★★★ 芦坊の書きたい放題 ★★★

   
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第193回 大阪弁講座ー22 「チョネチョネ」ほか

2016-11-25 | エッセイ

 たまには、色っぽいというか、艶っぽい大阪弁を紹介しましょうかなぁ。あまり得意な分野じゃないですが・・・・

<チョネチョネ>
 大阪人て、いやらしい語感の言葉を作る天才とちゃうか、と思う時があります。
 これなんかも、その代表格ですかな。あえて標準語だと「いちゃいちゃ」が近いようだけど、ねっとりと絡み付くようなこの語感は大阪弁特有。ただし、濃厚度には、けっこう幅があります。
 「何やいな、もう・・・そんなとこで、「チョネチョネ」されたら、かなわんがな(迷惑だ)」
 「こっちは、独りもん(独身)やで。そう「チョネチョネ」されたら、夜、寝られへんがな」
 これらの例だと、「いちゃいちゃ」とほぼ同じ感じ。まあ、押しくらまんじゅうの延長で、せいぜい上半身中心の痴態、といったとこでしょうか。

 「物置で「チョネチョネ」しとったら、そこへ戸ォ開けて亭主入って来よってん。えらいこっちゃった」これなんかは、存分に、ことは下半身に及んでますな。そら、えらいこってすわ。

 関西で男女の営みを表すもう一つの表現(お××)よりも、おおっぴらに使える、というのも便利(?)なとこかも。

 それで思い出したのですが、クイズ番組なんかで、正解の部分で伏せ字(XXとか)になっているのを、「チョメチョメ」と読むのが主流になっています。
 私の記憶では、山城新伍(故人)が、随分昔のクイズ番組で、使い出したような記憶があります。こちらの方。

 山城は、たしか京都出身。当然「チョネチョネ」も知ってたはずで、あえてまぎらわしい、というか、ひとつ間違えばアブない言葉を、確信犯的に使ったに違いない。「チョメチョメ」が放送禁止用語にもならず、堂々と(当然ですけど)、全国的に使われてるのを見ると、懐かしいような、不思議な気分になります。

<すっくり>

 「一部始終」と言う意味では、「すっかり」に近いんですが、ちょっと色っぽい使い方があります。
 
 夏の京都。鴨川べりに並ぶ料亭などが、河原の上に、臨時で、せり出すように宴席を設ける。川床と称し、納涼気分で、酒や食事を楽しんでもらおうという趣向です。

 で、その下が、ちょっとした死角になってるから、アベックの溜まり場になってる。
 料亭の2階からそれを見ていた女将から聞いた話。
 「目ぇの下に、アベックはんが居てはって・・・・何て言うんですかなぁ・・愛の営みとでも言うたらよろしいんどすかな、チョネチョネしてはんのを、「すっくり」見せてもらいましたわ」

 始めから終わりまで、とは言うけれど、見てはならぬもの、ちょっとヤバいけど目が離せないものを、つい見てしまった。そんな時にピッタリと使える言い回しですかね。京都で拾った用例ですけど、大阪でも使える(はず)。

 ちなみに、「すっかり」と「すっくり」は、互換性があるようで、大阪人的には、微妙な使い分けがあります。「すっくり忘れてた」とは、言わず、「ころっと忘れてた」または、「こてっと忘れてた」(こちらの方がより大阪的)が「正しい」用法。

 まるまる、根こそぎと言いたい時は、「すっかり」より「ごそっと盗まれた」の方が、いかにもえらい被害に会った気分で、大阪人的には腑に落ちる。ちょっと、上級編をお届けしました。ご参考までに。

 いかがでしたか?次回をお楽しみに。


第192回 善意の落とし穴

2016-11-18 | エッセイ

 かつて、大規模災害などが起きると、「救援物資」の呼びかけがよく行われました。どうみてもゴミを処分してるとしか思えないようなものも含めて、山のように物資が集まります。ただでさえ忙しい地元自治体の職員、ボランティアなどがその整理に追われ、救援・復旧作業に支障が出ている、などと報じられた時期がありました。

 さすがに、最近は「義援金」に一本化されているようですが、それにかこつけた怪しい団体や詐欺まがいの寄付集めの横行が止まりません。また、集まったカネの配分を巡っても、あれこれあって、被災者のもとになかなかカネが届きにくいという現実もあるとのこと。

 善意を、被災者の方々にとって本当に役に立つ形にするのって、難しいなと感じます。

 こんな例もあります。毎年、広島には、大量の千羽鶴が送られてきます。ひとりひとりの「善意の塊」です。でも、あまりの多さに、ほとんどが環境問題となるゴミと化していて、焼却処分費だけで、年間1億円かかっているという事実はほとんど知られていません。
 善意には、現実的にこんな落とし穴もあるんですね。

 それを強く実感したのは、ドキュメンタリー映画「ポバティー・インク あなたの寄付の不都合な真実」を観てから。そこで描かれた善意の落とし穴の事例を、ざっとご紹介します。

 主な舞台は、ハイチ。2010年、大規模な地震が発生し、甚大な被害が出ました。全人口の3分の1にあたる300万人が被災したとされ、世界中から支援物資が寄せられました。惨状を伝える画像です。


 地震の被害で、生活必需品などが自給できない当座の状況では、確かにそれらの支援物資は、ありがたいものだったでしょう。
 しかしながら、地震から3年(映画製作時(おそらく今も続いているはず))たっても、アメリカから大量のコメが届き続けているといいます。その結果、アメリカ人の善意の寄付で購入された無料のコメが市場にあふれて、地元のコメは売れなくなりました。売れないコメを作る農家なんかありませんから、多くの農家から職を奪い、農業は崩壊、自立への道も閉ざされました。1980年代、コメは貴重品で、週に2~3回食べる程度だったのが、今や毎食コメの生活が定着してしまったのです。寄付のコメがなければ、国民の食生活が成り立たない体質に陥ってしまいました。

 農業を追われた人々は、都市に流れ込んできますが、そこに新たな職はなく、スラム化、というあらたな問題も産み出しています。

 「電力不足を救う」と称して、無料で大量に送られてくる太陽光パネルも、ハイチの人々の職を奪い、自立の足を引っ張っています。地震前から数十人の従業員を雇用し、街頭用パネルの製作、販売をほそぼそと手がけて来た地元の会社の場合です。事業が軌道に乗りかけた矢先の地震、そして無料のパネルの流入で、事業の継続が危機に瀕しているといいます。

 映画のタイトル通り、数多くのNGOも巻き込んで「ポバティー(貧困)」を、ビジネスのサイクルに乗せ、「インク(企業、会社)」として機能する仕組みががっちり出来上がっている、というわけです。善意に潜むこんな落とし穴に暗然となります。せめて、現場への想像力を、目一杯発揮するしかないのでしょうか・・・

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。


第191回 「彼」と「彼女」をめぐって-英語弁講座9

2016-11-11 | エッセイ

 英文科ご出身の「孫平様」にもご愛読いただいてますので、いい加減なことが書けず、緊張します(汗)。出来る限り正しい情報をお届けできるよう努力しながら、当シリーズを続けていこうと思います。引き続きご愛読ください。

 さて、以前、ファーストネームを話題に取り上げましたが、今回は、三人称(「彼(ら)」と「彼女(ら)」)という呼称にこだわってみようと思います。

 半世紀以上の昔、英語を習い始めてすぐ、he=彼、she=彼女、と覚えさせられました。彼氏、彼女は、もっぱら「恋人」の意味で使ってたと思いますが。日常的に、彼、彼女なんて使うかなぁ、なんか日本語に馴染まない言葉だなぁ、というの当時からの疑問。

 それも道理で、作家の井上ひさしによると、日本人の祖先は、そもそも三人称の代名詞を必要としていなかった、というのです。どうしても必要なら、その人の名前とか、職業とか、身分、肩書きなどで呼べば良かったわけですから。こちら、井上ひさしさん。



 ところが、明治維新によって、西洋語が入って来て、男女の区別のある三人称の代名詞に訳語を当てる必要が出てきたのです。その時、一旦は、古くから使われていた彼(かれ)を当てるのですが、この代名詞は、本来、男女共用です。仕方がないので、「彼」は男専用にして、女性用には、「彼女」という言葉を当てることにしたらしいのです。ただし、最初の頃は、「あのおんな」「かのおんな」と読まれていたようで、「かのじょ」が定着したのは、明治10年頃から、というのですね。(出典:「井上ひさしの日本語相談」(朝日文芸文庫))

 そういえば、日本人の場合、会話の中で、その場に居あわせない人物のことは、名前とか愛称で呼ぶのが普通ですね。「彼」とか「彼女」とか呼ぶのは、ちょっと他人行儀、距離を置いてるニュアンスがあります。
 ところが、英語だと、家族同士だとか、親しい人でも、「その場に居合わせない」人は、第三者ですから、ごく普通に、三人称のheかsheを使います。あくまで原則を貫くわけです。

 子供が家で、父親に尋ねます。”Where's mom?”(お母さんはどこ?)
 台所にいるとすれば、”She's in the kitchen.”
 日本人の感性だと、子供の目線から見て「「お母さん」は、台所だよ」が普通でしょうけど、英語だと "she"の出番、というわけです。
 
 さて、親しい人が何人か集まっているの会話の場合、皆んな、その場に居合わせていますから、お互いは、「完全な第三者」ともいえない微妙な関係になります。したがって、話に加わっているメンバーのことに言及するのに、いきなり、"he"とか"she"で呼ぶのは礼を欠く行為とされています。

 まずは、ファーストネームとか、ニックネームなどを使う。その上で、会話が進むにつれて、
"he"とか"she"で言及するのは、OKといった感じでしょうか。呼び方ひとつでも、親しさ、距離感を大切にするのが、とりわけアメリカ流といえそうです。

 「代名詞もいろいろ」。「彼」と「彼女」も一筋縄では行きませんねぇ。

 いかがでしたか?次回をお楽しみに。


第190回 カープ残念記念! 懐古趣味としてのプロ野球

2016-11-04 | エッセイ

 一応、阪神タイガースのファンなんですが、今年の日本シリーズは、広島に肩入れしつつ、何年ぶりかでテレビにかじりつきました。ちょっと残念な結果でしたが、優勝インタビューでの日ハム栗山監督の態度、コメントが爽やかでした。対戦相手であるチーム、ファン、そして黒田投手への敬意は自然体で、日本一になったからといって、浮ついたところは微塵もない。おざなりの喜びコメントを引き出そうと必死になってるアナウンサーがアホに見えた。

 さて、今回の日本シリーズは、例外として、最近は、プロ野球そのものへの興味が、なんとなく薄れてきているのを感じます。気が向いた時に、ネットで、天下、というか球界の情勢をチェックする程度。歳のせいでしょうか?私自身も、世の中も、野球に熱かったのは、1990年代までかな、と思ったりします。

 で、そんな私が、つれづれに開くのが、「プロ野球データブック」(宇佐美徹也 講談社文庫 1995年刊)。1993年に刊行された「プロ野球記録大鑑」に加筆、修正し、文庫化したものです。著者の宇佐美は、1933年生まれ。パリーグ記録部公式集計員を経て、64年報知新聞社に入社。記録の分析をベースにしたコラムで健筆をふるいました。

 日本のプロ野球という広大な世界の人間ドラマを、数字、データで鮮やかに切り取って、みせてくれます。850ページという大部ながら、飽きることがありません。懐古趣味といわれそうですが・・・
 ほんの一部ですが、エピソードをご紹介します(数字・データはすべて同書から。年号は西暦。カウントは、ストライクーボールの順)。

 まずは、個人の年間本塁打記録にまつわる話題から。
 小鶴誠(松竹)の51本の記録を破ったのは、63年の野村(南海)。新記録の52本目が飛び出したのは、本拠大阪球場での最終戦150試合目。7回二死、一・三塁で迎えた最終打席。カウントは、0-3。スタンドから、大きなため息が漏れる中、野村がはじき返した打球は、左中間スタンドに突き刺さった。試合終了と同時に、ファンがスタンドに飛び降り、野村を胴上げする騒ぎとなった。
 ファンの気持ちはよく分かる。勝負したピッチャーも立派。

 85年のバース(阪神)も、54本のホームランをかっ飛ばし、当時の王の55本の記録に迫ったが、シーズンの残り2試合が、なんと、巨人戦で、監督は王。まともに勝負してもらえるわけもなく、記録達成はならなかった。なんとも後味の悪い幕切れ。

 あと一個の奪三振にこだわって、チームに迷惑をかけたのが、戦前から活躍していた若林(毎日)。43歳となり、引退を考えだした51年、自分の通算奪三振が999個であることに気がついた。こんな写真が残っています。


 8月25日の西鉄戦。4点リードの7回から、「2年ぶり」に登板したが。三振どころか、連打で1点を失い、リリーフをあおぐ始末。

 悲願を込めた10月の消化試合も、5回まで8失点。8番打者を、ボール先行から、なんとか追い込んで、空振りの三振。夢の1000奪三振を「達成」した。チームは、15安打9失点で、黒星一つ。随分、高いものについた。

 投手なら何がなんでも達成したいのが、完全試合。あと一人で、逃した投手が3人いるが、なかでも、口惜しい思いをしたのは、52年の別所(巨人)に違いない。9回二死まで、松竹を、完全に抑えて、迎えたバッターは、プロ2年目のブルペン捕手の神崎。1、2球目は、バント失敗で、カウント2-0。しかし、別所も力が入って、ストライクが決まらず、フルカウント。6球目、かろうじてボールの上を叩いた打球は、別所の脇を抜けて、力なくショート前へ。しかし、前夜来の雨で、軟弱なグランドが、球足を殺し、一塁セーフ。大記録は、夢と消えた。

 劇的な(?)一打を放った神崎だが、プロには4年在籍しただけで、引退している。通算9打数1安打。生涯で唯一のヒットが、別所の夢を砕く一打になったというわけで、ちょっとしたドラマを感じます。

 いかがでしたか?いずれ続編をお送りできると思います。

 それでは、次回をお楽しみに。