★★★ 芦坊の書きたい放題 ★★★

   
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第180回 我が家の空き巣対策

2016-08-26 | エッセイ

 我が家の玄関ドアには、現在、ロック(錠)が3つあります。10数年前、中古の戸建てを購入して移り住んだ時は、どこの家とも同じように2つでした。ピッキングによる空き巣被害とかが、話題になっていた頃のことです。  
 調べてみると、その2つのロックは、ごくありふれたタイプで、ピッキングが容易なタイプと分かりました。

 2つあるといっても、キー(鍵)は同じ。その道のプロの手にかかれば、数十秒で解錠されてしまうらしい。仮に、1つ30秒として、2つで、1分になるだけで、思ったほどの効果は期待できないということに気がつきました。で、泥棒のやる気をそぐには、キーも別の3つ目のロックに限ります。こんな具合に。

 そこで、移り住んでまもなく、さっそく取り付けました。駅前の錠前屋さんと相談の結果、安全度が高いディンプルキー(キーの両面に、小さな穴(ディンプル)を彫ったタイプ)を利用したロックを取り付けることに。鉄製のドアなので、工事は難しいかな、と思っていたのだが、按ずるより生むが安し。工事は1時間足らず。費用も2万円台で収まって、やれやれ。
 散歩の折などに、ひと様の玄関ドアをチラとチェックしたりなぞすることがあるが、玄関ドアに、3つのロックを設けている家は、まず見かけない。ちょっとだけ優越感。

 近所で、空き巣被害の噂が、時折、耳に入る中、被害を免れているので、それなりに効果があると信じている。解錠に時間がかかる、という現実的な効果以上に、空き巣への「心理的な効果」の方が大きいのではないかと考えている。。

 つまり、空き巣から見れば、3つもロックを付けている我が家の防犯意識の高さが、何より気になるに違いない。こんな調子なら、いろいろ防犯対策を講じていそうだし(事実、講じている)、金目のものもなさそうだし、ほかに、ガードの甘い家は、いろいろあるし、わざわざ危険を冒さなくても・・・とまあ、あれこれ、縁起をかつぎ、用心を重ねて、結局あきらめるだろう、と空き巣の心理を勝手に想像している。

 もう一つの防犯対策は、在宅を装う(留守だと悟らせない)というもの。
 リタイヤ生活に入って、誰かが自宅にいる時間が長くなったとはいえ、家を留守にせざるを得ない時がある。空き巣のプロが狙いを付けた家は、家族構成、行動パターンまで念入りに下調べするというから、その方面への対策も結構大事と、ここでも空き巣の心理になってみる。
 そうすると、「留守のはずなんだが、いまひとつ確信が持てない」というのが、ヤツらにとって、何よりイヤな状況のはず。

 そこで、我が家でルールにしているのは、家を留守にする時は、(夜はもちろん、昼間でも)リビングの明かりを点けて、テレビもつけっぱなしにし、リビングと玄関ホールの間のドアは音が漏れるように開けておく、ということ。
 こうしておけば、万一、留守を確信した空き巣が狙っても、明かりとテレビの音で、侵入に不安を感じ、諦めるはずとの心理作戦だ。ヘタなホームセキュリティーシステムに頼るより、よっぽど効果があると、これも信じている。

 我が家流の空き巣対策を2つご紹介しました。要諦は、そもそも、空き巣に「狙われない(目を付けられない)」ことを、空き巣の心理・立場(時間がかかる、見つかるなどのリスクを何より恐れる)で考え、対策を講じることだろうと思います。

 最後に、ホームセキュリティシステムについて、私の考えを一言。
 いろんなセンサーで、不審者の侵入を感知し、通報するシステムで、抑止効果は高いと思うのですが、いざという時の業者の「駆けつけ時間」を考慮する必要があります。警備員の待機場所がすぐ近くとは限りませんし、警察のようなスピードでかけつけるのは無理(赤色灯、サイレンを使ったりできませんから)。本気で狙った家のセンサーをわざと動作させ、駆けつけ時間を下調べしたりする空き巣までいるという。システムだけに頼り切らず、いろんな対策と組み合わせて利用するのが、有効だと思います。

 いかがでしたか?戸建て中心ですが、空き巣対策として、ご参考になれば。
 次回をお楽しみに。


第179回 大阪弁講座−20

2016-08-19 | エッセイ

 この大阪弁講座も、プチ区切りの20回目になりました。調べてみたら、1回目は、3年ほど前(第26回目)でした。「なんやかんやいいながら」2か月に1回くらいのペースで、結構続いてます。
 前回の講座では、「地名の短縮」に、いつもの居庵さんに加えて、孫平さんからもコメントをいただき、嬉しかったです。まだまだ続けまっせ。ほな。さっそく・・・

<なんでやねん>
 ある関西出身のタレントが、なぜ東京に進出していかないのかと訊かれて、「「なんでやねん」が使えへんから(使えないから)」と答えていた。
 「なんで」というのは、どうして、なぜ、と理由を尋ねるのが基本の語義。「ねん」の部分に、相手の言い分が腑に落ちないので、あえて訊く、というニュアンスがある。
 「ええ話やないか?断るて、「なんでやねん?」
 それが、さらに進んで、「それはないやろ!」「ありえへん!」というツッコミの時にも使うのが大阪流。
 「おまえとの約束やけど、おまえの都合で、なかったことにしてくれへんか?」
 「なんでやねん!それはないやろっ」

<万円>
 「大阪学」(大谷晃一 新潮文庫)の表紙イラストです。

 

        


 「てんまん六丁目」の「てんまん」は、大阪人なら先刻承知の「天満(てんま)」のこと。東京あたりから来たとおぼしきサラリーマンのボケぶりがまずは可笑しい。
 「ハイ 300万円」と手を出す大阪のオヤジ。タダで教えてもらうのはムシが良すぎる、といわんばかりの対応も、大阪人の一面(あくまで、一面ですけど)をよく捉えていて、笑える。
  
 ケチのくせに、かくのごとく、景気よく金額を万単位にするのが大阪人は好き。
 「え~っと、全部で720万円やから、お釣りは、ほいっ、280万円でんな」「おおきに」
 まっ、こんなやりとりがあったりする。もちろん、市場とか、個人商店に限られるが、売り手と買い手の親密度が前提になる表現。「えらい高いやんか。もう100万円ほどまからんかな」などと使えるようになれば、値切る根性とあわせて、大阪人検定準1級。

<気ぃつけてや>
 「気をつけろっ」というと、ケンカ腰。「気をつけて」も言い方によっては、相手を叱責する響きがある。ヒトに注意するのは、なかなか難しい。
 大阪人もケンカ腰だと、「このガキ、どこに目ぇ付いとんどい。気ぃつけたらんかい、ボケッ!」てな具合。表現力の豊かさ、迫力に惚れ惚れする。その一方で、やわらかく注意を促す表現があるのが、いかにも大阪で、それが「気ぃつけてや」で、男女共用。
 そう目くじらを立てるほどのことでもない。いかにも気分を害してるのを、ムキムキ言うのも大人気(おとなげ)ない。だけど、なんか一言言わないと気が済まん。そんな時に使える言い回しで、大阪人の心性によくマッチするのか、しょっちゅう使ってる。

 「おニイちゃん、お釣りが100円足りへんで。この前もそうやったやん。「気ぃつけてや」」
 「オバちゃん、ウチの頼んだ定食、忘れてるんとちゃう?忙しいのは分かるけど、「気ぃつけてや」」
 こんな用例になります。理由(この前もそうやった)、気配り(忙しいのは分かるけど)などと合わせて使うのが効果的。う~ん、奥が深い。

 いかがでしたか?次回をお楽しみに。


第178回 自前ブログの中間総括

2016-08-12 | エッセイ

 「芦坊」でググると、トップの3件に、「書きたい放題」の古いバージョン(マスターのサイトをお借りしていた分)の記事がヒットします。そして、2ページ目の上の方に、現在の自前のバージョンの記事3件がヒットする。どういう基準でこれらの記事が選ばれてるのかはよく分かりませんけど・・・
 まあ、「芦坊」なんかで検索する物好きなヒトはいないでしょう。また、のちほど書きますように、広く皆んなに読んでもらおうという気もないのですが、ネットの世界で認知されたみたいで、正直、ちょっとだけ嬉しい。結構お気に入りのタイトル画像です。



 さて、自前のブログを始めて、半年ほどになります。マスターの手を煩わせる必要がなくなり、画像の貼付けなどもできるようになって、使い勝手にも満足しています。

 管理者モードで入ると、前日のアクセス件数が分かる仕組みです(どなたが、までは分かりません)。平均すると、一日当たり10件前後でしょうか。金曜日更新ですので、週末にはもう少し増えて、20件を越える時もあります。お店でも、SGさん、剣喜さんなど「愛読者」の方から、コメントやアドバイスをいただくのが楽しみです。お店の掲示板を利用して、いつも「ひけらかし」「ツッコミ」コメントいただく居庵さんありがとうございます。「時々」ご覧いただき、コメントいただく孫平さんにも感謝。随分励みになっています。
 週1回の更新は、キツい時もありますが、楽しいことのほうが多いですし、やってよかったなと思います。

 ご覧の通り、読者を増やす営業努力とは無縁で、閉鎖的なブログです。リンクは、お店からだけ。お店の常連の方々に愉しんでいただき、話題にしていただければと、気持ちはあくまで謙虚で、ささやか。
 コメント欄とか、トラックバックの利用、読者の登録とか、読者を増やすつもりなら、そのための仕組みはあるのですが、それらも、あえて利用していません。私なりの理由ですが・・・・ 

 実は、かれこれ10年近く前のことですが、ブログらしきものをやっていたことがあります。スマホ、タブレットなどはなく、パソコンベースの、シンプルなものでした。
 きっかけは、その頃通っていたスタンドバーのマスターから奨められたこと。中高年の利用が多いブログサービスに登録して、週に一回くらいの頻度で、その店での出来事などに、情報発信的な記事を添えてアップしていました。

 最初は、結構ハマりました。自分が書いたページを、たまたま見に来てくれる人があり、お互いにコメントを交換し、「友だち」(フォロワー)になってもらい・・・・・バーチャルとはいいながら、新しい世界が開けたようでした。読んでもらえるネタを求めての街歩き、美術展巡りなどに精を出す一方、情報発信のため、読んだ本の感想をまとめたりと、結構がんばっていました。

 そんな交流の中から、比較的趣味、嗜好が合いそうな20人くらいと「友だち」になって、やり取りを愉しんでいたのですが、そのうち、だんだんと熱が冷めてくるのを感じるようになってきました。

 自分なりに、「取材」にも力を入れ、がんばって書いたのに、コメントがなかったり、「拍手」(フェースブックの「いいね!」に相当)が少なかったりが続くと、やはり力が抜ける。中身の問題というのは百も承知なんだけど・・・・・・

 そうなると、コメントとか拍手欲しさに、ついつい「甘い」コメントを書いてしまうようになる。
 例えばですね・・・・
 「朝もやの中、往復3キロのウォーキング。風の冷たさに、秋を感じる」みたいな記事に、
 (ありがちな日常ネタやなあ)と思いつつも、とりあえず「拍手」したり、

 また、「骨董市で入手した古伊万里らしき皿を飾るための台を自作(写真付き)」みたいな書き込みには、
(そこまでオタクっぽい話しにはちょっと付いていけない)と思いつつも、「なかなかしゃれたのが出来ましたね」などと、心にもないコメント。

 相手からのコメントや拍手欲しさに、意に添わぬコメント、拍手をしてしまう。そんな自分がつくづく嫌になって、足が遠のいていって、結局、半年くらいで退会してしまった、というのが実情。

 数は少なくても、熱くて、コア、かつ厳しい批評眼を持つ読者の皆様に支えられて、このブログを、今後も続けていくつもりです。引き続き、ご愛読、ご声援ください。


第177回 「邪視」という思想

2016-08-05 | エッセイ

 8月の句会の兼題は「目」で、思い出した話題があります。

 「邪視」という思想です。「ねたみ」とか「そねみ」とかは、人間誰しも抱く感情ですが、そういう「邪(よこしま)」な思いで、「視」線を向けられたモノには、思いを向けた人の怨念のようなものが取り憑いて、持ち主に災いをもたらす、という考え方です。「邪視」という言葉は、かの南方熊楠が、このような思想が、世界のあらゆる所にあると紹介した時に、導入した訳語だとされています。

 世界中といいながら、とりわけイスラム圏では、気にする人が多いようで(コーランにも、ねたみの心を戒めるムハンマドの言葉がある)、対抗する「お守り」が、国ごと、地域ごとにいろいろある。

 下の写真をご覧ください。

 

     


 「ナザール」と呼ばれるトルコ版の「お守り」です。ガラス製で、目玉を模しています。直径は10cm前後で、いくつかサイズはあるようですが、紐が付いていて、家の玄関先などに吊るして使います。「目には目」で、邪視を撥ねつけようというわけでしょう。ご覧のように、土産物屋の店頭でも、人気の「商品」みたいです。

 まあ、「お守り」も一つの手段ですが、そもそも、ねたみ、そねみの目を向けられないに越したことはない。

 というわけで、家なんかも、見かけは普通の住宅の外観、形はシンプルな四角で、色は白。窓も小さいのが多いような気がする。そうはいっても、大きさまでは誤摩化せないから、意味はないと思うんだけど。大きい家は、家なりに内装、家具などを豪華にしてるに違いないし。

 見られたり、思われただけでそうなのだから、具体的に言葉で言われると大変なことになる。邪視を信じている人の洋服とか持ち物を、ごく普通の感覚で、「おしゃれだね」とか「よく似合ってるよ」などと褒めるわけにはいかない。「邪視」ならぬ「邪言」で、災いをもたらすモノになったのだから、言われた人は、その洋服なりを、他人にあげるか、捨てるしかなくなる。

 洋服とかモノなら、捨てるか、あげるかすれば済むが、まさか、子供を捨てたりはできないから、邪視を恐れる親たちは、子供を褒められないよう、ねたみ、そねみの対象とならないよう細心の注意が必要になる。粗末な格好をさせたり、ヒドい名前をつけたり、といろいろ大変らしい。

 そんな国とかに落語なんてのがあれば、「子ほめ」ならぬ「子けなし」が演目として、きっと、もてはやされるはず。

 「うわ~、皺(しわ)だらけや」
 「それは、隣で寝てる爺さんやがな」
 「それにしても、アンタに似て、ぶっ細工な子ぉやなぁ~」
 「さっそく、ケナしてもうて、おおきに、おおきに」 
 「えらい老(ふ)けてるけど、おいくつです?」
 「おいくつですって、生まれたばっかりやがな」
 「生まれたばっかりにしては、老けて見える、どう見ても、ハタチそこそこ」
 「そこまで、ケナしてもうたら、嬉しいなぁ」
 「泣き声も弱々しいし、今にも死にそうやんか」
 「なんぼなんでも、ええ加減にしなはれっ」

 大阪弁バージョンだと、こんな具合ですかな。さてと、そろそろ「目の俳句」を考えなきゃ。

 いかがでしたか?次回をお楽しみに。