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第580回 久米宏のラジオ・デイズ

2024-06-14 | エッセイ
 久米宏さん(以下、「氏」)といえば「ニュースステーション」(テレビ朝日系列)です(1985年10月の放映開始から2004年まで担当)。歯切れの良いコメントやテキパキした進行が魅力で、よく見ました。自叙伝ともいうべき「久米宏です。」(朝日文庫)では、この番組も含めTVでの活動も語られます。でも、TBSラジオのアナウンサーとしてキャリアをスタートしたラジオ時代のエピソードが秀逸です。こちらを中心にご紹介します。最後までお付き合いください。

 早稲田大学卒業を控え、氏はTBSラジオのアナウンサー採用試験に臨みました。試験、面接は7次まであり、何千人もの中から4人が選ばれるという厳しいものです。選考が進むにつれて、人が人に優劣をつける仕組みに怒りを感じ、人事部の若手と押し問答をしたり、面接官とケンカ腰になったりしたといいます。反骨精神は当時からのものだったようです。5次試験では、目の前に置かれたモノについて3分程度話をするという課題が与えられました。置かれたのは赤電話です。ポケットの10円玉を入れ、自宅の電話番号を回し、母親に今の状況を話す、という演技をしました。通話が終わって受話器を置いても、10円玉は戻ってきません。それに文句を言うと、試験官にはウケたといいます。決して優等生的に振る舞ったわけではないようですが、機転、熱意、センスなどが認められたのでしょう。1967年、見事合格、採用されました。

 入社して2年ほど経った頃、大きな試練が待ち受けていました。慣れない仕事のストレス、食欲不振からくる栄養失調などが重なって、肺結核を発症したのです。1日おきの注射と薬の服用で、電話当番などの軽い仕事を担当する日々が始まりました。さぞ辛い雌伏の時期であったことだろうと想像します。そして、病気が治りかけた頃、大きなチャンスが訪れました。1970年5月に始まった新番組「永六輔の土曜ワイド ラジオTOKYO」(土曜の午後1時半から5時の生放送)のレポーターに起用されたのです。若き日の永さん(左)とのツーショット(本書から)です。

 番組では、「久米宏のなんでも中継!!」のコーナーを任されました。上野動物園の猿山中継を皮切りに、歩道橋、山手線、蟻塚などを訪れ、利用者などの声を拾いながらナマ中継するという企画です。テーマはどんどんエスカレートし、「ミュンヘンの街角から」という企画では、街の雑踏や路面電車の音などをラジカセで流しながらレポートしました。「あっ、アベックがいる」と伝えたのに合わせて事前に録音しておいたドイツ人男女の声を流す、という凝りよう。さすがに、最後に「横浜・山下公園からの中継でした。」(同書から)と種明かしをしたとのこと。

 パーソナリティである永さんに褒められようと、企画は一層過激さを増し、ついに「日活ロマンポルノ」の撮影現場を中継することになりました。通常、この種の映画の撮影では、音声は映像に合わせて後から録音する(アフレコ)のだそう。ですから、現場では「頭をもっと後ろへ」とか「もっと気持ちよさそうにやれ」とかの監督の指示、怒号が飛び交います。それを中継しようという狙いだったのです。ところが、当日、緊張した監督さんはすっかり黙り込んでしまいました。「すると俳優たちがその沈黙を埋めようと妙に気を遣ってリアルな演技をしだした。」(同)のです。生々しいアエギ声を中継し続けるわけにはいきません。止められるのは永さんだけです。「「こんな中継やめだ!切って、切って」(同)の一声で、唯一、途中中断の中継となりました。

 「なんでも中継」が評判になって、更なるウケ狙いで始まったのが、「隠しマイク」作戦です。袖に隠しマイクを仕込んで、キャバレーやピンサロなどに突撃し、生々しいやりとりを中継するというアブない企画です。ある時、氏が銀座・三越の前にゴザを敷き、ホームレスに扮して中継した時は大問題になりました。歩き出すと通行人はよけます。店に入ろうとすると「入っちゃダメ!」との冷たい声がオンエアされます。数寄屋橋の交番で、「「トイレを貸してください」と頼んだら、お巡りさんが叫んだ。「ダメダメ、汚ねぇ!向こう行け!」(同)
 警察官が人を差別している、との抗議の電話が警視庁に殺到し、TBSは、警視庁記者クラブへの「出入り禁止」処分を食らう騒ぎとなりました。

 8年間レポーターを務めて、1978年から永さん、三國一郎さんに継ぐ3代目のパーソナリティとなりました。レポーターとして兼務したのが「久米宏の素朴な疑問」コーナーです。「コンニャクに裏表はあるか?」「おねえさんからおばさんにかわる基準は?」「魚にも美人とブスはいるのか?」などの「素朴な疑問」にあちこち電話して答えを出そうという企画です。「なぜ色鉛筆は丸くなくてはいけないのか?」という疑問には、みずから、文具店、鉛筆メーカー、はては鉛筆組合まで電話する奮闘ぶり。一見、教養っぽいコーナーですが、やっぱり娯楽路線でした。

 1979年にフリーとなってから、氏はテレビに軸足を移します。クイズ番組「ぴったしカン・カン」、歌謡番組「ザ・ベストテン」などを経て、「ニュースステーション」でブレイクするのを目(ま)の当たりにした方も多いことでしょう。ラジオ時代にナマ放送で鍛えられた瞬発力、胆力、現場力などがあったからこそ、というのが本書を読んで、十分に理解できました。
 いかがでしたか?2021年、氏は、TV、ラジオでの活動休止を宣言されました。本当に長年お疲れ様でした。
 それでは次回をお楽しみに。
 
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