★★★ 芦坊の書きたい放題 ★★★

   
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第591回 開高健のジョーク十番勝負-2

2024-08-30 | エッセイ
 続編をお届けします(文末に前回分へのリンクを貼っています)。作家の開高健氏と、島地勝彦氏(週刊プレイボーイ編集長(当時))が、酒を飲みながら都合10回行われたジョークバトルの記録「水の上を歩く?」(TBSブリタニカ)がネタ元です。多少色っぽいのも含め、気楽にお楽しみください。なお、< >内は、私なりのコメントです。画像左が開高氏、右が島地氏です(同書から)。

★ジョーク界のVIP(開高ネタ。以下<K>)
 ブラジルのリオデジャネイロで地下鉄工事が計画され、工事が始まりました。ところが、岩盤が硬く、掘れども掘れども繋がりません。市長が替わり、州知事も替わりましたが完成しません。そこで誰言うとなく、これを「ジャクリーヌ」と呼ぶようになりました。「ココロは、世界で一番ゼニのかかる穴ちゅうわけや」
 ケネディ大統領元夫人にして、世界の海運王オナシスに嫁した彼女をネタにした実話だそう。

<有名人、VIPはよくジョークのネタになりますが、それも有名税の一部なのかも>

★本当の男って?(島地ネタ。同<S>)
 アメリカ人を乗せたローマのタクシー運転手が、自慢げにいいました。
「旦那、ローマじゃ、本当の男だけがタクシーの運転手になれるんでさあ」 
 理由を尋ねる客に「おれたちゃ左手は交通合図に使い、右手は歩いてる女の子に手を振るのに使ってるからね」 
 驚いて、どうやってハンドルを動かすかを訊く客に、運転手は胸を張って、「だから本当の男でないとだめなんでさあ」
<乱暴だけど、運転はうまいイタリア男性を巧みに笑い飛ばしています>

★小説家の変なクセ<K>
 だいぶ前の人ですが、舟橋聖一という小説家がいました。いろいろエピソードの多い人物だったようですが、「覗き」の趣味を持っていました。
 昔は、文士が地方へ講演などで地方へ行くと、夜は、芸者遊びがつきものです。さる文士が芸者としけこんで翌朝、実はこれこれと朝飯の時に戦果を報告していると「フムフムと聞いていた舟橋先生が言ったーーー「ウン、君はなかなか正直だな」」
<信憑性が高く、大笑いしました>

★これであなたも痩せられる?<S>
 腹の出っ張った熟年のオッチャンがサンフランシスコの坂道をよたよた登っていると「10ドルであなたも痩せられる」との看板が出ています。10ドルで痩せられるなら安いもの、と看板の出ていたジムに入りました。10ドル払って、レオタードを着せられ待っていると、向こうの赤いドアのかげからビキニ姿の美女が出てきました。よく見ると、パンティに「つかまえたら、あなたのものよ」と書いてあります。それっと追いかけますが、相手は逃げ足早く、へとへとに疲れただけでした。さて、2~3日後、今度は「20ドルであなたも痩せられる」との看板を目にしました。20ドルならもっと美人が出てくるだろうと、性懲りもなく店に入って俟っていると、出てきたのはヒゲモジャの大男。「「!?」呆然として男を眺めるとパンツのところに「つかまえたら、オレのものにするゾ」
<オチまでとんとんと運びたいジョークですね>

★ロシアン・ジョーク<K>
 この道の王道といえばロシアのジョークです。
 ゴルバチョフがペレストロイカ(改革開放)を進めていた頃のことです。国産車ボルガが欲しい若者が、節約に節約を重ねて金を貯め、ディーラーへ買いにいきました。案の定、ウェイティング・リストが一杯で、納車は10年後になるというのです。若者の「いいですよ。でも、10年後のその日の午前中ですか、それとも午後ですか?」(同)との発言に、係りの男は、10年先の午前か、午後かなんて、わかるわけないだろ、と返します。
 それに対する若者の言い分です。「実は、10年後の今日の午前中、私は水道管の修理に行かなくちゃならないんで、同志」
<物不足、人手不足を笑い飛ばす豪快なジョークです>

 存分に笑っていたいただけましたでしょうか?なお、前回へのリンクは<第576回>です。合わせてご覧いただければ幸いです。それでは次回をお楽しみに。

第590回 「ちょ・・」ほか大阪弁講座58

2024-08-23 | エッセイ
 第58弾をお届けします。タイトルにある「ちょ・・」は、「ちょ」がアタマにつき、大阪人がとりわけ好む様々な言葉を取り上げます、とのつもりで付けたものです。いささか尾籠な響きのある「屁のつっぱり」とあわせ、お気楽に最後までお付き合いください。


<ちょ・・>
 「ちょ」で始まる言葉で、日常的に広く使われるものといえば、「ちょっと」とか「ちょうど」などが思いつきます。大阪人はことのほか「ちょ」が付く言葉が好きなようで、バラエティに富んだのがいっぱいあります。思いつくままにご紹介してみます。

 量とか数が少ない、というのを基本的なイメージです。
「ちょびっと」というのが代表例になります。子供っぽい響きがありますが、大のオトナも堂々と使います。
 「なあ、もう「ちょびっと」安うなりまへんかなぁ?ほたら(そうすれば)買(こ)うてもエエんやけど・・・・」

 小さい頃、駄菓子屋の店先なんかで、「ちょぼ焼き」というのをオバさんなんかが焼いてました。タコ焼きのタコの代わりにコンニャクやら紅生姜やらを入れたもので、「ちょぼ」というのにふさわしく小ぶりで、安直な食べ物でした。こちらは「タコ焼き」です。

「ちょぼ」の系列では、「おちょぼ口」という言い方もありました。女の子の小さくて可愛い口を指して、オトナが使ってました。
 そうそう「ちょぼちょぼ」という言い回しを思い出しました。同じ程度ということなんですが、「ちょぼ」というくらいですから、レベルの低いところで、どっちもどっち、大した違いはない、と少々突き放したニュアンスの表現です。
「どっちが勉強できるかゆうてケンカしてるけど、二人とも「ちょぼちょぼ」や。ケンカしてるヒマがあったら勉強しぃ!」

 「ちょろ」系の言葉もあります。
 「ちょろちょろ」「うろちょろ」というのは、全国的に広く使われます。
 大阪弁だと「ちょろい」というのが代表選手でしょうか。ものごとが簡単、容易なことを意味します。
 「あんな試験「ちょろい」もんや。全部でけたわ」と自慢げに使えます。また、
 「宿題してきたかぁて訊くから「してきた」と答えたらそのまま信用してるねん。「ちょろい」先生や」のごとく、騙しやすいことを、すこしからかい気味に使う用例も思いつきました。
 「ちょろまかす」というのがあります。そう大した額とか量とかでないものをごまかすことです。「ちょろ」(少し)プラス「ごまかす」で「ちょろまかす」かなぁ、と思っています。
お使いに行って帰って来た子が親から詰問されています。
「なあ、計算が合わへんけど、アンタ、お釣り「ちょろまかし」てへんか?」

 「お」をつけて、「おちょくる」というのがあります。馬鹿にする、というほどキツくはないですが、相手の言動を軽くからかう時に使います。
「こっちは真剣に説明してますねん、いちいち「おちょくる」のは止めてもらえまへんか?」
「おちょける」というと、自分の方から、ふざけたマネなんかをすることです。小さい時から笑いを取ってナンボの精神が染み付いてるのが大阪人ですからね。
「またそんな変顔して。「おちょけ」とらんと、人の話をちゃんと聞き!」

<屁のつっぱり>
 いかにも大阪人が好みそうないささか品位に欠ける言葉ですが、小さい頃から親しんできました。
 「つっぱり」というのは、ものを支える支えるための棒、つっかえ棒のことじゃないかと想像しています。気体として出てしまった「屁」に「つっぱり」を入れても、何の役にも立たない、手遅れ、余計なお世話・・・・そんな想いを込めて「「屁」のつっぱりにもならん」と否定形で使うのがお約束です。
 「こっちは親戚中が集まっての法事で朝からてんやわんやで準備しとんねん。あらかた用意が出来た頃合いに来て、「なんか手伝うことないかぁ?」言われても。「屁のつっぱり」にもならんわ。ホンマ、あんたの父さんの親戚にはロクなんおらへんわ」
 小さい頃、親戚一同が集まるお盆の法事で、おふくろが、陰でよくこぼしてたのを思い出します。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。

第589回 幕末、米人英語教師がいた

2024-08-16 | エッセイ
 幕末、日本人に本格的に英会話を教えたいとの一念で、単身密入国したアメリカ人がいた、というのは驚きです。その人物の名は、ラナルド・マクドナルド。父はスコットランド生まれ、母はアメリカ先住民の娘という出自です。アメリカの捕鯨船で北海道近海まで来て、あとは、大胆にもボートに乗り換え、1848年に利尻島に上陸しました。ペリー来航の5年前のことです。
 そんな歴史に埋もれた人物を、作家の吉村昭氏(以下、「氏」)は「海の祭礼」(文春文庫)で小説化し、光を当てました。エッセイ「史実を歩く」(文春新書)には、小説化のきっかけ、マクドナルドを巡るエピソードなどがコンパクトに書かれています。同書に拠り、ご紹介することにしました。1853年、29歳当時のマクドナルドです(同書から)

 そんな人物がいたことは、氏がよく訪れる長崎の県立図書館館長・永島正一氏から聞かされていました。直接のきっかけは、文藝春秋社の役員(当時)で、作家でもあった半藤一利氏から、資料を渡され、作品化を勧められたことです。それは、訳せば「日本における最初の英語教師であるラナルド・マクドナルドの日本冒険物語」なる英文回想録でした。以下、氏のガイドで、この興味深い「史実を歩く」ことにしましょう。

 上陸したマクドナルドは、島に軟禁されます。意思疎通は、身ぶり手振りしかなく、名前ひとつ聞き出すのにも、相当困難があったようです。それでも「マキドン」という名を聞き出したことが松前藩の記録に残っています。
 当時の国法に従って国外追放にすべく長崎に護送されました。語学熱心なマクドナルドは、その道中でも日本語の習得に努めました。根っからの語学好きだったんですね。
Thank you ー>  Arigodo(ありがとう)/ Hand ー> Tae(手)/ Pen ー> Fude(筆)などの記録を残しています。
 長崎では大悲庵の座敷牢に入れられました。その時、幕府と長崎奉行は、大胆な決断をします。当時、英語圏の船がさかんに日本近海で活動していました。それらの国となんらかの接触の機会があれば、英語が必要になるだろうと考え、オランダ通詞(通訳)に、座敷牢で英語を学ばせることにしたのです。

 実は彼らオランダ通詞には、英語の下地がありました。当時のオランダ商館長の次席ヤン・コック・ブロムホフは、軍人としてイギリス滞在経験があり、英語が話せました。彼の協力もあり、約6千語を収録した日本初の英和辞書まで出来ていたのです。
 ただし、誤訳も多く、特に発音に難がありました。
Hair(毛) ー> ヘール / Head(頭)ー> ヘート / Thunder(雷)ー> テュンデル といった具合で、どうも「オランダ語訛り」が抜けきれなかったようです。

 さて、マクドナルドとの「学習」で、通詞たちが特に力を入れたのは、耳から生きた英語を習得することでした。その勉強ぶりを先ほどの回想記(富田虎男氏訳)には「彼らは大変のみこみが早く、感受性が鋭敏であった。彼らに教えるのは楽しみだった。」(同書から)とあります。
 一方、マクドナルドも語学オタクぶりを発揮し、単語帳を充実させています。
Good(良い)ー> Youka(良か)/Bad(悪い)ー> Warka(悪か)/ Cheap(安い)ー> Yasuka(安か) のように。長崎弁丸出しなのがご愛嬌で、ちょっと笑えます。
 
 マクドナルドは1年足らずで、アメリカ軍艦で日本を去ります。でも、彼が蒔いた種は確実に育ちました。なかでも、森山栄之助は優秀で、先ほどの英和辞書の発音を修正したり、後継者の育成に精力的に取り組むなど尽力しました。
 そしてペリーの来航です。1853(嘉永6)年と、その翌年、森山は、交渉の場に首席通詞として臨みました。単なる通訳としてだけでなく、日米両国の立場、意思を伝えるという困難な任務をやりとげました。その語学力は、アメリカの代表団からは高く評価され、のちにイギリス公使として着任したオールコックからも認められています。とりもなおさず、幕府が、文明国並みの権威と地位を有していることを知らしめることになりました。ひとつ間違えば戦火を交える可能性もあっただけに、森山の功績は際立ちます。

 帰国後のマクドナルドですが、国内では無名で、ずっとその功績が知られることはありませんでした。そんな彼に光を当てたのが、エプソン社のアメリカ駐在員冨田正勝氏です。「海の祭礼」を読んだのをきっかけに、マクドナルドの功績を広く知ってもらうよう活動しました。その結果、生地オレゴン州アストリアで関心が高まり、遂には、英語と日本語で記された顕彰碑が建てられたのです。
 日本でも、長崎の大悲庵の近くと、平成8年には、利尻島の上陸海岸に碑が建てられ、氏は両方の式典に参列しました。さぞ感無量だったことでしょう。ネットで見つけた碑の画像です。

 いかがでしたか?まるで図ったようなタイミングで、日本に舞い降りて、英語の教育に尽力したマクドナルド。そして、その教えを日米交渉の場で活かした森山栄之助。歴史上、その功績がもっともっと有名になってほしい二人です。それでは次回をお楽しみに。

第588回 幇間に学ぶ会話術

2024-08-09 | エッセイ
 「幇間(ほうかん)」または「たいこもち」とも呼ばれる仕事をご存知でしょうか? 宴席などに侍って、唄、踊りなどの芸を披露したり、お客との会話に加わったりして座を盛り上げるのが主な務めです。時代の流れもあり、今や、全国でも数えるほどしかいない貴重な存在で、後ほど登場いただく悠玄亭玉介(ゆうげんてい・たますけ 1907-94年)師匠です。

 な~んてエラソーに書いてますが、落語「鰻の幇間(たいこ)」などで、その世界をちょっぴり知る程度です。まずは、その噺を通じて、仕事ぶりの一端を知っていただき、漱石の「坊っちゃん」に登場する人物にも触れることにします。後半が本題で、玉介師匠の聞き書き本をネタ元に、快適な会話を楽しむコツを学ぼう、という趣向です。どうぞ最後までお付き合いください。

 噺の流れです。今日も今日とて、幇間の一八(いっぱち=落語での幇間の定番ネーム)は、景気の良さそうな馴染み客を見つけて昼飯でもゴチになろうと町をブラブラしています。向こうから、見覚えがあるような、ないような若旦那がやって来ました。調子よく話しかけると、鰻屋に誘われました。路地裏のうす汚い店の二階で、ほかに客は居ず、いかにも流行っていません。不味い鰻を食べながら、一八もそこは商売。適当に話の調子を合わせているうちに食事が終わりました。そこで男は便所に立ちましたが、なかなか戻って来ません。便所にもいないので、下へ降りて、店の者に訊くと、「お代は、二階の旦那が払うから」と言って、六人前の鰻まで土産にし、先に帰ったというのです。あげくは、一八の草履まで履いて帰ってしまいました。泣く泣く羽織に縫いこんであったカネで払うハメに。ゴチになるはずが、踏んだり蹴ったりのオチが笑いを誘います。

 ここで登場した幇間は、特定の贔屓客とか、出入りの料亭などを持たず、自分の才覚だけでやっていく、いわばフリーの幇間です。正規の(?)幇間連中からは、うんと見下され、俗に「野だいこ」と呼ばれました。
 といえば、思い出す方も多いはず。漱石の「坊っちゃん」に登場します。教頭の「赤シャツ」の腰ぎんちゃくで、ゴマばかりすっている画学教師に、坊っちゃんが付けたアダ名です。漱石の時代には身近な存在だったのでしょうね。それにしてもぴったりのニックネームで、漱石のユーモアセンスにあらためて感心します。小学年の頃、この作品を読んで「「野だいこ」ってなに?」と親に訊いた覚えがあります。明快な説明はありませんでした。知らなかったのか、知っていたけど小学生に説明のしようもなく困った、のどちらかだったのでしょうね。

 前置きが長くなりました。本題に入ります。師匠の「幇間(たいこもち)の遺言」(集英社文庫)は、生い立ちから始まって、苦労話、艶話など興味が尽きない一冊です。
 なかでも、一流の幇間の証しでもあり、一番大切な心得として説かれていたのが、ヒトの話をよく「聞く」ということでした。
「おまえさんねぇ、なんで耳が口より上に付いてるか知ってるかい?まず、ヒトの話を聞くってのが大事なんだよ。しかもだよ、耳は2つ、口は1つだろ?いかに聞くように出来てるか分かるだろっ」(同書から)
 幇間といえば、ちゃらちゃらと一方的にしゃべりまくって、ヨイショ(お世辞)でいい気持ちにさせるものだとばかり思ってました。確かに、落語の世界では確かにそんな幇間ばかりなんですけど、とんだ勘違いでした。

 実は、一流の幇間になると、ほとんどしゃべらないのだといいます。お客の話にひたすら耳を傾けて相づちを打つだけ。でも、そこが芸。「ほ~」「なるほど」「で、どうなりました?」「一体どんなわけで?」「そりゃ、驚いたでしょ」「さすがだねぇ」など、いろんな合いの手が、しかも間合いよく繰り出されます。お客はますます興に乗り、いい気分になるという次第です。酒が進み、財布の紐も緩もうというもの。
 ものの本によれば、そこまで配慮されても、半分くらいしか話してない、しゃべり足りない、と感じる人が多い、というのです。つくづく、人間って身勝手な生き物だ、と感じます。

 最近は足が遠のいていますが、かつては、馴染みのスタンドバーなどでも、中には、自分勝手で、マイペースなトークを展開する人もいなかったわけではありません。でも、振り返ってみれば、相手の話をよく聞き、「質問する」という形で、話題を広げ、盛り上げていく「心掛け」はしていたつもりです。オトナのお客さんが多かったこともあり、概ね対等で快適な会話を楽しめたかな、と感じています。師匠のような域に達するのは無理としても、会話は「聞く」のが基本、を肝に銘じて(機会は減りましたが)いろんな人とのトークを楽しんでいこうと決意したことでした。

 いかがでしたか?快適な会話をお楽しみいただく上で、ご参考になれば幸いです。それでは次回をお楽しみに。

第587回 謎の画家バンクシー物語

2024-08-02 | エッセイ
 謎につつまれたイギリス人画家・バンクシー(通称)を、NHKのドキュメント番組「アナザー・ストーリーズ」が取り上げていました(2024年3月1日放映)。
 美術界という既成の権威への反発、不満から、彼は創作活動をスタートさせました。しかし、その過激さ、ユニークさがかえって評判を呼び、自身のブランド力、商品価値を高めてしまう、というきわめて皮肉で、興味ひかれる「ストーリー」です。番組内容に沿ってご案内します。最後までお付き合いください。

 1980年代、イギリスでは新自由主義経済政策が採られた結果、貧富の格差が拡大し、多くの若者が不平、不満を抱えていました。バンクシーが生まれ育ったブリストル(ロンドン西方、約170kmの港湾都市)でも、若者と警官隊との衝突が日常化していました。

 そんな中、無断で建物の壁や塀に巨大なスプレー画を描き、社会へのメッセージを発信する「グラフィティ(落書き)・アーティスト」と呼ばれる若者が続々と現れます。バンクシーもその一人で、当時、彼が描いたとされる2点の「作品」です(以下、画像は全て同番組から)。

 彼らの活動を、プロカメラマンとして追いかけていたラザリデスは、当時まだ10代のバンクシーと出会います。そして、バンクシーに代わって番組に登場し、いろいろ語るのです。

 出会った時の印象を「寡黙で無愛想な青年で、第一印象は決して良くなかった」とラザリデス。でも、彼の作品に接して、すっかり惚れ込んでしまい、「見た瞬間に恋に落ちた」といいます。そして、1997年、ついに決断するのです。プロカメラマンを辞め、バンクシーのマネジメントに専念することを。
 活動の拠点を、ロンドンに移すのが最初の仕事でした。でも、そこは至るところに監視カメラの目が光っています。そのため二人は知恵を絞ります。ステンシル(画像を切り抜いた型紙)を何枚か用意し、スプレーを吹き付けて、手早く「作品」を仕上げる手法を採用したのです。おかげで多くの作品がロンドン中で話題にはなったものの、美術界からは、まともなアートとは評価されず、鬱屈した日々が続きました。

 ある日、パブで飲みながら、バンクシーはラザリデスにある計画を持ちかけます。イギリスを代表するテート・ブリテン美術館に侵入し、自分の作品を無断で展示しようというのです。「まるで銀行強盗に入る気分」とのラザリデスの言葉も無理はありません。でも、周到な準備により計画は成功します。番組では、彼が撮影したその時の動画が流れました。その一部です。

 「あれは本当に痛快だった」「自分の絵と有名な絵のどこが違う。展示される場所でアートを判断する人への強烈な皮肉だった」とラザリデスは、バンクシーの気持ちを代弁しています。
 翌年には、ロンドン自然史博物館、大英博物館、メトロポリタン美術館(米国)でも計画を成功させ、その動画を公開するなど、行動はますます過激になっていきます。
 2006年、アメリカでの展示会には3日間で有名人も含めて3万人が訪れました。おかげでバンクシーの作品は高値で転売されるようになります。商業主義とは一線を画してきたたはずの彼は、そのことに大いに不満を抱き、とんでもない「事件」を起こすことになるのです。

 2018年10月5日、彼の「風船と少女」という人気作品のプリント版が、サザビーズ(世界的なオークションハウス)で競売にかけられました。値はどんどん上がり、88万ポンド(約1億3千万円)で落札されました。すると、その瞬間、額縁内に仕込んであったシュレッダーが作動し、作品の下半分だけが短冊状に切り刻まれたのです。番組で流された動画の一部です。

 一体何が起こったのかわからず、会場は大混乱に陥った、と現場に居合わせた美術記者は伝えています。ハウス側はとりあえず「作品」を一旦引き上げ、関係者による協議が40分ほど続きました。疲れ切った表情で会場に戻ってきた責任者の一言です。「バンクシーにやられた」
 あまりの手際の良さに、バンクシーとサザビーズが手を組んだのではないか、との噂が流れるほどでした。
 そして、この「事件」には後日談があります。3年後、前回の落札時のままの「作品」が再びオークションにかけられ、29億円という「バンクシー史上の最高値」で落札されたのです。「バンクシーはさぞ怒り狂ったことだと思うよ。彼があそこまでやっても美術界という巨大なマーケットに飲み込まれていったわけだからね。あの事件以降、彼は少し自信を失くしているようにみえるよ」と語るラザリデス。作品の破壊という作戦は、まったくの裏目に出てしまったわけです。

 番組の終わりのほうで、彼の近況が伝えられます。パレスチナをたびたび訪れ、ハトなどのグラフィティを残すとともに、ホテルの建設までも手がけました。場所は、イスラエルがパレスチナの各都市を分断するために設置した分離壁のまん前です。部屋の窓からは壁しか見えません。でも、「世界一、眺めの悪いホテル」との評判で客が押し寄せ、商売繁盛です。ウクライナも訪れ、こんなグラフィティを残しています。

 黒帯柔道着の人物が誰かは、わかりますよね。私も、弱者に心を寄せる活動には共感つつも、またしても商売になってるんじゃない?と、ちょっぴり感じたことでした。

 いかがでしたか?アートとビジネスをめぐって、こんなエピソードがあったんだ、と知っていただければ幸いです。それでは次回をお楽しみに。