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第167回 社長の品格-2

2016-05-27 | エッセイ

 (前回からの続きです)

 河島が、アメリカで着々と経営成果を挙げていた頃、源一の多角化路線は、高度成長路線という追い風と、優秀な技術者、スタッフに支えられて、一旦、成功を収めます。しかしながら、独裁体制の歪と社内抗争の激化、戦略の行き詰まりなどを露呈し、経営は大きく傾くことになります。

 源一の思いつき経営と社内政治に翻弄されながらも、真摯に、仕事に取り組んだ河島は、紆余曲折を経て、77年、源一のあとを継いで、第5代目社長に就任するのです。

 「足元の明るいうちにグッドバイ」の名言とともに、会長に退いた源一ですが、もとより、グッドバイするつもりは、さらさらなく、当然のごとく、院政を敷きます。一癖も二癖もありそうなこんな人物です。



 いよいよ、社長として、これまでの集大成として、思う存分、腕を揮えるはずの河島の前に立ちはだかる会長という存在。既に入社していた息子の浩を盛り立てろ、成果を挙げさせろ、早く常務にしろ・・・親バカ丸出しの会長の圧力と戦いつつ、懊悩しつつも、全力で経営に当ります。

 ところが、社長就任から、3年半。河島は、社長を解任され、源一会長が、社長に復帰するという驚天動地の事態が起こります。順調に経営を立て直しつつある中での、クーデター的な社長解任騒動は、マスコミでも大きく取り上げられました。源一がいかに取り繕おうとも、このままでは、河島政権が長期化し、息子の社長の目がなくなる、との源一の強い危機感が取らせた見境いのない卑劣な手段でした。

 胸の内の思いは、すべて飲み込んで、河島は退任します。

 83年に予定通り息子の浩を社長に据えますが、彼は、父親ほどのカリスマ性もなく、典型的な二代目(嘉市から数えれば三代目)というタイプ。著者も、浩について、周辺を取材していますが、その業務遂行や事務処理の能力を評価したり、人柄に共感する声は全くなかったという。

 技術者のこんな声があったという。「本人は、いっぱしの技術者のつもりでいる。耳(音感)もいいと思っている。アメリカ現地法人のマネージャーを前に、「アメリカ人は耳がわるい。教育しなくちゃいかんなあ」と真顔でいう。傲慢にして、軽卒ですよ。」

 また、ヨーロッパ在住の日本人が、浜松の本社を訪れた時、浩は、「ぼくは6回も7回も渡仏してるのに、ミッテラン(当時の仏大統領)は何回日本に来たの?」と公言したという。いったい自分を何様と思っているのか、その場のヤマハ関係者は二の句をつげなかったという。

 「俺の会社」を息子に継がせて何が悪い、と思い込んでいる父親と、甘やかされ放題で、社長になるのが当然だと思っている傲岸不遜な息子ーいかにもの日本的風景にうんざりします。

 さて、親の七光りで社長にはなったものの、案の定、経営手腕もなく、人望もないままに、社内のモラルは低下する一方。遂には92年、労働組合から、「出処進退申入書」を突きつけられる事態となり、浩は退任を表明します。三代にわたる世襲劇は、その後もヤマハの経営に影を落とし、再建まで、約10年を要することになります。

 社長を退任した河島ですが、ダイエーの中内社長に見込まれ、副社長として迎えられます。そして、得意の経営手腕で、見事「V字改革」と呼ばれる業績回復を成し遂げます。また、その間、倒産したミシンメーカーのリッカーの再建に取り組み、見事再生させるなど、華々しい成果を挙げるのです。

 しかしながら、優秀な側近を次々と使い捨てにし、息子への世襲に突き進む中内流には、所詮容れられず、97年に、副会長職を最後に、退任し、07年に亡くなっています。

 経営能力、人格、識見ともに極めて優れたものがありながら、世襲という大きな壁と二度にわたり全力で戦わざるを得なかった運命の皮肉と不条理。人間の品性、品格とは何か、人生とは何か、運命とは何か・・・そんな重いことを考えさせる極上の一冊です。

 いかがでしたか?次回をお楽しみに。


第166回 社長の品格-1

2016-05-20 | エッセイ

 剣喜さんへ:お約束通り、腹に据えかねる昨今の世情に鑑みて、社会派っぽいネタをお届けします。お眼鏡に適えばいいのですが・・・

 さて、東芝の大規模な不正経理といい、三菱自動車の燃費不正といい、「知らなかった」「報告がなかった」「会社ぐるみではない」「部下が勝手に」「事務処理ミス」など、見苦しい言い訳のオンパレードである。
 「国の社長」も数を恃んでのやりたい放題、「東京都の社長」は社長で、海外大名旅行、家族旅行のカネまで税金で払わせといて、こっちも負けず劣らず見苦しい言い訳のオンパレード。その卑しさ、セコさに呆れかえる。

 「資質」を云々する以前に、組織のトップ、経営トップたるべきものの「品格」は一体どこへ行ったのだ、と憤りに燃えながら、思い出した本がある。「社長の椅子が泣いている」(加藤仁 講談社)です。2006年出版で、いささか古いですが、今こそ、そんなヤツらに読ませたい本。2回に分けて、ご紹介しようと思います。こちらがそのほんです。


 名門の出でもなく、世襲でもなく、本当の実力だけで、兄弟揃って、日本を代表する企業の社長の座に就くというのは、稀有なことです。この本の主人公である本田技研工業の二代目社長「河島喜好(きよし)」(兄)と、日本楽器(現ヤマハ)の第5代目社長「河島博」(弟)の例がまさにそれです。

 浜松で生まれ育った兄と弟は、極めて仲の良い兄弟で、戦後まもなく、それぞれ、高等工業学校、経済専門学校を卒業し、当時としては、地元の一企業に過ぎなかった本田技術研究所(後の本田技研工業)と日本楽器に入社します。

 さて、兄の喜好は、オートバイ開発の技術者として、順調に経験を重ね、1973年、45歳の若さで、二代目社長となります。7人いたといわれる候補の中から、技術力、経営センス、人柄などで、本田宗一郎が指名しただけあって、在任中は、アメリカ現地生産工場の立ち上げ、ヤマハとの二輪車のシェア争い(奇しくも、この分野では弟とライバル関係になる)での勝利など赫々たる業績を挙げ、1983年に退任します。猛烈な努力があったからこそですが、経営者として、まずは申し分のない順調な一生 であったといえるでしょう。

 一方、弟の博の一生(特に後半生)は、まさに波乱万丈といっていいでしょう。そして、それこそが、この本を貫く大きなテーマとなっています。

 ヤマハにおける博のキャリアの前に大きく立ちはだかり、苦しめ、ヤマハの経営を、一時危うくさせた元凶が、「川上源一」と、その息子の「川上浩」なる人物です。

 創業家の山葉一族の社長が二代続いた後、労働争議で危うくなった経営を立て直すため、住友電線取締役から、三代目社長として送り込まれたのが、源一の父の嘉市です。嘉市の座を世襲した源一は、河島博が入社当時、既に4代目社長として経営にあたっていたことになります。

 源一の父の嘉市という人物が、かなり特異な人物だったようです。
 東京帝大の銀時計組というのが何よりの誇りであったようで、自伝の四分の三を小学校時代から、銀時計に至るまでの学業成績の記述で延々埋め尽くしていたというのですから・・
 また、「丸い竹も四角い枠に嵌めれば四角くなるように、人間も教育次第でいかようにでも変えられる」という一種の「優生思想」の持ち主でもありました。

 そんな父親の子供に限って、「出来が悪い」のも世の習い、というか皮肉なもの。
 何かにつけて、父親と比較され、プレッシャーをかけられる毎日。期待に応えられない不甲斐なさ、銀時計の父に対して、高等商業卒業がやっとの自分・・・それやこれやが、源一の人格形成を大きく歪め、劣等感の裏返しのような尊大で、独善的な人物を作り上げてしまった、と言えそうです。

 それでも、社長の息子だからということで、世襲で社長になれるのが、日本的経営。1950年、社長に就任してからは、それまでの鬱屈感、劣等感を吹き払うかのように、ワンマン経営に乗り出します。
 社内での呼び名は、「源さま」、そして、会社の役員、幹部といえども「家来」と呼んで憚らず、その独裁ぶりは、俗に「川上天皇」とも呼ばれました。

 とはいえ、河島の入社当時、源一は遠い存在。常に自分の頭で考え抜き、行動することを信条に、支店、本社営業本部の責任者として、のびのびと経験を積み重ね、実力を蓄えていきます。
 怜悧な経営手法だけでなく、社員とのコミュニケーション、人使いの妙といったワザも自分のものとする一方、広く音楽業界、ミュージシャン、アーティストたちとの人脈を広げ、大きな営業成果につなげる自在な経営も河島一流のもの。

 彼自身の大きな飛躍のきっかけとなったのが、6年半に及ぶアメリカ現地法人の責任者としての経験でした。源一の思いつきのような発想から出たアメリカ進出でしたが、言葉の壁を乗り越え、ゼロからの楽器マーケットの開拓、当時、既に手がけていた二輪、スノーモビルの販売などに腕を揮い、利益面で日本の本体をさせる支えるまでの規模に押し上げます。

(次回に続きます)


第165回 人名いろいろ

2016-05-13 | エッセイ

 随分前のことですが、父親が「悪魔」という名前で、息子の出生届けを出したところ、受理を拒否された、という「事件」がありました。法律違反というわけではないが、社会常識に反するというのが理由だったようです。命名の自由みたいな議論もまきこんで、すったもんだの末、最終的に「亜駆」で受理されたような記憶があります。分解すれば「亜・区・馬(あくま)」。知恵者がいるんですね。「悪魔くん」、その後、どうしてるんでしょう?グレてなければいいですが・・・
 
 私が生まれた時、下の名前をどう付けるかで、両親は、姓名判断に凝っていた親戚に相談したといいます。そうしたら、2つ候補が挙げられて、ひとつは、「芸術的才能に恵まれる」、もう一つは、「おカネを残す」。
 「あの時は、生活が苦しかったからねぇ~」というのが母から何度か聞かされた話。そんな母の思いを託した私の名前ですが、残念ながら、当ってる実感はありません。「これから」に期待?

 「世界の名前」(岩波書店辞典編集部編 岩波新書)は、様々な国、地域、時代、神話などに登場する人名にまつわるエッセイ100編を集めた本です。人名と一言でいっても、いろんなルール、しくみがあり、いろんな歴史や思いが詰まっているのだ、とあらためて興味をいだかせる内容です。2つの国の例をご紹介します。

 まずは、チェコです。

 チェコ語の姓には、不思議なものがあるそうで、動詞の過去形(・・・・ル(~した))を使ったもの。
 フラバル「掻いた」(何を?)、クヴァビル「急いだ」(どこへ?)、ドレジェル「存分に寝た」(うらやましい)など。テニスで有名なナブラチロワは、「返した」の女性形で、テニスボールを対戦相手に返した、と取れるぴったりの名前。こちらの方ですね。



 更に、否定の「ネ・・・・ル」との形をとる姓も少なくないらしい。ネズヴァル「呼ばなかった」(誰を?)、ネタヴァビル「急がなかった」(なんで?)などの例が紹介されています。

 否定の「ネ」を付けた名詞型の姓にも、気の毒なものが多い。意味だけ記すと、「悪さ」、「惨め」、「不健康」、「悪天候」、「無為」などなど。う~ん、ホントに気の毒としか言いようがありません。

 もうひとつは、イタリア。

 郵便はロクに届かない、交通ルールは誰も守らないなど、かなり「いい加減」な国の割に、命名について、法律で、いくつかの制約があります。

 ちなみに、日本の場合は、使える漢字が決められてるだけで、どう読ませるかは自由。ところが、イタリアではいろいろシバリがあります。

 まず、生きている父親や兄弟姉妹と同じ名前はダメ(母親はオッケーというのも不思議ですが)。
 滑稽な名前、恥ずべき名前もダメ。「悪魔」なんてのは、当然ダメでしょうが、じゃ、何が滑稽か、恥ずべきかという基準があいまいなのが、これまた、いかにもイタリア的。

 例えば、「金曜日」(ヴェネルディ)は、ダメだが、「ルフトハンザ」(ドイツの航空界社名)は、問題なしとの判決が出ているという。「金曜日」の代わりに、裁判所が付けた名前が「大グレゴリオ(グレゴーリオ・マーニョ)」というのだから、ますます訳が分かりません。いやはや。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。

<追記>後ほど、「人名いろいろ」をシリーズ化してお届けしています。「第258回」「第295回」そして「第384回」です。合わせてご覧いただければ嬉しいです。


第164回 タクシーのアナログとデジタル

2016-05-06 | エッセイ

 関西のタクシー運転手さんは、わりとフレンドリーな人が多い。

「お客さん、勝ってまっせ!」
「勝ってるって、どこが?コートジボワール代表?」
「勝ってるいうたら、タイガースに決まってまんがな」
 そんな、ボケとツッコミの会話が交せるのも関西ならでは。

 たまにタクシーを利用する時、私は、気弱で、遠慮しいな性格なので、「乗せてもらう」という気持ちでいる。そのせいかどうか、関西に限らず、タクシーに乗って、嫌な思いをした記憶がほとんどない。 この前は、久しぶりに、終電に乗り遅れて、タクシーのマンシュウ(1万円超え)というやつになってしまった。財布は痛むが、若いドライバーさんの嬉しそうな表情を見ていると、悪い気はしない。

 乗車してしまえば上司も部下もない気楽な世界、とは言うけれど、そこは客商売。ノルマもあるし、心身ともにタフでなければ勤まらない仕事に違いない。近頃は、「どんなルートで行きましょか?」と訊かれることが多い。「おまかせします」と答えるのだが、遠回りしただとかで、グズグズ言う客なんかもいるんだろう。気苦労も多そう。

 「東京タクシードライバー」(山田清機 朝日新聞出版)は、東京で働くタクシードライバーさんたちの働きぶり、生き方などを、ヒューマンな視点で描いたドキュメンタリー。こちらの本です。



 そこに、「無線屋」と呼ばれる運転手さんの話しが出てくる。
 街なかをムダに流さず、ロング(長距離)とかチケット利用の多い配車センターからの無線だけで売り上げを稼ぐドライバーを指す。

 例えば、「赤坂◯◯ビルから、羽田空港。誰々様。どうぞ」と、お客からの配車要請を受けたオペレーターが無線で一斉に呼びかける。近くを走っていて、配車に応じるには、無線機の「了解」ボタンを押す。すると、オペレーターがお客に「何番の車が、5分で伺います」などと返事をすることになる。私なんかも、サラリーマン時代にはよくお世話になったお馴染みのやり取り。

 無線の客なので、上客である可能性は高いのだが、どうしても当たり外れがある。無線だけで稼ぐ「無線屋」の場合、そんな「偶然」に頼るわけにはいかない。そこで、どうするかというと・・

 <「ベテランの無線屋は、何曜日の何時に、東京都内のどの地点で、どんな人がタクシーを呼ぶかを完璧に頭に入れていたのです」>(同書から)
 中には、それだけで、1週間分のスケジュールをミッチリ立てる無線屋もいるというから、スゴい世界。
 同書が取り上げているのでは、田園調布の自宅から、茨城の工場での訓示に出向く社長の例がある。毎朝6時半になると、自宅から無線配車の要請が来る。それを狙って、自宅のそばで待機する、というわけだ。ただし、そんな情報は、いずれ仲間に知られる。

 それでも、競争に打ち勝って、その配車を獲得するためには、もう一つのワザが必要になる。

 オペレーターが配車要請した瞬間に、了解ボタンを押しただけではダメなのだ。
 <「無線が流れて来た瞬間ではなく、オペレーターが話し終えてマイクのスイッチを離した瞬間に了解ボタンを押さないと無線は取れないのです。ところが、オペレーターによってスイッチの離しかたに癖がある」>(同書から)

 したがって、声でどのオペレータかを判断し、全員のスイッチ操作の癖まで飲み込んで、無線を取りに行かなければ客を逃してしまう。交信がヘタでは、とても無線屋にはなれない、というわけだ。というのが、かつての「アナログ無線」と呼ばれた時代の話。

 今では、タクシーに積んであるGPS(車のナビでお馴染みのあれです)と連動して、お客の一番近くにいる空車を、コンピュータシステムが自動的に割り振る「デジタル無線」が主流となっている。アナログ時代のような職人技の出番は、なかなかなさそう。タクシー業界にも「デジタル」の波が押し寄せている、というわけで、いつの時代も、大変なのは、タクシー運転手さん、ということになる。

 いかがでしたか?次回をお楽しみに。