★★★ 芦坊の書きたい放題 ★★★

   
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第470回 綱渡りの文明開化

2022-04-29 | エッセイ
 もし明治維新がなく、江戸時代がそのまま続いていたら、というのは大胆な歴史のイフ(もしも~なら)です。司馬遼太郎の答えが「ドイツへの傾斜」というエッセイにあります(「この国のかたち 3」(文春文庫)所収)。
 「その場合、 十中八九どこかの植民地になっていたろう」(同エッセイから)というのです。幕府末期のドタバタ外交ぶりを思えば、大いに納得できます。フランスが随分幕府に肩入れしてましたから、この国の植民地になっていた可能性もあります。

 そんなイフを考えるにつけ、維新政府の頑張りが際立ちます。鎖国の夢から醒めて、文明開化の旗のもと、当時の先進国に追いつくためには、それらの国々の知恵、力、技術を借りざるを得ません。かといって、彼らの言いなりにことを進め、国としての主権、独立性が奪われてもなりません。

 内政面では、国家の仕組みの確立、財政問題、不平武士の存在など問題山積です。それらに対処しながら、欧化による文明開化の推進、不平等条約解消を柱とする外交などに精力的に取り組まざるを得ません。各国の得意、不得意分野、利害関係などを見極めて、「いいとこ取り」で文明開化を進める・・・まさに綱渡り、といっていいでしょう。その綱渡りぶりを、同エッセイに拠りながら振り返ってみることにします。文明開化といえば、教科書でこんな錦絵を見た覚えがあります。



 江戸時代、唯一通商、交流を許されていた外国が、ご存知オランダです。医学、理化学など最先端の知識が蘭学として入って来て、開明的な日本人に大きな影響を与えていました。
 ですから、医学の分野はすんなりオランダかと思いきや、明治2年に明治政府はオランダを捨ててしまいます。相良(さがら)知安(佐賀藩)と、岩佐純という二人の蘭学者が、狂ったように説いて回ったからです。二人は、現在の東大医学部の設立にあたる中で、オランダ医学書の多くが、ドイツ医学書からの翻訳であることを知り、「ドイツ医学に転換すべきだ」と主張しました。
 当時はプロイセン王国であり、わが国とは縁が薄い国でした。それでも、明治政府は二人の献策を容れ、明治4年、プロイセンから二人の医学教授を呼び寄せました。我が国の近代医学の発展につながる英断だったといえます。

 さて、米国です。ペリー艦隊の示威で、他国に先駆けて日本を開国させたのですから、本来なら積極的に対日外交に乗り出すところです。でも、(我が国にとって、幸か不幸か)南北戦争(1861~65年)で忙しく、とても日本のことまで手が回りませんでした。

 それに代わって一定の立場を確保したのが英国です。幕府を支援するフランスへの対抗ということもあり、倒幕の中心である薩摩藩をひそかに後押しし、見事、賭けに勝ちました。しかし、維新政府は冷静でした。海外植民地経営に格別のノウハウを有する英国を警戒していたのです。取り入れたことといえば、旧制中学校の語学を英語にしたこと(これは現在につながる英断というべきでしょう)と、海軍を英国式にしたことぐらいでした。

 そして、本エッセイのタイトルのごとく、政府は、「ドイツ(当時はプロイセン)への傾斜」をひたすら強めていくのです。
 まず、陸軍がドイツ式になりました、それは、明治4(1871)年に、当時弱小とみられていたプロイセン軍が、フランスを破ったからです。参謀本部制を導入し、卓越した戦略、戦術を編み出し、的確に部隊を運動させたことが勝因と政府は見抜いていました。また、この勝利をきっかけに、プロイセンは連邦を解消し、ドイツ帝国となりました。幕藩体制を打破した維新関係者にとっては、感情移入しやすい状況でもあったようです。

 そして、憲法です。市民革命を経てきた「フランス憲法はあまりに " 過激 " すぎるという印象だった」(同)。で、ドイツを手本としたのは「ひいきというよりも、安堵感だったろう。ヨーロッパにもあんな田舎くさいー市民精神の未成熟なー国があったのか、とおどろき、いわばわが身にひきよせて共感した」(同)との司馬の説明は説得力があります。
 医学、陸軍だけでなく、その後、法学、哲学、そして音楽までもが、ドイツへ傾斜していったのには、こんな歴史的背景があったんですね。

 そんなドイツとの親密な関係の延長上に、先の大戦でナチス・ドイツと手を組む、という不幸な選択があった気がします。そして、日本を開国させたアメリカを敵に回し、悲惨な敗戦を経験しました。歴史の皮肉を感じます。
 戦後は、手のひらを返したように、多くの国民がかつての敵国アメリカの文化に憧れ、染まりました。明治の文明開化では大きな役割は果たせませんでしたが、第二の文明開化は、きっちりアメリカ主導だったのだ、と今になって気がつきました。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。

第469回「聞く」から「わかる」への科学

2022-04-22 | エッセイ
 年齢とともに、耳がやや遠くなって、聴覚について、ちょっと関心があります。「読む力・聴く力」(河合隼雄/立花隆/谷川俊太郎 岩波書店)は、「読む」「聞く」をテーマに3人のエッセイ、講演、シンポジウムなどで構成した本です。
 その中で、立花が、音が意味のある情報として、脳で処理されるしくみを科学的に講演で語っています。とりわけ興味ひかれましたので、私なりの理解でご紹介します。

 「音」というのは、物理的には空気の振動です。振動数、高さ、大きさなどの異なる様々な音が、鼓膜を振動させます。その振動を電気信号に変えて、脳に送らなければ、脳は音を認識できません。その大事な役割を担うのが、内耳にある蝸牛(かぎゅう)というカタツムリみたいな形をした器官にある約1万5000の有毛細胞です。図のうす紫色の部分がその器官です。細胞が、空気の振動を電気信号に変換するなんて、その精妙さにまずは驚きます。



 聴覚に障害がある人の場合、この有毛細胞の機能に問題があるケースが多いといいます。それならというわけで、振動を電気信号に変える人工的な装置が開発されました。有毛細胞に電極をつけ、音波を電気信号に変えて、脳に送れるようになったのです。普通の内耳装置からくる信号と情報的に同じですから、音が「聞こえる」ようになります。
 ただし、1万5000もある有毛細胞に対して、電極は22だけです。足らざる情報を補完する必要があります。また、入ってきた音を、意味のある情報として処理し、人間に理解させなければなりません。それらの役割を担うのが、脳の後ろの方にある聴覚野です。「単に音を聞いて、その信号が脳に来ただけではだめで、ほかの経路を伝わってきたいろいろな情報、あるいはその人の頭の中にある記憶、そういうものが全部あわさって、初めて「わかる」ということが成立します。」(同書から)
 小さい頃から、「音」を聞いて、音源、方向、何の音か(言葉も含めて)などを当たり前のように「わかっていた」多くの人にとっては、もう少し説明が必要ですね。

 立花は、途中から耳が聞こえるようになった子供の例を掲げています。有毛細胞の障害で耳が聞こえない子供に対しては、早期に発見し、先ほどの装置を手術によって埋め込むことが可能になっています。手術後のリハビリ訓練に立花は立ち会いました。いろんな音を、いろんな大きさで聞かせ、装置の調整を行いつつ、「音」というものを理解させる訓練です。初め、子供は一様にびっくりするといいます。いままで無音の世界に住んでいたのが、急にわけのわからない信号が脳に入ってきたのですから。
 しばらくそんな訓練に付き合っていた立花は、子供が「音波信号」を「音」として「わかる」瞬間に立ち会うことになります。
 きっかけは、おもちゃの太鼓です。あるとき、医師がトントンと叩いても、きょとんとしていただけだった子供に、それを渡すと、自分で叩き出しました。「ただ音の信号が入るというのではなく、それが「わかった」という感じになった瞬間がきたわけです。それが表情でわかりました。「そうか、わかった」という顔になったのです。」(同)

 その子供は小さい頃、太鼓をおもちゃにしていたといいます。音は聞こえませんから、叩くだけのおもちゃでした。それが今、聞こえてくる音と、自分が太鼓を叩く行為との関係が、はっきり「わかった」ということなのですね。
 「自分の手の運動と耳に入ってくる信号の強さと、そこがフィードバックする、そういう回路が成立したときに初めて「わかった」ということになるのだろうと思います。」(同)

 小さい頃からいろんな音に囲まれて育ってきたことに感謝しながら、耳と脳の実に巧妙な仕組みにもあらためて驚かされます。私の場合、英語は「音」としてはなんとか聞き取れるレベルですが、すべて「わかった」というわけにはいかず、更なる「訓練」の必要性を痛感する今日この頃です。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。

第468回 イギリスの劇的風景画

2022-04-15 | エッセイ
 イギリスというのは、歴史的遺産とかアート作品の「収集」、「保存」には熱心な国です。ロンドンだけでも、大英博物館、ナショナル・ギャラリー、テート・ギャラリーなど有名な博物館、美術館がいっぱいあります。でも、アートの「創作」分野で、優れた芸術家をあまり輩出してこなかったのが不思議です。高貴な方々は収集とか観賞に熱心でも、多くの人々は日々の生活、仕事に追われていたからかも知れません。

 そんな中、奇跡ともいうべきか、ほぼ同時期に、世界的な風景画家2人が登場しています。コンスタブル(1776ー1837年)と、ターナー(1775ー1851年)です。
 コンスタブルは、当時の農村風景を中心に、そこで働く人たちを配した温かみのある風景画を数多く残しています。国内の展覧会で、私も何点か目にしています。彼の作品のひとつです。



 さて、今回は、もう一人の画家、ターナーに焦点をあてることにします。そういえば、夏目漱石の「坊っちゃん」にターナーの作品が登場していました。悪徳教頭の「赤シャツ」とその提灯持ちの「野だいこ」、それに坊っちゃんが加わって釣りに行き、松を眺める場面です。

「あの松を見給え、幹が真直で、上が傘のように開いてターナーの画にありそうだね」と赤シャツが野だいこに言うと、野だいこは「全くターナーですね。どうもあの曲り具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」と心得顔である。ターナーとは何の事だか知らないが、聞かないでも困らない事だから黙っていた。」(『坊っちゃん』より)
 ここで話題になっているのがこの作品です。



 漱石は、イギリス留学時代に見たのでしょう。知識をひけらかす赤シャツと、見てもないのに調子を合わせる野だいこ、そんな二人を冷ややかに見つめるぼっちゃんーー留学時代の思い出を、彼一流のユーモアでくるんだ一節です。

 とはいえ、日本人に比較的馴染みの作品といえば、「雨、蒸気、速度ーグレート・ウェスタン鉄道」(ナショナル・ギャラリー所蔵)でしょうか。こちらの作品です。



 雨に煙る中、手前に向かって走ってくる蒸気機関車を描いています。近代化の象徴である鉄道をモチーフに、スピードを主題にした初の西洋絵画とも言われます。私も若い頃、ナショナル・ギャラリーで見ました。雨の質感、空気感まで伝える画家の力量がスゴいです。
 と、ここまでを前フリに、本題として取り上げるターナーの作品はこちらです。



「解体のために投錨地に向かう戦艦テメレール号」と題された作品(同ギャラリー所蔵)です。エラソーに紹介してますが、恥ずかしながら、「そして、すべては迷宮へ」(中野京子 文春文庫)を読むまで、この作品を知りませんでした(以下、情報は同書によります)。

 画面の左手奥、落日の中、浮かび上がる白くて大きな帆船は、トラファルガーの戦いで、ナポレオン軍を破るのに大いに貢献した英雄艦「テメレール号」です。残念ながら老朽化が進み、解体されることになりました。それを曳航するのは、手前の黒い船体の蒸気船です。小さいながらも力強く煙を吐く最新鋭船との対比で、残酷なまでの世代交代を描ききっています。
「まるで一人の人間の晩年を見るようで、痛切きわまりない」との当時の新聞評を著者が引用しています。まさにその通りで、心から共感を覚えます。
 イギリス国民にとって、ターナーが誇りであるのはもちろんですが、どうもこちらの作品の方が人気があるようです。裏付けとして、著者は、こんなエピソードを紹介しています。

 2005年にBBCラジオが「イギリスで見ることができる最も偉大な絵画は何か?」というアンケートを実施しました。約21万人の回答者が、第1位に選んだのが、この作品だというのです。
 身贔屓はあるとしても、ベラスケスやルーベンスなど古今東西の大作家の名画を差し置いての第1位ですからね。
 単なる風景画を越えて、人生を重ね合わせることができ、心に響く劇的な風景画ってあるものだ、とあらためて感じました。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。

第467回 「たいたん」と「かなん」 大阪弁講座48

2022-04-08 | エッセイ
 第48弾をお届けします。

<たいたん>
 だいぶ前のことです。たまたまテレビのバラエティ番組を見ていたら、「たいたん」という言葉が飛び交ってました。「たいたん」という大阪弁を面白がって、オモチャにしていたようです。
 我が家でも当たり前に使ってますけど、そういえば、根っからの大阪弁なので、取り上げることにしました。

 「炊(た)いたもの」ー>「たいたん」と、おなじみの短縮形です。それなら「焼いたん」も「揚げたん」もある中で、なぜ「たいたん」だけが「問題」になるのでしょうか。まずは言葉の響きですね。まるで怪獣映画の悪役の名前みたいに聞こえます。その滑稽さがひとつあると思います。

 もうひとつは、調理方法への考え方ですかね。
「炊く」といえば、もっぱら「お米(ご飯)」です。その他のものを熱いお湯とかダシで調理するのは、普通は「煮る」とか「茹(ゆ)でる」と表現します。
 大阪人の場合でも、「○○を炊く」という動詞で表現するのは、「お米」と「風呂」くらいです。「大根を炊く」などとは言いません。

 ただし、「炊く」も「煮る」も「茹でる」も、素材が何であれ、概念(アタマの中)では「炊く」に一本化しているようなのです。なので、出来上がった一品に対しては、素材を問わず、「たいたん」に一本化します。「どっちも火ぃ通して出来たもんやろ。そない(そんなに)ごちゃごちゃ言い分けんでもええやん」という理屈でしょうか。いかにも横着な(面倒を嫌う)大阪人好みの用法です。
 「大根とタコの「たいたん」あるけど、食べる?」とか「夕食のおかずは、菜っ葉と薄揚げの「たいたん」にしょうかな」のような使い方になります。こんな一品はどうですか?美味しそうでしょ。あまりにも身近すぎて気がつかない大阪弁というのがあるものですね。


 
<かなん>
 といっても、非ネイティブの人には何のことか想像がつかないのではないでしょうか。「適(かな)わない」の省略形です。
 「かなわん」という形と、「かなん」という最短縮形があります。

 で、両者には微妙な使い分けがある気がするのです。 
 「かなわん」の方は、技量、能力などで相手の方が勝(まさ)ってるのを(いやいやながら)認めるニュアンスで使われます。共通語に近いです。
 ただし、あっさり負けを認めるのを良しとしないのも大阪人。なので、「あいつの要領の良さときたら、とてもやないけど「かなわん」わ」のように、イヤミや負け惜しみを込めるのを忘れません。

 さて、「かなん」となると、2つほどの意味、用法が思い浮かびます。
 まずは、相手の傍若無人ぶりであったり、非常識ぶりに、まともに太刀打ちできず、迷惑を蒙っている・・・そんなメッセージを伝えるのに最適の用法です。
 「あいつな、他人(ひと)から聞いたことを、考えもなしにパーパー、パーパーしゃべるやろ。そやから、そいつの前では大事な話が出来んわけや。ほんま「かなん」でぇ」
 だいぶボヤキも入ってますな。
 
 もうひとつは、心苦しい、気ぃを遣う、申し訳ない・・・そんな気持ちを込めて使うケースです。相手の好意が過大で、こちらが負けそう、という気持ちから派生した言い方でしょうか。
「ほんの気持ちばかりの品をお届けしただけやのに、こんな立派なお返しをしてもろて「かなん」なぁ。今回限りにしといてや(してくださいよ)」
 いろんなニュアンス、用法があって、「かなん」「かなわん」大阪弁です。
 
 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。

第466回 暗号の話ー日本とドイツ

2022-04-01 | エッセイ
 <旧サイトから>の第9弾になります。先の大戦で、日本が使っていた暗号が皮肉な結果をもたらしたエピソードがメインです。その前書きで触れていたドイツの暗号システムも興味深いものですので、少し書き加えました。最後までお付き合いください。

★ ★以下、本文です★ ★

 時々お店でご一緒するSGさんが、ネット上のエッセイで、ドイツの「エニグマ」暗号のことを取り上げておられました。「絶対解読不可能」とナチス・ドイツが豪語した暗号で、私も関心がある分野でしたので、大いに話が盛り上がりました。まずは、そのエピソードです。

 戦争終盤、イギリスは、科学者、数学者などを動員して、この暗号の解読に全力で取り組みます。1台の暗号機が入手でき、作業が本格化しました。タイプライター機能を持ったこのような装置です。



 とはいえ、人手で文字の組み合わせを試行錯誤して解読するには限界があります。それを機械にやらせるため、世界最初のコンピュータ「コロッサス」を開発し、現代に通じるコンピュータ理論を確立したのがイギリスの天才数学者アラン・チューリングです。見事に解読に成功し、その事実は、同盟国にも厳秘としたものの、戦況の好転に大きく貢献しました。戦後の一時期、イギリスは植民地の出先機関との連絡用に使っていたといいますから、ちゃっかりしています。
 なお、「暗号解読」(サイモン・シン 新潮文庫(上・下))という本があります。暗号の歴史からエニグマの解読まで、詳しく、分かりすく書かれています。興味のある方にはオススメです。

 さて、本題である日本の暗号を巡るエピソードです。ネタ元は、「二十世紀と格闘した先人たち」(寺島実郎 新潮文庫)で、主人公は、先の大戦中、駐独大使を務めた「大島浩」です。

 彼は陸軍の軍人です。父親が、ドイツに留学し、プロシア陸軍に学んだ影響で、幼少時から、ドイツの歴史、風土、文化に親しみ、ドイツ語の能力も、抜きん出ていました。生まれた時から、バリバリの親独派というわけです。
 1934年に駐在武官として、ベルリンに赴任、一旦帰国し、日独伊三国同盟締結のための政界工作に奔走するなど、政治力も持ち合わせていました。そして、1940年12月に、駐独大使として赴任し、「終戦」まで、日独関係の中心人物であり続けました。
 筋金入りのドイツ信奉者にして、ナチスの共感者でもあり、ヒットラーを含めた幹部と親交を深めていました。特に、親交を深めていたのが、ナチスの外交部長とも言われたリッペントロップです。ヒットラーの側近中の側近と言われた人物ですから、彼を通じて、大島は、ヒットラーの心の内、戦争計画を存分に知ることができました。

 そのコネクションで得た情報を、生真面目な大島は、せっせと日本の外務省に打電します。その時使った暗号は、外務省が1938年から導入していた最新の暗号で、米軍が「パープル暗号」と呼ぶことになるものでした。(米軍では、日本の暗号の解読が進んでおり、日本が開発した順に色の名前を付けていました。この暗号が、日本で、俗に「紫暗号」と呼ばれるのは、「パープル」というコードネームに由来します)
 この暗号の解読には、米軍もだいぶ手こずったようですが、実は、40年の秋に、暗号機の複製に成功していたのです。

 赴任の3ヶ月前に、暗号が解読されていたのが不運といえば不運。そんなこととは露しらぬ大島がせっせと送った電報で、ドイツ側の情報が、筒抜けになっていたわけです。前書きでご紹介の通り「エニグマ暗号」の解読には、連合国側もほとほと手を焼いていましたから、どれほど有難かったことでしょう。
 米国は、大島が打電した電報を「マジック電報」と名付け、特別に管理します。その数は、米国側の記録で、41年に75通、42年に100通、43年が400通、44年が600通、45年の5ヶ月で300通とされています。
 ヒットラーのソ連侵攻、フランスに展開したドイツ軍の装備に関する情報などヨーロッパ戦線に関する情報が、とりわけ重視され、連合国側の戦況判断、作戦展開に極めて有利に働くことになりました。

 日本の勝利を信じ、日本のため、ひたすらドイツ側の情報収集に奔走した大島。しかし、暗号が解読されていたため、とんだ「ピエロ」役を演じる結果になったのは、歴史の皮肉としか言いようがありません。大島は、東京裁判の被告として、1948年に終身禁錮の判決を受け、55年に保釈、75年に89歳で亡くなっています。どんな思いで、日本の戦後を見つめていたのでしょうか。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。