★★★ 芦坊の書きたい放題 ★★★

   
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第394回 北海道の名付け親-松浪武四郎

2020-10-30 | エッセイ

 またまたですが、司馬遼太郎の「歴史のなかの邂逅」シリーズ(全8巻 中公文庫)から、それほど有名でない人物を紹介しようと思います。今回は、「松浦武四郎」です(第4巻「武四郎と馬小屋」から)。

 どんな人物かを一言で言えば、「幕末の時代、自費で、蝦夷地を中心に山野や島々を踏査し、記録を残した探検家」とでもなるでしょうか。明治維新後の1888年に、70歳で亡くなっています。晩年のものと思われるこんな写真が残っています。

 紀州藩の富農の末子です。末子といいながら、父親が本居宣長の弟子で、教育熱心だったこともあり、武四郎も諸学を学ぶ機会に恵まれました。でも、在野の学問には魅力を感じなかったのでしょう。漂泊の思い断ちがたく、17歳の時、家を出たいと父親に申し出ました。

 その1年ほど前にも無断で江戸へ出て、連れ戻された経緯がありましたから、父親も「好きにせよ」と言っただけで、武四郎に旅費、といっても1両だけ、を渡したといいます。

 道中で稼ぎながら旅を続けるために、彼は、篆刻(印材に文字を刻すること)技術を身につけ、路銀を稼ぎながら、近畿、四国、中国、九州と広く山野を跋渉して歩きました。

 このあと、長崎の地で、蝦夷地を探検すべきだとの示唆を受け、北へ渡海したのが、大きな転機になりました。近藤重蔵、最上徳内、間宮林蔵などが幕命を受け、探査を行ったのはもはや過去の栄光となっていた時代です。長崎という国際都市で、ロシアという北からの脅威の情報をいち早く知ったのが大きかったようです。

 さて、年齢で言えば29歳から40代までに及ぶ蝦夷地踏査は、6度にわたり、樺太までも含めた精緻を極めたものでした。一時期、幕府の雇員になったこともありましたが、ほとんど自費だったというのに驚きます。

 武四郎にとって、蝦夷地は、純粋に探究心の対象で、政治的、思想的なものとは無縁でした。その彼に、水戸家の攘夷、警世論を代表する藤田東湖との出会いがあったというのが興味を引きます。
「(東湖が)武四郎に会うにおよんで「こういう人が世の中にいたのか」として「近来の愉快」と記し、さらには東湖の北方論の基礎をなす事実関係は武四郎の著作であったかと思われる。」(同書から)とあります。綿密な実地調査に基づく見識、学識の豊かさを伝えるエピソードです。

 蝦夷地を管轄し、アイヌに対して苛斂誅求を加えていた松前藩にとって、武四郎がいろいろ調べ回ることは、さぞ煙たかったに違いありません。彼の命をつけ狙っていましたが、そんな不穏な空気を察知した武四郎は、現在の水道橋辺りの屋敷内の一隅に身を寄せていたため、難を逃れています。

 そこを、東湖が訪ねた時のエピソードが残っています。屋敷内に入り込んでみると、朽ちた馬小屋がたっていました。馬はいず、屋根に4本の柱があるだけで、筵(むしろ)がぶら下がっています。三帖の畳をぎりぎりに敷き、ほんのわずかな日常道具だけを側に置いて、武四郎が座っていたといいます。「あまりに人柄をあらわしすぎているために、武四郎が座っているだけで諧謔が涌き、東湖は不覚なほどに大笑いした。」(同書から)というのです。

 と、これだけなら、蝦夷地踏査に一生を捧げた「清貧の奇人探検家」ともいうべき人物の一代記です。  
 でも、明治維新以後、にわかに、彼と彼の調査成果が維新政府の注目を浴びたというのを読んで、私も救われた気持ちになり、この一文を書くきっかけになりました。

 明治政府は、成立の時から、ロシア南下の情報もあり、蝦夷地を重視していました。当時五十をすぎていた武四郎を見い出した維新政府が立派です。彼を呼び出し、「開拓判官」という大変な高官に仕立てます。どうも官の世界とは合わないようで、1年ほどでその栄職を捨てて、平民に戻ります。その短い在任期間中に、太政官から蝦夷地の地名を変えたいとの相談を受けました。

 アイヌ語でアイヌ仲間のことを「カイノ」というので、一旦は、「北加伊道」としましたが、最終的に「加伊」を「海」に代え、「北海道」としたのが採用されました。たまたま武四郎自身が使っていた「北海道人」という雅号にも通じる都道府県名として、名付け親の栄に浴しています。泉下の武四郎も何より誇りに思っているに違いありません。

司馬遼太郎の歴史エッセイをネタにした過去の記事へのリンクです。合わせてお楽しみください。
<第344回 司馬遼太郎の目配り><第360回 商売人武将の話><376回 大の男が怖がるものー松永弾正の場合><第384回 人名いろいろー4>

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。


第393回 握手の作法

2020-10-23 | エッセイ

 残念なことですが、時節柄、気軽に握手というのが、いささか憚られる状況になっています。アメリカでも日本式お辞儀、インド式合掌のナマステー、軽く足をぶつけあうフット・シェイクなどいろいろ模索が続いているようです。でも、手軽さではやはり握手です。現在の事態が一日も速く終息し、日本的なものであれ、本格的なものであれ、気遣いなく握手できる日が来ることを祈りつつ、あくまで話題として、握手の作法を取り上げることにします。

 握手は、もともと欧米から入ってきたマナーです。でも、日本人同士でも、ごく自然で便利な習慣としてすっかり定着しています。

 上司が部下の肩でもたたきながら「おまえもがんばれよ」との激励握手、
 久しぶりに合ったもの同士が「元気にしてたか~」と旧交温め握手、
 親しく飲み交わしていたもの同士が別れ際に「それじゃな」と名残り惜しみ握手、
 恋人同士が、お互いに目を見つめ合いながらの「愛してる?」確認握手・・・などのバリエーションが思い浮かびます。

 考えてみると、言葉だけじゃ何か物足りないーそんな時に、プラスアルファのアクションとして付加するのが、日本人の握手の基本的役割のような気がします。あらたまった場とか、初対面同士とかだと、いきなり握手ではなく、まずは、お辞儀から、というのが普通じゃないでしょうか。

 とはいえ、本来のマナー、やり方を知っておくのも悪くはないと思います。受け売りですが、話のネタくらいにはなりそうですので、最後までお付き合いください。

 で、やり方云々の前に、握手する手は、ドライでなければならないというのです。日本人の場合は、握手と言っても、軽く「指」を握り合う「握指」が普通ですから、ドライかどうかは、そう気にならないようです。でも、本来の握手は、後ほど書きますが、「手のひら」同士をしっかり付けますから、汗ばんだ手、飲み物の水分が付いた手などは最悪とされます。
 なので、パーティーでは、飲み物は左手で持つ、手が濡れている場合は、握手の前に、服で拭うなどの配慮も必要になるというわけです。

 いや~、なにかと大変ですが、握手で思い出すテレビの1シーンがあります。

 英国のエリザベス女王が、外国からの賓客を迎えて挨拶を交わしながらの握手です。御年90歳を超える女王様がですね、相手の手をガシッとばかりに力強く握って、そのまま元気よく上下に2回ほど「振って」いたのです。恥ずかしながら、その時、気がつきました。
「なるほど"handshake"だ」と。で、こちらは、別の機会(病院を退院される際に、スタッフと)の画像ですが、しっかり握手されてるのが分かると思います。

 日本語だと「握」手なので、「握る」ものだと思いがちです。でも、しっかり握ったうえで、
”shake ”(シェイク=振る(握手の場合は上下に))するのが大事なんですね。

 先ほど、「手のひら」を付けると書きました。具体的にいうと、親指と人差し指の間に、水かきのようなところがありますね。それを合わせるくらい深く手をお互いに差し入れ、力強くグリップする。これで「アクションとしての握手」は、一応完成です。

 さて、蛇足ながら、「握手」をする状況で必要となるマナーも、「日本人の知らないワンランク上のビジネス英語術(ウィリアム・A・ヴァンス 阪急コミュニケーションズ)」からの受け売りでご紹介することにします。

 まず大事なことは、言葉を交わすことです。黙って手を握り合っていたのでは、恋人同士になってしまいますから。

 Nice to meet you.(初めまして)
 Thank you for coming.(お越しいただきありがとうございます)
 I've been looking forward to seeing you.(お会い出来るのを楽しみにしていました)
 こんな定番表現でいいですから、(機会があれば)使ってみたいですね。

 そして、日本人(私も含めて)が苦手なアイコンタクトです。相手の目をじっと見るのは失礼という意識がありますから、つい日本人は、手元を見たり、目をそらせがちですが、それはいけません。しっかり相手の目を見ましょう(結構大変ですけど)。そして、プラス微笑も忘れずに。

 とまあ、マナーとテクニックのようなことを書いてきました。でも、一番大切なことは、「熱意」ではないでしょうか。左手までも添える「熱烈」なのは、やりすぎだとしても、仕事にしろ、プライベートにしろ、この出会いを大切にしたいという気持ちを込めて握手したいものです。

 ちょっぴり英語弁講座も兼ねましたが、いかがでしたか?日本人同士であれ、欧米の人たちとであれ、心置きなく握手できる日が早く来て欲しいものです。

 それでは次回をお楽しみに。


第392回 大阪弁講座42「ワテ、ワイ、ワシ」ほか

2020-10-16 | エッセイ

 第42弾をお届けします。

<ワテ、ワイ、ワシ>
 今どきの大阪の若い人たちが、自分自身のことを指して、どう呼んでいるかについては、あまり詳しくありません。でも多分、「私」とか「僕」、せいぜい「オレ」 とかの「標準的」な言い方が主流のような気がします。

 オッチャンの場合でも、基本、同じような傾向だと思うのですが、「ワテ」、「ワイ」、「ワシ」の「3大自称」(私が勝手にそう呼んでるんですが)の使用頻度が高くなるようです。
 このうち「ワシ」は、「標準的」ですが、「ワテ」、「ワイ」となると、とりわけ商売人とか、芸人の愛用頻度が高く、大阪のニオイがプンプンします。

 「こんだけワイが頼んでんねん。一生の頼みや思うて、今回だけは、無理聞いたってぇな」
 どうな事情か分かりませんが、哀れを誘います。
 
 若い女性だと、「ウチ」という言い方があります。たぶん「内」から来てると思うんですけど、幅広い年齢層で使われてる呼称です。

 「急にそんなこと言われても・・・・「ウチ」にもちょっと考える時間くれへん?」
 う~ん、可愛いですねぇ。

 で、若い女性が歳を重ねてくると、「ワテ」が使用可能になるんですね。用例はなしにして、この絵で代用しておきます。

 と書いてきて、作家の中島らも(故人)が、なにかのエッセイに書いていたエピソードを思い出しました。

 中島と親交があった一流企業の営業マン。年齢は40代の半ばとのことですが、最近、すっかり酒が弱くなったとぼやいている。その営業マン氏と中島とのやりとりです。

 「ほんとに弱くなってね、ベロベロの状態で家に帰るわけですわ」
 「そら、そうですやろな」
 「だけど、私、どういうわけか、酔うと欲情するタイプなんですわ。1時、2時ですから、女房はもう寝てますわな。けど、その寝姿を見ると、ムラムラっと来るわけです」
 「来ますか?」
 「来ます。で、「ワッシャー」と言いながら迫って行くわけです」
 「なんですか?その「ワッシャー」いうのは?」
 「つまりでんな、そんな時間にいきなり迫ったら、強盗かなんかと間違うたら大変ですやん。そやから安心せえ。おまえの亭主や~、というつもりで言うてるんでしょうなぁ」
 「ああ、「わしやあ」がちぢまって「ワッシャー」になっとるわけですな」
 「そういうことです」

 絶頂の時も「ワッシャー」と叫びながらイカれるのかな、奥さんも「あんたかぁ」とでも応答したらええのに、などと、エッセイの中でツッコミを入れているのが、いかにも中島らしくて、笑ってしまいました。

<ねき>
 自分のしゃべる言葉が標準語と信じて疑わない大阪人が、コテコテの大阪弁だと感じるのが、この言葉。「近く」とか「すぐそば」という意味ですが、若い人はあまり使わないかもしれません。
 
 若い頃、上司が「ひょっと「ねき」見たら、そいつがおってな」みたいな言い回しをしているのを聞いて、なんぼなんでも、えらい年寄り臭い言い回しやなぁ、と感じたことを思い出します。

 若い女の子に「なにを遠慮してんねんな。もっと「ねき」へ、来(こ)んかいな(来なさい)」などと、おっさんが無遠慮に使うのは、年寄り臭いし、セクハラにもなりかねないので、やめといたほうがええと思います。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。


第391回 ゴリラに学ぶ

2020-10-09 | エッセイ

 いきなりですが、我が家のアイドル、ゴリラの「ゴリちゃん」です。随分前にUFOキャッチャーでゲットしました。なかなか可愛いでしょ。

 さて、ホンモノのゴリラは、霊長類といいながら、カラダがとびきり大きいですし、仲間以外には凶暴で攻撃的であるとされています。そんなゴリラやニホンザルなどの研究の第一人者が、京都大学総長の山極寿一氏です。いかにも京都大学らしいユニークな研究歴の総長です。

 若い頃、現役バリバリの氏の本を読み、カラダを張っての研究ぶりと、「人間とは何者か」を知るには、その近縁種である霊長類の研究が欠かせない、との姿勢に共感を覚えていました。
 氏の近刊「人生で大事なことはみんなゴリラから教わった」(家の光協会)を読んで、あらてめて、ゴリラから「教わった」ことを、エピソード毎にご紹介することにします。

<ゴリラ語>
 氏がコンゴの3000m級の山岳地帯で、本格的なゴリラの野外調査に赴いたのは、26歳の時(1978年)です。
 予備調査は、離れたところからの観察でしたが、本格調査となれば、群れの一員にならねばなりません。その道の先達米人学者ダイアン・フォッシー博士と会って、ゴリラ語のテストを受けることになりました。

 ゴリラ同士は近づくと「グッグフーム」と低い声を出し合い、挨拶を交わします。返答がないと「ウホウ」と甲高い声(問いかけ音)を発します。英語の「Who are you?」に似てると氏が書いてたのが笑えました。問いかけ音に反応がないと、ゴリラは敵対者と見なして、攻撃するといいますから、群れに入るには必須の「ゴリラ語」です。

 なんとか博士のテストに合格して、博士の助手のピーターとともに、現地に入ります。その時、ピーターから、ゴリラに会ったら、「ゲップ音」を出せ、と教えられます。仲間である、というメッセージだというのです。
 日頃の練習の甲斐あって、最初の遭遇で、ゲップ音が出て、一員と認められ、調査が進むことになります。ゴリラも敵味方を判断するための言葉を持ち、使いこなす、というのが、最初の教訓です。それにしても、ゲップ音なんて、自在に出せるものでしょうかね。

<ドラミング>
 ゴリラが二足で立ち上がって、胸を両手で交互にたたく、おなじみの行動です。ゴリラは喉から胸にかけて袋を持っています。息を吸うと、この袋が膨らんで太鼓のようになり、たたくと、ポコポコポコと高く澄んだ音が辺り一面に響き渡るというわけです。

 さて、この行動の意味するところは、戦いの意思表示だとずっと思われてきました。かつて、ゴリラと遭遇した研究者たちが、この振る舞いに恐怖し、威嚇行為だと受け取ったのも無理はありません。
 しかしながら、最近では野生ゴリラの研究が進み、この行動は「戦いの宣言ではなく、自己主張であることがわかってきた。ほんとうの意味は、戦わずして、対等な立場で引き分けようという平和の提案だったのである。」(同書から)
 凶暴さだけが先に立ちますが、根は、無用な戦いは避ける平和主義者だったのです。

<オスゴリラはつらいよ>
 思春期のメス(8歳くらい)は、一旦、群れを離れます。ひとりでいるオスと出会って、新しい群れを作ることもありますし、他の群れにいるオスと気があって、その群れの一員になったりと、割合自由に振る舞えます。子供を産む能力の故でしょうか。

 一方、思春期のオス(12歳、人間だと20歳くらい)は、群れを出るか、残るかの決断をしなければいけません。残っても、リーダーやメスたちからの嫌がらせがあって、居辛くなります。なので、多くのオスが出る方を選ぶのですが、一旦出ると、メスと違って、ほかの群れに入ることは決してできません。メスとの出会いがなければ、一生「独身」生活を強いられます。厳しく、辛い選択ですが、なぜ、ほかの群れで受け入れられないのかは、次項で。

<経験の共有にこだわる>
 ゴリラの群れを観察していると、片時も離れず、一緒に行動しています。食事、休息、移動などあらゆる場面でそうです。人間だったら窮屈でたまらない生活ですが、彼らなりの理由があります。
 「日々起こる出来事を一緒に体験することができる。」(同書から)からだというのです。どこにおいしいフルーツがあるか、急な雨をどうしのぐか、敵と出会ったらどうするか、などの体験を共有し、さらにそれを生きる知恵として、共有していきます。

 ですから、どんな経験しているのか、どんな企みをいだいているのか分からないオスが、群れに入るのは厳しく拒否する、というわけです。
 人間のように、十分な言葉で経験を共有できないゴリラが作り上げた巧妙なしくみだと感心します。

 なにがしかゴリラから学んでいただけたでしょうか。それでは次回をお楽しみに。


第390回 大英博物館のモノ語り-2

2020-10-02 | エッセイ

 第373回に続く第2弾です(文末にリンクを貼っておきました)。「100のモノが語る世界の歴史」(ニール・マクレガー 筑摩書房 全3巻)に拠り、私なりに選んだモノを引き続きお楽しみください。

<<ラムセス2世像>>
 大英博物館といえばエジプト。それを代表するのが、エジプトの南、ルクソールで出土した花崗岩製のこの巨大な像です。紀元前1250年頃のものとされていて、上半身だけですが、それでも高さ2.5メートル、重さは7トンほどもあります。エジプト室の正面にデンと据えつけてあり、圧倒的な存在感で博物館の象徴のような「モノ」です。

 ラムセス2世は、66年にわたってエジプトを支配し、その黄金時代を築いた王です。90歳まで生き、100人ほどの子をもうけたといいますから、まさに怪物と言っていいでしょう。その彼が、ルクソールに巨大な記念建造物群を築き、そこに納めた自身の像の中の(あくまで)「ひとつ」です。

 使われた花崗岩は、150キロも離れたアスワンから運ばれたもので、20トンと推定される原石を運び、像に加工し、据え付ける。それは「社会全体による功績ーー工学と物流の壮大で複雑なプロセスの結果ーーであり、いろいろな意味で芸術作品であるというよりは、高速道路の建設工事にはるかに近い」(同書から)との著者の見解にも頷けます。

 右胸にあるテニスボール大のい穴は、ナポレオンが母国に運ぼうとして失敗した痕跡です。その後、1816年にパゾリーニなる怪力技を売り物にするサーカス芸人が、あらゆる技術を駆使して、カイロ、アレクサンドリアを経て、ロンドンまで運んできました。到着した荷を見た人々は、3000年以上の時を経ての快挙に驚き、あらためてラムセス2世の偉大さを思い知ったといいます。

<<フラッド・タブレット>>
 大英博物館は、13万枚にものぼる粘土版を所蔵していますが、これもその中の1枚で、縦15センチほど、イラク北部で発見され、紀元前700~600年頃のものとされています。

 博物館のそばに住む市井の研究者ジョン・スミスが、この楔文字を解読したのは、1872年のことです。そこには、こんな驚くべきことが書かれていました。
「家を壊して、舟をつくれ!富を捨てて、生き延びよ。財産は捨てて、命を助けよ。あらゆる生き物の種をもって舟に乗り込め。これから作る舟は、すべての辺が均等になるようにせよ。長さも幅も同じにするのだ。下に海が広がるように、舟の上を屋根で覆え。そのあと、大量の雨がもたらされるだろう。」(同書から)
 フラッド・タブレット(洪水の粘土版)と呼ばれる所以です。

 旧約聖書のノアの方舟伝説そのままの世界ですが、現存する最古の聖書の版よりも、およそ400年も古いのです。洪水伝説は旧約聖書のオリジナルでなく、先行するストーリーがあったことになります。キリスト教的世界観に与えた衝撃の大きさが想像されます。

<<モールドの黄金のケープ>>
 地元英国の北ウェールズ、モールドで出土した黄金製のケープ(肩掛け)で、横幅45センチ、奥行きが30センチほどです。紀元前1900~1600年頃のものとされています。

 1833年に、当地の石切り場で作業員たちが墓を掘り当て、埋葬されていた人物の肩を覆っていたのでケープと呼ばれています。発見した作業員たちが切り取って分けたのを、後に博物館が買い集め、100年かけて、つなぎ合わせ、修復しました。裏から打ち出した精緻な文様もすばらしいですが、ピンポン球サイズの黄金を、このサイズまで引き延ばした技術に驚嘆します。

 当地で作られたかどうかは分かりませんが、当時は僻地と思われていたイギリスが、社会的、経済的に洗練された地域であった証(あかし)ともいえ、イギリス人にとっては誇りの一品、といったところでしょうか。

<<オルメカの石の仮面>>
 メキシコ南東部で出土した蛇紋石製の仮面です。紀元前900~400年頃のモノとされています。

 

 マヤ、インカ、アステカといったメジャーな中米の文明に先行する高度な文明があり、その担い手が、この仮面を作ったオルメカ人だ、というのを知って貰おうというのが著者の意図です。

 紀元前1400~同400年の約1000年にわたって栄え、現在の中南米文化の母体ともなっています。中米で最初に都市を建設し、天空図をつくり、最初の文字を発明し、おそらく最初の暦を生み出したのが彼らです。裏は空洞で、ひもを通す穴が空いていますから、なんらかの儀式に使われたのでしょう。小さい頃、こんな顔をしたガキ大将がいたのを思い出しました。

 いかがでしたか?なお、前回(第373回)へのリンクは<こちら>、そして、続編(第487回(最終回))へのリンクは<こちら>です。合わせてお楽しみください。それでは次回をお楽しみに。