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第430回 半藤さんの伝言-2

2021-07-16 | エッセイ

 前回(第406回ー文末にリンクを貼っています)の続編になります。
 2000年という節目の年に、過去100年を振り返り、次の100年への伝言にしたいとの想いを込めた作家・半藤一利氏(故人)の「21世紀への伝言」(文藝春秋刊)から興味深いコラムをピックアップしました。
 ひらすら戦争へと向かう昭和の時代、暗い話題も多いのですが、明るい話題を中心に選んだつもりです。どうぞお楽しみください。( )内は私なりのコメントです。

<電話を文明と思いこんでいる>
 正式には19世紀の最後の年ですが、著者は区切りのいい1900(明治33)年のエピソードから始めています。この年の1月16日、日本で長距離電話が開始されました。東京と堺、東京と京都、京都と横浜を結ぶたった3本だけから始まって、今やネットの時代。電話を巡る東西の文学者の当時の言葉が残されています。
「現代文明を賛美するのは大体において、蒸気機関や電話を文明と思いこんでいる連中である」(バーナード・ショー)
「今の世にとりわけ好かぬものは壮士芝居と電話と瓶詰めの酒」(斎藤緑雨)
(今だから笑えますが、将来を見通すのは難しいものですね。)

<市内電車は人体の神経のごときもの>
 東京に市電(のちに都電)が誕生したのは、1911(明治11)年8月1日。時の東京市長尾崎行雄(咢堂)は「市内電車は人体の神経のごときもの」と職員に訓示しました。1日平均の乗客58万人、運賃は片道4銭との記録があります。
(交通手段も多様化していますが、鉄道の将来性、重要性を見抜いた卓見です。)

<煙の都に住む大阪市民諸君よ!>
 1909(明治9)年7月に、大阪キタ一帯をなめつくす大火が起きました。「美しき水の都は昔の夢と消えて、空暗き煙の都に住む不幸なる大阪市民諸君よ!」との箕面有馬電軌(現阪急電鉄)が開通前年にPRした呼びかけが大阪市民の心にしみました。
 奮起した市民の頑張りもあり、3年後の2012(明治12)年に、内国勧業博覧会の跡地を利用して、天王寺に「新世界」という一大歓楽街が完成しました。その中心が、エッフェル塔を模した高さ76メートルの「通天閣」。
(高さではスカイツリーに負けますが、今でも大阪人の誇り、心のふるさとです。こちらは現在の通天閣です。)

<お客さんの下足入店OK」
 1923(大正12)年5月15日、白木屋(現・東急)神戸出張店がお客さんの「下足入店をOK」しました。それまではどこの百貨店もほこりを嫌って、店内に薄べりを敷き、客の履物を下足係が預かるしくみでしたから、画期的な試みです。
 それまで高級品を買いにいくところとのイメージが変わって、この試みは大成功、各百貨店も続々と導入しました。
(開明的な街、神戸から始まったというのが象徴的です。)

<これは大きな日傘だ>
 阪神タイガースファンの聖地甲子園球場ができたのが、1924(大正13)年8月1日。甲子(きのえね)に当たることから命名されたのは広く知られているところです。
 できあがった球場を訪れた漫画家の岡本一平がしばし内野側観客席の屋根を見上げていたが、「ウム、これは大きな日傘だ。まさに大鉄傘だ」と叫んだ。
(ファンにはお馴染みの「大鉄傘」にはこんないわれがあったのですね。)

<そんなん万才やない>
 エンタツ・アチャコのコンビが初めて舞台に立ったのが、1930(昭和5)年5月。今では当たり前の背広姿で舞台に立ち、入学、就職、結婚、出世など下世話なテーマでのしゃべくりを繰り広げました。でも、古くからの漫才に親しんできた観客からは不評でした。
「そんなん漫才やない。漫才いうのは歌をうとうたり、鼓もったり、踊ったりするのが漫才や」
「そら、あかんねん、これも漫才や」
「そやったらもう下(お)りい」
 客席とそんなやりとりもしながら、二人はがんばり抜きました。
(パイオニアの苦労が偲ばれます)

 前回(第406回)へのリンクは<こちら>です。もう少しネタがありますので、いずれ、続々編をお届けする予定です。それでは次回をお楽しみに。


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