★★★ 芦坊の書きたい放題 ★★★

   
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第402回 笑い納め2020年

2020-12-25 | エッセイ

 世の中的には、いろんなことがあった(と、早く過去形になって欲しい事も多いですが)2020年が暮れようとしています。そんな世相を笑い飛ばそうと、ワタシ的にはすっかり恒例となっている「笑い納め」をお届けします。ネタ元は昨年に引き続き「ご笑納ください」(高田文夫 新潮文庫)です。
 ご紹介できなかった中から、笑えるネタを選んでお届けします。(★と★の間が、本書からの引用です)文末に、2016年以降の「笑い納め」へのリンクを貼っています。

★「待ってました! ちょっぴり!」(林家木久蔵)★
 ご存知林家木久扇の息子さんです。親父さんの血をひいて、天然ぶりを存分に発揮しているようです。彼が真打ち昇進の時、掛けられたのがこれ。普通は「たっぷり!」のはずが「ちょっぴり」というのは、掛けた方にザブトン1枚。トリで上がった時、「しっかり!」という声を掛けられたこともあるというから、まさにホンモノ。

★「お札」(林家木久扇)★
 お父さんも負けていません。ご存知こちらの方。

 お世話になったお医者さんに感謝の気持ちをいくらか包もうと封筒に書いたのが「お札 林家木久蔵」。中身は「お札」ですけど、書くなら「お礼」でしょ。

★「しかし俺っておもしれ~な」(ビートたけし)★
 弟子のアル北郷が「たけし金言集」(徳間書店)なる本を出した時に、殿が書いた推薦の帯。いかにも才気煥発の殿らしい気の利いた宣伝文句で、ちゃっかり自己PRもしています。

★「ペンネーム、けざわひがしの子・・・・」(松本明子)★
 ラジオ番組でリスナーのラジオネームをこう読んだ。毛沢東をこう読むほどの漢字知らずだった(当時は)とのエピソードです。
 日本テレビの「進め!電波少年」では、PLO(パレスチナ解放機構)のアラファト議長に、アポなしで面会、彼女はデュエットを申し込みました。とんでもない企画で、テレビ局が用意した曲は、「てんとう虫」のサンバ」。「アラファトと、私が夢の国~」というわけですが・・・

★「サイン色紙を頼まれると、”ガッツ「右」松”となんの疑いもなく書いていた」(ガッツ石松)★
 昨年もエピソードを紹介したガッツさんですが、まだまだネタがありました。「土木作業員ってしごとあるでしょ。いいなぁ。土曜と木曜しか働かないんでしょ」
 「お休みの日、オフの日はなにをしていますか?」「ん~、オフの日はあまり仕事してないねぇ」

★「この店の田楽は、圓楽よりうまい」(立川談志)★
 おでん屋に入った談志が壁を見ると、圓楽(先代)の色紙が貼ってある。すかさず、店主に色紙をを持ってこさせて書いたのがこの文句。圓楽と談志は盟友だったようで、今でも、この店には2枚の色紙が並べて飾ってあるぞうな。

★「打つと見せかけてヒッティングだ」(長嶋茂雄)★
 いろいろ名言というか迷言の多い人です。
 初めて監督になった日、記者から「やっぱり興奮しますか?」と訊かれ、「ええ、まぁ、毎日が巨人戦ですから」
 「私は若き日、ホームランバッターというバッテラを貼られましたから」(貼るのは「レッテル」)
 息子の一茂も負けてはいません。セーターを着た女性記者を見て「君は南国育ちか。僕は温室育ちだから」

★「え~と、高校時代」(春風亭昇太の弟子)★
 昇太の弟子たちが話している。
 「師匠もお城とか好きだよな。お前はなに時代が好きなの」「おれは戦国時代」「おれは江戸時代」「おい新入り、お前はなに時代が好きなの」への答えがこれ。よっぽど、いい思いをしたんでしょうね。

 今年も1年間ご愛読ありがとうございました。皆様方にはどうか良いお年をお迎えください。 

  過去分へのリンクは、<2016年><2017年><20188年><2019年>です。合わせてご覧いただければ幸いです。

 なお、新年のご挨拶(1月1日アップ予定)に引き続き、通常の記事は、1月8日(金)からアップの予定です。引き続きご愛読ください。


第401回 トリヴィアな知識を楽しむ-2

2020-12-18 | エッセイ

 前回(第389回ー文末にリンクを貼っています)に引き続き、「超辞苑」(B.ハートストン/J.ドーソン 訳:本田成親/吉岡昌起 新曜社)をネタ元に、トリヴィアな話題の第2弾をお届けします。

<不思議な難破>
 1897年、アメリカの作家モーガン・ロバートソンは、短編小説「空虚」を出版しました。
イギリス船籍の豪華客船「タイタン号」が処女航海で、氷山に衝突し、沈没するという筋書きです。その15年後、「タイタニック号」の遭難、沈没事件が起きました。船名、事故の状況など符合する部分が多いことから、今でも、話題になります。

 1664年12月5日、北ウェールズのメナイ海峡で連絡船が沈没しました。81人の乗客のうち、助かったのは、「ヒュー・ウィリアムズ」という男ひとりだけです。
 1785年12月5日、同じ場所で、連絡船が沈没。60人の乗客のうち、助かったのは、またしても「ヒュー・ウィリアムズ」という男ひとりだけ。
 1860年12月5日、第3の沈没事故。助かったのは、またしても「ヒュー・ウィリアムズ」という男ひとりだけ。ただし、乗客は20人でした。
 海難事故に強い名前ってのがありそうです。

<珍発明>
  1781年、英国のジョージ1世は、マシンガン製造業者ジェームズ・パックルの特許申請を認可しました。トルコ人を撃つ時は四角の銃弾が出て、キリスト教徒の敵には、まるい銃弾がでるというもの。キリスト教徒への苦痛を少しでも減らす「配慮」のようですが・・・
 1860年は珍なる発明の当たり年だったようで、腕の短い人用に、円弧状に鍵盤を配置したピアノ、そしてヌーディスト用のポケット付きブーツが特許を取得しています。当時から、ヌーディストっていたんですね。
 1943年には、半透明の底を持つハンドバッグが中身の確認が容易とのことで、そして、1952年には、スパゲッティー用回転式フォークが特許を取っています。誰しも考えることは同じようで・・・・

<奇なる文学>
 1939年、アーネスト・ヴィンセント・ライトは、5万8000語からなる小説「ギャツビー」を出版したが、この小説には、アルファベットの " e "という文字が使われていない。
 1824年に出版されたホランド卿「イヴの伝説」では、母音(a,e.i,o,u)の中で、 " e "しか使われていない。
 これで、おあいこといったところでしょうか。

<辞世の言葉>
 有名人となると、辞世の言葉も(ホントかどうかは別にして)人柄を表すものが残されています。まずは、短く、適切なのが喜ばれる(?)ようです。
 「おやすみ」(バイロン)
 「これが死だとしたら、たいしたことではない」(リットン・ストレイチー)
 「ああ、神よ、死にます」(カトリーヌ・ド・メディチ)
 「ああ、本当に生きることに飽き飽きした」(ウィンストン・チャーチル)
 「白鳥の衣裳を用意して」(アンナ・パブロワ)

 往生際の悪いのも残されています。
 「あっちへ行ってろ。大丈夫だから」(H・G・ウェルズ)
 「死ぬのはたまらなく気の重いことだ。死とはいっさいかかわりを持たないように皆さんにはおすすめしたい」(サマーセット・モーム)
 
 中には、辞世を二つ残して、後世に議論させるオスカー・ワイルドのような例もあります。
 「生きていた時のように死んでいく・・・自らはなんらなすすべもないままに」
 「この壁紙がなくなるか、私のほうがいなくなるかのどちらかだ」

<壮大なる詐欺>
 アーサー・ファーガソンという男は、だますのが容易な旅行者相手に、歴史的記念物を売りつけるのを得意にしていました。こちらの人物です。


 1924年には、ビッグベンを1000ポンドで売りつけ、ネルソン提督の自筆手稿を6000ポンドで買いたいとの話を仲介し、果ては、バッキンガム宮殿を現金で売買する取り引きまで持ち出しています。まっ、だまされるほうも、だまされるほうですが。

 時代はうんとさかのぼって10世紀末。エリック・ザ・レッドと名乗るノルウェー人がいました。彼は、北極圏にある広大な不毛の地を「グリーン・ランド」(緑の大地)と名付け、スカンジナビア人の移住を仕掛けました。積み荷を満載した25隻の船を向かわせるのに成功し、かの島に人間の居住地を作った最初のヨーロッパ人となりました。本書のごとく「詐欺」といえるかは微妙ですね。

 前回(第389回)へのリンクは<こちら>です。もう少しネタがありますので、いずれ第3弾をお届けするつもりです。それでは次回をお楽しみに。


第400回 通過点を越えて

2020-12-11 | エッセイ

 いつもご愛読いただいている皆様に支えられて、区切りの400回を迎えることができました。心から御礼を申し上げます。記念の通過点を越えて、更に魅力のある記事をお届けできるよう決意を新たにしています。

 以前にも書きましたが、神田神保町にあるスタンドバー「しゃれこうべ」の2代目マスターのご好意で、お店のHPの一角をお借りして始めました。お店でご一緒した何人かの常連さんからコメントやら、ご批評などをいただくのが何より有り難く、励みでした。

 ひとりでも多くの人に読んでもらいたい、とは思うものの、自分の方から積極的にPR活動をしたことはありません。アマチュアの書いた雑文を読んでくれなんて、頼まれた方々には余計なプレッシャーで、迷惑な話に決まってますから。

 2016年2月に、現在のサイトに移行し、お店からは引き続きリンクを貼っていただいたのが有り難かったです。で、その移行を機にブログと本格的に向き合ってみようと考えました。

 このサイトでは、ブログのオーナーには、前日のアクセス総数が分かるようになっています。数字が見えるのは励みになり、読者を増やしたいとの意欲も湧いてきました。サイトには、そのための仕掛けもあります。でも、そんな仕掛けを使ったり、つまらないPR活動を行う気はさらさらありませんでした。

 オーソドックスで、地道なやりかたですが、魅力あるブログ作りに徹すると決めました。お店の読者の方々に加えて、ネット検索などで、立ち寄った方々が興味を持ち、リピーターになっていただければ「結果として」アクセスは増えるはず、との思いからでした。
 そう特別なことはできません。記事の推敲に時間をかけ、多彩な話題を心がけ、ユーモアを忘れず、タイトルを工夫し、関連した記事へのリンクをこまめに貼ったり・・・の積み重ねです。

 最初の頃、金曜日から翌週の木曜日までの1週間のアクセス数は、50くらいでした。決して数字を誇るわけではありませんが、5年経って、それが、300から350くらいになっています。本当に有り難い限りで、私なりの努力が少しは報われたかな、という気がしています。

 現在のサイトには、もうひとつ、私の記事の中で、アクセスが多かったもののランキングが定期的に更新される機能もあります。時々チェックするのですが、ダントツで人気があるのが、「大阪弁講座」です。古い記事などへも、毎日のようにアクセスがあります。コアになる記事のひとつとして始めてよかったです。大阪弁ファンって多いんですね。

 そのほかにも、初期の記事で、比較的読まれていたと記憶しているのがあります。(ちょっと営業っぽいですが)いくつかを、リンク付き(赤字部分)でご紹介し、未読の方々にお楽しみいただければ幸いです。

<大阪弁講座22 「ちょねちょね」ほか>(第193回
 ちょっとセクシーな大阪弁を取り上げました。この手の言葉に限らず、とにかく奥が深いので、ネタに困ることがない、というのが助かります。

<執念と緻密さと>(第160回)
 戦後、生き残ったユダヤ人たちが、ナチスのゲシュタポ、SSに対して行った集団的復讐譚です。奇想天外な作戦を実行する「執念と緻密さ」を、社会派っぽく取り上げました。

<蒟蒻(こんにゃく)新聞>(第185回)
 蒟蒻というニッチな商品の業界紙発行に後半生を捧げた人物の評伝です。佐野眞一氏の著書をベースにしていています。最後にその人物の息子さんと、佐野との交流にホロっとしました、

<空耳英語ー英語弁講座13>(第225回)
 堅苦しくならないよう気を配りながら、シリーズ化しています。「岐阜には、割烹着(かっぽうぎ)で来い」が英語として通じるというんですね。はて・・・当記事でご確認ください。

<当たった予言、外れた予言>(第207回)
 一応科学ものですが、私流に、外れた予言の外れっぷりをお楽しみいただく中身にしました。

<ナマケモノという生き方>(第202回)
 完全無抵抗主義で生き延びられるカラダの仕組み。時々取り上げる生き物の世界は、不思議が一杯です。

<関西商法の秘密ー広告宣伝編>(第235回)
 生まれ育った関西の話題だと、オリジナリティが発揮できますので、書いていても楽しいです。商売に限らず、いろんな関西ネタをこれからも拾っていこうと思っています。

 いかがでしたか?記念の回に名を借りて、しっかり営業活動してしまいました。これに懲りずに、引き続きご愛読のほど、よろしくお願いいたします。


第399回 脱走兵の運命ードイツの場合

2020-12-04 | エッセイ

 店頭で、そのタイトルを目にした時、『ん?」とハテナマークが頭に浮かびました。「ヒトラーの脱走兵」(對馬達雄 中公新書)というのがそのタイトルです。

 どの国の軍隊でも、いざ戦争となれば、大なり小なり、脱走兵はつきものです。ましてヒトラーの「軍律厳しき」軍隊となれば、相当の脱走兵が出たであろうと想像されます。でも、一冊の本にまとまるからには、何かがあるんだろうな、と手に取り、読んでみて分かったことがあります。

 極めて多数の脱走兵が出たのは事実ですが、逮捕された脱走兵に対する処断の苛烈さが並外れていた、というのが第一です。そして、戦争を生き延びた数少ない脱走兵の名誉が回復したのは、戦後60年以上も経ってから、というのももう一つの驚きでした。本書に依りながら、お伝えします。

 「前線では人々は死ぬ「かも」しれない。だが逃亡兵は死な「ねば」ならない」というのが、第2次世界大戦当時、ドイツ全軍兵士にいきわたっていた規範です。
 これは、ヒトラーの「わが闘争」に記された言葉で、自身も従軍した第一次世界大戦時における脱走兵(逃亡兵)を裁いた軍法会議が手ぬるかったことへの強い思いが書かせたようです。
 そんなヒトラーの意向を受け、ナチスドイツは軍法に「国防力破壊」という罪まで規定し、前線銃後の別なく、戦争遂行に不利益な言動をとった者、とりわけ脱走兵には、原則死刑という重刑を課しました。

 それでも、脱走兵は出ます。ドイツ国防軍の場合、1939年9月の開戦から1945年5月の終戦までの総数は30万人。捕まった13万人のうち、死刑判決3万5000人(処刑数2万2000~2万4000人)、減刑された者も含めて収容所、刑務所に送られたのは10万人以上で、生き延びたのは、わずか4000人です。
 一方、アメリカ軍の脱走兵は2万1000人、死刑判決162人、処刑は1人だといいますから、数の多さもさることながら、脱走兵に対するドイツの判決の苛酷ぶりが際立ちます。

 状況によっては、市民も巻き込む凄惨な戦闘への恐怖心、臆病心だけでなく、ナチ思想への抵抗、反逆など、脱走兵ひとりひとりには、個別の事情と、決意があったことでしょう。厳しく処断するだけでは、脱走の抑止力にはならなかったというのが、よく分かります。

 さて、生き延びた脱走兵と、彼らを断罪した軍司法関係者の戦後です。軍司法官はこぞって復職し、昇進を重ね、安逸な年金生活に入りました。当然のことながら、軍法会議の判決を擁護しました。

 一方で、脱走兵という前歴の生存者たちはまっとうな職につけず、生活の困窮は遺族にも及びました。反ナチスの信念からであれ、ただの恐怖心からであれ、兵士としての義務を放棄した卑怯者とひとまとめに決めつける市民感情はなかなか払拭されません。加えて、ナチス的なものとはきっぱり訣別し、過去を清算したはずのドイツ政府にとって、東西冷戦下で再軍備を進めるうえで、脱走兵というのは忌まわしい存在という一面がありました。

 そんな流れが変わったのは、1980年代の後半からです。ナチス軍司法が見直され、その実態が明らかにされるようになりました。そんな空気の中で、脱走兵の復権を主導した人物が、自身も反ナチ脱走兵であったルートヴィッヒ・バウマンなる人物で、気骨に溢れた面構えのこちらの方です(同書から)

 1941年2月に18歳で応召。占領下のフランスに配属されますが、すぐに友人と脱走をはかるも失敗。死刑判決。恩赦減刑されたものの対ソ戦に投入されて負傷、捕虜となります。その後、郷里に戻ったものの、軍刑務所を転々とする苛酷な日々が続き、戦後の結婚生活も順調とは言えませんでした。

 そんな彼が生きる意味に目覚め、平和活動に入ったのは65歳の時。多くの人がリタイヤ生活に入る年齢です。さらに、1990年10月、70歳を前にして「ナチス軍司法犠牲者全国協会」を設立し、脱走兵の復権へと本格的に取り組み始めました。とかく過去のことは水に流し勝ちな日本人とはまったく違う行動力、自立心です。

 学者の協力を得る一方で、左右の政治勢力に翻弄されながらの活動が実を結んだのは、1998年8月の「ナチス不当判決破棄法」の公布でした。
 法案審議の公聴会でのバウマンの発言です。
 「復権を求めるのは、兵士個々人の事情ではなく、なぜヒトラーの戦争がそうした事態をもたらしたかが問われているためであり、脱走、兵役拒否、国防力破壊により軍法会議の下した判決全体を不当であったと、連邦議会が「象徴的に宣言」することで、我々はこれまでの阻害された境遇から解放され、「遅ればせながら人間的尊厳」を得られる。」(同書から)

 仕上げは、2009年9年9月の連邦議会での満場一致による名誉回復決議です。戦後64年が経っていました。その後も、バウマンは、犠牲者たちの追悼碑の建立、青少年への自己の体験と平和を語る活動を続け、2018年に96歳でで亡くなっています。ヒトラー軍隊最後の脱走兵として、実に見事な人生です。のうのうと日々を送っている私自身が、少し恥ずかしくなりました。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。