★★★ 芦坊の書きたい放題 ★★★

   
           毎週金曜日更新

第163回 「英語話せますか?」ほか-英語弁講座6

2016-04-29 | エッセイ

 久しぶりの英語弁講座です。今回は、小ネタを2本お送りします。

<英語話せますか?>

 いきなりですが、これを英語で言うと、

 ”Can you speak English?"

 そうです。(ひどい発音でない限り)もちろんこれで充分通じます。中学校でもそう習いました。ただ、この表現にはちょっと問題があります。”can ”は「何々する能力、技能がある」というのが本来の意味。「あなたは英語を話す能力があるか?」と訊くニュアンスがあるので、若干失礼な感じをを与えないとも限らない。

 しからば・・・

 ”Do you speak English?”な~んだ、とお思いでしょ。でも、これがお奨め。能力とは関係なく、単に、話すか、話さないかという相手の事情、事実(あくまで、表現上だけのことですけど)を訊くわけです。これなら、失礼に当たらず、相手も、「話す」「話さない」という事実を淡々と答えられる、というわけです。 

 以前、英仏を結ぶ国際列車、ユーロスターの車掌が、いくつかの言葉を操っているので、検札の時に訊いてみたことがあります。こちらです。

 ”How many languages do you speak?”(何カ国語話すんですか?)

 ”Only 4”(たった4つ)との答えが返って来た。地続きで、日頃から、よく似た言葉が飛び交ってるヨーロッパとはいえ、あらためて、愕然としたのを思い出します。 

 

<言葉のインフレ>

 アメリカの小学校での5段階評価は概ねこんな風になっています。

 A=outstanding(アウトスタンディング=とても優れている)

 B=excellent(エクセレント=優れている)

 C=good(グッド=ふつう)

   D=poor(プア=劣っている)

 E=failure(フェイリュア=落第)

 日本語でも、物事を評価する尺度として、例えば、単に「いい」程度では、使い古された感があって、

「スゴイ」ー>「ものスゴイ」ー>「チョースゴイ」ー>「ありえな~い」などとインフレが進みます。

 英語の世界でも事情は同じで、goodは上の例にもあるように、「まあまあ」「悪くはない」「ごっつー、ふつう(大阪弁の場合)」という程度の語感で使われることが多いのです。

 本当にいい場合だと、"really good”とするか、”great”なんかを使ったりするんですね。

 " great”を「偉大な」と覚えさせられた世代としては、大げさな気がしますが、実に日常的に使ってますね。

 ”Why not go out for a few drinks at SHAREKOUBE?”(しゃれこうべで軽く一杯どう?)

 ”That's great."(そりゃいいねっ!)

 こんな感じでしょうか。

 ”amazing”(アメイジィング=驚くほどスゴイ)とか、

 ”absolutely"(アブソルートゥリー=絶対的に、最高に)なんてのがポンポン飛び出してくるのが英語(主にアメリカですが)の世界です。

 goodー>greatー>amazingー>absolutely  ランキングとしては、こんな感じでしょうか。

 

 いかがでしたか?次回をお楽しみに。

 


第162回 こんなもんいらん

2016-04-22 | エッセイ

 先日の句会で、剣喜さんから、「この前の、パンに砒素を塗る話(「執念と緻密さと」(第160回)」、面白かったよ」とお褒めをいただきました。私なりに、コンパクトで、分かりやすく、と心がけて書いただけに、嬉しさひとしおでした。
 剣喜さん、俳句の方も絶好調。「いつもの辛口句評が出ませんねぇ」と私。「一位句と二位句、取っちゃったからさぁ、矛先鈍るよなぁ」とのお言葉に笑ってしまいました。
 
 さて、本題に入ります。

 昭和60年代の初め頃でしょうか、朝日ジャーナルあたりが火付け役で、「こんなものいらない」ブームになったことがあります。連載記事をまとめた「こんなのいらない事典」(朝日ジャーナル編集部編 新潮社)を開いてみると、なかなか面白い。

 テレホンカードのように既にいらなくなったものもあるが、やりだまに挙がっている運勢判断、ゴルフ場、訪問販売、芸能人、成人の日、社内行事など私が大いに賛同できる項目がある。一方、愛、妻と夫、女子大、お嬢様など、いかにも朝日ジャーナル風のひねった項目もある。それよりなにより、「朝日ジャーナル」自身が、「いらなくなった」のは皮肉というしかない。

 というわけで、私家版「こんなもんいらん」小事典(?)です。

<高機能テレビ>
 だいぶ前のことだけど、テレビの前に人がいるかいないかを感知して、いない時には、自動で電源オフになるテレビをソニーが、大々的にPRしていた時期がある。いかにも日本的なチマチマした技術で、コマーシャルに出てるタレントがアホに見えた。

 テレビのデジタル化では、ずいぶんムダな出費を強いられた。最近は、4Kテレビがよく売れているんだとか。近々、8Kだとかも出るらしい。高精細だかの、どこがいいのかわからない。どれもこれも、どこもかしこも、つまらん番組のオンパレードで、ブラウン管式白黒テレビで十分じゃなかろうか。それでも見ないけど・・・・

<言い訳放送>
 駅の構内などで、やれ黄色の線まで下がれとか、今度の列車はどこ行きだとか、停車はどこだとかとにかくうるさい。エスカレーターでも、手すりを持てとか、走るなとか、これもうるさい。関係者も好きでやってる訳じゃないのは分かる。文句言うヤツがいるんだ。案内が不親切だ、乗り間違えたのは放送のせいだ、などと子どもみたいに文句をつけるのが。社会正義を代表しているつもりかも知れないが、ただの幼稚なクレーマーでしかない。放送する方も、事故が起きた時の言い訳材料ね。ちゃんと注意は促しているんですが・・・・というやつ。自己責任ということの意味が理解できない日本人が多過ぎる。

 イギリスなんかだと、「概ね」平常に運行されてれば、アナウンスなんかない。あるのは、急に出発番線が変わったとか、大幅な遅れが出てるとかの「ほんとに大事な」時だから、かえって、注意が向く。さすが大人の国!

<標語>
 役所が大好きなお仕事。無知蒙昧な国民、市民どもの啓蒙に日々努力している、というのを示すこれも言い訳仕事。大阪が作ったキャンペーン標語に「チカン アカン」というのがあった。いかにも関西のノリでつくったベタな標語。「そうか~、チカンはあかんのか~、ほなやめとこか~」って思うのがいる?税金の無駄遣い。

 


<夕刊>
 我が家は惰性で、朝夕とっているが、夕刊?あんまり読むとこはない。主なニュースは、ネットとかで、ざっとチェックしてますから。夕刊の記事の締め切り時間て、(版にもよりますが)午後1時ころなんですね。ということは、国内のニュースだとその日の10時ころから2~3時間の出来事、世の中の動きが中心になるわけです。新鮮みが薄れますよね。

 文化欄、家庭欄でなんとかページ埋めてるけど、新聞社としても、止め時じゃないのな?産経新聞の東京本社版は、確か、2002年から、廃止してるはず。他人(ひと)からとやかく言われるのを最も嫌うのが、新聞社という組織だから、無理だろうけど・・・・・

 いかがでしたか?また思いつけば書いてみようと思います。お楽しみに。


第161回 「日本式」パーティー

2016-04-15 | エッセイ

 「日本式」パーティーが、苦手というか、いつも時間のムダだと思う。で、私にとっての「日本式」パーティーというのは、だいたいこんな感じ。



 1.会社、団体、サークルなどが主催で、ある程度(数十名以上)以上の人数が集まる。中には、「集める」こと自体が目的みたいなものが多く、場所もしかるべき会場が選ばれる。だから、挨拶、乾杯の音頭など、セレモニーがつきもので、煩わしい。

 2.講演会、発表会など本来の目的たる行事のあとの、「おまけ」(参加への見返り)として催されるもの。それゆえ、飲食メニューの質と量が勝負になる。会費を払った参加者も、モトを取るため、飲食に集中しがち。たまたま来合わせた数少ない顔見知りと旧交を暖めるのがぜいぜい。新たな交流は求める参加者はほとんどいない。

 リタイヤして、この種のパーティーに出る機会はうんと減ったが、参加している会の例会が、年に数回ある。事務局の一員として、その後のパーティーに、なかば義務的に参加しているが、いつもながらの「日本式」に気が重い。

 本来の交流の場とすべく、個人的には、努力しているつもり。顔見知りがいるテーブルに寄って、友だちの輪を広げる工夫はしている。また、ゲストスピーカーとして、結構メジャーな人も来たりするので、手持ち無沙汰にしている人には、「ゲストの人と、お話ししましょうよ」と誘ってみたりもする。

 つい最近は、結構売れっ子の作家が、ゲストとして来ていたので、誘って来てくれた知人に「ねぇ、せっかくだから、ゲストの方と話ししようよ」と誘ったのだが、「いや~、ボクはいいから・・」と遠慮している。もったいない・・・・

 友だちの輪も思うようには広がりませんね。年配の人が多いせいかもしれないが、いまさら、交流を広げたり、深めてもなぁ~、商売につながる訳でもないし・・・みたいな空気が流れている。こちらもろいろ話題を振ってみるが、盛り上がらない、つながらない。私の努力も足りないのだが・・・・

 事務局の会合でも、パーティーのあり方が、テーマにのぼる。「事務局メンバーが率先して、参加者とゲストスピーカとの橋渡しをするとかしたらどうですか」などと提案してみる。「そうねぇ」残念ながら、反応は鈍い。それより、次の企画とか、パーティー予算のほうの議論が熱い。

 数少ない経験からだけど、英語圏でのパーティーは、自宅(日本との住宅事情が違いますからねぇ)で開かれるのが多いが、まったく様相が違う。飲食は従で、参加者同士の交流があくまで主。

 だから、ホスト役が、積極的に交流の仲介をしてまわる。「こちら、だれだれ。どこどこの会社勤務」その程度の紹介で、あとは、お二人で、交流を、というわけだ。

 もちろん、参加者も積極的に動く。日本でのように、親しい相手だけと長々と話しをするということはまずない。適当なところで切り上げて、話し相手を探す。他人の話しに割って入るのも、それなりのマナーは必要だが、そう失礼ではない感じ。割り込まれたほうも、当たり前のように、新しい交流相手を探す。

 結局、パーティーの目的を共有しているから、ごく当たり前に交流の輪が広がっていくし、それ相応の話術が、普段から身に付いているということなのだろう。

 飲食と、モトを取る、という目的だけを共有しがちな「日本式」パーティー。なんとかならないかな~、といつも思います。

 いかがでしたか?次回をお楽しみに。


第160回 執念と緻密さとーある復讐譚

2016-04-08 | エッセイ

 先日は、お店で、いつもご愛読いただいている居庵さんとご一緒しました。ヤハギさんも交えて、居庵さんゆかりの山形やら、エスペラント語の世界やら、いろんな話題で、知識の「ひけらかし」大会みたいになり、楽しかったです。今回は、シリアスな話題をお送りしますが、居庵さんの「ツッコミ」「ひけらかし」コメントが楽しみです。それでは、本題に入ります。

 1960年、アルゼンチンに逃亡・潜伏していた元ナチの親衛隊(SS)将校のアイヒマンを、イスラエルの諜報機関(モサド)が探し出して、自国に連行しました。裁判で死刑判決を受け、絞首刑に処されたのですが、これらの一連の成り行きは、私の記憶にくっきりと残っています。

 何かと言えば、都合の悪いことも含めて、過去のことは「水に流す」のを好みがちな日本人と、何たる違い!草の根を分けても、という言葉がありますが、その執念に心底驚きました。

 「復讐者たち」(マイケル・バー=ゾウハー 広瀬順弘訳 ハヤカワノンフィクション文庫)という本があります。ホロコーストに関わったナチスの高官、SS、収容所の幹部などに対する知られざる復讐譚の数々を、当事者(全員が普通の市民として平穏な生活を送っている)の聞き書きで構成したものです。こちらが表紙。



 なかでも、とりわけ凄まじいエピソードをご紹介しようと思います。

 ヨーロッパでの戦争が終結した1946年の年明けから計画は本格的に始まります。約50名のユダヤ人からなる暗号名「ナカム」(ヘブライ語で「復讐」を意味する)のグループの目標は、ニュールンベルグの捕虜収容所にいる3万6千人の元SS隊員に毒を盛る、というもの。

 まず、仲間のひとりを運転手として、もうひとりを倉庫の管理人として送り込むことに成功します。その結果、近郊にある特定のパン屋から、毎日、数千個のパンが食料として運び込まれている、ということが分かります。パンの作り方、材料、オーブンの温度、配達方法、受刑者に支給される時間など、情報は精緻を極め、現物のパンを入手します。

 これらの情報をもとに、毒の研究へと段階は進みます。実際に、実験所を設けて実験を重ねます。毒が強すぎて、先に食べたSSが、ばたばた倒れれば疑われますから、遅効性(効果が出るのに時間がかかる)で、かつ効果が確実な毒物として、砒素が選ばれます。そして、その毒を刷毛でパンに塗ることが決まります。連合国側の厳しい警備、終戦直後の混乱の中で、ここまでやってしまう緻密さと執念。

 4月の決行当日を迎えました。パン工場に送り込まれていたメンバーは、服に隠して、毒物を持ち込み、配達までの間、パンを一時的に保管する倉庫に、3人が忍び込み、パンに毒を塗る作業を開始します。ところが、当日は、嵐となり、強風で外れた木製のシャッターがガラス窓を破って、大きな物音を立てた。パンが貴重な食料であったので、すわ盗難か、ということで、夜警がかけつけ、警官まで駆けつける事態となった。

 メンバーは、あらかじめ用意していた床下に道具類を素早く隠す一方、パンをまき散らし、パン泥棒が入ったように見せかけ、塀を乗り越え、見事に逃げおおせるのです。このあたりの用意周到さにも驚きます。

 当初、1万4千個のパンに毒を塗る予定が、そんな事態で、2千個になりましたが、それなりの結果をもたらします。ニュールンベルグの新聞では、1万2千人が砒素中毒になり、数千人が死亡したと報道されましたが、元メンバーは、約1千人が死亡したと推定しています。いずれにしても、ものすごい「大量殺人」です。連合国側も事件の原因は解明しましたが、犯人の特定まではできませんでした。

 ユダヤ教の教義では、もちろん殺人は許されません。それでも「殺人」という形での「復讐」へ彼らを駆り立てたものが何なのか。
 「人を殺した嫌悪感はありました。しかし、悔いはまったくありません」「誰から命令された訳でもない。自分で責任を取ろうと思い、「復讐」という手段を選びました」「あのような恐ろしいことがあったからには、こんどはあの虐殺者たちに悲鳴をあげさせる別の恐怖があって然るべき」
 「復讐」にかかわった人たちの発言の一部です。
 読後感の重い一冊でした。

 いかがでしたか?次回をお楽しみに。


第159回 アブない植物の名前

2016-04-01 | エッセイ

 これまで世界の「アブない言葉」をシリーズでお送りしてきました。「決して」好きで集めてるわけではないのですが、どうもその手の情報が集まってきてしまいます(残念ながら・・・・)。

 で今回は、植物編をお届けできることになりました。出典は、「人類が知っていることすべての短い歴史(上・下)」(ビル・ブライソン 楡井浩一訳 新潮文庫)。
 広く科学の世界で、人間がこれまで知り得たことを、平易に解説した本で、生物の分類・命名法の歴史のエピソードが、とりわけ私の俗な興味を引きました。

 この分野で、歴史上に名前を残す人物といえば、言うまでもなく、「リンネ」です。確か、中学校で習った記憶があります。二名法(生物の種(しゅ)を示すのに、ラテン語の名詞で属名を、次に形容詞形で種名を表記する方法)を考案し、今日の体系的な分類法の基礎を確立した人物としてあまりにも有名です。こんな方だったんですね。



 で、この本によると、リンネには、驚くべき資質があって、それは、熱狂的ともいえる「性」への関心であった、というのです。例えば、特定の二枚貝と女性の外陰部の類似性に衝撃を受け、ある種の貝の各部位に、陰門、陰唇、恥毛、肛門、処女膜という名前を与えています(う~む。そこまでやりますか)。また、植物の特性、習性について、しばしば極端に擬人化した官能的特質を割り振り、「乱交」、「不妊の愛人」、「初夜の床」などと表現しています。

 さらに、ある植物種をクリトリア(陰核)と名付けたりもしたので、当時、多くの人から、変わり者と見なされたというのも、むべなるかな。
 とはいえ、彼の考案した分類・命名法が、今でも立派に通用しているのだから、大したものです。

 リンネ以前には、そんな体系的な命名法はなかったので、アブなくて、低俗な名前がいっぱいありました(うれしいことに!)。

 タンポポは、その利尿作用が注目されて、長い間、「寝小便草」という名前で通っていました。そのほかにも、「雌馬の屁」、「裸の貴婦人」、「引きつる睾丸」、「猟犬の小便」、「売春婦」、「尻軽女のナプキン」などという名前が、日常的に使われていました。ちなみに、日本にも正式名「イヌノフグリ」なんて植物があります。誰しも考える事は同じ、ということなのかも。

 残念ながら、図版はなく、それらが、どういう植物に当るのかは分かりませんが、さすがにこれらの野卑な名前のほとんどは、今日、使われることはないようです。
 ただ、わずかながら生き延びている言葉があって、苔(こけ)の一種で、「処女の毛」と英語で呼ばれるものがあるといいますから、ちょっと嬉しいです(「毛」は、もちろんアタマの毛ではありません)。

 科学の世界も一歩踏み込むと、結構アブない、というのがよく分かった次第。

 いかがでしたか?ちょっとアカデミック過ぎましたかね?それでは次回をお楽しみに。