★★★ 芦坊の書きたい放題 ★★★

   
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第171回 世界一のケチ

2016-06-24 | エッセイ

 アメリカのニューヨーク・タイムズ紙が、舛添東京都知事の辞職報道で、sekoiという言葉を使ったのが話題になりました。さすが、国際政治学者。日本語の国際化にも随分貢献(?)してくれてます。

 クレヨンしんちゃんの購入、中国服の購入理由は、これで書をやるとうまく書けるから、マクドナルドの割引券を公用車で自宅まで取りに行かせた・・・などなどセコいネタが一杯で、おかげで、お店でも随分お酒が進みました。

 もともと品性下劣で、異常なほどケチだが、ケチというのは、クセになるというか、エスカレートする傾向があるように思う。たかだか、数千円だとか、数万円のものでも、公費や政治資金で落とせる(そう思う本人とそう思わせる周りの連中が一番けしからんのだが)となれば、わざわざ自腹を切るのが、金額の多寡を超えて、どうしようもなく「馬鹿らしく」思えるに違いない。

 以前にも紹介したが、東京都の美術館、博物館は、毎月第3水曜日が、65歳以上無料(特別展も含めて)となっている。私なんかも、ここんところ、その特典を利用しまくっている。ちょうどお店への出勤日の水曜日ということもあり、都合がいい。たかだか、千数百円のことだが、クセになりすぎて、舛添の二の舞にならぬよう、品性下劣にならぬよう、せいぜい気をつけねば。

 さて、ギネスブックが、(舛添を上回る?)世界一のケチと認定している女性のことを紹介しようと思います。その名は、ヘティ・グリーン(1835年-1916年)。

 「ウォール街の魔女」とも呼ばれた彼女は、30歳にして、親からの莫大な遺産500万ドルを相続し、すでにその時点で、世界屈指の大富豪であった。

 そして彼女を有名にしたのが、常軌を逸した締まり屋ぶり。

 まず、遺産の運用では、独特の相場感、予想で、金融恐慌を予想し、着実に財を成す一方、並外れたケチぶりで、資産を殖やすことに全生涯を捧げます。

 着るものは、20年間同じ黒のドレスだけ。下着は男もので、冬はスカートの下に新聞紙を詰め込んで寒さを凌ぎ、靴は一番丈夫な漁師用の長靴といういでたち。

 食事は、毎食マメ一皿とパン一切れで、わずか5セント。
 息子がそり遊びで怪我した時、医者からわずかばかりの治療代を請求された彼女は、治療が済まないうちに、息子を連れ出してしまった。膿んだ足は壊疽を起こし、息子は結局、片足を切断するハメになった。

 2セントで買った新聞を読み終えると、息子に言いつけて、それを売りに行かせた。5セントの瓶代を節約するため、わざわざ空き瓶を持って、薬屋へ行った。2つの鉄道の株を持っていたが、遠距離でも、高い寝台車は利用せず、普通客車に乗って、一晩中起きていた。彼女の棺が、息子のせめてもの配慮で、始めて寝台車で運ばれたというのは美談?

 彼女の写真です。この黒いロングスカートの下に、100万ドルの現金をつめこんでウォール街を闊歩していたというから、まさに「魔女」。



 いかがでしたか?次回をお楽しみに。


第170回 進化の謎

2016-06-17 | エッセイ

 いろんな試行錯誤もあったはずで、合理的な方向にだけ順調に進むもの、との決めつけは出来ませんが、生き物が進化する(している)のは、まず確実なる事実でしょう。また、その原動力が、遺伝子の変異だ、というのもほぼ定説といっていいと思います。
 とはいえ、考えれば考えるほど不思議なのが進化の世界。

 例えば、ヒトの「眼」の進化ひとつを取ってみても、水晶体、網膜、視神経などのパーツ、いわばハードが揃うだけでも奇跡的です。それに加えて、そこから入って来た多種多様な情報を処理する脳の機能、いわばソフトが、「同時に」進化しなければ、「眼」は「眼」たりえません。一体、どうやってハードとソフトが一体となって機能する仕組みを獲得したのでしょう。考えるだけで、気が遠くなります。

 そんな進化には、億年と言わないまでも、何百万年という時間が必要、というのが常識でしたが、「私たちは今でも進化しているか?」(マーリーン・ズック 文藝春秋)には、そんな常識を覆す事例がいろいろ紹介されています。こちらの本です。



 例えば、ハワイのコオロギの例。ここのコオロギは、広くポリネシアに生息する種類で、ハワイには、150年くらい前に持ち込まれたという。このオスは、メスの気を引くために鳴き、メスはその鳴き声でオスを選んで交尾します。
 ところが、このコオロギには、寄生バエというとんでもない天敵がいます。このハエは、オスの鳴き声を聞き分けて、居場所を正確に探し当てると、小さな幼虫(ウジ)を産みつけます。このウジは、コオロギを1週間ほどで食いつくし、サナギを経て、成虫のハエとなって、どこかへ飛んで行く、というから恐ろしいです。

 ところが、それに対抗するかのように、「鳴かない」コオロギが出現しました。それは、習性の変化ではなく、たった1個の遺伝子の変異で、鳴くための器官を失ったコオロギの出現です。
 著者の研究では、その変異は、わずか5年でのことだというから、20世代くらいで、人間だと、せいぜい200~300年に相当する期間で、進化が起こったことになります。

 同書から、ヒトでの例も紹介しよう。
 ほ乳類一般は、離乳期に入ると、ミルクを飲めなくなります。ミルクに含まれるラクトース(乳糖)を分解するラクターゼという酵素が、授乳中は働くのですが、離乳期に入ると、その酵素の生産を減らす仕組みが、遺伝子にプログラミングされている、というのです。離乳期に入れば、ミルクを飲む必要はなくなるわけですから、結果として、理に適った仕組みではあります。
 ヒトもほ乳類ですから、本来、同じ仕組みで、離乳期以後は、ラクターゼが減少し、例えば、牛乳などは飲めなかったはずです。現に、牛乳を飲むと必ず下痢をする、という人がいます。

 ところが、ヒトの場合、ラクターゼの働きを減らせる遺伝子に変異が起こって、働きを持続させる、つまりラクトース耐性を持ち、牛乳が飲める遺伝子を持ったヒトが出現したと考えられています。その割合は、地域差はあるが、世界で35%くらいではないかと著者は推測しています。

 で、その変異がいつ頃起こったかと言う事ですが、これも著者の見解では、2200年から2万年前くらいではないか、ということですから、長い人類の歴史にとっては、ほんの一瞬、ということになります。

 なかなか興味深い研究成果ではないでしょうか。「進化」の問題は奥が深いですね。
 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。


第169回 謝らないアメリカ人

2016-06-10 | エッセイ

 すぐに謝るのが日本人。会社とかの不祥事で、担当役員なんかがグダグダと釈明したあとで、全員が、ガバッと立ち上がり、「大変っ、申し訳っ、ございませんでしたっ」と一斉に、深々と頭を下げる。とりあえず謝っておいて、誠意らしきものを示し、世間、株主の矛先をそらしておこうという底意がミエミエのアホらしいセレモニーである。謝ったからといって、非を認めるわけではなく、訴訟とかになれば、それはそれで、話が別。責任など認めず、徹底的に戦う、というのも日本流。

 いっぽうで、生半可なことでは謝らない、というのがアメリカあたりも含めたグローバルスタンダード、というのが世の常識。
 つい先日も、つくづく、そのことを思い知らされる「事件」があった。日本ではあまり報道されていないようなので、まずは、その概要を紹介する。

 アメリカのシンシナティの動物園でのこと。母親と来ていた3歳の男の子が、フェンスを越えて、3メートルほど下のマウンテンゴリラのいるプールに落ちた。入園者が撮影したビデオで見ると、最初、ゴリラは危害を加える様子はなかったが、そのうち、男の子を振り回し始めた。その後の映像は放映されていないが、最終的に、動物園側は、ゴリラを射殺し、子供は、救出された、というのが顛末だ。野生のマウンテンゴリラです。成獣だと200kgにもなるといいます。デカいです。



 絶滅危惧種であるマウンテンゴリラの射殺の適否も議論にはなったようだが、動物愛護協会やら、市民などの非難が集中したのは、当然のことながら、母親に対してである。中には、殺人をほのめかす脅迫などもあって、一家は警察の保護下に置かれるという事態に発展する始末。

 そんな中、当の一家の声明(Family Statement)が報道された。まずは、全文と拙訳をお目にかける。

 "He is home and doing fine."
  "We extend our heartfelt thanks for the quick action
   by the Cincinnati Zoo staff.
  We know that this was a very difficult decision for them,
   and that they are grieving the loss of their gorilla."
(息子は、家で元気にしています。シンシナティ動物園のスタッフによる迅速な措置に心から感謝します。この措置がスタッフにとって、非常に困難な決定であったこと、そして、スタッフが、ゴリラを失ったことを悲しんでいることを、私たちはわかっています。)

 どうですか?木で鼻をくくったような、とはこういう文章のことをいうのでしょうね。謝罪とか、非を認める表現は一切ありません。さすがに、迅速な「措置」への感謝は述べられてますが。

 「子供のことなんかどうでもええわ。、殺されたゴリラのほうがよっぽど可哀想ちゃうんか」
 冒頭の文章を見た関西のオッチャンは、神経を逆なでされて、えらく怒ってた。射殺とか、死とかの刺激的な言葉も巧みに避けられています。弁護士の手が入っているに違いありません。

 なにしろ訴訟大国アメリカのこと。動物愛護協会あたりから、親が訴えられる可能性があります。動物園から訴えられないとも限りません。謝罪するということは、非を認めることであり、非を認めるという以上は、その責任(損害賠償、刑事責任など)を負わなければならない、というのが彼らの理屈であり、それはそれで筋が通ってる。だから、この一家も世間からどう思われようと、今の時点で、ヘタに謝るなどというリスクを犯すつもりはさらさらない、ということなのでしょう。(続報によると、母親に対する刑事訴追は行われないこととなった。動物園側の独自の調査は継続中とのこと。)

 仮に、訴えられれば、親としては万全の注意を払っていた、その上で転落したのだから不可抗力だ、動物園側の安全対策に不備がある・・・などありとあらゆる理由、理屈を持ち出して、抗弁するに違いありません。
 それはそれで、自分の身を守るためのアメリカ流のやり方ですが、いかにもストレスに溢れた、住みにくそうな社会に思えてしかたがない。通り一遍の釈明と、とりあえずの謝罪(世間を騒がせたこと、関係者に迷惑・心配をかけたことへの謝罪だけで、まったく意味がないのが圧倒的に多い。「不適切だが違法ではない」などという言い訳が、これからは、大手を振ってまかり通ることだろう)で事足れりとし、また、それを許容する日本の社会も、それはそれで、ストレス一杯であるのだが・・・・・

 いかがでしたか?次回をお楽しみに。


第168回 大阪弁講座-19

2016-06-03 | エッセイ

 ここ2回ほど、堅い話題が続きましたので、久しぶりの大阪弁講座で肩をほぐしてもらおうと思います。それではさっそく・・・・

<しょーもない>
 大阪人は、安うて、エエもんが好き。食べ物だと、安い、うまい、早い、三拍子が揃わなければならない。
 一方で、「しょーもない」ものを愛するのが大阪人。この言葉も大阪独特の短縮形と言える。「どうしようもない」の「どう」が抜けて、「しよう」「しょー」となる。つまらない、価値がないことを一刀両断に判定する力強さがあって、使用頻度が実に高い言葉のひとつ。ケチのくせに、「しょーもない」ものを、変に自慢したがるのも大阪人の特質で、屈折してる。

「どや、このパンツ、たったの200円や」
「また、そんな「しょーもない」もん買(こ)うて」
「「しょーもない」ことないがな。裏表で穿(は)ける「お気軽パンツ」やで」
「えっ、そら、汚いんとちゃうか?」

<うっとこ>
 「ウチ」(自分)の「ところ」を縮めて「うっとこ」。
 「ウチ」単独だと、もっぱら女性専用の一人称だが、「うっとこ」となると、男女の別なく、自分が所属する共同体や組織を指すことになる。
 まあ、私の家では、とか、私の職場、会社では、といった比較的身近なモノに使うことが多いようだ。

 「あんさんとこみたいな(あなたのところのような)立派な会社と違うて、「うっとこ」なんか、ホンマ小さな会社でっから(ですから)」
 謙遜しつつも、自分の会社の独自性というか、存在感をそれとなく主張するクセ玉みたいな使い方の例になる。

 「うっとこ」を使うってことは、「あんたとこ」を強く意識することでもある。
 「あんたとこは、あんたとこで、勝手にやったらよろしいがな。「うっとこ」は、「うっとこ」でええようにやらせてもらいまっさ」こうなれば、喧嘩ごしですけど・・・・

<地名の短縮>
 首都圏なんかでも、二子玉川(ふたこたまがわ)を短縮して、「ニコタマ」、下北沢を「シモキタ」、秋葉原を「アキバ」などと、地名を略することはあって、若い人が割と好んで使ってる。

 だけど、本場はやっぱり大阪かな、と大阪ナショナリズムが出たりする。もともと、「いらち」(短気)な大阪人は、言葉を短縮化する傾向があることを、以前、紹介しましたけど、地名も例外ではなく、老若男女を問わず、使いまくっている。

 市営地下鉄の駅名で、「天神橋筋六丁目」というのがあるが、フルネームで呼ぶのは、車内放送くらい。みんな「てんろく」と称している。話題作りのための長い駅名ならいろいろありますが、ごく当たり前の駅名で、感じ7文字というのは、珍しいんじゃないでしょうか。駅の表示板です。


 なかでも傑作は、「日本一(にっぽんいち)」ではなかろうか。「日本橋(にっぽんばし)一丁目」の略だから「日本一」。大阪ミナミの電気街で、二丁目、三丁目なんかもあるんだが、「日本二」などは聞いたことがない。景気のいい略称である。
 
 かつて、近鉄のターミナル駅だったことから、大阪的にはメジャーな地名の「上本町(うえほんまち)六丁目」は「うえろく」、谷町の四、六、九丁目は、「たによん」、「たにろく」、「たにきゅう」という具合。天下茶屋(てんがちゃや)というミナミにある由緒ありげな地名も「てんちゃ」。

 いずれもごちゃごちゃした庶民的なエリアで、愛称で呼ばれるほど、生活に密着し、親しまれていることの証しかも。個人的にも懐かしい地名ばっかです。

 いかがでしたか?次回をお楽しみに。