★★★ 芦坊の書きたい放題 ★★★

   
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年末始の記事アップにつきまして

2021-12-29 | エッセイ


 いつも当「芦坊の書きたい放題」をご愛読いただきありがとうございます。
 先にお知らせの通り、2021年は、「第453回 笑い納め2021年」(リンクは<こちら>です)が最終になります。
 2022年は、1月1日(土)に新年のご挨拶を、そして、1月7日(金)から通常の記事をアップの予定です。引き続きのご愛読をよろしくお願い申し上げます。
 どうか良いお年をお迎えください。

 2021年年末    芦坊拝

第453回 笑い納め2021年

2021-12-24 | エッセイ
 いろんなことがあった2021年も暮れようとしていますので、恒例の「笑い納め」をお届けします。以前にネタ元にしました「最後のちょっといい話」(戸板康二 文春文庫 1994年)の第3弾としてお楽しみください。
 なお、本年は当記事が最終になります。2022年は、1月1日(土)に新年のご挨拶、そして、1月7日(金)から通常の記事をアップの予定です。來たる年もよろしくご愛読ください。それでは本題に入ります。

★三島由紀夫は学習院を出て、大蔵省に8ヶ月つとめたことがあります。文章がうまいと聞いた大臣が、国民貯蓄振興大会の挨拶の原稿を書けと命じました。彼が、「笠置シズ子さんの華やかなアトラクションの前に私のようなハゲ頭が演説して、まことに艶消しでありますが」と前置きしたところ、そこだけは全部削除されていました。

★萩原朔太郎は手品がうまく、マジシャン協会の会員でもありました。いろいろ専用の道具も持っていましたが、歿後に遺族が見ると、メモが入っています。「規約だから誰にも見せずに処分してください」

★林家彦六(八代目正蔵 林家木久扇の師匠)が頼まれて、選挙の応援に行った時のことです。団地の構内に車でのりこみ、台の上から、こう呼びかけました。「長屋の皆様〜〜〜」ところがあんまり受けないどころか、不満そうな顔を皆がしています。候補者がうろたえて、「長屋なんていっちゃいけない。団地においでの皆様と呼びなおしてください」と小声でささやいたが、その場所を離れてから彦六は仏頂づらでつぶやきました。「長屋でなぜいけないんですか。私も長屋に住んでるんだ」
 師匠の高座姿です。



★俳優座劇場ができる前、その資金を作るために劇団の大幹部は、いろいろな映画に出ました。スケジュールもハードで、撮影がすむとすぐ夜行に乗って、京都から大船に直行という具合です。
 東野英次郎がある日、ラジオのスタジオから、日活の撮影所にゆき、メークアップをすませたら助監督が来て、スチールを見せ、「頭の分け方がちがいます。眉毛はもっと釣り上らなければ」と言います。そのスチールを見ていた東野が叫びました。「しまった、これは大映の顔だった」

★パリのノートルダム寺院の近く、セーヌのほとりに、ウーブリエットという酒場があります。日本人に案内されて戸板がその店に行ってみると、二階の壁に、十字軍の兵士が妻に与えて出征したと伝えられる貞操帯がうやうやしくかけてある。彼も本物を見るのははじめてだったので、かなり長く、ためつすがめつ眺めていました。その時、神妙なその案内者が大まじめで、こう言ったといいます。
「森繁(久彌)先生も、かなり熱心にご覧になっておられました」

★先代市川段四郎は野球が好きで、自分のチームを持っていました。女子のチームともたびたび試合をしたようです。戸板が「女子の選手との接触というのは、気を使うでしょう」と尋ねると、「いや、接触がいいんです。二塁を守っている時に、すべりこんで来たりすると、じつに結構です」との返事がかえってきました。

★夏目漱石が明治42年の夏、修善寺で胃潰瘍療養中、危篤に陥って、大騒ぎになりました。その報を聞いて、まっ先にかけつけたのが、安倍能成です。
 鏡子夫人が両手をひろげるような手つきで迎えました。「まぁうれしい、あなたが一番乗りなんて」と大喜び。「だってあなたの名前、アンバイヨクナルですもの」

 いかがでしたか?笑い納めていただけたでしょうか。本年も当「芦坊の書きたい放題」をご愛読ありがとうございました。2022年も引き続きご愛顧のほどよろしくお願い申し上げます。なお、過去2年分の笑い納めへのリンクは、<2019年><2020年>です。合わせてお楽しみいただければ幸いです。

 それでは皆様方、どうか良いお年をお迎えください。


第452回 奇人列伝-6 宮武外骨ほか

2021-12-17 | エッセイ
 これまで5回にわたって「奇人列伝」シリーズをお届けしてきました(現サイトにアップしたNO.2からNO.5までのリンクを文末に貼っています)。前回からだいぶ経ちますが、いまだに時々アクセスをいただきます。熱心な「奇人ファン」がいらっしゃるのだと勝手に想像しています。
 そんなファンのお声(?)にお応えし、以前、ネタ元にした「昭和超人奇人カタログ」(香都有穂(こと・ゆうほ) ライブ出版)から落ち穂拾い的に3人の奇人をご紹介することにしました。ファン以外の方も、いずれ劣らぬ変人、奇人ぶりをお楽しみください。

<宮武外骨(みやたけ・がいこつ)(1867-1955)>
 「頓知協会雑誌」「滑稽新聞」など多くのパロディ雑誌を発行し、反権力、反既成道徳を貫いた明治・大正のジャーナリストです。そのため、ブタ箱に入ること数十回に及んでいます。その破天荒な生き様は、奇人変人の筆頭格といっていいでしょう。ご本人の肖像と滑稽新聞です。



 嫌いなものは、当然のごとく、官僚、政党、軍閥、貴族政治、富豪政治など。
 一方、好きなものは、古書せんさく、魚釣り、ワイセツ事物研究、俗語収集・・・に加えて、「女性」ということになりそうです。

 生涯で16人のメカケを囲い、4度の結婚をしています。4度目の結婚の時のエピソードです。
 外骨の知人が妻を亡くして困っていると言うので、ある女性を、見合いの場へタクシーで送っていきました。車内で、「「少々カタイところもあるが・・・」と説明すると、その女性は突然、「そんなカタ苦しい男と一緒になると苦労する。いっそのこと、先生のような話のわかる人のほうが・・・」と話した。」(同書から)
 見合いが終わっても、その女性は「先生」のほうがいいと迫ってきて、結局、40歳という年齢を越えて最後の結婚となりました。微笑ましいというべきか、羨ましいというべきか・・・・

<内田百閒(うちだ・ひゃっけん)(1889-1971)>
 「百鬼園」の号を持ち、「阿呆列車」シリーズなどのエッセイで知られた作家です。漱石門下の中でも、その異色ぶりは際立っています。
 まずは、その金銭哲学が常識はずれ。5円借金するのに、往復10円のタクシー代を払っても平気でしたから。一時期、大学、士官学校などの教官を兼務し、月収500円という当時としてはかなり高額の報酬を得ていました。でも、その内、4百数十円は高利貸しへの利払いだったといいます。こんな言葉を残しています。「借金こそ心的鍛錬であり、できれば、貧乏仲間で借金してきた人から借りるのが、借金道の極致である。」(同書から)まわりはさぞ迷惑だったことでしょう。

 「百鬼園先生はまたオナラの名人であった」(同書から)とあります。徳川夢声が自宅に招かれ、ごちそうを食べていると、百閒は小言を言いながら、「ブー」「バリバリ」と堂々と放屁したのです。世間常識の面から咎(とが)める夢声に対して、生理的に出るものは仕方がないと応じる百閒。大議論に発展したといいます。百閒の傍若無人ぶりを彷彿とさせます。

<菊池寛(きくち・かん)(1888-1948)>
 作家として数々の作品を残し、「文藝春秋」の創刊者としても知られています。なかなかユニークなキャラの持ち主だったようです。
 若い頃から自分の容貌にコンプレックスを持ち、陰鬱な性格でしたから、一高時代には「憂うつなる豚」とあだ名されました。また、ほとんどしゃべらなかったことから、「あいつはキクチカンではなく、クチキカンだ」と揶揄(やゆ)されたともいいます。

 その無精ぶりも特筆ものです。顔は洗わず、風呂も入りません。たまに顔を洗う時も、水道の蛇口の下に顔を持っていって、直接水をかけます。手ぬぐいは使わず、自然に乾くのを待っていたというから徹底しています。
 結婚に際しては、奥さんから、1.朝起きたら自分で床をあげること 2.顔を洗うこと 3.毎晩風呂に入ること の条件が示されました。まるで子供扱いです。ほとんど守られなかったと想像しますが・・・

 いかがでしたか。過去分へのリンクは、<NO.2(第156回)><NO.3(第175回)><NO.4(第187回)><NO.5(第203回>です。もう少し落ち穂がありますので、いずれ続編をお届けする予定です。

 それでは次回をお楽しみに。

第451回 指紋と犯罪捜査を巡る人間ドラマ

2021-12-10 | エッセイ
「テレビ離れ」の私が(珍しく)欠かさず見ていた(と過去形になるのは、残念ながら、2021年11月に放送終了したからです)ドキュメンタリー番組が「フランケンシュタインの誘惑」(NHK教育)です。科学上の発明、発見などに関わった人々の名誉をめぐる争い、研究成果の悪魔的応用など、裏面史ともいうべき中身を、専門家のインタビューなども含めしっかりと見せてくれる良心的な番組でした。

 先日(2021.10.15)の放送では、「消された指紋」のタイトルで、指紋が犯罪捜査に利用されるまでの歴史が取り上げられました。様々な人物が絡む興味深いものでしたので、内容をかいつまんでご紹介します。

 ヘンリー・フォールズという人物がいました。1853年にスコットランドに生まれ、貧しい医師で、キリスト教を信奉する一方、当時脚光を浴びていた進化論にも魅かれていました。こちらの人物です。



 医療宣教師としてインド、イギリスを経て、日本にやってきました。そして、大森貝塚の発掘に取り組むエドワード・モースを手伝うことになります。
 そこで、フォールズの目を引いたのが、3000年前の土器に残る指紋でした。これを研究することで進化論が証明されるかもしれないと考えたのです。数千の指紋を採集し、比較対照しました。その結果、同一の指紋はなく、すべての指紋は異なる、つまり「万人不同」が実証されました。
 さらに、彼は、指紋を削る、薬品で溶かすなどの処理をしても、同じ指紋が再生すること、2年間の観察でも指紋に変化がないことから「終生不変」(指紋は一生変わらない)の事実も発見したのです。

 その成果を、1880年、科学雑誌「ネイチャー」に論文として発表しました。そこでは「粘土、ガラスなどに、指の跡が残っていれば、それが犯罪者の身元を化学的に証明することになるかもしれません」と述べ、指紋の犯罪捜査への利用に言及した初の論文となりました。フォールズ自ら、日本、ニューヨーク、パリ、ロンドンの警察へ手紙を出し、犯罪捜査への利用を訴えましたが、残念ながら、反応はありませんでした。

 1888年、フランシス・ゴールトンなる人物が登場します。上流階級出身の人類学者、遺伝学者です。今でいう優生思想の持ち主で、優秀な人間を特徴づけるものとして「指紋」に目をつけました。そこで注目したのが2つの論文です。一つはフォールズのもの。もう一つは、その1ヶ月後に発表されたウィリアム・ハーシェルの論文です。
 ハーシェルも上流階級の出身で、インドで行政官をしていた当時、契約者を特定するのに指紋を利用したことから、20年以上にわたって指紋を採集していました。

 上流階級出身車同士のゴールトンとハーシェルが手を組み、1892年、ゴールトンが「指紋」という本を出版したことから、にわかに「指紋」に注目が集まります。
 そこでは、指紋が犯罪捜査に有効であり、その照合方法まで記述しています。そして、ハーシェルを「系統だった指紋の使用法を考案した最初の人物とみなされるべき」と書き、フォールズの名前は一箇所、しかも誤った綴りで出てくるだけです。先駆者としてのフォールズの地位は奪われました。

 フォールズも反撃に転じ、ゴールトン、ハーシェルとの非難の応酬が続く中、ゴールトンが会員である王立協会は、1894年、指紋を犯罪捜査での証拠として採用することを決定しました。そして、1905年、指紋の証拠能力を決定づける裁判が行われました。

 ベドフォードで起こった強盗殺人事件で、犯人は金庫に親指の指紋を残していました。現場から立ち去った男が逮捕され、指紋が一致したことから、殺人罪で起訴され、裁判となりました。

 検察側はゴールトンの理論を援用し、指紋は本人のものと主張します。一方、ゴールトンとの対抗上、弁護側にまわったフォールズは、10本の指の指紋がすべて一致しなければ、本人の特定はできない、との意に反する主張を行います。結局、指紋鑑定人の「11カ所の一致点があり、同一の人物のものと認められる」との意見が採用され、犯人は有罪、死刑となりました。
 ゴールトンの本の出版に続き、フォールズにとっては手痛い敗北です。3人の争いは、晩年まで続き、ゴールトン、ハーシェルに続き、1930年にはフォールズも亡くなりました。

 フォールズの名誉が回復したのは、1974年の「指紋協会」という世界的組織の設立がきっかけです。指紋に関する研究の歴史が洗い直された結果、フォールズの業績、先駆者としての地位が認められました。
 1987年、朽ち果てていたフォールズの墓は建て直され、こう彫り込まれました。
「指紋による科学的個人識別の先駆者」
 科学分野における業績、功績をきちんと評価する仕組みがあることを知り、少し救われた気持ちになりました。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。

第450回 投書が決めた江戸遷都

2021-12-03 | エッセイ
 大阪には造幣局があります。「あれは、一時期、大坂(当時の表記)遷都が実現しそうになった名残や」というのを、中学校だかの授業で聞きました。身近な街でしたから、へぇ~、とは思ったものの、あまり実感は涌かなかったことを憶えています。
 敷地内にある造幣博物館です。明治っぽい雰囲気を残しています。



 司馬遼太郎のエッセイ「江戸遷都秘話」(「歴史の世界から」(中公文庫) 所収)を読むと、かの大久保利通が推進役となって、大坂遷都が実現の一歩手前までいっていたこと、そして、最終的に江戸になったのにはちょっとしたエピソードがあったことを知って、興味引かれました。私なりの要約でお伝えします。

 維新のかなり前から、大久保は、大坂遷都の構想を胸に秘めていました。その理由は、秀吉が政権の中枢を置いたのと同じ理由からです。
 日本列島の中心に位置すること、瀬戸内海の奥座敷で水運の便がよく、外国との折衝に都合がいいことなどでした。

 明治元年正月、鳥羽伏見の戦いで幕軍を退けた直後、その構想を正式の建白書として有栖川親王を首班とする総裁府に上呈します。もちろん、千年の都を捨てることへの感情的反発は大きく、公卿のほとんどは大反対です。唯一、大久保の案を支持したのは、盟友の岩倉具視くらいであったといいます。

 それでも、西郷、木戸、後藤ら維新の功臣たちの支持を得て、流れは、大坂遷都へと傾きかけます。ところが、事ここにいたって、大久保は重大なことに気づきました。遷都というのは途方もなく出費を必要とします。できたばかりの政府には、基礎財源がないのです。

 そこで、にわかに具体的色彩をおびてきたのが、江戸遷都論です。その口火になったのが、当時、京都にあった大久保の私邸に投げ込まれた匿名の投書であったとされています。文章は堂々たるもので、論旨も明快です。無名の一市井人ではありえません。まずは、大久保の見識が卓越していること、盛大なる議論をしていることなどをおだてた上で、江戸遷都の理由をこう述べます(便宜上、番号を付けました)。

1.関東、東北の士人が新政府に疑問をいだき、戦意ぼつぼつたる時、江戸の押さえを捨てて、大坂に帝都を置くのは戦略、政略からみて感心しない。
2.水運の便というが、これからは和船の時代ではなく、洋式大船の時代になるから、大坂ー江戸の距離は問題にならない。
3.大坂に遷都すれば、役所、学校、公共施設などありとあらゆる建物を建設しなければならない。しかし、江戸にはすべて揃っている。
4.大坂は帝都にしなくても衰えないだろう。しかし、江戸を帝都にしなければ、市民が離散し、荒廃してしまう(大阪人のたくましさを見抜いた卓見だと思いますー私注)。

 差出人は、「江戸寒士」とあるだけでしたが、維新後、数年を経て、実にドラマチックな経緯で、その主が判明します。後に「我が国郵便精度の父」とも称される「前島密」でした。1円切手でおなじみのこちらの方。



 投書があった時、むろん、両者は面識はありません。前島は、函館で洋学を学ぶ幕臣で、新知識人のひとりでした。なんとも大胆不敵な行動力と見識の高さです。

 そんな前島を新政府がほうっておくわけはなく、政府高官として、先ほどの郵便事業の創設などで実力を発揮します。明治元年9月の江戸遷都から数年を経て、大久保と前島は、数人の政府高官とともに座談の場を持ちました。維新前後のことを回想しあっている中で、大久保が遷都に触れ、「(いろいろ思いあぐねていたとき)一通の投書が舞い込んで、その文章にひどく感銘し江戸遷都に踏み切ることができた。あの文章の主は、いったいだれだったのだろう」(同書から)と言ったのです。

 目の前にいる前島は、功を誇らない人間でしたから黙然としていました。同席していた人物が、前島からその話を聞いていましたから、「この前島君ですよ」と明かすのです。「大久保は膝を打ち、感嘆してしばらく声がなかったという。」(同書から)

 すごい巡り合わせがあるものですね。幕臣という立場、利害を超え、あえて建白を行った前島。一方、匿名の投書でありながら、広い心で耳を傾け決断した大久保。そして二人の劇的な出会い。気骨ある人物とはこういうものか、とあらためて思い知らされます。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。