し「蜂須賀小六正勝」(昭和4年 雄山閣)なる伝記を出版しています。その内容です。「渡辺博士はその伝記にもあるように、「才識高邁であって調和性に富み、穏当なる人物」として、小六を描いた。なにぶん資料が乏しいため、ずいぶん苦しい伝記になっている」(同)と司馬は、辛口に評しています。1冊の伝記で、江戸時代から続く「俗説」を正すのは、やはり無理があったようですね。

 有名人などいませんが、代々のご先祖様のおかげで、私は、この世に生を受けています。まずはそのことに感謝しなければ、と司馬のエッセイを読みながら思ったことでした。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。