★★★ 芦坊の書きたい放題 ★★★

   
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第338回 フランス語始めました

2019-09-27 | エッセイ

 実は、リタイヤ生活に入ったのを機に、スペイン語の勉強を始め、なんとか続いています(これについては、別の機会にお届けする予定です)。まあ、根っからの「語学好き」なんだと思います。

 そんな私ですが、フランス語には、ず~っと手が出ませんでした。発音と綴りとの関係がどうもよく分からない上に、通用するのが、フランスと、アフリカの旧フランス領くらい、というのが(言い訳がましいですが)理由と言えば理由。

 それなのに、始めたのは、少し前になりますが、新聞の書評で、紹介されてた「世界一簡単なフランス語の本」(中条省平 幻冬舎新書)に出会ったのがきっかけです。

 語学書って、「ホンマかいな?」の不当表示が多いです。「1週間でペラペラ」「聞き流すだけ」「中学生英語で十分」などなど。
 まあ、新書ですからね。騙されたつもりで読んでみるかな、と手に取りました。これ1冊でフランス語ペラペラはありえないとして、一番関心があったのは、「世界一簡単」と謳うからには、何か特別な方法論というか、工夫があるはず。果たしてそれは何か、ということでした。

 私なりの答えを言うと、それは、「フランス語の発音ルール」をしっかり、みっちり理解させる、ということでした。全体で200ページほどのうち、冒頭の約50ページが、発音ルールの説明に割かれています。

 で、著者が力説するのは、フランス語の「綴りと発音」には、(ごく一部の例外はあるものの)きちんとした、明確なルール、関係性があるということです。
 初心者(特に高齢の)って、理屈、ルールから入らざるを得ませんから、これはかなりありがたく、学習意欲を刺激する仕組みです。
 考えてみれば、英語の「綴り」と「発音」なんか実にいい加減。"a"の文字だけで、いったい何通りの読み方があることやら。理屈抜きで、ひとつひとつ憶えるしかなかったですけど・・・

 さて、そのルールですけど、例えば、「語尾に出てくる単独の子音と"e"は発音しない」というルール。

 花の都パリ。Parisは、英語読みだと「パリス」ですが、フランス語では、語尾の"s"は発音しないので、聞き慣れてる「パリ」でいいわけです。
 「読みもせん文字を、なんで、ごちゃごちゃ付けるんやろ」と思ったりしますが、言葉の成り立ちとも関係があるそうで、それはひとまず置いといて、発音しなきゃいいんですから、これは簡単そう。

 「母音が連続した綴りでも、音はひとつ」というルールもあります。

 "ai"と"ei"は、「エ」
 "au"と"eau"は、「オ」("eau"は、3つも文字を使って、音はひとつ!)。
 "eu"は、「ウ」。
 "oi"は、「ワ」
 
 café au lait ですが、アクセント付きの "e" は発音しますので、「カフェ」。そして残る部分は、今までのルールで、「オ・レ」と喫茶店などでお馴染みの言葉になります。

 その他のルールもこんな調子の説明に乗せられて、なんとなく分かった気になってしまうのが不思議。

 何よりうまい仕掛けだなぁと感心したのは、発音の章の最後に、カミュの「異邦人」とプルーストの「失われた時を求めて」の冒頭1~2行を、原語で「読んでみよう」という課題が与えられてること(解答付き)。「カミュ」さんの画像です。


 「今朝、ママンが死んだ」など翻訳では読んだ作品の原文を、それまでのルールで、とにかく「読める」ーこれは、感動ものです。発音の章が終わったところで、それなりの達成感があり、モチベーションも高まる実に巧妙な仕掛けであるな、と感心しました。

 著者の企みに乗せられて、行きつ戻りつしながらですが、半分くらいまで読み進んでいます。こんな仕組み、ルールの言葉なんだというのが、おぼろげながら、分かってきた段階です。試験があるわけじゃないので、まっ、ぼちぼちやっていきます。

 いかがでしたか?次回をお楽しみに。


第337回 海外旅行用心集

2019-09-20 | エッセイ

 行きつけののスタンドバーでカウンターを手伝っている女子大生が、卒業旅行でヨーロッパ各国を回って帰って来ました。一通り土産話に花が咲いて、「アブない目には遭わなかった?」と、私が訊くと、
「そういえば、パリでエッフェル塔観光をしている時に、若い男の人から Can you speak English?
と話しかけられて、Yesと答えたんですよ。そしたら、街のガイドをしてやるとか言い出しました。アブないので相手にしませんでしたけど」との返事。
 続けて、「でも、ベルリンでも同じパターン、流れで話しかけられたんですよっ」ときたので、「今、ヨーロッパじゃ、そんな手口でナンパして、カネでも巻き上げるのが流行ってるのかもな」と、二人でにが笑い。

 海外旅行も、盗難とか、トラブルとかに遭えば台無しです。楽しい旅になりますように、との願いを込めて、私と、私の周辺でのささやかな体験をご紹介します。

 視察団の一員として、イタリアのミラノに滞在した時のことです。私より少し先に、広場に通じる階段を上っていったメンバーの一人であるMさんが地上に出たところで、いきなり、子供が、彼の前で、バッと新聞を広げました。そして、ワーワーと大声で叫んでいます。「なんだなんだ」と手を上げて新聞をどけようとするMさん。
 
 しばし揉みあっていましたが、ほどなく、子供とその母親らしき二人連れは人ごみに紛れていなくなりました。ややあって、「あっ、やられた」とのMさんの声。
 新聞に注意を奪われて、手を上げている間に、母親がポケットから財布を抜き取る手口です。クレジットカードと現金が盗まれました。母子の見事な連携プレー(って感心してる場合じゃないんですけど)でしたね。アイスクリームとかジャムをわざと服に付ける、ワインのボトルを目の前で落とすなど、人の注意をそらせる手口はいろいろ聞いていましたが、新聞という「手軽な」手があったんですね。

 同じ視察団ではこんなこともありました。
 ローマで夕食を食べて、ホテルへ向かうバスにメンバーが戻ってきたのですが、年配のKさん一人だけが、なかなか戻ってきません。心配した数人が探しにいくと、とんでもないことが起こっていました。

 ひとり遅れて、しかもいくつかのバッグを抱えてバスに向かうKさんに目を付けていたのでしょう。道路の端と端でロープを持った二人組が、気合を合わせて、ロープを膝の高さにピンと張ったのです。たまらず倒れたKさんのところへ、二人組が殺到してバッグを奪おうとしました。大声を出して、必死でバッグを確保したため、被害は免れた、というのが事の顛末です。

 アメリカあたりと比べれば、「平和的で」「いかにもイタリア的な」手口ですが、夜の街中ではくれぐれも警戒を怠りなく。

 さて、私自身の恥づかしい体験を語らねばなりません。

 仕事で北京に滞在していた時のことです。海外で日課にしている早朝散歩をしていると、「日本の方ですか?」と流暢な日本語で、中国の青年から話しかけられました。

 「今、日本語を勉強しています」「それは、感心なことで」など、当り障りのないやりとりがあって、やおら「あなたの横顔の切り絵を作ってもいいですか?」と訊いてきたので、軽い気持ちで「いいですよ」と答えました。2つ折りにした名刺サイズの紙に、ささっとハサミを入れて、出来上がったのが、この「作品」です。うまく特徴を掴んだなかなかの出来栄えです。


 でも、その後がいけません。「もっと勉強をしたいので、お金が必要です。この切り絵を買ってください」と言い出しました。「値段は?」と訊くと、当時の公定レートで、2000円だか3000円との返事。

 「それなら要らない」と突っぱねても良かったんですが、なにしろいい出来なので、サギまがいとは感じつつも、つい言い値で買ってしまいました。
 まんまとしてやられたわけですが、まあ、授業料付きのいい土産と、経験ができたと自分を納得させています。

 「そんな立派な日本語が話せるんだから、日系企業に職を求めたらどう?こんな姑息な「商売」から手を引いてさぁ~」とでも言うべきだったかな、とそれが今でも心残りです。

 「用心集」と銘打った割には、いささか古く、事例も少ないのが心苦しいですが、ご参考になれば幸いです。

 それでは次回をお楽しみに。


第336回 20世紀の遺跡?

2019-09-13 | エッセイ

 1947年から49年生まれのいわゆる「団塊の世代」で、自ら「戦争を知らない子供たち」と開き直っていた世代(私も、ど真ん中)が古稀を迎えています。ということは、先の大戦を身をもって体験し、記憶に刻んでいる人たちは、80代以上、90代にもなろうかという時代です。

 「20世紀遺跡 帝国の記憶を歩く」(栗原敏雄 角川学芸出版)という本があります。著者は、毎日新聞学芸部記者(執筆当時)で、同紙に2010年8月から12年6月まで連載された記事を再構成しています。昭和という時代、とりわけ戦争にまつわる「遺跡」ともいうべきモノと、それにまつわる人々の証言を後世に残す、という著者の熱い想いに溢れた意欲的な作品です。

 ご紹介したいのはいろいろありますが、東京大空襲による遺体の埋葬、というエピソードを採り上げます。

 1945年3月10日未明、サイパン、グアムなどのマリアナ諸島から出撃したB29およそ300機が東京の下町を空襲しました。この大空襲を指揮した司令官が、カーチス・ルメイ(1906~90)です。

 前任のハンセル准将は、B29を「昼間、高高度、軍事施設を狙う精密爆撃」と「比較的まともに」使っていました。が、日本の対空防御が貧弱なことを偵察情報などから知ったルメイは、「夜間、低空、市街地無差別爆撃」という戦争犯罪的な戦術転換を行いました。そして、実行に移されたのが、この大空襲です。

 その結果は、8万人とも10万人とも言われる非戦闘員の貴重な命が一夜にして奪われるという大惨禍となりました。と、ここまでは、たくさんの本が書かれ、よく知られたところです。でも、これほど膨大な遺体がその後どうなったかは、あまり知られていません。そこを解き明かし、記録にとどめるが、この記事の核心です。

 マリアナ諸島が占領された時点で、為政者側も空襲があることを予想し、準備はしていました。ただし、東京都が想定していた犠牲者の数は、「爆撃期間」(一夜ではありません)を通じて、最大でも2万人程度という大甘なもの。井の頭公園の杉2500本を切って、1万人分の組み立て式の棺桶を用意する一方、都の火葬能力は、1日500体でしたから、今に変わらぬドロナワ式、お役所的発想と仕事ぶりです。そのツケは、死者の埋葬という問題に回ってきました。

 身勝手な「想定」を大きく超える死者が出たため、一人ひとりを火葬し、埋葬することは不可能です。そこで3月10日から敗戦に至るまで、公園や寺などおよそ150カ所(緊急事態のため、土地の持ち主に無断で、というケースも含めて)に遺体を「仮埋葬」しました。とにかく穴を掘って埋める、というか放り込むような乱暴な作業です。身元の確認などもほとんど行われませんでした。。

 さすがに、これでは、犠牲者の霊も浮かばれないとなったのでしょう、敗戦後の1948~51年、「仮埋葬」していた遺体を掘り返して、火葬、改葬が行われれました。

 仮埋葬地のひとつである十思(じつし)公園(中央区日本橋小伝馬町)の近くに住んでいた女性の証言があります。公園のあったところに火葬のため掘り起こされた遺体の山が2つ。高さは1メートルほどでシートがかけられていましたが、手足が見えた、と言います。
「恐くて。しばらくそばを通らなかった。「ひとだま」が出るっていわれていた」
「トラックが何日も何台も来ていた。何かシートをかけていたけれど、茶色い足のようなものが見えて、ぞっとしました」

 掘り返した遺体の改葬事業に携わった都の職員の座談会の記録があります(「戦災死者改葬事業始末記」)。主な発言を、同書から引きます。

「12月末(注・1948年)に今戸本竜寺を着手したわけでしたが、半腐りで、臭いったらない。(中略)とにかくあの半腐れの臭いといったら・・・・、我々はあれをコンビーフといってました」

「死人の膏(あぶら)はひどいもので、手を洗ってもおちない。手袋をはめていても、膏が毛穴にあがってくるのです。(中略)頭の毛にはポマードもつけられない。屍臭がポマードの油にまで染みこんでしまう。それぐらいヒドイものでした」

「穴を掘っていると、自分の横に屍体の顔がヒョイとのぞいている。あれをみると、この仕事は並大抵のことじゃあないと思いました。何とも言えない異臭のため気持ちが悪くなって倒れそうになる。そのとき、お線香を立てるとその臭いが消える。私は初めて線香の効力の大きなことを感じたものです」
 「東京大空襲」という大量虐殺がもたらした悲劇と向き合い、遺体の仮埋葬、そして改葬という現場作業に携わった方々のご苦労に頭が下がります。

 その時引き取り手が見つからなかった遺骨は、墨田区にある「東京慰霊堂」(都立横網町公園内)に、関東大震災で犠牲となった方々の遺骨とともに、安置されています。こちらがその慰霊堂です。


 それにしても気になるのは、この大空襲の指揮を執った「ルメイ」の戦後です。なんと、1964年に、日本政府が「勲一等旭日大授賞」を贈ってるんですね。例のナカソネを政界から引退させるのと引き換えに授与した「栄誉ある勲章」です。悪い冗談としか思えませんけど、事実です。

 「航空自衛隊の育成ならびに日米両国の親善関係に終始献身的な労力と積極的な熱意とをもって尽力した」というのがその理由。
 「この決定は、日本の勲章史における永遠の汚点だ。」と著者は書いています。
 それどころか、「東京大空襲」に限らず、先の戦争で尊い命を奪われた無辜の人たちのことを思えば、「勲章史」どころか、「日本の歴史」における汚点だ、というのが、私の想いです。

 いかがでしたか?次回をお楽しみに。


第335回 東京五輪の「非注目」種目

2019-09-06 | エッセイ

 時々出かける自宅近くのスタンドバーのおネエちゃんが、オリンピックの「入場式」の熱烈なファンだというのが分かりました。
「私ね、「入場式」だけは必ず見るの。知らない国とかいっぱい出てくるでしょ」
「リヒテンシュタインとか?」
「そうそう。そんな国が入場してきたら、一体どこにあるんだよとかって、その場で地図帳広げて調べるの」
「へえ~、変わった楽しみ方だねぇ。で、競技の方には興味ないの?」
「全然!見るのは入場式だけ(きっぱり)!」

 そこまで極端ではありませんが、私も、オリンピックそのものにあまり関心がないクチ。たまたま、日本が強そうな競技をテレビでやってて、他にすることがなければ見るかな~、という程度のファンです。ネットでのチケット購入騒動も、横目でクールに見ている「へそ曲がり」ですので、あまり「注目されてない」(と、私が独断で決めた)競技の「見どころ」を、大会組織委員会のサイトも参考に、ご案内しようと思います。

<オープン・ウォーター・スイミング>
 水泳競技の一種目です。お台場海浜公園沖に設けられた外洋のコースで、男女とも10kmのレースを争います。小さい頃、泳ぐといえば、海とか河に決まってましたから、水泳の原点とも言えるワイルドな競技で、それなりの意義はありそうです。

 ただし、選手ではなく、主催者団体が戦わねばならない相手が2つあります。
 一つは水温です。陸上のマラソンに匹敵する過酷な競技ですから、上限が31度と決められています。この8月のテスト大会では、午前5時での水温が、29.9度とのことでしたから、ぎりぎりセーフ。でも厳しいです。一応、男子が午前7時、女子は2分遅れのスタートとなっていますが、更なる繰上げもありうるとのことで、選手も、観客も大変です。

 もう一つは、大腸菌です。同じく今年8月のトライアスロンのテスト大会では、大腸菌の数字が、国際水連の定めた基準の2倍あったため、スイムは中止、2種目だけの競技になりました。大会中は、水質を改善するための膜を、沖合に3重に張るというんですが、付け焼刃的で、こちらもクリアするのは、なかなか厳しそう。
 というわけで、競技が行われるかどうかが、この種目の一番の「注目ポイント」ですかね。

<サーフィン>
 昔はナンパのツールだった、とのイメージ(あくまでイメージですが)を抱いている私みたいなオジさんは、「サーフィン」がオリンピック種目と聞いて、「感慨」や時代の流れを覚えます。

 まずもって、波という自然が相手です。「同じ波は2つとない。いかにいい波をつかむか、刻々と変化する波にどのタイミングで乗るかが重要になる。自然の中で運を味方につけながら戦うスポーツがサーフィンなのだ。」(同サイトから)とすごいことが書いてあります。運任せの要素に加えて、(常々私が疑問を感じている)採点競技です。果たして五輪の競技にふさわしいのかなぁ、というのが素朴な疑問。

 男女各20人が、決められた時間内に、10本前後のライディング(波乗り)を行い、技の種類や難易度、スピード、パワーなどをジャッジが採点し、高い2本の合計得点で勝敗を決する仕組みです。
 ひとつの波に乗れるのは、ひとりだけです。崩れる直前の波の頂上をピークというんだそうですが、そのピークに一番近い選手にその波に乗る「優先権」があります。

 ただし、「波に乗らないふりして乗ったり、パドリングを開始するふりをして実際はいかなかったりすることで、他の選手を翻弄することもある。」(同サイトから)とあります。「駆け引き」もありということなのでしょうが。スポーツマンシップとの兼ね合いはどうなんでしょう。
 「技」とか「テクニック」というと堅苦しいので、「芸」を楽しむ・・・そんな余裕での観戦がオススメです。

<スポーツクライミング>
 人工の壁に設けられたホールド(突起)を利用して、素手とクライミングシューズだけで、スピード、到達の高さなどを競う競技です。同サイトから画像を借用しました。


 「スピード」、「ボルダリング」、「リード」の3種目がありますが、何といっても注目は、「スピード」ですね。

 高さ15メートルの壁を登るタイムを競うのですが、他の種目と違って、ルートの設定は世界共通の固定です。ですから、いくらでも、事前の練習ができます。

 なので、優勝タイムは、男子で5~6秒、女子で7~8秒という早さ。陸上の100メートル走よりも早く決着がつくというスゴさです。早い決着が好みの、せっかちな人は、要注目かも。

 と、あまり注目されそうもない3競技を案内してきましたが、いかがですか?
 選手・観客への暑さと熱中症対策、競技施設の完成具合、ボランティアも含めた運営体制などなど、競技よりも、その周辺のことが何かと「注目」「話題」を集める大会になるような予感がしています。

 それでは次回をお楽しみに。