★★★ 芦坊の書きたい放題 ★★★

   
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第334回 こんな「ヨーコ」がいた

2019-08-30 | エッセイ

 佐野洋子という絵本作家・エッセイストをご存知ですか、とエラソーに書き出しましたけど、私も、そういえば「100万回生きたねこ」(講談社)の作者だったかなぁ、と言う程度の知識しかありませんでした。

 にわかに興味を覚えたのは、「人生散歩術」(岡崎武志 芸術新聞社)で彼女のことを読んだのがきっかけです。井伏鱒二(作家)、田村隆一(詩人)、志ん生(落語家)など、(本人はともかく)ハタからみれば、散歩でもするように悠々と人生を楽しんだ(はずの)人たち7人の生き様を追っています。

 女性として唯一取り上げられたのが佐野です。絵本作家でもあり、さぞかし、ゆったり、のびのびとした一生を送ったのかと思いきや、波乱万丈の人生だったようです。前掲書をガイドに、まずは、彼女の略歴を。

 1938年、中国・北京市に生まれ、2010年に72歳で亡くなっています。武蔵野美大卒業後、デパートの宣伝部に入社し、そこで知り合った男性と最初の結婚、1児をもうけ、かたわら、絵本作家としてのデビューを果たします。が、1980年に、この結婚は破局、一人息子との二人暮らしが始まりました。

 世間を驚かせたのは、1990年の詩人・谷川俊太郎との再婚です。前夫との離婚後、10年近くの「不倫交際」を続け、ひたすら谷川の離婚を待ち続けた末のゴールでした。しかし、それも長くは続かず、96年、彼女が58歳の時に別れます。
 「又、離婚したのである。これは疲れた。本当に疲れた」と書く佐野。一方、「僕もなんで別れちゃったのか、未だによくわからないところがあって」と書く谷川。寒々とした結婚生活だったようです。
 そんな中、2000年頃から、彼女は軸足をエッセイに移します。日々の暮らしをベースにしていますが、弱音やグチとは無縁の男っぽくて、力強い作品は、好評をもって迎えられました。ご本人の没後のことですが、これに目をつけたNHKのEテレが、2014年から「ヨーコさんの”言葉 "」という5分番組をスタートさせました。

 彼女のエッセイの朗読に、オリジナルのイラストを付けて紹介するもので、のちに、同名で書籍化された(講談社刊 全3冊)のを前掲書で知って、最初に出た1冊を図書館から借りてきました。各ページの文章は多くても5行くらいで、北村裕花という人の味なイラストが、たっぷり配してあります。そ~か、これは「大人の絵本」なんだ、と気がつきました。

 前置きが長くなりましたが、その中から「神様はえらい」と題されたエッセイの一部を、画像も一部拝借してご紹介します(実際は18ページ立てですが、私の方で、適宜まとめています)。

  「うちにね、娘が二人いるんですけどね」と、
  ちゃんとした背広を着た男の人が私に言った。
  「年子ですよ。上が6歳で 下が5歳なんですよ」

  金魚が死んじゃったんです。そしたら二人でお墓作るって
  言うんです。

  上の子はですね。まあ掘って掘って掘るんですわ。
  そんなに掘らんでもいいだろうってつい言ったら、
  怒りましてね、猫が掘って食べちゃうじゃないかって。
  なかなかきちんとしているとおもいましてね。

  それで妹見ましたらね。そのへんの落ち葉ぱっぱっと
  集めてきましてね、
  その上に金魚置いてね、また落ち葉パラパラとまいて
  おしまいなんですわ。


  私、腹立ちましてね、おねえちゃんを見なさい、
  いいかげんなことするなって、

  そしたら妹が、
  そんな穴の中にぎゅうぎゅう詰めにしたら
  苦しいじゃないの、
  暗くて寂しいじゃないのって、
  泣いて怒るんですわ。
  いやあ、違うもんだなあと感心しました」

 「もう世の中ってこの二つのタイプに分けられちゃうのね。やたらくそまじめと。他人から見るといいかげんなヤツ・・・・・」と話はもう少し続きます。単なる「いい話」や「心暖まる話」ではない、人生の苦味というか、生命(いのち)の深淵を覗き込むような不思議なテイストを感じていただけたでしょうか。
 得意の古書店巡りで、彼女のエッセイを見つけて、読み始めています。本を通じて知らない本を知る。こういう出会いがあるから読書はやめられません。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。


第333回 大阪弁講座-37 「まあ」ほか

2019-08-23 | エッセイ

 「333回かぁ、7の並びやったらフィーバーやのに」そんな大阪のオッちゃんの声が聞こえてきそうですが、大阪弁講座の第37弾をお届けします。

<まあ>
 大阪に限らず、話の中に、やたらと「まあ」を入れる、というか、入ってしまう人がいます。
 
 「趣味ですか?まあ、そうですねぇ~、まあ、もともと無趣味なほうでしたから、まあ、とりたてて言うほどのものは、まあ、ないんですけど、そうですねぇ、まあ、近所をぶらぶら散歩したりとか、まあ・・」
 その人なりのしゃべりのリズムになってるんでしょうけど、気にしだすと、結構、気になるものです。

 大阪にも、「まあ」この手の人はいるわけですが、意識的にというか、確信犯的に使うのが、大阪人のような気がします。

 ひとつは、ケンカとか、揉め事の仲裁で使うケース。
 「まあ、あんたの言い分も分かるけど、相手さんも、まあ、あそこまで謝ってはるわけや。そやから、ここはひとつ、オトナの解決で、と堅苦しい言葉使うけど、まあ、ここらあたりで、手ぇ打ったらどうかと、まあ、思うんやけど・・・」

 いきり立ってる双方を宥(なだ)め、落ち着かせるための一種の間合いとして、使ってるケースで、なかなか巧妙。ちなみに、こちらは、古代エジプトのケンカ仲裁の神「マーマ・ソノヘンニ・シトキーナ」だというんですが・・・真偽のほどは保証できません。


 もうひとつは、お詫び、言い訳の「まあ」
 「なんと申しましても、こちらの手落ちでっさかい(ですので)、一度くらいお願いにあがっただけでは、まあ、済まんやろうと思てます。このあとのこともありますよってに(ので)、今度のことは、まあ、ナニにしてもろうて、まあ、これに懲(こ)りんと、まあ、よろしゅうお願いいたします。」
 こんな感じでしょうか。のらりくらりと言い逃れするのに便利そう。

 さて、大阪独特のニュアンスで使われる「まあ」です。

 「あいつ、ちょっと抜けとうから、なんべんやってみても「まあ」アカンで」
 「今頃出かけても、「まあ」間に合わんやろ」

 共通語のニュアンスとしては、「たぶん」とか、確率は「五分五分」と、受け取る人が多そうです。
 でも、大阪で、否定的な言葉の前に置かれると、「まちがいなく」アカン、「とうてい」間に合わない、などと、ダメな度合いが、極めて高くなるのが普通。

 「まあ、世の中、何が起こる分からんから、絶対とは言わんけど」という言葉が、隠されてるからかなと、まあ、考えたりします。

<「なおす」と「ほかす」>
 大阪弁としては、割とポピュラーな話題かもしれませんが、軽く、ご紹介しようと思います。
「なおす」は共通語では、「直す」、つまり、ものを修理、修繕すること。言葉が同じだけに間違いやすいんですが、大阪では、「片付ける」ことを意味します。「元の状態にする」のと「元の場所へ移動させる」という意味では、根っこがつながってるんじゃないでしょうか。
 「それ、どっか、眼ぇにつかんとこにでも、「なおし」といて」といった具合。

 「ほかす」も関西以外の人の誤解を呼ぶ表現ですが、「捨てる」の意。
「それ「ほかし」といて」といわれた東京人が、「保管しておいて」と勘違いして大事にとっておいたところ、「何を大事に持ってるんや、捨てといたらええねん」と言われた、という定番の笑い話を思い出しました。

 いかがでしたか?次回をお楽しみに。


第332回 今どき珍しいもの

2019-08-16 | エッセイ

 以前、大の読書好きで、古本の世界にも詳しいエッセイストの岡崎武志さんのことを少し紹介しました(第273回「特殊古書店の話」)。
 最近出版された「これからはソファに寝ころんで」(春陽堂出版)では、還暦を迎えた氏の身辺雑記や本の話が(以前よりも)ユルいトーンで書かれてあって、癒(いや)されます。

 大阪出身ということで,もともと親近感を感じていましたが、今は、私と同じ市に在住だというのをこの本で知りました。私と同じように、最寄りの国立(くにたち)駅周辺にもこまめに足を運んでおられようです。残念ながら遭遇するチャンスには恵まれていませんが、身近な話題、知らなかった情報などを楽しみました。

 さて、この本の中で、国立駅南口のロータリーの出入口にある「横断歩道」のことが話題に上っていました。まずは、写真をご覧下さい。


 右手ロータリーの奥に駅舎が見えます。手前に、片側2車線の大学通り(一橋大に通じています)を渡るための横断歩道が写っていますが、これが話題になっている横断歩道です。

 これだけの道幅があり、交通量も多いにもかかわらず、信号機(車両用も歩行者用も)がないというのが「今どき」珍しいです。私も、時にドライバーとして、また、時に歩行者として、ここをよく通るのですが、いずれの立場でも、実に「快適」で「安全」です。

 信号機がないために、「横断歩道では、歩行者優先」という道路交通法上のルールに運転者側が気づかされます。それを煩(わずら)わしいとか思うことはなく、運転していても、ごく自然に、しかも余裕を持って、歩行者の流れに注意を向けられるのが不思議です。歩行者の時も、早めに止まったり、譲ってくれる車が多いですから、軽く手を挙げて、感謝の気持ちを表し、気持ち早足で渡るのが習慣になっています。

 人をやさしくさせ、交通ルールの原点を思い起こさせてくれる「いい横断歩道」なんですけど、残念ながら、今や圧倒的に少数派です。車用と歩行者用の信号が設置されている横断歩道が主流です。確かに、車用と歩行者用の信号があれば、「双方が信号を守る限り」安全ですから。
 でも、特に運転者の方は「とにかく信号を守る」ことに集中しがちで、「歩行者優先」という原点を忘れそうになります。

 「歩行者優先」が当たり前の外国からのお客さんがやってくる東京オリンピックを控えて、取り締まる側もその事に気付いたのでしょうね、渡ろうとする歩行者がいるのに強引に通ろうとする車への取り締まりを強化する、との報道がありました。現に、この横断歩道でも物陰に潜んでいる白バイを、以前より頻繁に目にします。

 取り締まりの強化や、信号機の増設という役所的、短絡的な発想でなく、今回紹介したような「あえて信号機を設置しない横断歩道」を、「教育的配慮で」設けておくというのもひとつの有効なやりかたではないかな、と考えたりします。

 「珍しい」ついでに、同じ大学通りにあるものを、もうひとつ紹介します。それは「自転車専用道」です。車道の端に自転車の絵をペイントしただけの「横着な」ものが多い中、ここのは本格的な「専用道」です。歩道側から、自転車専用道を撮りました。


 ご覧のように、自転車1台分の幅ですが、通りの左右に1本ずつあって、駅に対して、上り専用と下り専用で使い分けています。車を運転する立場から見ても、歩行者にとっても、自転車って、(便利だけど)やっかいな存在です。
 駅から南へ、3キロほどの区間ですが、車、自転車、歩行者が共存できる仕組みとしての専用道を設けている卓見に感心します。

 また、専用道と歩道の間に、立派な植え込みがあって、その切れ目切れ目にベンチが置かれているのが(部分的ですが)ご覧いただけると思います。これがなかなかのくつろぎスペースで、缶ビールを片手に、ひとり飲み会をやるのが、実は、私の秘かな楽しみ。写真には写っていませんが、手前の歩道も3~4人が並んで通れるほどの幅が確保されています。

 歴史をさかのぼれば、1926年から箱根土地株式会社(現・プリンスホテル)が、東京商科大学(現・一橋大学)を中心とした学園都市構想を立ち上げ、計画的に開発を進めてきた街です。「国分寺」と「立川」の間にあるから「国立(くにたち)」という命名がイージーですが、駅周辺の交通環境の良さは、そのおかげかな、などと感じながら、今日も日課の散歩でうろつき、時にひとり飲み会を楽しんでいます。

 いかがでしたか?次回をお楽しみに。


第331回 不思議な夢の話

2019-08-09 | エッセイ

 世の中にはいろいろ不思議なことがあります。非科学的、偶然の一致、錯覚などと一蹴する人もいるようです。でも、私は、以前にも書きましたが、それらの事実を事実として「不思議なことがあるもんやなぁ」とただ単純に楽しみたいクチ。

 で、前々から気になっていた「しかもそれは起った」(フランク・エドワーズ ハヤカワライブラリー 1963年)をふと思い立って、読んでみました。
 だいぶ古い本ですが、古今東西の不思議な実話68編が収められています。ご紹介したい話はたくさんありますが、「夢」にまつわる不思議話3つをお届けしようと思います。

<夢が教えてくれた子供たちの行方>
 1865年4月24日の朝、ペンシルバニア洲の森に住むコックス夫妻の二人の息子が行方不明になりました。家族はもちろん付近の住民数千人が、10日間必死の捜索を行いましたが見つかりません。

 そんな騒動の中、現場から12マイルほど離れたところに住んでいたヤコブ・ディパートという若い農夫が奇妙な夢を、二晩続けて見ます。
 夢の中で、彼は一度も来たことがない森の中で、行方不明の少年を捜しているのです。1本の倒木の前方に鹿の死体が横たわっています。鹿が通って来たらしい小道をたどると子供の靴の片方が落ちています。急流に倒れているブナの木を伝って谷川を進むと、小さなせせらぎが流れ込んでいて、そこに行方不明の子供二人が死体となって横たわっているのが見えました。

 ヤコブの話を聞いた妻は、自分の兄のハリソンに一部始終を打ちあけます。ハリソンは、子供たちが行方不明になった場所に土地勘があり、ヤコブの夢に出て来た付近の様子に心当たりがありました。そこで、ヤコブと二人で子供たちの捜索に向かうことになります。すると、鹿の死体、靴が見つかり、まさに夢で見た通りのルートをたどって、子供たちの遺体が発見されます。全くの第三者が見た不思議な夢がもたらしたのは、残念ながら悲しい結末でした。

<夢がもたらした発明>
 蒸気機関の発明で有名なジェームズ・ワットですが、夢のおかげで、画期的な鉛銃弾の製法を思いついていたというのです。
 
 それ以前の製法は、細かくした小片の鉛を鉄板の下でころがして、整形するという幼稚なもので、品質が悪い上に、歩留まりも低いものでした。
 そんな時、ワットは不思議な夢を見ます。本人によると、1週間続けてみたというのですが、夢の中で、彼は豪雨の中を歩いています。気がつくと、降り注ぐ雨粒は小さな鉛玉になって、足元で弾んでいるではありませんか。

 好奇心を抑えられなくなったワットは、教会の尖塔に登り、そこで溶かした鉛を下の堀をめがけて撒きちらしました。あとで堀を探ると、鉛はみな銃弾としてはうってつけの大きさ、形の玉になっていたというわけです。世の中的には、蒸気機関の発明だけで十分だったと思いますけど。

<夢で大特ダネ?>
 「ボストン・グローブ紙」の記者エド・サムソンは、社の仮眠室で恐ろしい夢を見ました。ジャワ島近くの小島「プラレイプ」が大爆発を起こしたのです。溶岩の流れが山腹沿いに、畑、集落、人々の上に降り注ぎます。信じがたいほどの火、煙、泥が一本の柱となって吹き上がります。

 まるで、空中から一部始終を見ているかのようなリアルな夢を、エドは、「記事の少ない日のネタにでもなるかな」とその場で書きとめて、「重要」とだけ走り書きし、机の上に置き、帰宅します。

 翌朝、それを見つけた編集長が、前夜に入電したニュースだと思い込み、第一面の二段抜きの記事に採用しました。更に、スクープと信じた編集長は、記事をAP通信社に送り、そこから各紙に配信されて、問い合わせが殺到します。軽率といえば軽率ですが、何かに憑かれたような編集長の行動も不思議です。
 さて、困り果てたのは編集長です。当時(1883年)、ジャワ島とは通信手段がありません。なにより、書いた本人が見当たりません。やっと連絡が取れて、本人が創作であることを認めました。本人はただちにクビ、そして、グローブ紙は一面トップでの謝罪広告の準備へと、てんやわんやの騒動となります。

 そんな中、大爆発による大津波、地震波など地球規模の異変情報やら、危うく難を逃れた船からの情報が集まり始め、噴火で消滅した「クラカタウ」島の恐ろしい物語が明らかになってきました。のちに「クラカタウの大爆発」と呼ばれることになる大爆発の模様を伝えるリトグラフ(1888年)です。


 一転、グローブ紙は、謝罪広告の撤回に努め、第一面に「英雄」エド・サムソンの写真を飾りました。ただし、エドがどうしてこの異変を知ったかは明らかにしないままの手のひら返しです。

 「クラカタウ」として知られているこの島ですが、エドがなぜ「プラレイプ」と呼んだのかは謎でしたが、後日、その謎が解けました。エド宛にオランダ歴史学会から送られて来た古地図には、「クラカタウ」島が、原住民の古い呼称「プラレイプ」として記載されていたのです。ただし、その呼称は、150年以上も前に廃れて、使われてなかったというのですからつくづく不思議です。「クビ」から一転「英雄」となったエド記者自身が一番不思議な思いをしていたはずですが。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。


第330回 新古書店の今

2019-08-02 | エッセイ

 少し前のことですが、新古書店の代表格であるブックオフの一部の店で、漫画を「立ち読み禁止」にした、というのが、ネットで話題になっていました。ただし、ご覧のような看板を出してるだけで、もっぱらお客の良心に訴える作戦のようです。




 私には縁のないジャンルですが、ブックオフといえば、漫画の立ち読み、というくらい定着した風景です。売り上げにはまったく貢献しませんが、店内になんとなく活気があるように見えますから、大目に見てきたのでしょう。今のところは、ごく限られた店舗での「試行」のようですが、余裕がなくなりつつあるのかな、と感じます。

 あんなのは古本屋じゃない、などという人もいますが、私は、こだわりなく新古書店も割合利用する方です。
 20年くらい前から最近までのちょっと古い本がメインで、独自の分類・整理が割合行き届いてますから、分野を絞った古本のチェックができるのが何かと便利で、思わぬ発見もあります。

 もちろん(ネットとの比較で)値段が折り合えば買うのですが、「情報収集」が主たる目的と割り切って、気軽に足を運び続けています。
 時には溜まった本を売ったりもしますが、客の立場から見ると、この業態も経営環境が厳しくなり、曲がり角に来ているのを実感します。以下、ブックオフに限定して、最近の状況を私なりに実感レポートしてみますので、お付き合いください。

 多摩エリア在住16年になります。自宅から、車で1時間ほどの範囲に、今でも10数店舗がありますが、移り住んで以来、知る限りでは新規出店はなく、廃止になったのが3店舗です。その内、2店舗は、駅にも近い繁華な立地でしたから、創業(1990年)から、30年近くを経て、勢いの衰えは隠せません。実物を手に取れるというのは強みですが、品揃え、検索機能などで勝るネット古書店粗手に苦戦模様です。

 2~3年くらい前からでしょうか、スマホ、タブレットなどのデジタル機器を中心に、ハード物の扱いを始めました。「多角化」ということなのでしょう。スマホの場合だと、利用できるキャリア、OS、発売時期、状態など、商品毎の情報の提供には力をいれており、動作チェックもぬかりはないようです。しかしながら、人の背丈ほどのショーケースを2つか3つ置いてる程度という店が多く、あまり意気込みは感じられません。

 今や飽和状態ともいえるデジタル機器への参入のうまみは少ないでしょう。何より、中古の場合、リチウム電池のヘタリ具合が使ってみないと分からない、というのが買う方にとっては最大のハードルじゃないでしょうか。中古といっても、ものによっては、何万円もしますから、なかなか手が出ない事情も理解できます。時々、ショーケースを覗いてみますが、並んでいる商品の入れ替えもあまりないようで、苦戦してますね。

 さて、要らなくなった本を売る(店側からは「買い取り」)場面でも変化を感じています。

 本のバーコードを読み取って、自社のデータベースと突合して、自動的に値付けをするシステムを導入する店が増えています。査定がスピーディーで、買い取り金額も、店とか担当者での差は、基本的に出ない「明朗な」仕組みです。

 ただ、ここ最近の経験ですが、買い取りが少しシビアになった気がします。今までなら値が付いていたはずの本で、「値が付かない」と言われることが多くなったのです。つい最近も、10数冊ほど持ち込んだ時、2冊に値が付かないと言われました。
 1冊は2006年出版の語学書で、CD付き、書き込みもありません。もう1冊は1988年出版ですから、いささか古いですが、これまでの経験上、値が付かないのは腑に落ちません。
 男の店員が「この2冊は値段が付きませんでした。引き取ってもいいですか」と、店で(無料で)引き取るのを前提にしたような言い方をしたので、少々ムッとして、「いや、「私の方で」引き取ります。ほかの店で売れるので」と、ちょっとイヤミを言って引き取りました。

 後日、別の店に持ち込んで、語学書は売れましたが、もう1冊は、やはり、値が付きませんでした。買い取り現場にも、「仕入れコストの低減」というプレッシャーがかかっている様子ですね。

 ネットという代替手段はありますから、なくなってもそう困らないとは思うのですが、冒頭の方にも書きましたように何かと便利な存在です。取り巻く環境は厳しいですが、がんばって生き延びて欲しいですね。
 
 いかがでしたか?次回をお楽しみに。