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第385回 米軍が作った「反戦」映画

2020-08-28 | エッセイ

 制作を依頼した米軍の意図に反して「反戦」映画とされている映画があります。

 「光りあれ」(Let There Be Light)というのがタイトルで、第2次世界大戦直後の1946年に作られたジョン・ヒューストン監督のドキュメンタリーです。

 この映画のことは、「最も危険なアメリカ映画」(町山智浩 集英社文庫)という本で知りました。自由と平等を謳う一方で、時に差別的で凶暴な素顔を見せるアメリカという国。そんな裏事情をアメリカ映画通の著者が描いた「危険な映画評論」(同書の裏面紹介文から)です。

 さて、どんな映画か・・・・(ほぼ全面的に)同書に依りながら、ご紹介します。

 現在では、PTSD(心的外傷後ストレス障害)として知られている戦争による精神の後遺症の実態を記録しています。完成した作品を観た軍の上層部は、(当然のことながら)上映を禁止しました。1981年にカンヌ映画祭で上映されるまで、35年間も封印されてきたイワク付きの作品です。冒頭、戦争が終わって、兵士たちが帰郷を待ちわびていたことが伝えられた後、こんなナレーションが流れます。
 
 <しかし、兵士によっては夢見たものとは違う帰郷になった。ある者は、松葉杖や包帯、添え木など、痛みのしるしを身に着けていた。また、ある者は外からは見えないがたしかに傷ついていた。>

 また、「負傷兵の2割が精神に問題を抱えた」、「このフィルムは俳優による再現などではなく、すべて本物の兵士を記録している」と字幕で宣言されます。

 ホントに米軍が企画した映画なの?とご心配かもしれませんが、ご安心ください。ちゃんとオチがありますので。

 映画は本編に入ります。ロングアイランドの陸軍病院に、心を病んでいる75名の兵士が集められます。これからの治療はフィルムに記録される、との説明を受け、いよいよ面接の始まりです。衝立てだけで仕切られた狭いスペースがずらっと並ぶ中で、兵士とカウンセラーが一対一で向き合い、そのやりとりが記録されていきます。

 「何があったのかね」面接官に尋ねられて「私は殺されました」と答える兵士。
 「殺された?」「塹壕に入っていたら、敵の爆撃機から爆弾が」そう言いながら、怯えたように宙を見上げる兵士。「ここはアメリカだ。戻って来たんだよ」と言われて、返ってきたのは「はい、自分は帰って来たんだと言われました」との言葉。彼には自分がどこにいるのか、また、生きているのか死んでいるのかも曖昧なのでしょう。魂をどこかに置き忘れて来たかのような彼の表情が目に焼き付きます。
 

 「いきなり強烈な症例」(同書から)から始まりましたが。そんな兵士に、薬物を投与し、催眠療法を試みる精神科医がいます。
 「君は今、沖縄にいる。何を観た?」「伏せろ!と言われました。ジャップが・・・・・・」
 沖縄での激戦では、米軍にも多くの「発狂者」が出たと伝えられます。それもむべなるかなと思わせる場面です。

 催眠治療を受けるもう一人の兵士は、吃音(きつおん)に苦しんでいます。Sで始まる単語を言おうとすると、言葉が詰まってしまいます。なぜかと言えば、Sの音は、ドイツ軍の88ミリ高射砲の砲弾が降ってくる時の音だったからといいます。SSSSSSSSSSSS!

 全編約58分の映画で、44分あたりまでが、このような治療の記録です。ここまで観ただけだと、軍上層部ならずとも「反戦」映画だと思っても不思議はないのですが、にわかに明るい音楽が流れ、場面が変わります。

 談話室のようなところで卓球やカードゲームに興じる兵士たちの姿が映し出されます。隅の方の長椅子に虚ろな目をして横たわる兵士の姿もしっかり映り込んではいるのですが、治療の甲斐あって、(ほぼ)みんな元気を取り戻したということなのでしょう。

 起業を目指す兵士のためのセミナーの様子、そして最後は、野球の場面です。打ったり、走ったり、すっかり回復したところも「記録」されています。

 とまあ、ここまで来て、心に病を抱えた兵士の治療に、軍は、こんなに真剣に取り組み、成果を挙げてますよ、ということをPRしたかったのだという制作意図が、やっと分かる仕掛けです。取って付けたようなハッピー・エンディングとはこういうのを言うんでしょうか。

 ベトナム戦争に懲りず、イラク、アフガン、シリアなどほぼ常にどこかの国と『戦ってきた」アメリカ。どれだけのPTSD患者を生み出してきたのか想像もつきませんが、この映画が、「反戦」映画として「利用」されるだけの理由は充分過ぎるほどあるな、と感じたことでした。
 なお、この映画をユーチューブ(英語版)で見ることができます。<こちらです> 興味をお持ちの方はご覧ください。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。


第384回 人名いろいろ−4

2020-08-21 | エッセイ

 シリーズの第4弾になります。別に人名マニアというわけではないんですが、おなじみの「歴史のなかの邂逅」シリーズ(司馬遼太郎 全8巻)からネタが拾えました(第8巻 「日本人の名前」の章)。維新前後の歴史上の人物の名前を中心にお届けします(過去3回分のリンクを文末に貼っていますので、合わせてご覧いあただければ幸いです)。

 ご存知の通り、徳川時代は、百姓町人階級は、苗字(姓)を許されませんでした。弥助とか権兵衛とかで通用していたわけです。でも、藩によっては、莫大な献金をした者には、苗字の公称を
許す仕組みがありました。財政立て直しと苗字へのあこがれを両立させた販売システムというわけです。

 同じ階級でも、絵師とか役者で名をなすと、私称が黙認されたようで、喜多川歌麿、中村歌右衛門などがその例で、井原西鶴の井原もお上のお目こぼしだというのを、同書で知りました。そんなユルイところもあったのですね。

 維新前、人の名前にナノリというものがありました。
「広辞苑(第一版)のその項をひくと、名告・名乗とあって、公家及び武士の男子が元服後に通称以外に加えた実名。通称藤吉郎に対して秀吉と名乗る類」とある。」(同書から)

 ですから、維新前後に活躍した人物の名前は、元服前の通称とナノリが混在しています。「坂本直柔(なおなり)」といっても誰のことか分かりませんが、「龍馬」のナノリです。司馬の作品「竜馬がゆく」も「直柔がゆく」では、やはり迫力に欠けますね。

 大久保利通はナノリです。でも小さい頃は、「一蔵」というのが通称で、仲間からは、一蔵一蔵と呼ばれていました。維新後「利通」という威厳のあるナノリを戸籍名としたのが、いかにも彼らしいです。

 大久保と対立し、佐賀の乱の首謀者として死刑となった江藤新平には「胤雄(たねお)」という立派なナノリがありましたが、通称の「新平(しんぺい)」を戸籍名としています。
 まわりの者に「中間(ちゅうげん)の名前のようで位階のついた大官にふさわしくないではないか」と言われた江藤が「それじゃ新平(にいひら)とでも読んでくれ」と吐き捨てるように言った、とのエピソードが同書に載っています。反骨精神にあふれたいかにも江藤らしい話です。

 維新といえば、「西郷隆盛」を外せません。同書を要約する形で、彼の名前をめぐる話題を紹介しましょう。教科書でもおなじみ、この方。

 彼の通称は、はじめ吉兵衛で、のち吉之助とあらため、幕末は、西郷吉之助でとおっていました。さて、維新後、名前を届け出なくてはならなかった時、彼はたまたま東京にいませんでした。
 幕末、常に西郷の身辺にいて秘書のような役目をしていた吉井友実(ともざね)が代理で届け出ることになったのですが、
「ハテ、西郷のナノリはどうじゃったか」

 西郷家は代々「隆」の一文字をナノリとして世襲する習わしでした。「たしか「隆」の字がつく」と言った人があったらしいのです。吉井はあっと思い出し、「隆盛じゃった」とそれで届け出ます。
 実はそれは、西郷の父親のナノリで、吉井から事情を聞いた西郷は、「おいは、隆永(たかなが)じゃど」とこぼしたといいます。「隆盛」「隆盛」と刷り込まれていますから、いまさら、西郷隆永が正式名だったといわれても、なんだかしっくりきませんねぇ。

 西郷の弟「従道」(のちに海軍大将などを歴任)にも名前をめぐるトラブル(?)話があります。

 彼も姓名を届け出なければなりませんが、彼の場合は、係の役人がやってきて、届けを出してくれることになりました。「おナノリはどう申されるのでございましょう」とでも訊かれたのでしょう。「ジュウドウじゃ」との答えを聞いた役人が「従道」と登録してしまったというのです。
 ほんとうは「隆」の一文字をとった「隆道(たかみち)」を音読みで「リュウドウ」と本人は言ったのが、薩摩なまりで「ジュウドウ」と聞こえた、というんですが・・・・

 お互いに書く手間を惜しんでこんなことになるなんて、薩摩人ておおらかな人が多いんでしょうか?

 最後に、同書からのネタでクイズです。

 本名「ヨセフ・ヴィサリオノヴィッチ・デュガシュヴィリ」と「ウラジミール・イリイッチ・ウリヤーノフ」とは誰と誰のことでしょうか。

 答えは、前者がスターリン、後者がレーニンです。歴史に名を残す人は、ニックネームといえども、気が利いて、覚えやすく、インパクトのあるのを付けるものですね。

 過去3回分へのリンク(第165回258回295回)です。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。


第383回 フランス暮らしの傾向と対策

2020-08-14 | エッセイ

 以前、「英国暮らしの傾向と対策」と題して、2回に亘り、英国人気質の一端をご紹介しました(文末にリンクを貼っています)。今回は、その英国の宿敵というか、とにかく仲が悪いフランスを取り上げようと思います。

 とても私なんかの手に負えませんので、ガイド役を「フランス人 この奇妙な人たち」(CCCメディアハウス)の著者のポリー・プラットさんにお願いしました。アメリカ出身で、豊富な対仏経験を活かし、異文化セミナーを主宰するなど活躍された女性です(2008年没)。多岐にわたる中から、身近な話題に絞って、「奇妙な人たち」の「奇妙ぶり」をお伝えします。

<仏頂面が基本>
 いきなりですが、フランス人が普段見せる顔の表情について、著者の主張を私なりに要約するとこうなります。とにかくフレンドリーで、いつもニコニコ、知らない人にでも気軽に「ハーイ」などと声をかけるアメリカ人から見ると、フランス人は、ことごとく無表情で、いつも不機嫌そうに映るようです。

 でも、別に意地が悪いわけじゃなく、「理由がなければ微笑まない」という彼らなりの基本原則に従っているだけ、というのが、著者の分析です。
 「前の車が急停車したので自転車に乗っていた私が急ブレーキをかけると、その車に乗っていた女の子が「うちのお母さんは運転が苦手なの」とでも言うかのように私にニコッとした」(同書から)という彼女の体験を読んで、子供の照れ笑いはあるんだ、と少しほっとしました。

 ちなみに、フランス語には、「フレンドリー」:に当る言葉がない、というのです。しいて探せば「amical(アミカル)」というのが近いようですが、これは「敵対的でない」という程度の意味だそうで、なかなか根が深そう。
 こちらがフレンドリーに微笑みかけても、相手のフランス人は仏頂面で、笑顔の持って行きどころがない、というバツの悪さには、アメリカ人に限らず、ヨーロッパの人たちも手を焼いていると書いてあります。なにかにつけて微笑みを絶やさない日本人にとっても、これはかなり手強(てごわ)い相手のようです。

<「身内」と「よそ者」をきっちり区別ー買い物編>
 個人の名誉を何より重んじるのがフランス人です。そして、商品を売ることや客の非常識な(あくまでフランス人にとってですが)要求に応えること自体は名誉にはなりません。「買えるものなら買ってみろ」といわんばかりに店先で客をにらんでいる店主までいるというんですから。

 そんなお店の人とうまく付き合うために知っておくべきことは、「フランス人はどんな些細な用件でも顔見知りの人を通すことを好む」(同書から)ということです。ですから、店の側は「身内(家族、親しい人、なじみ客など)」と「よそ者」を区別します。

 初めてのパン屋でライ麦パンを買ったアメリカ人のエピソードです。こんなパンですね。

 彼が、パンを入れる袋を頼んだのですが、ティッシュペーパーにくるんで渡されただけで、いくらお願いしてもまくしたてられる一方でラチがあきません。仕方なく店を出たところで人とぶつかり、パンを落としたところになんと犬の糞。「よそ者」扱いされると、袋ひとつ貰えず、こんな悲劇というか、喜劇が待っているという好例です。

 大規模スーパーなどの場合でも「身内」と「よそ者」を区別する原則は変わりません。
 別のアメリカ人が、スーパーで、ヨーグルトをひとつだけ買って、大きな札で支払おうとしたところ、受け取りを拒否されたというのです。(これもフランスでは普通だそうですが)レジを覗いて釣り銭が十分あるにもかかわらずそんな態度をとられた彼は、商品をレジに置いて、憤然と店を出たといいます。
 「知っているレジ係の列に並ばなかったのが誤り」(同書から)だとの指摘です。大きな店でも、そこまでしないといけないのかと思うと、いやはや大変なことであるな、と感じます。

<困っている人には親切>
 話のバランス上、フランス人の「いい一面」も紹介しておかなければいけないでしょう。

 「パリの路上で落とし物をすると、誰かがわざわざ走って届けにきてくれることが多い。信じないなら、試しになにか落としてみるといい」(同書から)とまで書いてあります。留学でボルドーに着いた時、「チェロとスーツケースを持っていたら、みんなが助けてくれた」(同書から)という日本人音楽家の体験など、いろんな「親切話」が語られ、そして、著者自身の体験です。

 滞納していた電話料金の小切手を入れた電話会社宛の封筒を、投函する途中で失くしてしまいました。とても見つからないだろうと諦めていたら、なんと翌日、自宅の扉にテープで止めてあったというのです。大事そうな中味だからというので、わざわざ差出人である彼女の家まで届けてくれた親切な人がいたんですね。

 なんだか無理矢理ハッピー・エンディングに持っていったみたいですが、行動の原理原則、ルールの違いといっても、人間性の根幹部分は変わらず、それなりの努力で乗り越えられるものかも知れません。
 買い物にしても、どこまでお店の人の心を開かせて、「身内」になることができるか、私も”若い頃だったら”ゲーム感覚で挑んでいたかも。そんなことを考えました。

 「英国暮らしの傾向と対策」へのリンクは、こちら<第317回>こちら<第364回>です。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。
 


第382回 大阪弁講座41 「しこたま」ほか

2020-08-07 | エッセイ

 第41弾をお届けします。

<しこたま>

 程度が甚だしいとか、思いっきり○○する、という時に使える副詞です。広辞苑には、東海道中膝栗毛の「「しこたま」ちそう(馳走)になって」という用例が引用されています。古くからある言葉のようですが、今はコテコテの大阪弁になってる気がします。
 大阪人に、「しこたま」に最もふさわしい動詞を訊くと、十中八九、「飲む」という答えが返ってくるはず。
 「昨日は、「しこたま」飲んで、気がついたら、2時、3時や。あんのじょう(予想通り)、二日酔いでどんならん(どうにもならない)。せやから(だから)、ややこしい話はせんといてくれるかな」こんな風にならないようにしてください。

 これだけ「(酒を)飲む」という行為と親和性がある言葉も珍しいんじゃないでしょうか。 ほかに思いつくのは、「叱られる」くらいですかね。
 「3日続けて会社に遅刻や。上司から「しこたま」叱られてもたわ。もうアカン」

 いずれにしろ、あまり好ましくない状況にピッタリはまる表現ですので、「しこたま」使うことのないよう、せいぜいご自愛、ご注意ください。

<辛気(しんき)くさい>

 これまた大阪的な「辛気くさい」を取り上げようと思ったのはいいんですが、果たしてどんな意味だったかがパッと頭に浮かびません。
 使ってた場面を思い出すと、結構バリエーションがあるのに気がつきました。

 まずは、「辛気くさい」顔。どんな顔かというとですね、暗い、思い詰めたような、深刻な顔、といったところでしょうか。一時的な悩みとか困った事情とかあるんでしょうけど、言うほうに、あまり同情心は感じられません。
 「どないしたん?「辛気くさい」顔してからに。こっちまで、気分が落ち込むわ」

 「辛気くさい」議論、なんてのもありました。堂々巡りだったり、細部にこだわってたり、退屈な議論だったりのことで、こちらもネガティブなイメージ。
 「こんな「辛気くさい」議論やってても埒(らち)あかんわ。適当に切り上げて、飲みに行こやないか」便利ですねぇ。

 人のキャラを表すのにも使えます。う~ん、そうですねぇ、神経質で粘着質というのでしょうか。悪い意味で、モノにこだわるとか、根に持つタイプーーそんな感じです。陽気で、開けっぴろげなのが大阪人というイメージもあるようですが、中にはこんな人もいます。
 「辛気くさいやっちゃな。そんなこといちいち気にせんと、適当にやっとけや」

 「辛気くさい」仕事というのもありました。
 手数も時間もかかる、細かい作業という意味で、そうネガティブなニュアンスはありません。
 「ちょっと細かいデータを整理してほしいねん。「辛気くさい」仕事で悪いけど、やってくれるかな?」
 いかにも大阪的で、幅広く使える言葉でしょ。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。