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第529回 21世紀への伝言by半藤さん-3

2023-06-23 | エッセイ
 久しぶりにシリーズ第3弾をお届けします(文末に過去分へのリンクを貼っています)。
 2000年という20世紀末の年に、過去100年を振り返り、来るべき世紀への伝言に、との想いを込めた作家・半藤一利さんの「21世紀への伝言」(文藝春秋刊)がネタ元です。ひらすら戦争へと向かう時代の暗い話題も本書には登場します。でも、努めて愉快で、興味深いエピソードをセレクトしました。どうぞお楽しみください。なお、( )内は私なりのコメントです。

<漫談のマンに置き換えよう>
 現在は「漫才」が広く通用していますが、かつては「万才」と表記されていました。
 1934(昭和9)年、その4年前から東京進出を果たしていた吉本興業(笑いのヨシモト)は、東京で一大興行を打つことになりました。その時、同社の東京責任者であった林弘高が「万才じゃ東京のお客さんになんのことかわからへんかもしれん。万才のマンを、東京で人気の漫談のマンに置き換えたら」とのアイディアを出し、これが図に当たりました。
(とびきりの商売センスは、当時からのものだったんですね。懐かしい漫才コンビ・中田ダイマルラケット」のお二人です(左がダイマルさん))

<やはりホームドラマであった>
 実験的なものとはいえ、日本で初めてのテレビドラマが放映されたのが、なんと1940(昭和15)年4月のこと。
 13日と14日は、NHK内部で、そして20日が上野公園産業会館で試験放映、と記録にあります。「夕餉前」というドラマで出演者3人の中に、野々村潔(岩下志麻の父)がいたのが、時代を感じさせます。関係者いわく「初のテレビドラマがホームドラマであったとは」と。
(日本の技術もなかなかのもの。バラエティ全盛の今、テレビの原点に戻ってほしい気がちょっぴりします)

<10日で本を作ってしまった>
 戦後日本のベストッセラー第1号は、誠文堂新光社の「日米会話手帳」(80銭)です。発行は、敗戦から2週間ほどの1945(昭和20)年8月30日。とにかく売れに売れて、3ヶ月で400万部。関係者によると、焼け残った会話本のなかから、日本文だけを書き抜き、東大生に英訳させたのだといいます。日本文の書き抜きに1週間、英訳に3日間、「10日で本を作ってしまったんです」
(今に続く、日本人の英語学習好きを象徴するエピソードです)

<いえ、バーテンダーばっかりで>
 西部劇の名作「荒野の決闘」(監督ジョン・フォード)が封切られたのが、1946(昭和21)年12月のこと。主人公のワイアット・アープと酒場のバーテンダーのイキな会話があります。アープの「恋したことはあるのかい」との問いの
"No.I've been a bartender all my life."と答えたのですが、森卓也氏によると、日本語字幕が4種類あるという。
1.「いえ、バーテンダーばっかりで」
2.「酒場が忙しくてね」
3.「いや、私のような者は」
4.「ないね、私はバーテンダー」
(個人的には2番が好みですが、皆さんはいかがですか?) 

<南米でも飲める汁>
 以前、「「とんち教室」で学ぶ言葉遊び」を3回シリーズでお届けしました(第270回、291回、312回)。小さい頃、父親とよく聴いていた懐かしいNHKのラジオ番組です。この番組が始まったのは、1949(昭和24)年のこと。青木アナウンサーを先生役に、各界の芸人さんたちが「とんち」を競うという趣向の番組でした。
 本書では、「ぶらじるとはどんな汁?」との質問に石黒敬七さんが「何杯(なんべい)でも飲める汁」と軽妙に答えたエピソードが紹介されています。
(「言葉遊び」シリーズを、ちょっぴりPRさせていただきました)

<グランプリ?何のことか>
 黒澤明監督の大映映画「羅生門」がベニス国際映画祭でグランプリを獲ったのは、1951(昭和26)年8月10日です。
 記者が大映の永田雅一社長にお祝いをのべた時に返ってきたのがこの言葉、さらに「歳末大売り出しでタンスが大当たりしたようなものか」とも。
(抜け目なく商才は発揮したものの、芸術への関心は今ひとつで、かつ、ワンマンぶりで有名だった永田らしい言葉です。)

 いかがでしたか?もう少しネタがありますので、いずれ続編をお届けする予定です。なお、過去の記事へのリンクは、<第406回><第430回>です。それでは次回をお楽しみに。
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