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第569回 正岡子規の食と艷話

2024-03-29 | エッセイ
 正岡子規(1867-1903年)といえば、「写生」を唱え、俳句の革新運動に取り組む一方、晩年は壮絶な闘病を強いられた一生が、,断片的な知識として思い出されます。

 司馬遼太郎のエッセイ「渡辺さんのお嬢さん」(「以下、無用のことながら」(文春文庫)所収)では、病の中でもいっこうに衰えることがなかった食欲と、亡くなる直前のちょっと艶っぽい話題に触れています。それをご紹介かたがた、彼の晩年の人生に想いを馳せることにしました。

 明治30年代、精力的に活動してきた子規ですが、36年の生涯で、最晩年の6年は寝たきりの生活になりました。結核性の脊椎カリエスを発症したのです。明治34年4月20日、医師から、人と話すことを厳しく禁じられました。そこで部屋に「対談をお断り申候、4月20日」と貼り出しました。でも、人と話すのが何より好きな子規は守るつもりはありません。「すぐに「客よ。お前だけ話せ」と書き添えた。」(同エッセイから)といいます。この頃は、ユーモアが出せる余裕があったのですね。
 脊椎カリエスでは、体にいくつもの穴があき、膿が出てきますから、定期的に包帯を取り替える必要があります。根岸の自宅でそれを担当したのが、妹の律(りつ)です。激しい痛みに号泣する彼を、俳句の門人である高浜虚子が「よしよし」とまるで子供をあやすように慰めたとのエピソードを私は思い出したりします。

 そんな中、かつて記者として勤めていた新聞「日本」への寄稿、山会(やまかい)という新しい散文を研究する会の主宰、そして、定期的な句会の開催(当然、子規の枕頭で行われました)など活動は精力的でした。それを支えたのが「食欲」ではないか、と司馬は書きます。
 死の前月まで食欲は衰えませんでした。死の前年(明治34年)9月26日の食事内容を、子規の日記ともいうべき「仰臥漫録」から引用し、その猛烈な健啖ぶりを紹介しています。
<朝は、 ぬく飯4わん、あみ佃煮、はぜ佃煮、なら漬、そして、包帯を取り換えてから、牛乳1合、餅菓子1個半、菓子パン、塩煎餅。
昼は、 まぐろのさしみ、胡桃、なら漬、みそ汁、梨1つ。
おやつに、 葡萄、おはぎ2つ、菓子パン、塩せんべい。
夜は、 キャベツ巻1皿、粥3わん、八ツ頭、さしみの残り、なら漬、あみ佃煮、葡萄13粒。>

 重い病と闘っている人間の食事とはとても思えません。これだけ食べれば、出るものも大量に出ます。その世話をしたのが、先ほどの律です。居合わせた人がいれば、匂いのことにも気を使う必要があったことでしょう。一旦は嫁ぐ話が決まりかけましたが、兄の病気が理由で破談となりました。献身的に兄を支えたその生き方に感動を覚えます。

 さて、艶話(女性との色っぽい話)の話題に移りましょう。
 柳原極堂(やなぎはら・きょくどう)という人物がいます。子規の松山中学以来の友人で、俳句に師事するなど、格別に親交を深めていました。その彼が書いています。
<居士は一生の間に恋をし得たか何(ど)うか女を愛し得たか何うか。此点(このてん)は私さへ更に知るところがない>(「友人子規」(昭和18年 前田書房刊)から)
 そして、明治17年、子規18歳の頃と思われるエピソードです。<・・・或晩居士は私の下宿をたづねて、君は吉原に遊ぶそうだね、僕を今晩その吉原へ案内して呉れ給へという>(前掲書から)。あまり大きな妓楼も無理があろうと考えた柳原は、中規模の店に案内しました。さらに<翌朝、居士の曰くに、遊郭といふものは予想したやうに面白いものではないねと其の失望の情がまことに気の毒にかんぜられた>と書きます。どうも本来の目的は達せられなかったようです。子規には、肉欲よりもむしろ江戸情緒への憧れがあったのではないか、と司馬は好意的に推測しています。その後も、女性が絡む艶っぽい話はありません。唯一ともいえるこんなエピソードを、子規の「病状六尺」から引いています。
 死の年の明治35年(子規36歳)の8月、知人である若い男二人が、「渡辺さんのお嬢さん」を連れて、根岸の病床を訪ねてきました。子規も美人との評判は聞いていましたが、初対面です。<お嬢さんはごく真面目に無駄のない挨拶をしてそれでなんとなく愛嬌のある顔であった。>そして<いはば余の理想に近い>(引用は、「病状六尺」から)というのです。
 病気見舞いを終え、彼女を連れて帰ろうとする二人を、子規は必死に説得し、とにかく置いていってもらうことになりました。その上で、彼女を貰い受けたい、との意向を伝えました。翌日、若い男二人連名の手紙が届きました。「根岸に泊めていただくことに異存はないものの、お譲りすることはできない、というしだいである。」(同エッセイから)
 諦めきれない子規は、二人に恨みの返事を書き、俳句を添えました。
 <断腸花(だんちょうか) つれなき文の 返事かな>

 華やかな女性を伴って、子規の無聊を慰めようとしたであろう男二人の好意は、結果的にアダになったのでした。

 いかがでしたか?俳句の革新では大いに名を成したものの、実らなかった一世一代の恋。ちょっと哀切な思いが私の胸をよぎりました。それでは次回をお楽しみに。
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