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第582回 小説講座で学ぶ文章術

2024-06-28 | エッセイ
 ブログは中身が第一といいながら、よりわかりやすく洗練された文章を心がけています。ですので、文章力アップにつながりそうな本にはよく目を通します。
「天気の良い日は小説を書こう」(三田誠広 集英社文庫)の著者は、1977年、19歳で「僕って何」で芥川賞を受賞したこちらの方です。同世代という親しみもあり、通読しました。
 
 母校のワセダ大学(あえてそう表記しています)で、小説家を目指す学生たちへの講義(全6回)を書籍化したものです。前半は、小説とは何か、小説の歴史などの基本的な話題が中心で、後半では、小説の実作という実践編になります。全体を通じて、随所にユーモアが散りばめられ、豊富な知識、体験に基づきテンポよく進む講義を堪能しました。この「受講」体験を少しでも共有できれば、との想いでエッセンスをご紹介します。どうぞ気楽に最後までお付き合いください。

 まずは、前半の基本的講義部分です。
 さすが小説家。「「桃太郎」は小説でないことを実証する」という切り口で、物語と小説の違いを明らかにするなど、巧みな「ツカミ」で受講生を飽きさせません。
 小説にとって何より大切な「リアルさ」ということについて、映画『E.T.」を例に説明しているのが秀逸です。子供とE.T.と呼ばれる宇宙人との出会いと別れ、、、という単純なSFファンタジーと思われがちですが、三田によればそうではありません。
 子供たちに父親はいません。離婚した母親は働きに出ています。1980年代アメリカの社会をリアルに切り取った設定です。夕食を作ってくれる人はいませんから、子供たちは相談して、宅配ピザを注文するんですね。当時映画を見た日本人にはあまりピンと来なかったかも知れませんが、今だと、その侘しさ、悲しさがリアルに伝わります。
 主人公の少年がピザを受け取って、配達人が帰ったあと、物置で何か音がします。そっちの方へ行ってみると、ガサッと音がして、E.Tの足が出てくる。少年はびっくりしてピザを落とす。そしてピザの箱が地面に落ちるカットになります。「少年の驚いた顔のカットを撮るよりも、ピザが落ちたところを撮ったほうが、もっとリアリティがある。」(同書から)
 全く同感です。映画を引用しながら、小説的リアルさをどう表現するかの一端が分かったような気がしました。

 後半は、実作に向けた技術論、諸注意、秘訣の開陳、そして、短編小説の実作となります。講義の冒頭あたりで、三田は、実作での「禁じ手」、つまり文中(セリフは可)で使ってはいけない言葉を決めます。
 それは、「孤独」「絶望」「愛」「希望」「感動」の五つです。
 「この言葉が出てくると、書いてる人がバカに見えます(笑)。(中略)主人公が孤独に生きているありさまを、「孤独」という言葉を使わずに表現するのが文学なんですね。」(同)
 う~ん、なるほどのシバリです。受講生の皆さん、大変だったことでしょうね。

 さて、いよいよ最終講義です。免許皆伝の秘訣として、三田先生はいきなり黒板に、「じねんじょ」「両手にミキサー」「性格の悪い犬」「カツ丼」など8つのキーワードを書きつけます。受講生もさぞ驚いたことでしょう。それぞれの小道具でどんな小説的世界を構築したか、実際の作品(プロ、アマ)を例に挙げての講義が見事で、こういう秘訣があったのかと、引き込まれます。
 ここでは、三浦哲郎の自伝的色彩が濃い「拳銃」という短編での例をご紹介します。

 三浦とおぼしき主人公が郷里に帰り、父が護身用として持っていた遺品の拳銃(使った形跡はありません)の処分を、母から頼まれるのが発端です。
 実生活の三浦は、6人兄弟の末っ子です。2人のお姉さんは、生まれつき体に色素がありません。髪の毛も肌も真っ白です。アルビーノと呼ばれる遺伝性の病気で、大きくなればカツラ、化粧、サングラスなどでカバーできますが、小さい頃はさぞ辛かったことでしょう。東北の田舎ということもあり、兄弟全員が、周囲の冷たい差別的な視線にさらされます。
 で、女兄弟のひとりが自殺します。それからひとりが行方不明になり、さらには、自殺・失踪と続くのです。三浦哲郎は頑張って大学を出て、芥川賞を取ります。そして、「拳銃」です。

 「死にたいと思ったこともあるんじゃないかと、遺品の拳銃を眺めながら、作品の主人公は推理をするわけです。それで、護身用と言って拳銃を手に入れて、いつでも死ねるという思いを持ちながら、苦しみに耐えて生きてきた。結局、老人になるまで生き抜いて、大往生を遂げたんですね。そういう父親の苦しい人生が、この1個の拳銃に込められている。」(同)
 ひとつのモノを切り口にこれだけの世界を構築するプロの技のスゴさ、奥の深さを思い知りました。

 いかがでしたか?小説という切り口でお届けしましたが、ブログなどちょっとした文章を書く際のヒントにでもなれば幸いです。それでは次回をお楽しみに。

第581回 人名いろいろ-8 名字の謎2

2024-06-21 | エッセイ
 シリーズの第8弾です。前回に引き続き「名字の謎」(森岡浩 ちくま文庫)をネタ元に、珍しい姓、ユニークな名字を中心に、その由来、由緒に敬意を表しつつご紹介します。なお、文末に、直近2回分へのリンクを貼っています。最後まで気軽にお付き合いください。

★1から億までー数字の名字★
 数字のつく名字は多いです。数字の「一」だけで、「いち」、「かず」、「はじめ」と読む名字があります。「九」で「いちじく」と読ませる名字が、東京都に実在します。不思議な読み方をするのが、宮崎県にある「五六」で、「ふのぼり」って、絶対に読めません。
 「四十」がつく珍しい名字がいくつかあります。「四十」(よと、しじゅう)、四十九(よとく)、四十物」(あいもの)などの例が挙げられています。中でも珍しいのは、「四十八願」と書いて「よいなら」と読む名字。戦国時代からある由緒ある名字で、仏教用語の四十八願(阿弥陀仏が法蔵比丘であったころ、一切衆生を救うために発した四十八の願い)に由来するとされています。仏教用語の「しじゅうはちがん」が、なぜ「よいなら」になったかは不明、と著者の言。
 数字が3つ連続するのは、「一二三」(ひふみ)、「二三四」(ふみし)、「三九二」(みくに)、「七五三」(しめ)の4つを著者は確認しているとのことです。
 大きい数字では、加賀百万石の城下町金沢には、ずばり「百万」という景気のいい名字があります。一番大きいのが、小豆島在住の「億」(おく)さん。なんとも景気のいい名字で、うらやましいです。

★ユニフォームからこぼれそうな名字★
 昭和56年、大分県の日田林工高校からドラフト1位で、源五郎丸(げんごろうまる)という投手が、阪神タイガースに入団しました。甲子園には出場していませんが、九州大会で優勝するなど実力は折り紙付きでした。阪神ファンの私も、その珍しい名字とともに、大いに活躍を期待していたのをはっきり覚えています。初めてのキャンプを前にして、ちょっと話題になったのが、「GENGOROMARU」という11文字にもなる選手名が、ユニフォームに収まるかどうか、ということ。文字を小さくしてなんとか収めている画像を見つけてきました。

 ところが、そのキャンプで足の筋肉を断裂してしまい、5年間の在籍期間中は1度も公式戦への出場の機会はありませんでした。活躍ぶりを見られなヵったのが返す返すも残念です。

★長い名字、短い名字★
 短い方からいきましょう。紀(き)、井(い)、何(か)という例が挙げられています。私のサラリーマン時代、仕事上で「井」さんとお付き合いがありました。名刺には「いい」と振り仮名が打ってあって、私たちも「いいさん」とごく普通に呼んでいたのを思い出します。
 長いほうです。難読姓辞典などには、「十二月三十一日」で「ひづめ」と読ませるのがよく載っているそうですが、著者によれば、実在は確認されてないそう。実在名字では、「勘解由小路」(かでのこうじ)という5文字の名字があります。京都の地名に由来する公家の名字で、ご子孫は山口県在住だそう。もうひとつは、埼玉県在住の「左衛門三郎」(さえもんさぶろう)という下の名前を二つ重ねたような名字です。朝廷の官僚に由来するのでは、と著者は推測しています。

★景気のいい名字★
 「金持」という大変うらやましく、縁起のいい名字があります。伯耆国(現在の鳥取県)日野郡金持という地名に由来し、「かもち」と読みます。鎌倉時代の御家人に金持氏がいて、吾妻鏡にもその名が見えることから、由緒ある名字といえます。現在では、「かねもち」「かなもち」「かなじ」などの読み方があるそう。
 おカネといえば、「一円」という名字があります。もともとは、近江国(現在の滋賀県)発祥の地名に由来し、一族が高知県に移って栄えました。「円」という貨幣単位がなかった江戸時代以前は、特に珍しい名字という認識はありませんでした。明治以降、「厘」「銭」の上の通貨単位になり、だいぶ有り難みが増しました。昭和の初期には、東京中どこでも1円という「円タク」も登場しました。
 戦後、円が最小の通貨単位になり、有り難みは薄れましたが、この名字を一躍有名にしたのが、関西学院大学学長もつとめた法学者の一円教授(故人)です。なにしろ、下の名前が「一億」ですから。ただし、「かずお」と読ませます。漢字は豪快ですけど、読み方を遠慮したみたいで、ちょっと頬が緩みました。

 いかがでしたか?なお、冒頭でご案内したリンクは、<第6弾 開高健編><第7弾 名字編-1>です。合わせてご覧いただければ幸いです。それでは次回をお楽しみに。

第580回 久米宏のラジオ・デイズ

2024-06-14 | エッセイ
 久米宏さん(以下、「氏」)といえば「ニュースステーション」(テレビ朝日系列)です(1985年10月の放映開始から2004年まで担当)。歯切れの良いコメントやテキパキした進行が魅力で、よく見ました。自叙伝ともいうべき「久米宏です。」(朝日文庫)では、この番組も含めTVでの活動も語られます。でも、TBSラジオのアナウンサーとしてキャリアをスタートしたラジオ時代のエピソードが秀逸です。こちらを中心にご紹介します。最後までお付き合いください。

 早稲田大学卒業を控え、氏はTBSラジオのアナウンサー採用試験に臨みました。試験、面接は7次まであり、何千人もの中から4人が選ばれるという厳しいものです。選考が進むにつれて、人が人に優劣をつける仕組みに怒りを感じ、人事部の若手と押し問答をしたり、面接官とケンカ腰になったりしたといいます。反骨精神は当時からのものだったようです。5次試験では、目の前に置かれたモノについて3分程度話をするという課題が与えられました。置かれたのは赤電話です。ポケットの10円玉を入れ、自宅の電話番号を回し、母親に今の状況を話す、という演技をしました。通話が終わって受話器を置いても、10円玉は戻ってきません。それに文句を言うと、試験官にはウケたといいます。決して優等生的に振る舞ったわけではないようですが、機転、熱意、センスなどが認められたのでしょう。1967年、見事合格、採用されました。

 入社して2年ほど経った頃、大きな試練が待ち受けていました。慣れない仕事のストレス、食欲不振からくる栄養失調などが重なって、肺結核を発症したのです。1日おきの注射と薬の服用で、電話当番などの軽い仕事を担当する日々が始まりました。さぞ辛い雌伏の時期であったことだろうと想像します。そして、病気が治りかけた頃、大きなチャンスが訪れました。1970年5月に始まった新番組「永六輔の土曜ワイド ラジオTOKYO」(土曜の午後1時半から5時の生放送)のレポーターに起用されたのです。若き日の永さん(左)とのツーショット(本書から)です。

 番組では、「久米宏のなんでも中継!!」のコーナーを任されました。上野動物園の猿山中継を皮切りに、歩道橋、山手線、蟻塚などを訪れ、利用者などの声を拾いながらナマ中継するという企画です。テーマはどんどんエスカレートし、「ミュンヘンの街角から」という企画では、街の雑踏や路面電車の音などをラジカセで流しながらレポートしました。「あっ、アベックがいる」と伝えたのに合わせて事前に録音しておいたドイツ人男女の声を流す、という凝りよう。さすがに、最後に「横浜・山下公園からの中継でした。」(同書から)と種明かしをしたとのこと。

 パーソナリティである永さんに褒められようと、企画は一層過激さを増し、ついに「日活ロマンポルノ」の撮影現場を中継することになりました。通常、この種の映画の撮影では、音声は映像に合わせて後から録音する(アフレコ)のだそう。ですから、現場では「頭をもっと後ろへ」とか「もっと気持ちよさそうにやれ」とかの監督の指示、怒号が飛び交います。それを中継しようという狙いだったのです。ところが、当日、緊張した監督さんはすっかり黙り込んでしまいました。「すると俳優たちがその沈黙を埋めようと妙に気を遣ってリアルな演技をしだした。」(同)のです。生々しいアエギ声を中継し続けるわけにはいきません。止められるのは永さんだけです。「「こんな中継やめだ!切って、切って」(同)の一声で、唯一、途中中断の中継となりました。

 「なんでも中継」が評判になって、更なるウケ狙いで始まったのが、「隠しマイク」作戦です。袖に隠しマイクを仕込んで、キャバレーやピンサロなどに突撃し、生々しいやりとりを中継するというアブない企画です。ある時、氏が銀座・三越の前にゴザを敷き、ホームレスに扮して中継した時は大問題になりました。歩き出すと通行人はよけます。店に入ろうとすると「入っちゃダメ!」との冷たい声がオンエアされます。数寄屋橋の交番で、「「トイレを貸してください」と頼んだら、お巡りさんが叫んだ。「ダメダメ、汚ねぇ!向こう行け!」(同)
 警察官が人を差別している、との抗議の電話が警視庁に殺到し、TBSは、警視庁記者クラブへの「出入り禁止」処分を食らう騒ぎとなりました。

 8年間レポーターを務めて、1978年から永さん、三國一郎さんに継ぐ3代目のパーソナリティとなりました。レポーターとして兼務したのが「久米宏の素朴な疑問」コーナーです。「コンニャクに裏表はあるか?」「おねえさんからおばさんにかわる基準は?」「魚にも美人とブスはいるのか?」などの「素朴な疑問」にあちこち電話して答えを出そうという企画です。「なぜ色鉛筆は丸くなくてはいけないのか?」という疑問には、みずから、文具店、鉛筆メーカー、はては鉛筆組合まで電話する奮闘ぶり。一見、教養っぽいコーナーですが、やっぱり娯楽路線でした。

 1979年にフリーとなってから、氏はテレビに軸足を移します。クイズ番組「ぴったしカン・カン」、歌謡番組「ザ・ベストテン」などを経て、「ニュースステーション」でブレイクするのを目(ま)の当たりにした方も多いことでしょう。ラジオ時代にナマ放送で鍛えられた瞬発力、胆力、現場力などがあったからこそ、というのが本書を読んで、十分に理解できました。
 いかがでしたか?2021年、氏は、TV、ラジオでの活動休止を宣言されました。本当に長年お疲れ様でした。
 それでは次回をお楽しみに。
 

第579回 兵馬俑の「超技術」を知る

2024-06-07 | エッセイ
 若い頃、機会に恵まれて、中国・西安の郊外にある「兵馬俑坑(へいばようこう)」を訪れました。紀元前221年に中国を統一した秦の始皇帝の墓を守る軍団の「俑(=人や馬を模した焼き物)」という程度の予備知識はあり、テレビの映像、本からの情報などにも馴染んでいました。でも、ホンモノの俑を目の当たりにした感動は格別で、昨日のことのように思い出します。
 1974年に、井戸掘り作業中の農民が、頭部を発見したのを端緒に発掘が進み、現在、約8000体の兵馬俑が発見されています。1号から4号までの4つの坑で現在も発掘が進められていて、あと数十年はかかるとも言われています。私も目にした最大規模の1号坑のほぼ全景です。

 そのとてつもないスケールだけでも驚嘆に値します。でも、「古代世界の超技術」(志村史夫 講談社ブルーバックス)を読んで、兵馬俑には超絶的な技術が発揮されていることを知りました。ポイントを絞り、コンパクトにご紹介します。どうぞ最後までお付き合いください。

 まずは、基本となる像の造形です。人を模した俑では、文官、楽士などもいますが、武官、兵士が中心です。背丈の平均は、180cm、重量は200キロになるものがあり、将軍から歩兵まで、あらゆる階級、兵科の俑が揃っています。左から、歩兵、将軍、軍吏、跪射兵の例です。(本書から)

 一体を作るだけでも大変な労力と技術を要するはずですが、粘土を型に嵌めて大量生産という方式ではありません。一体一体が手作り、オーダーメイドというのが驚異です。その証拠がこの画像(同)。様々な顔、表情で、全てにモデルがいた、ともいわれています。

 粘土による兵士俑の大まかな製作過程を、著者はこう説明しています。
①まず、帯状の輪を重ねて積み上げ、土台となる足と胴の部分を作ります。
②その上で、頭部、腕、手、鎧(よろい)などのパーツを製作します。
③頭部、顔は、モデルに合わせて細部まで彫刻を施し、入念に仕上げます。
④陰干しして、ある程度乾燥した段階で、各パーツを組み合わせ、最後に頭部を嵌め込みます。
 かくして、個性的な兵士の原型が完成です。

 ついで、焼き上げの準備工程に入ります。まず、各パーツを均一に乾燥させておかなくてはなりません。ムラがあるまま焼成すると割れてしまいますから。また、熱を加えることで、粘土は収縮しますから、それも計算に入れて、接合部には適切な空洞部分を設けておく必要もあります。
 それらのハードルを乗り越えて、いよいよ「焼き上げ」です。これだけの大きさの像を、大量に焼くのですから、窯も巨大なはず。その全体を長時間にわたって温度管理する技術、知恵などは、我々の想像をはるかに絶します。

 現在、私たちが目にする「俑」は、灰色をしています。しかし、完成時には、見事な彩色がなされていた、というのも驚きです。先の画像の跪射(きしゃ)兵(立膝で弓を射る兵士)が、1999年4月に2号坑から発見された時、全身が鮮やかに彩色されていることが世界を驚かせました。下地に黒の生漆(きうるし)を用い、自然鉱物顔料で彩色されていました。ほとんどの俑では、2千年以上の時を経て、漆と顔料は剥がれ落ちましたが、奇跡的にこの俑では残っていたのです。著者は写真で見ただけですが、皮膚は緑と白の上に肌色を重ね塗り、鎧は紺色、その紐は赤だったといいます。残念ながら、本書にその画像はありません。著者が見た写真とは違うようですが、日本で公開された彩色俑の画像をネットで見つけました。こちらです。

「驚異の地下帝国 始皇帝と彩色兵馬俑展」(2006年8-10月 江戸東京博物館)の展示品です。さすがに多少剥落はしていますが、往時の鮮やかな色彩をご想像ください。

 さて、最後にこれぞ「超技術」というべきものを紹介しなければなりません。
 それは、青銅(銅と錫(すず)の合金)製の武器で、兵馬俑坑では、なんと4万点も発見されています。青銅器時代は、エジプト、メソポタミア、中国などで、紀元前3000年頃から始まっていたとされます。銅は自然に産出しますが、錫は、錫石を珪石、石灰石などと合わせて加熱、溶解などして産み出されます。その上で、両者を厳格な温度管理の元で混合させた「青銅製品」が4万点ですから、気が遠くなります。そして、極め付けは、これらの青銅武器に施されている「クロームメッキ」です。緑青(ろくしょう=サビ)を防ぐため、10~15ミクロンのメッキがされていることがX戦分析でわかりました。20世紀に、ドイツで確立した技術がすでに使われていたことになります。そのため、発見された長剣は、光沢があり、重ねた新聞紙を切ることが出来たというのです。まったく言葉を失います。

 いかがでしたか?膨大なマンパワーを動員し、最先端の「超技術」で実現させた始皇帝のケタ外れの権力、スケールをあらためて思い知らされました。それでは次回をお楽しみに。