★★★ 芦坊の書きたい放題 ★★★

   
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第578回 こんな広告戦略があった!

2024-05-31 | エッセイ
 広告・宣伝の仕事って面白そうで、ちょっぴり関心があります。商品、サービスを売るための知恵・アイディアを集め、その成果は(うまくいけば)今どきはネットも含めた様々なメディアで流されます。一方で、売上げという結果を求められますから、結構大変そうです。
 「1行バカ売れ」(川上徹也 角川新書)では、キャッチコピー(宣伝文句)も含め、売れる製品・サービスづくりの知恵、売り方の工夫などの実例が豊富に取り上げられています。なるほど~、と感心したユニークなケースをご紹介します。よろしくお付き合いください。

★反骨の本屋さん★
 心斎橋を筆頭に大阪市内3カ所で書店を展開するのが、こちらのスタンダードブックストアです(注:残念ながら2023年6月に廃業していました。以下の情報は本書に拠ります)。

 落ち着いた照明のもと、本だけでなく、文具、雑貨、洋服、バッグなど幅広い商品を扱います。地下のカフェは、買う前の本でも持ち込み可、というユニークさもあり、地域に根付いています。2006年、そんな本屋さんが、心斎橋店を新規オープンした時、地下鉄心斎橋駅に出した広告がニュースになり、一挙に知名度がアップしました。それが・・・・
<本屋ですが、ベストセラーはおいてません。>
 「よく売れてるから」とか「ベストセラーだから」というだけの安易な理由では置きません、独自の目利きを大事にしています、というメッセージなのでしょう。本を選ぶ眼に自信がある読書家にはグッと来そうです。もちろん、商売ですからベストセラーも置いていますが、店の姿勢、反骨精神を感じさせる、いかにも大阪的な「広告」です。
★リンゴにつけた付加価値★
 1991年9月28日朝、猛烈な台風19号が青森県を直撃しました。ちょうど収穫期を迎えていたリンゴのほとんどが枝から落ちてしまいました。これらはもちろん商品として売れません。わずかい残ったリンゴも商品価値は大幅に下がり、被害総額は、741億円にものぼりました。そんな中、ある町のリンゴ農家から、アイディアが出ました。落ちなかったリンゴに付加価値をつけて売ろうというのです。ターゲットは・・・・・・そう、受験生です。「落ちないリンゴ」と名付け、「合格」という朱印を押して化粧箱に入れ、1個1000円で販売しました。

 あっという間に完売し、その町のリンゴ出荷量は大きく減ったものの、販売額はそれほど落ちませんでした。「付加価値」という魔法を見た思いです。
★最大の弱点を「売り」に★
 アメリカのハインツ社は、1876年からトマトケチャップを発売している老舗です。人工保存料を使わない製法で支持を得、特に1906年に法律改正により不純物混入が規制されてからは、圧倒的なシェアを誇っていました。しかし、第二次大戦後、ファストフードの普及で市場が拡大し、参入企業が相次いだため、ハインツのシェアは急落しました。当時のケチャップはビンづめです。他社のケチャップは水分が多いので、簡単に出ます。でも、ハインツ製は、ビンを逆さまにして叩く必要があったのです。水分を増やすという姑息な策を取らず、その欠点を逆手に取った広告戦略を展開しました。
<ハインツのケチャップは、おいしさが濃いからビンからなかなか出てこない>を基本コンセプトに大々的な広告宣伝を展開したのです。見事、シェアを回復したのは何よりでした。
★お母さんにボイスレコーダーを売る★
 新聞記者が取材で、また、ビジネスマンが会議の記録用に、とよく目にするボイスレコーダーです。テレビ通販の「ジャパネットたかた」は、小さい子供を持つ働くお母さんをターゲットにし、大成功を収めました。学校から帰ってきてもお母さんがいなくて寂しい思いをするお子さんにメッセージを伝える道具にしたら、という提案です。「〇〇ちゃん、お帰りなさい。お母さん、まだ会社だけど、おやつは冷蔵庫に入っているからね。宿題は早めにちゃんとやってね。」
 こんなメッセージ例を出されたらたまりませんよね。心温まるアイディアに参りました。
★「義理」専用のチョコ★
 ブラックサンダーというココア味でクランチタイプのチョコがあります。有楽製菓(東京都小平市)が1994年から発売しているもので、ここ10年で、売り上げを10倍以上に伸ばしている人気商品です。チョコといえばバレンタイン・デー。各メーカーは、高級感を売り物に、「本命」「義理」を問わず、例年大商戦を展開します。ところが、有楽製菓が2013年から展開したキャンペーンのキャッチコピーはというと・・・・
<一目で義理とわかるチョコ>というもので、商品にもしっかり表示されています。

1個当たり単価は30円程度と手軽なうえに、売れる数は「義理」が圧倒的に多いはず。一見、開き直りのようですが、ターゲットを絞った、大手メーカーが真似できない販売戦略だと感心しました。これなら、「安心して」贈ったり、貰ったりできる、という付加価値もありますし・・・

 いかがでしたか?モノを売るための知恵出しは、大変そうだけど、楽しそうですね。それでは次回をお楽しみに。

第577回 芸が身を助けた旅人衆3人

2024-05-24 | エッセイ
 昔の人は、つくづく健脚でした。江戸時代、江戸と京都の所要日数は、平均15日前後だったといいます。1日あたり30~40キロほどの「歩き」をこなしていた計算になります。体力もさりながら、道中の費用(路銀)も相当なものだったはずです。商人ならそれなりの目算があっての旅でしょうけど、庶民にとっては、現在の海外旅行以上の冒険、ビッグイベントではなかったでしょうか。
 司馬遼太郎のエッセイ「浪人の旅」(「司馬遼太郎が考えたこと 5」(新潮文庫)所収)では、「芸」の助けで、食べるものを食べ、路銀も調達しながら諸国を旅した人物たちの興味深いエピソードが語られています。3人を選んでご紹介しますので、最後までお付き合いください。

 まずは、宮本武蔵の「武「芸」」です。

 半生にあれだけ諸国を歩き回って宿泊費や飲食費をどうしていたのか、というのは誰しもが抱く疑問です。「じつは武蔵はただであるけるのである。」(同エッセイから)と司馬はタネ明かしをしています。
 日本では室町時代以後、諸芸が盛んになりました。武蔵が在世したのは、豊臣期の終わり頃から徳川の初期にかけてです。戦国の遺風が残っていた時期でもあり、兵法(剣法)が「弱いものでも強くなれる技術」(同)として、地方の小豪族に人気があり、珍重されました。「まあ、ひと月ほども泊まってもらって、このあたりの者に教えてもらえれば・・・」みたいなことで、食う方の心配はなく滞在できたでしょう。次の目的地での有力者を紹介してもらい、ついでに道中の路銀もいただいて・・・というシステムに乗っていたというのです。
 ただし、腕は一流だからといって、それだけで「ただであるける」ほど甘くもありません。武士発祥の地は関東です。兵法への需要、関心も高いですが、同業者(教え手)も多いです。武蔵もそこでは商売にならないと考えたのでしょう。自身の出身地(播州(兵庫県)と作州(岡山県)の境)を含めた上方から九州を商圏と見定めました。これらの地方には熱心な旦那衆がいたことも計算に入れたマーケティング戦略で商売は成功しました。おかげで、剣豪といえば武蔵、との名声を今に残しています。

 「文「芸」」の分野から、戦国・室町期の連歌師・宗祇(そうぎ)が取り上げられています。「連歌」というのは、「五・七・五」と「七・七」を複数人がリレー形式で詠んでひとつの歌にしていく文芸です。いろんな約束事があり、高度な技、知識が必要とされます。彼のこんな画像が残っています。

 低い身分の出身でしたが、その芸をもって京では天子からも敬せられる身で、関白以下の公卿たちとも親交を深めていました。そして、このことが、なによりのブランドであり、資本(もとで)ともなり、地方の大名たちが宗祇を有り難がり、貴賓に近い厚遇を受けていました。
 現に、戦国期、織田家には、信長の父親の代に行っています。当時は正規大名でもなく、新興勢力であった織田家にとっては、箔(はく)がつき、近隣の豪族に鼻高々の自慢になったことでしょう。そんなことの積み重ねが、宗祇自身のブランド力アップにさらに貢献し、商売繁盛・・・お互いにメリットを享受するビジネスライクな関係が成り立っていたのですね。
 行けば厚遇されますが、道中には危険もあります。宗祇もある土地の山中で盗賊に出会い、所持金を巻き上げられたことがあります。こういうことには慣れていましたから、さっさと数里ほど歩いていると、先ほどの盗賊が追いかけてきました。用を聞くと、宗祇が顎に蓄えている見事な白髯(はくぜんーひげ)が欲しいと言います。禅僧が使う払子(ほっす)の材料として、京で高く売れる、というのです。それに対して、宗祇は歌一首を詠みます。
<わがために払子ばかりは免(ゆる)せかし塵(ちり)の浮世を棄(す)てはつるまで>
 幸いなことに、盗賊にも歌心があったのでしょう。こんどは芸が命を助けて、白髯を奪われなかったのは何よりでした。

 さて、江戸期の俳人・松尾芭蕉です。芭蕉といえば、「奥の細道」ということになります。
<「奥の細道行脚之図」、芭蕉(左)と曾良>
 でも、俳諧も含めた文芸の盛んな京、大坂とかではなく、なぜ東北だったんでしょうか。「江戸期の芭蕉ともなれば、旦那も小粒になった。(中略)生活面でいっても、京や大坂で点者(てんじゃー俳句の採点者)として旦那衆を教え、きまりきった相手とばかり鼻をつきあわせていても、収入はたかが知れている。」(同)というのが司馬の見立てです。
 旦那たるべき庄屋階級の場合、近畿では農地が細分化されていますから、総じて屋台が小さかったというのです。その点、関東から東北にかけては、物持(ものもち)の大地主が多い、という事情がありました。う~ん、風雅の道といいながら、芭蕉なりの計算が働いていたのですね。

 いかがでしたか?三人三様の旅暮らしの中で、高度な「芸」を自分の生活、人生に活かす知恵、戦略があったからこそ、後世に名を残すことができたのだ、ということにあらためて気づいたことでした。それでは次回をお楽しみに。

第576回 開高健のジョーク十番勝負-1

2024-05-17 | エッセイ
 酒場での会話を楽しく盛り上げるには、ユーモアが大事だと心得て、時に「ジョーク集」などと銘打った本を手にしたりします。でも、パンチの利いたジョークにはなかなか出会えません。そういえば、随分前に読んだ本で、笑えるジョーク満載で愉快なのがあったなぁ、と取り寄せ、再読しました。「水の上を歩く?」(TBSブリタニカ 1989年)がそれで、作家の開高健氏(画像右。項目名のあとに<K>)と、島地勝彦氏(当時、週刊プレイボーイ編集長。同<S>)が、4半期に1度、全十番にわたり、酒を飲みながら交わしたジョーク・バトルの記録です。

 ジョークですので少し色っぽいものも含めて、私なりに選んだものをお届けします。どうぞ気楽に最後までお付き合いください。、、

★現実は、ジョークを超える?<K>
 エジプトでナセル大統領が権勢を誇っていた当時ですから、随分、古い話になります。カイロに滞在していた開高氏の実体験です。テレビをつけると、朝から晩までナセル大統領の演説だけを延々とやっています。同行の記者に訊くと、国民の一致団結、愛国心の強化などを訴えているとのこと。毎日のことなので、ほかにチャンネルはないのかと記者に聞くと、チャンネルを変えてみたら、と言われました。で、やってみると、「ナセルとそっくりのヒゲを生やした警官が6連発のピストルをこっちに突きつけ、銃の先端をチョチョッとふってチャンネルを元へ戻せって・・・・」(同書から)  
 ウソみたいな本当の話で、大いに笑えました。

★VIPジョークに夫婦で登場<K>
 ケネディ大統領の元妻のジャクリーヌが、再婚相手の海運王オナシスとインドを旅行した時のこと。カルカッタの街角で笛吹きが笛を吹いています。すると、1本の紐(ひも)がスルスルと宙に立つではありませんか。商売道具だからとしぶる笛吹きに1000ドル払って、手に入れました。その晩、ジャクリーヌはベッドで一生懸命その笛を吹くのですが、オナシスには一向に瑞兆が現れません。夜が明けて、ジャクリーヌが寝ている夫のあの部分がこんもり盛り上がっています。「ジャクリーヌは歓喜して「ダーリン、ダーリン」と亭主を揺り起こし、毛布をはいでみたら、パンツの紐が立っていた」(同)
 さすがに実話ではないようですが、夫婦揃って、ジョーク界の人気者です。

★天国と地獄<K>
 ジョークではよくあるジャンルですが、ブラジル仕込みのネタです。
 ある男が死んで、天国と地獄の分かれ道に来ました。ここでは、両方の世界を覗いて、好きな方が選べるシステムです。天国ではみんな鋤(すき)や鍬(くわ)を持って畑を耕しています。
 一方、地獄の方では、みんなあぐらをかいて、膝に女性を抱きかかえ、テレビを見ながら酒を飲んでいるではありませんか。なんでこれが地獄なのかと尋ねる男に、係官が「よく見てみろ。あのテレビの番組は国営放送で、酒はブラジル産のウイスキー、それに抱いてる女はお前の女房だぞ!」(同)  ちょっとコワ~いジョークです。

★長生きの秘訣<S>
 かつて、長寿日本一で、マスコミでも話題になった泉重千代(いずみ・しげちよ)さんという方がいました。

 テレビのインタビューで、若い女子アナに「理想の女性はどういう方?」と訊かれて「年上の女だ」(同)と答えたといいます。また、泉さんは、いつも煙草を長いキセルで喫っていました。なぜそんなに長いキセルを使うのか訊かれて「医者が煙草はできるだけ遠ざけろというんでな」(同)
 理想の女性のエピソードは私も何かで耳にした覚えがあります。身についたユーモアセンスというのが、長生きの秘訣であるぞ、とあらためて肝に銘じました。

★無言の行<K>
 修道院で無言の行に入った僧がいました。20年間、行を続け、ある日、院長に呼ばれました。よく耐えたので、二言だけ許す。いいたいことがあれば言いなさい」と促されて、囁くように言ったのが「食事、まずい」(同)
 更に20年が経ちました。また院長に呼ばれて、二言だけの発言が許されました。「部屋、寒い」(同)と答えて、3度目の行に入ったのです。
 そして、また20年が過ぎ、代替わりした院長が、同じように二言だけの発言を許すと、「僧は大きい声を張りあげていったーーー「私、やめる」。すると院長がファイルのページをめくりながら、「そうだな、やめた方がいいだろう。記録でみると、お前は少し喋りすぎている・・」(同)
 宗教ネタで、笑っていいのか、悪いのか・・・・
 
 ほんの一部ですが、お楽しみいただけましたか?もう少しネタがありますので、いずれ続編をお届けする予定です。それでは次回をお楽しみに。

第575回 「ムー大陸」の謎を楽しむ

2024-05-10 | エッセイ
 古代文明とか古代遺跡などに関心のある方々なら、「ムー大陸」伝説はご存知でしょうか。この伝説の真偽を熱く語るつもりはありませんので、ご安心ください。伝説の由来と概要をざっとご説明した上で、(ムー大陸との関連を信じる人たちもいる)太平洋の島々に残る謎の遺跡をご紹介します。ネタ元は、「失われた文明の謎」(藤島啓章 学研M文庫)です。関心のない方にも、古代の夢とロマンにちょっぴり浸っていただければ、と思います。最後までお付き合いください。

 謎に満ちたムー大陸を世界に初めて紹介したのは、イギリス系アメリカ人のジェームズ・チャーチワードなる人物です。彼は、19世紀末、イギリス陸軍の軍人としてインドに駐在していました。その時、ヒンドゥー教の古い寺院に秘蔵されていた「ナーカル碑文」なる粘土板文書によって、ムー大陸の存在を知ったというのです。そして、退役後の1931年に「失われたムー大陸」を刊行し、世界にセンセーションを巻き起こしました。ただし、寺院の名前、碑文などは明らかにされておらず、信憑性は低いとされています。何はともあれ、彼の描くムー大陸像です。
 その規模ですが、東はハワイ諸島、西はマリアナ諸島、南はフィジー、トンガ諸島、東南はイースター島にも至る、東西8000キロ、南北5000キロにも及びます。5万年前に人類が誕生し、ムー帝国なる祭政一致の帝国を築きました。帝王で最高神官は、ラ・ムーと呼ばれ、ラは太陽、ムーは母を意味しますので、母なる太陽の帝国、というわけです。最盛時の人口は6400万人。10の民族から構成され、マヤ族は、中央アメリカで古代マヤ文明の担い手となり、ウィグル族は、蒙古からシベリアへ進出するなど、世界各地に植民地を展開しました。
 栄華を誇ったムー帝国に滅亡の時が来たのは、約1万2000年前のことです。大地震と大噴火が大陸全域を襲い、大帝国は一夜にして海中に没してしまいました。マヤ、ウィグルなど植民地の人たちは生き延びたものの、文明は衰退しました。以上が、「伝説」の骨子です。

 さて、実際に存在したかどうかについては、いささか分が悪いムー大陸伝説ですが、その存在を熱く信じる人たちもいます。根拠として、太平洋には、謎の遺跡が残る島々が多く点在することを挙げ、それらはムー大陸の一部だ、という主張です。また、これらの島々の多くが、かつて大洪水のために海中に没した巨大な島の伝承を語り継いでいることも、チャーチワードは例証としています。おっと、これ以上深入りするのはやめておきます。太平洋に残る遺跡のいくつかを同書からご紹介し、夢とロマンを共有することにしましょう。

 トップバッターは、イースター島です。南米大陸まで350km、最も近い無人島まで1600kmも離れた絶海の孤島です。この島を有名にしたのが、ご存知、巨石人像モアイ。

 大きなものでは、高さ20メートルで90トンに達するものもあります。約117平方キロの島で、数百体もの像を、どんな目的で、誰が、どうやって作り、どう運搬し、どう設置したのか、など今だに謎だらけです。ぎりぎり、ムー大陸の東南角に位置するというのが、ムー大陸ファンの心を熱くしているようです。
 ついでご紹介するのは、各地に残るピラミッド型遺跡です。植民地とされるマヤには数多くのピラミッド型遺跡が残っています。ウシュマルに残る「魔法使いのピラミッド」です。

 マヤだけでなく、タヒチ島などにも、中央アメリカのピラミッドを想起させるマエラと呼ばれる石造建設物があります。建造のための技術などが、かなり広く伝播していたことを思わせます。
 次にご覧いただくのは、マルケサス諸島のヌクヒバ島に残る「チキ神」と呼ばれる石像です。

 大きな目を持ち、口から舌を出すという異様な姿をしています。タヒチ島やハワイ諸島にも同種の石像があるとのことで、こちらも、なんらかの交流があったことを窺わせます。

 最後にご紹介するのは、ミクロネシア連邦のポンペイ本島に謎を秘めて眠る「ナンマドール遺跡」です。チャーチワードも「ここ(ポンペイ本島)にある遺跡は、南太平洋諸島中でも最も注目すべきものだ」(同書から)と熱く書いているといいます。

 約80万平方メートルの海域に、大小合わせて92の人工島が築かれています。水深1~2メートルの海底上に柱状玄武岩を積み上げ、城壁、宮殿、神殿、住宅などが建てられているのです。最大規模を誇るのは、神殿の島と呼ばれ、縦150メートル、横70メートルの巨島で、厚さ2.3メートル、高さ10メートルの外壁で囲まれていて、さながら城塞都市。チャーチワードの10万人は誇大としても、著者は少なくとも1万人規模の都市と推定しています。炭素14法による年代測定によれば、完成はおよそ800年前だといいますから、比較的新しいです。それでも、謎だらけ、というのは、これまでご紹介してきた遺跡と同様です。

 身近な太平洋にも、まだまだ謎を秘めた遺跡群があるのを知って、私は古代への夢がちょっぴり広がりました。皆様はいかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。

第574回 文豪たちの「言い訳」集

2024-05-03 | エッセイ
 文豪といわれる人たちも、やむを得ざる事情で、「言い訳」を書くことがあるようです。「すごい言い訳!」(中川越 新潮文庫)には、それらの方々の言い訳も集められています。どう文才を発揮されているのか、ちょっぴり好奇心まじりで、覗いてみました。なお、<   >内は、同書からの「言い訳部分」の引用です。
★宮沢賢治★
 宮沢賢治といえば、清貧にして、高潔な人格者とのイメージがあります。お馴染みの画像です。

 でも、実家は岩手花巻で大成功を収めた商家でした。30歳の賢治は、チェロ、タイプライター、エスペラント語を学ぶため東京にいました。そして、本来、自立していいはずの賢治は、その遊学費用を一切父親に頼っていたのです。お金の支援を求める手紙では、東京での奮闘ぶりを伝えた上で、<今度の費用も非常でまことにお申し訳ありませんが、前にお目にかけた予算のような次第で、殊(こと)にこちらへ来てから案外なかかりもありました。・・・第一に靴が来る途中から泥がはいっていまして、修繕にやるうちどうせあとで要(い)るし、廉(やす)いと思って新しいのを買ってしまったり、ふだん着もまたその通りせなかがあちこちほころびて新しいのを買いました。>「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」の質実で抑制的で、物欲とは無縁・・・・のはずが、違う顔を見せています。賢治ファンにはちょっとショックかも。
★高村光太郎★
 昭和22年、菊池正という詩人から、詩集の序を頼まれた時、光太郎は、こんな説明をして断りました。作品は評価した上で、<ところで、序文という事をもう一度考えましょう。なんだか蛇足のように思えます。小生は昔から序文をあまりつけません。「道程」の時も書きませんでした。他の人の序文は一度ももらいません。貴下も自序を書かれたらどうでしょう。・・・>
 独自の「序」不要論です。ところが、その3年前に、菊池の詩集「北方詩集」に序を書いていました。また、他の詩人にもいくつも序を書いています。大上段に不要論を説いていますが、単にその時は面倒だっただけかな、と想像したくなります。
★坂口安吾★
 D・H・ロレンスの「チャタレイ夫人の恋人」(伊藤整訳 小山書店)が、猥褻物頒布罪で、東京地検から起訴されたのは、昭和25年のことです。多くの作家、評論家が伊藤と小山書店を支援する中、坂口安吾も協力を惜しみませんでした。しかしながら、安吾は、東京地裁からの証人召喚状を受けた時、急迫する原稿の〆切を理由に、拒絶しました。<小生、・・・目下至急執筆中・・・まったく寸刻のヒマもありません。召喚状の文中、応ぜない時は過料に処せられ且(かつ)勾引せられる、とありますが、・・・それに従わざる時は法律上の制裁をもって脅迫されても、私情やむを得なければ仕方がありません。>
 公権力に対して、私的な事情で対抗する・・・・戦後無頼派の面目躍如です。

★森鴎外★
 明治の医学界、文学界に君臨した巨人にして、その唯一といっていい弱点が「悪筆」でした。明治34年、鴎外34歳の時、新進の歌人・金子薫園から頼まれた揮毫を断っています。金子の作品への敬意を表した上で、<小生大の悪筆にて、かようのものに一字たりとも筆を染めしことなく、今又当惑いたし居候(おりそうろう)。地方人に責められしときは、大抵友人に代筆せしめし事にて候。>と断っています。鴎外直筆の手紙を見た本書の著者も「達筆には程遠い筆跡で、味わい深いヘタウマ文字ともいえない感じです」と評していますから、そうなのかも。
★尾崎紅葉★
 贈り物の礼状を上手に書くのは難しいものです。知人から朝鮮飴を贈られた紅葉は、それが美味しかったこと、謝意などを縷々(るる)述べた上で、<是は決してあとねだりの寓意あるにあらず。美味に対するお礼とも申す可きかお蔭にて久しぶりにてうまき物腹に入り申候>と書いています。「あとねだりの寓意」とあるのは、飴をまたねだりたい気持ちをほのめかすものではない、との意を伝えたかったのでしょう。でも、これだけお礼を言われた方は、かえってまた贈らねば、と感じ、双方が気遣いの無限ループに入ってしまいそうです。
★夏目漱石★
 明治39年、39歳の漱石は、東京帝大の先輩、菅虎雄に100円(現在の100万円くらい)の借金がありました。その必要性を、彼への手紙で、<僕のうちでは又去年の暮れに赤ん坊が生まれた。又女だ。僕の家は女子専門である。四人の女子が次へ次へと嫁入る事を考えるとゾーッとするね。>とだいぶ先のことを言い訳にしています。その上で<君に返す金は矢張り(毎月)十円宛(ずつ)にして居る。今年中位で済むだろう>と、借りた方が、返済計画を決める勝手ぶり。大文豪漱石も、こと借金となると、なりふり構わぬ調子が微笑みを誘います。

 いかがでしたか?私には、文豪の皆さんが少し身近になった気がします。それでは次回をお楽しみに。