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第427回 モナ・リザの謎に迫る

2021-06-25 | エッセイ

 つい先日、モナ・リザの「複製画」が、3億8千万円(邦貨換算)で落札されたとのニュースを、ネットの記事で目にしました。こちらがその「落札品」です。ホンモノよりなんだか色白ですね。

17世紀の「作品」とのことですが、さすが名作ともなると、複製画でもこの値段。スケールが違います。
 エラソーなタイトルで、今更「モナ・リザ」の謎解き?とのツッコミが入りそう。でも、なかなか説得力のある説に出会いましたので、ご紹介したくなりました。是非最後までお付き合いください。

 出会ったのは作家・清水義範のエッセイ「モナ・リザの微笑み」(「雑学のすすめ」(講談社文庫)所収)です。この作品のモデルとなった女性を巡って、なかなか魅力的で、説得力に富む説が紹介されています。それは最後のお楽しみとして、全面的に同書に依り、この作品をめぐる謎をざっとおさらいすることとします。

 レオナルド・ダ・ヴィンチの晩年、彼が死ぬまで保護したフランスのフランソワ1世のもとに、3つの作品が残されました。レオナルドが死ぬまで手放さなかった作品で、その内の1点が「モナ・リザ」です。パリのルーブル美術館が所蔵し、公開されています。

 依頼された肖像画であれば、依頼主とか関係者の手に渡っているはずですが、死ぬまで手放さなかった理由、こだわりとは何だったのでしょう。これがまずは謎です。

 モデルの女性が誰かというのも大きな謎です。実は、レオナルドの晩年に、その3点を見せられたある秘書官が記録を残しています。
「3枚の絵は、「聖アンナ聖母子」と「洗礼者ヨハネ」と<故ジュリアーノ・デ・メディチ(ヌムール公)の依頼になる、実物から描かれた、さるフィレンツェ貴婦人の肖像>だった」(同書から)
 レオナルドが語ったのをそのまま記録したと思われます。でも、これだけでは名前とかまでは分かりません。それが「モナ・リザ」となった経緯ですが・・・・
 レオナルドをよく知る博識な古物研究家であるダル・ポッツォがこの婦人は、フランチェスコ・デル・ジョコンドの夫人であると証言しているからなんですね。夫人の名はリザでしたから「ラ・ジョコンダ」(ジョコンダ夫人)とか「モンナ・リザ」(リザ夫人。英語読みでモナ・リザ)と呼ばれるようになりました。現在ではこれがほぼ定説で、このタイトルで公開されています。

 とはいえ、モデルをめぐって、いろんな説があるのも事実で、あれはレオナルドの自画像だ、という説があります。60歳の時の彼の素描スケッチを左右反転させ、「モナ・リザ」と重ねあわせると、目鼻口の位置がぴったり合うというのです。

 そして、謎の微笑です。モデルとなる女性がいたとして、当時のことですから、高貴さ、威厳を備えた表情で描いてもらうはず。微笑んだ表情というのは、どうも似つかわしくありません。

 お待たせしました。これらの謎をスラスラと解く魅力的な説とは、レオナルドの「母親」がモデルだというものです。

 NHKの「迷宮美術館」(放映日時の記述はありません)で、こんなナレーションが流れました。
「レオナルドの日記の1493年の7月の記述に「カテリーナ来る」とある。カテリーナとは、レオナルドが幼い時に父親の元に引き取られたため、生き別れた母であった。彼女とそういう再会をしたのだ。しかしカテリーナはその後、病気にかかり、ほどなくして亡くなった。レオナルドが「モナ・リザ」を描く10年前のことであった」(同書から)

 番組では、ほのめかされた程度です。番組の解説をしていた美術史家・西岡文彦氏の説ではないかと清水は推測しています。ただ、あまりにも大胆な説なので、自説としての紹介はさけ、ナレーションでほのめかした、というのが実情ではないでしょうか。

 死ぬまで持ち続けた理由は、それが、生き別れた母親の肖像画であれば、ずっと手元に置いておきたいはずで、腑に落ちます。
 そして、微笑みには、温かい慈愛に溢れたまなざしで見つめていて欲しいとの思慕の情を託していると考えるのもごく自然なことではないでしょうか。
 さらに、顔のパーツの配置がレオナルド自身と同じというのも、肉親である母親を描くのに自分の顔を手本にしたと考えれば納得がいきます。

 著者の清水も大いに興味を引かれたと書いています。日記以上の根拠はないのですが、この作品をめぐる謎がこれだけスラスラ解けるわけですから、限りなく真実に近いのではないか、と私も考えています。
 
 皆さんはいかがお感じになりましたか?それでは次回をお楽しみに。


第426回 「アトス」という異界

2021-06-18 | エッセイ

 世界には、国情、アクセス、治安などいろんな条件で、訪問・入国が困難な国や地域がいろいろあります。そんな中で、極めて平穏でありながら入国のハードルが突出して高い国としてギリシャの「アトス国」が最有力候補だというのを最近知りました。

 きっかけは、立花隆の「エーゲ 永遠回帰の海」(ちくま文庫)を読んだことです。著者が42歳の時に、カメラマン同行で40日をかけてギリシャ、トルコを巡った旅と思索の記録で、アトス国の訪問に割かれた章が強く印象に残りました。同書によりながら、そのユニークさ、異界ぶりをご紹介します。

 どこにあるかといいますと、ギリシャのだいぶ北方に位置します。幅は8~12km、長さは40kmほどのエーゲ海に突き出た半島のほぼ全域です(文末に地図を載せています)。

 このエリアは、約600年にわたる歴史的な経緯から、世界で唯一の「修道院自治共和国」で、完全自治がギリシャ憲法で保証されています。20の修道院(ギリシャ正教19、ロシア正教1)が点在し、かつては4万人の修道士がいました。現在は1000人を少し超えるほどとのことです。
 日常の行政事務は各修道院から1名ずつ派遣された修道士(任期1年)が、中央政庁で行います。ギリシャ政府の代表部事務所があり、係官は外務省からの派遣です。
 まさに「ギリシャであって、ギリシャでない」(同書から)という不思議な「国」です。
 こちらは、孤高な佇まいのシモノス・ペトラ修道院です(同書から)。

 そんなアトスへのアクセスがまずは大変です。ギリシャ北部の中核都市テサロニケから半島の付け根のウラノポリスまでバスで4時間半。そして、そこからは1日2便の小さな船(定員30~40人程度)しか交通手段はありません。海岸ベリにある修道院の船着き場に寄りながら、半島の中ほどにある港まで、2時間の船旅です。
 港から唯一の交通手段であるオンボロバスで、これまた唯一の町であるカリエまで約1時間。そこで「入国手続き」をしなければなりません。人口は300人で、中央政庁とギリシャ代表部のほかは、数軒の雑貨屋が広場を囲んでいるこんなところです(同書から)。

 とまあ、アプローチだけでもハードルが高いです。でも、もっと高いハードルがあります。国全体が修行の聖地であり、完全自治が認められていますから、観光気分でふらりと立ち寄ることはできません。
 異教徒で外国人の場合、まず、自国の大使館から、この人物はアトスに「入国」するにふさわしい人物である旨の推薦状を得る必要があります。その上で、ギリシャの外務省で入国滞在許可証を取得します(約1ヶ月かかります)。
 これでとりあえず「入国」まではできます。その上で、さきほどのカリエで中央政庁へ出頭して、入国滞在許可証をもらわなければ「移動」はできません。

 手続きだけでもこんな具合なのに加えて、アトス独自のきまりがいろいろあります。まず、女人禁制です。メスの動物も一切禁止です。ただし、猫だけはOKなんだそう。厳しい修行に励む修道士の皆さんの無聊を慰めるペットとして、黙認されているらしいのです。
 訪問者は歌ったり、踊ったり、水に潜ったりしてはいけません。肉食も禁止です。相手の許可なしに修道士の写真を撮ることもダメです。

 そんなハードルを乗り越え、一連の手続きも終え、禁止ルールも頭に入れて、著者とカメラマンに許された3泊4日の「巡礼」が始りました。

 宿泊施設は、修道院しかなく、移動手段は徒歩しかありません。食事も宿泊も無料です。ただし、ひとつの修道院に滞在出来るのは24時間までです。そして、修道院の門は日の出とともに開かれ、日没とともに閉じられます。日没までにたどり着けなければ、野宿するしかありません。

 それで思い出しました。村上春樹も若い頃、アトスを訪問した時のことを紀行エッセイ「雨天炎天」(新潮社のち新潮文庫)に書いていたのです。毎日が日没との戦いで、ドキドキ、ヒヤヒヤ、(そしてワクワク)しながら読んだのを覚えています。

 今はガイドブックがあって、修道院の所在地、相互の距離などが分かるようになっています。初日の手続きを終えて、昼食を終えた二人は、「最初の目的地は、1~2時間で行けるところにするのが無難だろうと思って(中略)とりあえず、7.5kmばかり離れた、北東の海岸にあるパントクラトルス修道院を最初の目的地に選んで歩き出した」(同書から)とあるのが、いかにも、です。
 日々の詳しい行程の記述はありませんが、聖地の効果でしょうか、のんびり、ゆったりと「巡礼」を楽しみ、野宿もせずに済んだようです。

 さて、最後に、どうしても当地を訪れたい人のための耳寄りな情報を同書からお伝えします。
 海上からアトスを見学出来る観光船があるんですね。ただし、修道士さんたちの心を乱してはいけませんから、海岸からだいぶ離れたところを航行します。その上で、女性は、手足や肩の肌を大きく露出するような服装は許されません(修道院からは見えないはずなんですけど)。厳格なルールを決めてではありますが、聖地と観光を両立させるギリシャ政府もなかなかの商売人ですね。

 上部の赤く塗られた小さな半島部分がアトス国です。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。


第425回 タコは天才である<旧サイトから>

2021-06-11 | エッセイ

 その不思議さ、精妙さに魅かれて、時々、生き物を話題にしています。今回、<旧サイトから>の第5弾として取り上げるのは「タコ」です(2014年7月アップ)。

 食材としては、馴染みがあります。でも、本文でご紹介する本を読んで、そのスゴさ、天才ぶりに驚きました。文末に、そのスゴさを示すYouTube動画3本へのリンクを貼っています。合わせお楽しみください。

★ ★以下、本文です★ ★

 広く西洋では「悪魔の魚」などと呼ばれ、嫌われ者のタコですが、日本のほか、イタリア、スペインなどでは、ごく普通の食材として人気があります。
 そのタコが、地球上の95%を占める無脊椎動物の中で、最高の知性を有する生き物だ、という触れ込みの本が、「タコの才能」(キャサリン・ハーモン・カレッジ 太田出版)です。

 まだまだ未解明なところも多いようですが、よく知られた「擬態」という習性を中心に、その能力の一端をご紹介します。

 まずは、色です。
 全身の皮膚にある何百万個もの色素胞を周囲の筋肉で伸縮させることで色を作り出すというのです。まあ、全身が、高精彩ディスプレイみたいなものと考えればよいでしょう。単色ならともかく、これでもって、周辺の地形、他の動物など複雑な色、柄、模様を再現します。身を隠したり、エサを待ち伏せるための「変色」作戦です。
 そのためには、周囲の状況を的確に把握したうえで、さらに、何百万もの筋肉に指令を送らなければなりません。そんな脳の働きは、想像を絶します。カメレオンも太刀打ち出来なさそうです。

 それだけではありません。更に手の込んだやりかたで、擬態するものの「質感」(輝き、反射など)も再現します。
 使うのは、「虹色素胞」と呼ばれるもので、色素は持ちません。どうするかというと、シャボン玉が虹色に輝く原理で、細胞の膜の厚さを、ミクロ単位で、それ専用の神経で微妙に変えて、質感まで再現するのだといいます。

 まだまだあります。
 筋肉自体ををコントロールして、例えば、サンゴのような凸凹の再現まで、(たった)8本の腕を駆使して、海中にゆらめく海藻まで再現する能力を持つタコがあるというのです。「変色」だけでなく、「変身」までするというわけです(文末の「海藻に擬態するタコ」の動画をご覧ください)

 どうです?スゴイでしょ(と私が自慢しても仕方ないのですが)。タコの寿命は、1年からせいぜい2年程度と言われています。こんなに短い一生のために、3億年もかけて、これだけの能力を発揮できるになった進化の仕組みって、一体なんなのでしょう。考えれば考えるほど不思議です。

 お待たせしました。百聞は一見にしかず。同書から、タコの擬態に関する動画サイトへのリンクを引用しておきます。是非ご覧下さい。きっと驚かれることでしょう。

<海藻に擬態するタコ>

<ミミック・オクトパスの海ヘビへの擬態>

<道具(ヤシの実?)を使うメジロダコ>

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。


第424回 昭和のテレビから見えてくるもの

2021-06-04 | エッセイ

 もう半世紀以上も前のことになります。大学に合格して、教科書よりも先に、自分専用のポータブル型白黒テレビを(親の援助もあり)買いました。
 受験を控えて「禁テレビ」を自らに課してきた反動もあり、当時はラジオの深夜放送と合わせて、随分ハマったものです。今はテレビ離れがすっかり定着していますが、社会人になってからも、昭和という時代とともに、人並みにテレビには随分親しんできました。当時の番組を思い返すと、独特の熱気と輝きに満ちていたなぁ、と懐かしくなります。

 「昭和のテレビ王」(サライ編集部・編 小学館文庫)という本があります。「テレビサライ」というテレビ情報誌(現在は休刊中)の平成14年11月号から同15年11月号まで掲載されたインタビュー記事をまとめ、再構成したものです。

 昭和のテレビに、作り手として、また、出演者として関わった12人が登場します。そのうち3名を選んで、ご本人の言葉(★と★の間)と、エピソードなどを通じて、「今のテレビ」に(ちょっとエラソーながら)モノ申してみようという試みです。しばしお付き合いください。

★僕はテレビに関わったのも早かったけれども、手を引いたのも相当に早かったんですね。★(永六輔)
 NHKがテレビの実験放送の準備に入っている頃から、早稲田の学生の身分で関わっていたといいますから確かに「早かった」です。
 実験放送の台本がテレビ業界デビューで、その後、本格的に手がけた「光子の窓」(日本テレビ)、「夢であいましょう」(NHK)などのしゃれたバラエティ番組が懐かしく思い出されます。

 ラジオに軸足を移した理由を私なりに要約してしまうと、テレビがメジャーなメディアとなって、組織での番組作りが主流になり、多くの人が関わり過ぎ、個人の才能を発揮する場ではなくなったから、ではないでしょうか。
 「誰かとどこかで」(TBSラジオ)のように、マイナーであるが故に、あまり制約なく、自由にしゃべれるラジオに活躍の場を見いだすのはごく自然の成り行きだったようです。確かにコンパクトで、手作り感いっぱいのラジオというメディアが「今」もっと見直されていいと感じます。

★じいちゃんやばあちゃん、それから子供が喜ばないことは、決してやらないでおこうと誓ったのよ★(萩本欽一)
 欽ちゃんといえば「コント55号」です。一生それでやっていけるほどの人気でしたが、「駄洒落を言うようになったら、コンビを解消しようって、(二郎さんと)約束してたんですよ」(同書から)でスパッとコンビを解消しました。新たに、「スター誕生!」(日本テレビ)など歌番組の司会でした。型にはまらない欽ちゃんの奔放さがウケて、新たな境地を開きました。

 その後、「ドジをやるのが一番うまいのは、素人だって気がついたのね」(同書から)との発想からある番組を実現させます。視聴者からの投稿を紹介したり、寸劇にして笑いをとる「欽ちゃんのドンとやってみよう!」(フジテレビ)がそれです。歌手の前川清さんや、中原理恵さんなど、お笑いの世界の「素人」も巻き込み、素人ゆえの間(ま)のズレ、とまどいを自然な笑いに変えるワザに感心したものです。
 テレビという場で、いろんな試みにチャレンジしてきた欽ちゃんの基本が引用した言葉です。「何でもあり」感いっぱいの昨今のテレビですが、視聴者あってのテレビ、という原点を、関係者の皆さんに、しっかり胸に納めておいて欲しいものです。

★良質の番組をゴールデンに流す。そうでなければ、テストパターンを出す(笑い)。そのくらいの勇気がほしいと思いますね★(藤田まこと)
 テレビデビューは、昭和32年の「びっくり捕物帖」(ABC(大阪))での与力役です。東京から俳優を呼ぶ予算がなく、主役の漫才師ダイマル・ラケットの口利きでした。「関西在住で、チョンマゲが似合い、江戸弁がしゃべれる」(同書から)との条件にぴったりで出演が決まりました。父親が東京出身の無声映画俳優で、のちに京都に居を移したことが、この幸運に繋がり、昭和37年から始まった「てなもんや三度笠」(ABC(大阪))での大ブレークに繋がります。

 その後、キャバレーまわりなどの不遇の時代を経て、「必殺シリーズ」などは20年を越える長寿番組になっています。デビューがデビューでしたから、軽演劇系と見られがちです。でも、自身の失敗作は必ずビデオに録画して研究しているといいます。本格派の役者としての熱意、隠れた努力・精進に頭がさがります。
 そんな彼だからこそ言えるこの言葉。テレビ業界の皆様にもちょっと噛み締めて欲しいです。


いかがでしたか?なお、少し前に「ラジオの時代」(第365回)という記事で、ラジオというコンパクトなメディアを話題にしました。(リンクは<こちら>です)。合わせてお読みいただければ幸いです。

 それでは次回をお楽しみに。