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第414回 メジャー・リーグの不文律

2021-03-26 | エッセイ

 世の中や組織には、「不文律」と呼ばれ、書かれてはないんだけど、皆が守ることになっている暗黙のルール、約束事というものが存在します。

 鎌倉時代、11条からなる「御成敗式目」という法典がありました。この中に、「闘殺の基、悪口より起る(喧嘩して、殺人にまでなるのは悪口が原因だ)」として、「軽い悪口」でも拘禁、「重い悪口」は流罪との定めがあります。悪口とは何か、軽い重いをどう判断するのか・・・裁く人もさぞ苦労したことでしょう。悪口の問題は、やはり不文律として扱うのがいいようです。

 女性は結婚したら退社、とか、社内結婚したらどちらかが辞める、などというのを暗黙のルールにしている会社が(多分今でも)あります。おおっぴらにルール化できないからそんな形にするーーズルくて、けしからんやり口です。

 さて、野球といえば、ルール・ブックというのが厳然とあって、不文律などの入り込む余地はないとばかり思ってましたが、そうでもないことが分かりました。
 丸谷才一さんのエッセイ「不文律についての一考察」((丸谷才一エッセイ傑作選1 文春文庫)所収)では、メジャーリーグの不文律を話題にしています。私なりの(勝手な)コメント込みで興味深いものをいくつかご紹介しましょう。

<大きくリードして勝っている時に、盗塁してはならない>
 デビューの年でしたかねぇ、この「ルール」で、イチロー選手の盗塁が記録として認められなかった事がニュースで伝えられました。勝敗には影響を与えないプレイですが、記録は記録じゃないのかな、と随分不思議な気がして、よく覚えています。
 本書によると、対レッドソックス戦で、9点「リードされた」9回無死1、3塁での二盗が盗塁と認められませんでした。リードされてたケースですけど、意味のないプレイというわけでしょう。公式記録には「守備側の無関心による進塁」とだけ描かれているそうな。数々の大記録を打ち立ててきたイチロー選手には珍しい「記録」です。でも、最後まで勝負をあきらめない敢闘精神の証(あかし)、勲章として胸を張っていいと思います。


<終盤にバントをして、ノーヒットノーランの記録を阻んではならない>
 そこまでセコいことして、記録阻止に行くな、正々堂々とフェアに戦え、という「趣旨は」よく分かります。2001年5月16日にダイヤモンドバックスのシリング投手がパドレス戦で、8回一死までパーフェクトで投げていたのを、パドレスのデービス捕手のバントヒットで阻まれました。
 ダイヤモンドバックスの監督は大いに怒ったというのですが、どうしようもありません。阻止した方も後味が悪かったと想像しますが。

<ホームランを打った後、投手に対してこれみよがしな態度をとってはならない>
 メジャーリーグの試合で、選手がホームランを打っても、日本のように大喜びしたり、飛んだり跳ねたりしないのが不思議でしたが、こんな「ルール」があったんですね。
 日本だと、ハイタッチ、ハグは当たり前、ホームベース前でのバック転までする選手もいましたから。打たれた投手の気持ちを慮って、喜びを控えめに表現する---勝負とはいえ「紳士たれ」の精神が生きているということなのでしょう。でも、さすがに劇的サヨナラホームランなどでの大騒ぎは許されてるようです。

<打席で捕手のサインを覗き込んだりしてはいけない>
 塁を盗むのはよくて、サインを盗むのは、(打者と捕手に限らず)よくないというのが不思議。味方同士では、時に一球一球監督からサインが出て、試合が長引くことも多いです。サインを出すなら見破られないよう工夫する、相手方は、そのサインの解読に知恵を絞るーーそんな虚々実々の駆け引きも野球の一部だ、お互いプロなんだからと割り切れないですかね。

<グラウンドで殴り合いが起きたら、ベンチやブルペンにいないで、必ず現場に駆けつけなければならない>
 これは日米共通の「ルール」で、テレビでもよく目にしました。カラダを張ってケンカしてる選手を孤立化させず、「チーム一丸で」で加勢します。「紳士たれ」なんかクソ喰らえ、「チームプレー」優先のルールなんですね。
 そういえば、現役時代、巨人の王選手が乱闘に駆けつける場面を何度か見ました。「やれやれ、ルールだから駆けつけるけどさぁ」と顔に描いてあって、いつも後ろの方から、のろのろと駆けつけていたのを思いだします。
 野球の分野に限っても、不文律にも意味のあるものと、不思議なものがあるものですね。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。

〈追記 この記事を書いた時点(3月)では予想していませんでしたが、大谷選手の活躍スゴいです。オールスターでも二刀流ですもんね。ホームラン王のタイトル是非獲って欲しいです。2021.7.16〉



第413回 中学理科の今

2021-03-19 | エッセイ

 今でこそ科学全般に広く(ただし、浅く)関心を持ち、当ブログでも時折話題にしますが、中学、高校を通じて理系の科目にはあまり興味が持てませんでした。いささか古い定説を暗記させられる科目との(勝手な)思い込みがあったようです。
 前回の数学編(第386回ー文末にリンクを貼っています)でネタ元にしました「人生に必要な教養は中学校教科書ですべて身につく」(池上彰/佐藤優 中央公論新社)の理科編によれば、現在の教科書には「「今、習っていることが、現実の社会や生活とこのように関わっています」という具体例やエピソードが満載です」(同書での池上氏の発言)というのです。
 生物、物理、地学、宇宙など幅広い分野をカバーする「理科」から、その最新ぶりをご紹介します。

 まずは、遺伝子分野です。私たちの頃は、メンデルの法則くらいでしたが、遺伝子組み換え技術のおおまかな方法、そして、その応用の最先端ともいえるiPS細胞作成技術と、移植医療などの応用分野にまで話は及びます。
 遺伝子組み換え技術について、「負の側面も持つかもしれない。(略)その技術を大多数の人が理解し、納得した上で社会生活に反映させていくことが求められている。」(大日本図書「新版 理科の世界3」)との記述は、当然といえば当然ですが、執筆者の良心を感じました。

 阪神淡路、そして東日本という未曾有の大震災を経て、地震のメカニズム(日本列島は4つのプレートがせめぎあっていることなど)、そして、火山が多いことなどに触れた上で、こんな記述があります。
 「富士山は(略)いつ活動が起こってもおかしくない時期にきていると考えられている。」(大日本図書版1)」そして、噴火した場合の甚大な被害想定の説明が続きます。
 富士山噴火は充分に想定できる事態ですけど、最近の教科書は、随分大胆になったものです。江戸中期(1707年)の宝永大噴火を描いた絵が残っています。

 目を宇宙に転じてみましょう。
 「めい王星は、最近まで9番目の惑星とされてきたが、太陽系についての研究が進んだ結果、2006年に惑星の定義が定められ、太陽系外縁天体と呼ばれるグループに分類された。」(東京書籍「新編 新しい科学3」)そうそう、そんなニュースがありました。

 この話題をめぐって、本書で二人が語っています。めい王星は、アメリカ人が発見した唯一の「惑星」だったので、「降格」に、アメリカが最後まで抵抗し、決定までに時間がかかったのだと。そこまで教科書には載っていませんが、人間くさいエピソードに頬が緩みました。

 地球を構成する元素は、もともと宇宙にあったものが、超新星爆発などで、まき散らされ、それが集まったものです。こんな記述があります。
 「宇宙は約138億年前に誕生したと考えられていて、太陽を中心とする太陽系は、約46億年前に宇宙をただようガスやちりから誕生したと考えられています。ということは、私たちのからだを作っている元素は、いちどはどこかの星の中にあったことになります。私たちは「星のこども」なのです。」(東京書籍版3)
「星のこども」なんてロマンチックですねぇ。こんなロマン溢れる教科書で習ってたら、理科が好きになってたかも。

 さて、「理系離れ」を意識してるのでしょうか。理系の知識を活かした「仕事」の紹介に力を入れているのが、いかにも今時の教科書です。

 NHKニュースの天気予報などを担当した気象予報士の菊池真以さんが語っています。
「・・・気象予報士がよく使うデータの中には、気象衛星で観測した雲のようすや、地上天気図、高層天気図・・・などがあります。どれも中学校で学習する内容を基本にして見ることができるものです。」(東京書籍版2)
 馴染みのある仕事を通じたうまい訴求です。

 極めつけは、「宇宙飛行士になるには」という超実践的なコラム(大日本図書版3)です。
 必要とされる知識、技能を身につけ、人並み外れた身体能力、精神力などを兼ね備えていなければならないことが、たっぷりと、これでもかというほど具体的に記述されているといいます。
 ガガーリン世代の私にとっては、まさに隔世の感です。理系離れが言われる中、理系の仕事にも目を向けてもらおうという執筆者の熱い想いが伝わってきます。
 数学編(第386回)へのリンクは<こちら>です。

 いかがでしたか。それでは次回をお楽しみに。


第412回 大阪弁講座44 「〜(し)よる」ほか

2021-03-12 | エッセイ

 第44弾をお届けします。

<~(し)よる>
 作家の山口瞳(故人)のエッセイで、嫌いなものが2つあるというのを読んだ記憶があります。こちらの方です。

 

 ひとつは、「リンゴの唄」(終戦直後の流行歌)。理由の説明はありませんでした。
 で、もうひとつが、「大阪的なるもの」です。大阪人、大阪弁、阪神タイガースのことなどを、こきおろしていたのを思いだします。

 「リンゴの唄」はともかく、「大阪的なるもの」への嫌悪は、江戸っ子の粋、東京人なりの美学と相容れない、性に合わないということだったのでしょうね。

 さて、そんな山口が、嫌いな大阪弁の代表としてやり玉に挙げていたのが、「いのきよる」という言い回し。「いのく」というのは、「動く」の意。どういう文脈かは忘れましたが、死んだと思ってた虫かなんかがモゾモゾ動くのを見て、「なんや、コイツ、「いのきよる」で」のような用例だったと思います。

 動詞につく「よる」ですけど、大阪人にとっても、これが、なかなかのくせ者。

 さっきの例だと、軽い驚きと同時に、たかが虫なのに「生意気にも」動いてるぞっ、という上から目線が感じられます。

 「向うから、目つきの悪い犬が「来(き)よる」で。気ぃつけや」
 これなんかは、犬に対する気味の悪さとか、警戒心が働いてると解釈できる。

 「アイツ、こんな遅い時間に、ちゃらちゃらと「出かけよる」けど、どこぞに、ええ女でも出来たんかいな」
 う~ん、これなんかだと、アイツへの不審の念と、多少のやっかみが入ってますな。

 なんか、ネガティブな用例が続きましたけど、こんな使い方もあります。

 「ウチの孫ゆうたらな、ワシの顔を見るたんびに、「ジージ、ジージ」ゆうて、「寄って来(き)よるねん」」ただのジジ馬鹿ですけど、孫のかわいさ、けなげさへの思いが言わせるんでしょうなぁ。

 とまあ、いろいろ用例を並べてみて分かるのは、その対象への感情移入が基本にあるということでしょうか。

 事実(虫が動く、犬が来る、アイツが出かける、孫が寄ってくる)を淡々と述べるだけでなく、そこに話し手の気持ちをちょっと込める・・・その気持ちの幅が、ポジティブなものから、ネガティブなものまで、幅広いのが特徴です。

 アバウトな大阪人が、いちいちそんなことを意識して使ってるとは、思えませんが、器用に使いこなしてます。

<嵩(かさ)が高い>
 嵩(かさ)という言葉があります。「嵩張る」という言い方があるように、モノの体積、容量などを指します。「雨で川の「水かさ」が増えてきた」などという言い回しもおなじみです。

 さて、大阪弁では、人を評して「嵩が高い」という言い方があります。

 体がデカい、という意味じゃないんですね。絶えず家の中をうろうろしたり、作業らしきものをしてたり、一向に落ち着きがない。その行動、振る舞いが鬱陶しくて気に障るーーそんな人物を評して「嵩の高いヤツやな」と決めつける、これが第一の用法でしょうか。

 行動的というわけではないが、思い出したように「お~い、お茶」とか「飯まだかぁ」とかの御下問があったり、「夕刊来てるか見てきて」などとにかく要求が多い。居るだけで煩(わずら)わしくて手がかかる面倒な存在・・・それをを指すのがもうひとつの用法ということになりますかなあ。事実、そんな大阪人が多いような気がします。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。


第411回 アマゾンの獰猛な魚たち

2021-03-05 | エッセイ

 いろんな生き物の「生き様」(というの変ですが)に興味があって、時々話題にしています。ちょっと前には、「第377回 毒々しい生き物たち」(文末にリンクを貼っています)で、有毒生物を取り上げました。

 有毒ではありませんが、アマゾンに棲息し、獰猛さが飛び抜けている2種の魚をご紹介することにします。ネタ元は、ダイナミックな文章と悪戦苦闘ぶりに魅かれて愛読してきた開高健の釣りエッセイシリーズ「オーパ!」の第一集(集英社文庫)です。

 まずは、カンジェロ(食肉どじょう)です。「どじょう」の名は持ちながら、歯と鱗を持つので魚のようでもあり、学者はナマズの一種と分類しているご覧のような「ややこしい」生き物です。

 同書の冒頭で、「アマゾン河」(神田鎌蔵 中公新書)からこんなエピソードが引用されています。著者神田の探検に同行していた青年が猟銃で撃ち落とした猿が、少し離れた水中に落ちました。灌木をかきわけて拾いあげたら、もうカンジェロが目玉の中に入り込んで、両眼から一匹ずつカンジェロのしっぽがぶらさがっていたというのです。その時、足を滑らせた青年のふくらはぎにもカンジェロが食いついて丸い穴をあけるという騒ぎになりました。

 「レヴィー・ストロースがたしか「悲しき熱帯」のどこかで、丸木舟から立ち小便をするとこのカンジェロが御叱呼をつたって滝登りをし、尿道から膀胱へ入りこむのだという原住民の言い伝えを紹介していたと思う」(同書から)とあります。必要のためとはいえ、ヒトのカラダにはいろいろ穴があいていますから、水中、水際での作業は危険が一杯。恐ろしいです。

 開高ならずとも実物を目にしたいと考えます。そんな彼に現地の人は「あんなものはアマゾンの屑で、いくらでも、どこにでもいるし、いつでもとれる」(同書から)とまともに取り合ってもらえません。
 そんな中、200キロ級のナマズを狙って、夜釣りで巨大な餌を投げ入れます。ところが、5分も経たないうちに、ぼろぼろになった皮だけになってしまいます。ピラニアなら、皮だけ残ることはないはず、これはカンジェロに違いないと開高は確信します。出会いは幻に終わりましたが、獰猛さは、その文章とエピソードで存分に伝わってきました。

 さて、おなじみのピラミアです。小さいものは、色も華麗で、観賞魚として飼われていたりします。同書の表紙を飾っているこんな魚です。

 その獰猛さを特徴づけるのは、飛び抜けて鋭い歯、顎の力、そしてエサを食べ尽くすスピードです。中には、鯛ほどの大きさになる種類もあって、それにまつわるエピソードが同書で引用されています。「あるとき、ボートのなかで一匹の醜い、黒いフットボール大のピラニアが、狩猟ナイフにかみついて、歯がポップコーンのように飛び散るのを目撃したことがある」(トム・スターリング「アマゾン」・タイムライフブックス刊から)というから凄まじいです。

 開高自身も実験に挑んでいます。二匹のワニの背中を割いて棒に縛りつけ、それを湖の中程に突き立てました。少し離れた舟から見ていると、棒のまわりに波紋が2つ、3つでき、棒が軽くゆれました。その後、10分経っても、30分経っても何の変化もありません。たまらず引き上げてみたら、ワニの肉も内蔵もひとつ残らず抜かれて、残ったのは外皮と骨だけだったというのです。 
 (ピラニアが)「ワニをむさぼり食うところを写真にとろうと思ってこんなことをしたのだったが、もののみごとに裏をかかれてしまった。」(同書から)とあります。さぞくやしく、驚いたことでしょう。

 ご存知のように、ピラニアは人間も襲います。服を着ていれば襲われない、というのは根拠がないようで、カナダの探検家W・プライスの「アマゾン探検誌」(大陸書房)のこんなエピソードが引用されています。
「ある時部下が1人でロバに乗って出かけたところ、あとでロバだけもどった。仲間がロバの足跡をたどってみると、男の骸骨がみつかった。服はまったくそのままだった。魚は服の下にもぐりこみ、一片余さず肉を食い尽くしたのだった」(同書から)想像するだにオゾマしい光景です。

 縦横に古今の文献を引用しながら、自身の体験もダイナミックに伝える開高ならではのエッセイを堪能しました。
 冒頭でご紹介した記事(毒々しい生き物たち)へのリンクは、<こちら>です。会わせてお読みいただければ嬉しいです。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。