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第398回 映画で英語 英語弁講座30

2020-11-27 | エッセイ

 映画は気の利いたセリフ、シャレたセリフなどの宝庫です。英語弁講座ですので、横文字は(多少)出てきますが、いかにもの映画的なセリフの話題に(英語抜きでも構いませんので)気軽にお付き合いください。

 さて、以前、「西森マリーのバイリンガル映画道場」(ジャパンタイムズ刊)をネタ元に、セクシーなセリフを中心にお届けしました(第306回 セクシー英語のお勉強(文末にリンクを貼っています))。
 今回は、続編として、同書の真面目なセリフ、オトナのセリフ、愉快なセリフなどにも目を向けましたので、引き続きお楽しみください。
 なお、( )内は、日本語字幕です。

<「裸の銃(ガン)を持つ男 2」から>
 こんなポスターが残っています。

 主人公ドレビン警部のセリフです。
 I love being single.I haven't had this much sex since I was a Boy Scout leader.
I mean,at the time I was dating a lot.
 (独身が好きだ セックスは満ち足りてるよ つまり よくデートしてた頃だが)

 この字幕じゃ何のことか分かりませんよね。「こんなにセックスしてるのって、ボーイスカウトのリーダーだった時以来だよ」と言って、これだけじゃ、ゲイだと思われる(アメリカでは、ボーイスカウトの隊員にはゲイが多い、と思われています)ので、最後のセリフであわてて釈明してるんですね。「つまり、(女の子と)いっぱいデートしてた頃のことだけど」

<「愛と哀しみの果て」から>
 夫の乱行に悩むカレンの前に現れた冒険家のデニスが、彼女に思いを打ち明ける場面です。
 Karen,I'm with you because I choose to be with you.
I don't want to live someone else's idea of how to live.
(君が好きでこうなった 他人にならって人生を生きるのはご免だ)

 最初のセリフで、"choose"というのを使ってます。「僕が君と一緒にいるのは、そうすることを「選んだ」からだ」というわけで、すべてを自分の意志で決める、というデニスの生き方を表わしてます。

<「危険な情事」から>
 2つご紹介します。まずは、こちらから。
 Alex:And you are here with a strange girl,naughty boy.
Dan:I don't think having dinner with anybody is a crime.
Alex:Not yet.
 (「それで知らない女と浮気を?」「食事するのが浮気かい?」「食事の後は?」)

 弁護士のダンと、浮気相手のアレックスとの会話ですが、字幕は、隔靴掻痒の感があります。
 キチンと訳すと、
 「(奥さんが留守だから)あなたはここで知らない女と一緒にいるなんて、悪いコね」
 「だれかと食事するのは別に犯罪じゃない」
 「今のところはね」
 となります。「犯罪」なんて言葉が出てきて、不吉な結末を暗示する興味深いセリフですね。

 同じ作品から、もうひとつ。
 No.It was one,,,,it was one night.It didn't mean anything.
 (とんでもない 一晩だけの過ちだった)

浮気の告白をしたあと、妻からアレックスを愛しているのか問われたダンのセリフです。
 字幕だとなんだか殊勝なニュアンスですが、実際のところは「一晩だけの関係だ。取るに足りないことさ」と開き直ってるんですね。字幕作りの難しさを感じます。

 いかがでしたか?まだネタがありますので、いずれ続々編をお送りする予定です。冒頭でご紹介した記事(セクシー英語のお勉強)へのリンクは<こちら>です。

 それでは、次回をお楽しみに。


第397回 京の老舗の価値観

2020-11-20 | エッセイ

 京都の人が「さきの戦争」といえば、第二次世界大戦ではなく、「応仁の乱」を指す、というのは割合知られた話です。歴史と伝統に誇りを持っている京都人ならいかにも言いそう、というのがミソの「都市伝説」ではないでしょうか。

 事実、京都には長い伝統を誇る店がいろいろあります。和菓子の総本家駿河屋が店を構えたのは、その応仁の乱が始る6年前の1461年です。そこまでさかのぼらないにしても、呉服のゑり善の起源は16世紀末とされていますし、和菓子の萬年堂、寛永堂、書画用品の鳩居堂(銀座の店が有名)などは江戸開幕以来の老舗です。

 また、テレビの情報番組などで、京の老舗といわれる店がよく紹介されます。なかには、よくまあこんなニッチな商品を、限られたお客さんに売って、成り立っているものだと(余計なことながら)気になる商売もあります。決まった料亭、旅館にだけ納入するための湯葉(ゆば)作り、茶道の家元専用の手作り和菓子、そして、土地柄、神職や僧侶の装束に欠かせない帯、房、法具の販売、修理などのように。

 まったくの部外者ながら、これらの商売、お店を継いでいくことの大変さを思います。お得意さんとの何代にもわたる濃密な付き合いに加えて、業界や地域との付き合いなども欠かせないことでしょう。店の存続が何より大事と考えるオーナーにして、父親であるという存在。一方、継ぐべき立場の子供には今の時代の生き方、価値観があり、両者の間には葛藤もあるようです。

 「京都まみれ」(井上章一 朝日新書)に興味深いエピソードが載っています。

 著者は、京都市内の西に当たる嵯峨の出身です。でも「あそこは京都やない」と、洛中(京の中心部)の人たちからさんざん言われ続けてきました。彼の「関西人の正体」(朝日文庫)、「京都ぎらい」(朝日新書)などには、そんな複雑な想いが綴られています。

 さて、その彼が、京都大学工学部建築学科の学生の時、京に残る町家(まちや)と呼ばれる古い商家を調査していました。半世紀ほども前になります。ネットからの画像です。

 心よく調査に協力してくれる家もありましたが、京都ならではのイケズ(いじわる)口をたたかれたこともあるといいます。こんなやり取りです。
 「君らは京大の子らしいな」ーーええ、そうです。
 「君らは知らんかもしれんけど言うといたるわ。ここいらあたりではな、息子が京大へはいったりしたら、まわりから同情されるんや。気の毒やなあ言うて」(同書から)

 嵯峨というごく普通の土地で、京大に合格した井上は、家族だけでなく、近所のひとからも祝福されたといいます。日本を代表する大学のひとつですから。京大へ入ったりしたら、まわりから同情されると聞いて、怪訝そうな顔をしている彼に、その商家の主が謎解きをしてくれました。

 「京大なんかに入る子はな、京都に居つかへん。卒業したら遠いとこへ行ってしまいよる。店も継がへんやろ。気の毒がられる言うのは、そういうことや。かわいそうに、あの店、もう跡取りがおらんようになったな、ちゅう話や」(同書から)

 家業の継承を最重要としてきた洛中の商業地の人々の価値観、雰囲気を雄弁に物語るエピソードです。著者は、さらに、さきほどの人物の追い打ちをかけるような言葉を引用しています。

「あのな、勉強ができることじたいを悪いというとるんやないで。頭がええっちゅうのは。けっこうなことや。そやけど京大はあかん。あんなとこ、いかんでええ。大学いくんやったら、同志社ぐらいがころあいや。あそこやったら、店の跡取りもぎょうさん(たくさん)おる。気のあう仲間が見つかったら、店をついだあとの付き合いにも都合はええやろ」(同書から)

 いかにも京都人らしいあけすけな言い方です。引用しながら私も気が重くなっています。関西を代表する私学の雄、同志社大学の関係者の皆さんには申し訳ありません。

 著者も入学の難しさで大学を順位付けし、東大、京大・・・という順位ばかりが念頭に浮かんでいた当時の自身を振り返り、いささかの反省を込めてこう総括しています。
「町家の調査で出会った人は、まったく違う価値観をしめしてくれた。受験戦争の難易度に、たいした意味はない。商家の後継者が、よき社交をはぐくめるかどうかで、大学の値打ちは決まるという。それまで私が考えたこともないような大学観をぶつけてきたのである。」(同書から)

 半世紀ほど前の体験、想いに最新の著作でも触れているところをみると、今でも老舗のオーナー方の価値観にそう変化はない、というのが著者の判断のようです。さすが、千年の都。 

 サラリーマン家庭に生まれ、当たり前のようにサラリーマン生活を全うしてきた私。でも、全く異なる価値観の世界もあるものだ、私のほかの道はあったのだろうか・・・いろんな想いがよぎりました。
 以前、京都を話題にした記事へのリンクです。<第58回 京のイケズ(「旧サイト」です)><第250回 京のユニークな街づくり>です。会わせてご覧いただければ嬉しいです。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。


第396回 村上春樹について語るとき

2020-11-13 | エッセイ

 話題が豊富で読みやすいので、ずっと村上春樹のエッセイを愛読しています。以前、話題にしたこともありました( 第284回「村上春樹がくれたアドバイス」(文末にリンクを貼っておきました))。

 今年の4月に、「猫を棄てる」(文藝春秋社)が出版されました。「父親について語るとき」と副題にあるように、彼にしては、珍しいテーマを扱っています。

 タイトルにもなっている冒頭のエピソードが、とりわけ印象的なので、ご紹介しようと思います。が、その前に、「村上春樹について語る」のに、しばしお付き合いください。

 彼が中学入学の直前に、隣の市から我が家のすぐ近くに引っ越してきて、たまたまクラスも一緒になりました。学校からの帰りには、彼の家に上がり込んで、いろんな話をするなど親しくしてもらったのが、ちょっと誇らしい思い出です。大人びた雰囲気と、ユーモアセンスの持ち主で、ほかの級友ともフランクに付き合っていました。

 とにかく本はよく読んでいたのを覚えています。ドストエフスキー、トルストイなどの大作をバリバリ読破するのですから、とても適いません。作文も優秀作として、よく読み上げられてました。

 2年生以降はクラスが別になったこともあり、なんとなく疎遠になり、ずっと接点はありませんでした。久しぶりの接点は、1979年のことです。
 彼が「風の歌を聴け」で「群像新人文学賞」を獲得し、吉行淳之介が激賞している書評を目にしました。懐かしくなって、彼の家に電話をかける、という我ながら思い切った行動をとったのです(当時は、電話帳に彼の自宅の電話番号が載っていました)。

 「中学で一緒だった××(私の本名)だけど、受賞おめでとう。懐かしいねぇ」と明るく話しかける私に「うぅん〜、ありがとう」とあまり気のない、無愛想な返事が返ってきました。
 「僕は、サラリーマン生活を送ってんだけど、村上君はどうしてるの?」
 「千駄ヶ谷で、ピーターキャットというジャズ喫茶をやってる」
 「それじゃあ、近いうちに顔を出すよ」と約束して電話を切ったものの、期待したほど話が弾まなかったのが、意外でした。突然の電話に戸惑ったのか、彼自身がこれからのことで鬱屈した想いをかかえていたのか、今となってはわかりませんが・・・・

 それでも彼の店に顔を出しました。レコードを掛け、料理、飲み物を作るなど忙しく立ち働いているので、声をかけ辛く、二言、三言、言葉を交わしたのが最後の接点になりました。

 さて、本書の冒頭で語られるのは、こんなエピソードです。

 彼が小学校の低学年の頃だったといいます。父親(すでに他界されています)と一緒に、飼い猫を棄てに行くことになりました。当時住んでいたのは、一軒家で、猫を飼う余裕がないとも思えず、「仔猫ではなく、もう大きくなった雌猫だった。どうしてそんな大きな猫を棄てにいったりしたのか、よく憶えていない」(同書から)というのがちょっと不思議です。生き物を棄てるという苦渋の決断をした父親の心の内を慮って、あえてあいまいにしているのかなと想像したりします。

 さて、2キロほど離れた海岸の防風林まで自転車で運び、箱に入れたまま棄ててきました。急ぎ帰ってきて、玄関の戸を開けると、棄ててきた猫が「にゃあ」と言って愛想よく二人を出迎えたというのです。「そのときの父の呆然とした顔をまだよく憶えている。でもその呆然とした顔は、やがて感心した表情に変わり、そして最後にはいくらかほっとしたような顔になった」(同書から)
 結局、飼い続けることなりました。これだけでも「いい話」です。でも、さすが村上。そこに父親の幼い頃の体験を重ね合わせます。

 父親の実家は京都で代々続く名門のお寺でした、男ばかり6人兄弟の次男です。従兄弟から聞いたこんな話を書いています。
 ーー父は、小さい頃、奈良のどこかのお寺の小僧として出されました。いずれ養子としてその寺を継ぐ含みもあったのでしょうが、しばらくして京都に戻されてきました。健康を害したというのは表向きの理由で、新しい環境に馴染めなかったのが大きかったようだーーというのです。

 実家に戻ってからは普通に育てられました。「しかしその体験は父の少年時代の心の傷として、ある程度深く残っていたように僕には感じられる。」(同書から)
 当時、次男坊以下では、ままあったこととはいえ、一旦、親から棄てられかけた父親。たくましく戻ってきた猫を見て「いくらかほっとした顔になった」背景には、こんな辛い体験があったのですね。
 なんと重厚で深みのあるエッセイであることか。あの「村上君」のスゴさをあらためて思い知らされました。
 冒頭でご紹介した記事へのリンクは、<こちら>です。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。


第395回 誤植のはなし<旧サイトから>

2020-11-06 | エッセイ

 <旧サイトから>の第2弾になります。2013年8月の記事です。再掲載にあたって、ネタ本を再読し、少しエピソードを追加しました。また、文末に関連した記事へのリンクを追記しています。

★ ★以下、本文です★ ★

 場所柄、お店の常連さんには、印刷、出版関係の方が多いです。そういう方々にとっては、誤植というのは悪夢に違いありません。
 「誤植読本」(高橋輝次編著 東京書籍(増補版/ちくま文庫))は、誤植、校正に関するエッセイなどを集めたアンソロジーです。関係者の方々にはまことに申し訳ないと思いつつも、少しばかり楽しませていただきました。同書からいくつかのエピソードをご紹介します。

<号外が出た誤植>
 明治32年、当時の読売新聞が、ロシア皇帝について書いた社説の中で、「「無知無能」と称される露国皇帝」」という一句があって、大騒ぎになった。社説の筆者は「全知全能」と書いたのが、「全」がくずし字のため、「無」と読み間違えられたもので、国際問題にもなりかねないと、空前の「訂正号外」が出ました。

<同音異字型の誤植>
 昔は、新聞記事は、電話送稿であったため、同音異字型の誤植が多くありました。
 「学校給食にお食事券」の正体は、「学校給食に汚職事件」
 「某はかねてから酒一升の持ち主として当局でも注目している人物」なんのことかと思ったら、「左傾思想の持ち主」

<すわ革命?>
 戦時中、近衛文麿が内閣改造をした時、朝日新聞が、「新体制は社会主義でゆく」と見出しをつけて、すわ革命か、と取り付け騒ぎまで起きました。「正義」のつもりが「主義」と誤植されたもの。

<「屁(へ)」と「庇(ひさし)」>
 泉麻人が新幹線の車内風景について書いたエッセイの一部。
 「窓際の屁のようなスペースにも、缶ビールやおしぼりを置けるし、、、、」と出版されました。屁(へ)は、庇(ひさし)の誤植だが、なんとなく通じてしまうのが面白い、と本書で、本人が書いています。

<泣虫手塚>
 漫画家の手塚治虫氏も名前の誤植が多かったひとり。賞を受賞した時の紹介記事が、「手塚泣虫」となっていたことも。本人にとっては、泣くに泣けない話。

<史上最悪の誤植>
 だと言われているのが、与謝野晶子の文章で、「腹を痛めた我が子」が、「股を痛めた我が子」となっていた例だそうだ。確かに史上最悪には違いありません。

<とんでもない誤引用>
 さる俳句の大御所の本で、間違って「誕生日 男とセックス やりにいく」の作者だと名指しされた林真理子女史がエッセイの中で怒るまいことか。でも笑える。

<畏れ多い誤植>
 ロンドンのテムズ川にウォータールー橋が架けられて、ヴィクトリア女王が渡り初めをしました。それを報じる新聞で、女王が"passed”(渡った)とするところを、"pissed"(おしっこをした)としてしまったのです。いやはや。

<購買欲をそぐ広告>
 戦後まもなく梅崎春生氏の書き下ろし小説が出版の運びとなり、読者文芸誌「文学界」に広告を載せることになりました。読者の購読欲をそそるべく「この小説によって、人間の真実が究明されるか否か、けだし作者の腕の見せ所であろう」との惹句のはずが、読点の位置がずれて、「・・・
究明されるか、否、かけだし作家の・・・」となっていた。後日、梅崎を訪ねた編集者が、不機嫌なワケを訊いて、判明したのだという。

<シュールな誤植>
 漫画家つげ義春の代表作といえば、「ねじ式」です。私も学生時代に読んで衝撃を受けました。冒頭で、主人公の少年の「まさか/こんな所に/メメクラゲが/いるとは/思わなかった」という独白が強烈な印象を残しました。こちらの画像です。

「メメクラゲって何?」
 本書によれば、つげは、クラゲを特定せず「XXクラゲ」との手書きが、「メメ」と活字化されたというのが真相だという。結果的に、シュールな内容にぴったりの名前で、特に訂正もされす、定着しているのがなによりです。

 いかがでしたか?この文章に誤植があればシャレになりませんので、よく校正したつもりです。
 それでは次回をお楽しみに。

<追記>「おわび・訂正を楽しむ」と題した記事を過去3回にわたりアップしました。リンクは、<第204回><第216回><227回>です。
 あわせてお読みいただければ嬉しいです。