★★★ 芦坊の書きたい放題 ★★★

   
           毎週金曜日更新

第547回 トイレットペーパー考

2023-10-27 | エッセイ
 小さい頃、汲み取り式の我が家のトイレには「便所紙」が置いてありました。(たぶん)多くの家庭がそうであったように、新聞紙をハガキよりちょっと大きいサイズに切ったもので、用を足した後、揉(も)んで使います。いつからトイレットペーパー(以下、「ペーパー」)という言葉と、その実物が当たり前のものになったのかの記憶はありません。トイレの水洗化とともに普及が進んだような気がしています。最近では、ウォシュレットの普及で水分を拭き取るのが主な用途のようです。
 日々の生活に欠かせないものですが、お国柄、国情により、紙も様々、また、紙以外の素材も工夫して利用されていることを、コラムニスト・上前淳一郎さんのエッセイで知りました(「落し紙文化考」(「読むクスリ PART4」(文春文庫(1989年)所収)。元になったコラム(週刊文春 1984~2002年連載)は、ビジネス現場でのためになる話、ちょっといい話を集めたものです。情報としていささか古く、現状は大いに改善されているだろうことは承知の上で、社会史的、文化史的に興味深いものですのでご紹介することにしました。「世界のトイレ博物館」というウェブサイトから拝借した世界のペーパーの画像です。

 情報源である慶応大学の西岡秀雄名誉教授(以下、「教授」)によると、国連加盟158カ国のうちで、新聞紙が作れる国は30、そして、新聞紙より柔らかいペーパーが作れる国は、日・米・仏・西独・中国のたった5つだといいます。日本製が柔らかさ、吸水性で優れているとのお墨付きにちょっと嬉しくなりました。
 1966年、教授が国際会議で訪れたパリでのペーパー体験です。当地のものはハトロン紙のようで、揉んでも使いにくかったそう。ベルサイユ宮殿のものはもっと厚く、しっかりした紙で、ペンでメモが取れるほどでした。その他の一流国でもペーパーはつるつるで、吸湿性、肌触りも悪いのが多いとのこと。ただし、「メモ用紙」としては最適なので、学校、役所、会社などではその盗難が頻発します。対策として、ミシン目のところに会社名、大学名などを印刷して、メモとして使いにくくする工夫がある、というのです。その努力をペーパーの品質向上に向ければ、などとお節介なことを私などはつい考えました。
 イスラエルでの教授の体験です。外務省のペーパーは、水色で柔らかいものでした。外国からの来客を意識しているようで、一般の省庁のものは茶色で硬いもの。ヘブライ大学では、教授用と学生用のトイレで、ペーパーの品質に差を設けていました。ペーパーといえども格差を生んでいる国があるのですね。
 メキシコで、教授は、二人の知識人がニューズウィークか、タイムか、と熱い議論をしている現場に出くわしました。ニュース週刊誌としての報道の優劣かと思いきや、お尻の拭き心地はどちらがいいかの論争だったといいます。一般用は、トウモロコシの芯をパルプにしたものが素材ですから黄色くてゴワゴワしています。週刊「紙」としての優劣論争だったのですね。
 ペーパーの色ですが、白とは限りません。イギリスではワインカラー、西独ではピンク、イタリアでは黄、緑、オレンジなど濃い色が好まれます。北欧では、週ごとに色を変えて気分転換(?)するのが流行りとか。アメリカには、クロスワードやイラストなどを印刷したのがあります。サンタクロースをプリントしたものの、輸出先のヨーロッパでは「サンタクロースでケツが拭けるかっ」と不評だったそう。日本でも企業の広告を印刷するのがありますが、広告主はもっぱら関西が中心、というのを読んで、いかにもと思わず苦笑いしました。

 さて、質の良し悪しは別にして、庶民がトイレで紙を使っている国は3分の1と少数派です。残る国々の実情は(あくまで本書執筆時点で)こうなっています。
 指と水を使うのが、インド、インドネシアです。使うのは不浄とされる左手に限られ、食事に使うのは右手限定です。サウジアラビアなど砂漠が多い国では、指と砂の出番です。トイレに砂漠の細かい砂が置いてあり、指にまぶしてひと拭きというわけです。乾燥してますから砂はすぐ乾き、パラパラと落ちますからご心配なく。
 小石を使うのはエジプトです。手頃な石をあらかじめ拾っておくなどして用意しておきます。熱い国ですからヤケドに注意、とのこと。
 アフリカ式は、川の中に2本の杭を立て、水中にロープを渡します。ロープに掴まって用を足し、ロープにまたがって汚れをこすり落とす本格的な「水洗式」です。中国の場合は、トイレに3~4本のロープが天井から垂れ下がっています。1本に掴まって用を足し、「その同じロープで」拭きます(そうしないと他人が拭いたばかりのロープを使うことがありますから)。

 冒頭で書きましたように、作れる国は限られますが、研究のため、教授は世界で「使われている」ペーパーを集めています。62カ国、400種以上という大コレクションです。大学の講義では、その一部をドカッと教壇に並べて学生に見せます。「世界にはいかにいろんなトイレット・ペーパーがあるかを学生たちに見せ、学問と取り組む姿勢を説く。「観念論をしてはいけないよ、実証主義を貫くことだ」」(同書から)
 たかがトイレットペーパー、されどトイレットペーパー。奥が深いですねぇ。
 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。

第546回 中学英語の今 英語弁講座43

2023-10-20 | エッセイ
 今や、小学校の高学年から英語を習う時代。私が初めて英語に触れたのは、60数年前の中学入学と同時でした。ちょっとオトナの気分になり、私なりにがんばって勉強したのを思い出します。教科書は、「JACK AND BETTY」(開隆堂)(画像は復刻版)でした。

 英語教育のあり方などについて、いろいろ議論がある中、今の中学生の皆さんはどんな教科書を使っているのか知りたくなりました。以前、数学編、理科編でネタ元にしました「人生に必要な教養は中学校教科書ですべて身につく」(池上彰/佐藤優 中央公論新社)に拠り、中学英語の今を、堅苦しい話抜きでお届けします。気軽にお楽しみください。(文末に、数学編、理科編へのリンクを貼っています)

 まずは、教科書で学ぶ文章の1例です。アラスカを中心に優れた作品を残してこられた写真家の星野道夫さん(1996年、カムチャッカ半島でヒグマに襲われ亡くなりました)について綴られています。英文抜きの、私の参考訳のみですが、こんな素晴らしい世界に触れているのだ、ということを知ってください。(以下、引用は、東京書籍「NEW HORIZON English Course 1~3」に拠ります)

<道夫の写真には、アラスカの美しさが永遠に私達と共にあります/それこそが写真の魔術です/しかしながら、アラスカの野性は地球温暖化により変わりつつあります/北極の氷河が溶けているのです/道夫が写真に撮った北極グマやアザラシは、もはやエサを獲ることができません/カリブーの生息数は減少しています/イヌイットの人たちでさえ、伝統的な生活様式を失いつつあるのです>

 いかがですか?3年生用とはいえ、内容的になかなかのレベルでしょ。ひとつひとつの文は短いですが、地球温暖化が、アラスカの自然、動物、そこに暮らすイヌイットの人々に与えた影響、というタイムリーな話題がヴィヴィッドに、かつ力強く語られています。
 資料編には、2014年にノーベル平和賞を受賞したマララさんの国連演説の抜粋が載っているといいます。今や、中学生が(その気になれば)国連演説まで読める時代なのです。生きた素材、多様な素材の導入が進んでいることを知りました。

 さて、最近の英語の教科書を開いて、著者の池上さんと佐藤さんが指摘するのは、圧倒的に「会話文」が多いということです。中高で6年間英語をやったはずなのに、ロクに英語を話せない日本人が多すぎる、との各方面からの声もあるのでしょう。いろいろ工夫の跡が見えます。
 1年生用では、最初に、主な登場人物11人が紹介されます。
 日本人は4人ですが、カナダ出身で日本文化に興味を持っているAlex、インド出身でバンドをやっているDeepa、ブラジル出身でサッカー部のコーチをやっているPauloなど、グローバル時代を踏まえたラインナップです。ちゃんとキャラ設定までする芸の細かさに感心します。
 また、"Daily Scene”というコーナーがあって、こんな「実用的な会話」の例が紹介されます。「年末のにぎわう街で、外国人観光客から道を尋ねられる」という設定では、地図がついています。どう案内するかが問われます。そこには、
 "I'm sorry.I don't know.I'm a stranger here."(すいません。よくわかりません。ここは不案内なので)という極めて「実用的な」例文まで載っている、というのには笑ってしまいました。
 同コーナーには、こんな(NHKの語学講座っぽい)父親と娘のやり取りもあります。調子が良くないという娘エリカに、やさしく声をかけるお父さん。
Erika,how are you today?(エリカ、今日は調子どう?)
Not so good.(あまりよくないの)
What's wrong?(どうしたんだい?)
I have a headache.(頭痛がするの)
Take this medicine and take a rest.(この薬を飲んで、ゆっくりしていなさい)
Thank you,Dad.(ありがとう、お父さん)

 いろいろ議論はあるのでしょうが、「会話重視」がすっかり定着しているようですね。
 さて、私自身を振り返ると、A,B,Cの読み書きから始まった中学3年間での英語がすべての基礎です。
 その後、自分なりに積み重ねもして、今は「趣味」として楽しめることに感謝しています。高みを目指さずとも、(ちょっとした努力とその結果としての)レベルに応じて、役に立ち、楽しい経験ができるのが英語じゃないでしょうか?出来るだけ多くの人に、英語で世界を広げて欲しいと心から願っています。その意味で、中学英語の3年間って、本当に大切です。英語嫌いを作らず、楽しく学べる教科書を理想として、教科書会社、執筆者の皆さんの更なる創意工夫に期待しています。
                                                                                                            
 いかがでしたか。過去の関連記事へのリンクは<数学編><理科編>です。合わせてご覧いただければ幸いです。それでは次回をお楽しみに。 

第545回 周作と柴錬のぐうたら交友

2023-10-13 | エッセイ
 狐狸庵先生こと遠藤周作氏(以下、周作さん)といえば、北杜夫さんや、吉行淳之介さんなど、幅広い交友関係で知られた作家です。ちょっと古いエッセイですが、「ぐうたら交友録」(講談社文庫)を、最近再読し、作家の柴練こと柴田錬三郎氏(以下、柴錬さん)との交友ぶりを紹介したくなりました。めっぽう明るく、お茶目な周作さんと、気難しさの塊のような柴練さん。キャラがまったく違う二人がどんなきっかけで知り合い、どんな交友だったのか・・・私ならずとも、ちょっぴり知りたくなりませんか?その謎解きをお楽しみください。

 戦後まもなく、周作さんが作家を目指していた若い頃、本屋の店頭で「三田文学」という雑誌が目に止まりました。母校である慶應大学の文芸同人誌です。編集後記に柴田錬三郎という名でこのような趣旨の文章が書いてありました。「新人のいかに稚拙な原稿でもそれが真剣に書かれているならば、襟を正して読むであろう」(同エッセイから)
 飛んで帰って、三田文学の編集部に電話した周作さん。原稿を見てもらうにはどうすればよいかを尋ねると、同人の集まる日を教えてくれ、そっと出席してもよい、との返事を得ました。
 教えてもらった日、神田の書店の一室で開かれていた会に緊張して臨んだのですが、誰も気にかけてくれません。でも「教えられなくてもすぐ問題の柴田錬三郎氏はわかった」(同)とあります。皆がくたびれた洋服を着ている中、ひとり真白なワイシャツに蝶ネクタイ、縁なし眼鏡で、口をへの字にまげた人が真向かいにいたからです。他の人が笑っても、口をへの字にまげたまま「つまらん」という表情を続けていました。いや~、柴錬さんの風貌が眼に浮かぶようです。会はどうやら三田文学の前号の合評会だったようで、その時は、すでに小説家としてスタートを切っていた原民喜氏に自己紹介しただけに終わりました。

 何度か集まりに出ているうちに、周作さんは、生来のあつかましさを発揮して、柴練さんの家まで押しかけるようになります。人見知りをしない性格に加え、「その理由はいろいろあったが、私のようにシャベリまくる男には、こういう先輩はまこと不思議そのものの存在であり、一体、なぜ口をへの字にまげて笑わぬのか。あるいは化石のように無表情なのか。それが知りたかったからである。」(同)というのが、いかにも好奇心満点で、小説家的な目の付け所ですね。
 付き合ってみれば、必ずしも笑わぬ人ではありませんでした。笑うと照れ臭げな人なつっこい表情が浮かぶのを気にしていたのかも、と書いています。当時の柴練さんは寂れた一軒家住まい。子供向きの名作物語を細々と書いている時代です。「くだらん」の口癖には「あり余る自分の才能をまだ発揮させてくれない世間とジャーナリズムにたいする不満をこの言葉にこめて言っているようだった。」(同) のちに、直木賞を受賞し、眠狂四郎シリーズなど剣豪小説で一時代を築いた柴練さんにもこんな鬱屈した時代があったのですね。

 まるで師のように柴練さんを慕い、傾倒していく中での、こんなエピソードを語っています。
 女子大を出て出版社に勤めているある女性に、周作さんがゾッコン惚れ込んでしまったのです。汁粉屋などに誘って口説くのですが、どうしても首を縦にふりません。ついには友人を同席させ、彼女の前で泣きマネまでするのですが、冷たい返事が返ってくるだけです。友人が「「君は一体、どんな男に心ひかれるのですか」とたずねると、はじめてニッコリ笑い、「柴田錬三郎さんみたいなしっとりした中年の人」と答えたのである。」(同) 仕事を通じての知り合いだったのでしょうけど、周作さんが次にとったアクションが笑えます。
 柴練さんの自宅へ駆けつけて、どこにそんな魅力があるのか、とあらためて見ていると、「時折、鼻をフンフンとならしながら、卓上の煙草を一本取っては口にくわえ、細長い指でライターをパチンとつけるのである。」(同)
 「フンフン」がポイントだと思い込んだ周作さんは、それをマネているうちに、すっかり癖になってしまったというのです。
 そして、10年の時が流れ、二人の間で、先ほどの彼女が幸せな結婚生活を送っていることなどが話題になりました。そこで、周作さんが「フンフン」の一件を思い出して柴練さんに語ると、彼の驚くまいことか。「「おまえ」柴田さんは甚だ困ったような、照れくさげな笑いを頬に浮かべた。そして低い声で、「おまえ・・・・俺あ、あの頃、蓄膿症だったんだよ。だから鼻をフンフンいつもならしていたんだぞ」」(同) 今度は遠藤さんが驚く番、って、そりゃそうでしょうね。

 最後に、お互いに作家としてのこんな交友エピソードを披露しています。
 小説家として自立できるか自信がない周作さんは、ある時、20枚ほどの地味な小説を柴練さんのもとに届けました。冒頭の方で紹介した編集後記が頭にあったからです。とても読んではもらえないだろうとは思いつつも、たまらず2~3日後に訪ねました。なんと机の中から取り出した小説には、朱筆がぎっしりと入っています。そして、2時間、小説のデッサンの仕方について、教えてもらったというのです。
 遠藤周作さんが芥川賞を受賞したのは、その半年後です。すぐ報告に行くと「彼は私が今でみたことのないような笑顔で、「ああ、とったな」ただ一言、そう言ってくれた」(同)
 師弟関係に近い交友の中で、作家として苦労しているもの同士だけが共有できる喜びが伝わってきます。ちょっといい話に、ちょっぴり羨ましくなりました。
 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。

第544回 ニコライ血染めのハンカチ

2023-10-06 | エッセイ
 明治24年、訪日中のロシア皇太子(のちの皇帝・ニコライ2世)が、琵琶湖遊覧を終え、大津の町を人力車で移動中に、警備の巡査・津田三蔵に襲われ、頭部に大きな傷を負うという事件が起きました。世にいう「大津事件」です。この事件をテーマに「ニコライ遭難」(新潮文庫)という作品のある作家・吉村昭のエッセイ(「わたしの普段着」(文春文庫)所収)によると、この事件が現代に蘇ったかのごとき後日談がある、というのです。まずは、事件そのものをエピソードも交えて簡単にご紹介した上で、興味尽きない後日談をお伝えすることにします。最後までお付き合いください。こちらニコライ2世です。

 皇太子(当時)が、最初に軍艦で来日した地は長崎です。ギリシャ正教の祝日の関係で公式行事には参加できないため、皇太子の上陸は許可されませんでした。でも、美しい長崎の街を眼前にして、艦内にとどまることなどできず、お忍びで上陸したのです。県の警察部は私服刑事を尾行させ、彼の行動記録が残っています。それによれば、皇太子は二人の刺青師を軍艦に招き入れ、両腕に刺青を彫らせました。その後、旅を続け、京の都へあと一歩という大津で遭難したというわけです。
 その時、こんな事実があります。皇太子の出血は甚だしく、道に面した呉服商に置かれた縁台に座って応急処置を受けました。接待役の有栖川宮(ありすがわのみや)が渡したハンカチを傷口に当て、随行の医官が傷を洗浄したというのです。このハンカチが、後日談のポイントになります。ちょっとご記憶ください。傷が癒えた皇太子は、無事に帰国しました。

 さて、いよいよ後日談です。
 きっかけは、吉村が目にした新聞記事です。エッセイが出版される数年前、といいますから、2002~3年頃のことと思われます。ロマノフ王朝最後の皇帝・ニコライ2世の遺骨鑑定についてのものでした。
 皇帝は、ロシア革命後、エカテリンブルグ郊外の邸に妻子と共に幽閉され、ボリシェビキの一隊によって全員射殺され、遺体はひそかに運び去られたとされています。ソビエト連邦崩壊後、エカテリンブルグの森の中で9体の遺体が発掘され、皇帝と思われる遺体が果たして皇帝そのものであるか、ロシア保健省から滋賀県に対し、調査協力依頼があったという報道です。
 小説化にあたって、吉村も襲撃に使われたサーベルを目にしています。大津市が保管しているもので、全長83.4cm、刀身のほぼ中央部に刃こぼれがありました。ただし、事件直後に路上に投げ捨てられたサーベルを拾った車夫が、津田を背後から斬っていますから、どちらによる刃こぼれか断定はできません。でも、遺体の頭蓋骨には襲撃の痕跡が残っているはず、と吉村は推理します。
 また、長崎で彫った刺青が残っているかも、と一旦は考えたものの、白骨化しているはずですから、これはありえない、と自身でツッコミを入れていたのが笑えました。

 吉村ならずとも調査結果が気になるところですが、続報はありません。
 たまらず、吉村は、事件の関係資料を保管している県立琵琶湖文化館の学芸員である土井氏とコンタクトを取ります。その結果、わかったのは、以下のような事実でした。
 滋賀県庁を訪れた調査団が遺体確認のために重視しているのは、前段でご紹介した血染めのハンカチでした。そこに染み付いた血液と遺骨のDNAが一致するかどうか調べようというのです。
 ハンカチの一部を切り取らずにDNAを検出するのは困難とわかり、結局、県が切断を許可し、それを調査団が持ち帰りました。
 その後、ロシアの調査担当官から、ハンカチのDNAと遺骨のDNAは一致しなかった、というFAXが入った、と吉村は聞かされました。
 帝政ロシアを打倒したという確実な証拠の獲得に、いまだに執念を燃やしているわけです。
 一方、「土井氏は、貴重な文化財が一部切断されたことは、「誠に遺憾」と記している。」(同エッセイから)とあります。
 かけがえのない歴史的史料が切り取られるのは、土井氏にとって、我が身を切られるようで、辛く、悔しかったに違いありません。今、世界を騒がせている「アレ」(阪神の優勝ではありません)といい、今回の調査といい、現代ロシアは、なにかにつけて、強引にコトを進めるのがお好きな国柄のようですね。
 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。