★★★ 芦坊の書きたい放題 ★★★

   
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第573回 本をこよなく愛する人たち

2024-04-26 | エッセイ
 本は面白く読めて、時にブログ用のネタが拾えれば私には十分です。でも、世の中には、本を様々に楽しみ、ユニークな付き合い方をする人たちがいます。演劇集団・天井桟敷を率い、文才も発揮された寺山修司氏(1935-83年)の「書物に関する本の百科」(「幻想図書館」(河出文庫)所収)では、それらの話題が、幅広く、かつ興味深く語られています。一端をご紹介しますので、最後までお付き合いください。

 ある時、氏はパリで、その名も「本」という1842年出版の本に出会いました。著者は、トーマス・フログナル・デイブダン博士なる人物。出版の動機は「エラスムスのように、まず本を買い、残った金で衣類や食料を買うような」本好きのために、この本を書いた」というのです。なかなかの意気込みを感じます。
 博士によると、次のような徴候があれば「本狂い」と認定できるといいます。
 1.大きな本を集め始める
 2.ペーパーナイフの入っていない本に興味を抱く
 3.イラストの入った本を欲しがる
 4.上製革製本を隠し持つ
 5.第1刷の本を入手したがる

 読むためというより、モノとしての本を重視するのが条件だとわかりました。確かに当時は、本は貴重なモノでしたから、見た目が立派、ひとが読んでないもの、出たばかりのもの、珍しいもの、などにこだわるのもわかる気がします。
 もちろん、博士も「本は物ではない、知識を交換し、媒介するもの」としっかり釘を刺しているので安心しましたが・・・・
 そんな一節を読みながら、以前、当ブログの記事にした仏文学者・鹿島茂氏のことを思い出しました(文末にリンクを貼っています)。18、19世紀フランスの挿絵、写真入りの豪華本が収集のメインですから、条件の3と4をクリアしています。収集するだけでなく、じっくり読み込み、立派な著作も送り出しておられますが、ほぼマニアと認定されそう、というのがちょっと笑えました。

 さて、寺山氏の本に戻ります。
 そこには、世界一大きい本の話題が出てきます。1626年に、アムステルダムの商人が、イギリスのチャールズ2世に贈った地図の本です。こちらがその本(同書から)。

 高さ5フィート(150cm)、幅3フィート6インチ(86cm)という大きさで、大英博物館が所蔵しています。イギリスゆかりのモノとはいえ、大英博物館も物好きです。

 氏は、レイ・ブラッドベリのSF小説「華氏451」にも触れています(映画にもなりました)。そこで描かれる近未来の社会では人々は、電波だけでのコミュニケーションが許されています。すべての本は焼却炉に投げ込まれ、町から姿を消します(華氏451度は紙が燃え出す温度です)。
 ブラッドベリは、本が焼かれることに抵抗し、愛する本を完全に暗記して、「本になった人」を描いています。
  <あそこにいるのが、エミリ・ブロンテの「嵐が丘」です>
  <そして、、むこうにいるのはバイロンの「海賊」です>
 人を焼却炉に送るわけにはいきませんから、見事な「抵抗」です。「本離れ」が言われて久しい昨今、「ホントに本がなくなっていいの?」と皮肉たっぷりに未来を先取りしているSFといえそうです。

 最後に、寺山氏が引用しているユニークなエピソードを紹介します。
 1862年、イギリスのケンブリッジの魚市場に入荷した魚の中の一匹の腹を裂くと、1冊の本が出てきました。粘液にまみれて汚れきった船員のシャツで包まれています。調べてみると、ジョン・フリスという反カトリックの牧師が書いた宗教的論文でした。
 宗教裁判で有罪となり、魚倉庫に閉じ込められていた時に、魚の腹に隠していたようです。彼は後に、塔に幽閉され、火刑となりました。幸い、その論文は、社会状況の変化もあり、ケンブリッジの有力者の手で印刷、出版されました。「魚の声」または「本の魚」というタイトルで、16世紀の宗教弾圧の内実を伝える貴重な資料になっているといいます。こんな数奇な運命をたどる「本」もあったんですね。

 いかがでしたか?ご紹介した記事へのリンクは、<第437回 古書マニアの面白苦労話>です。合わせてご覧いただければ幸いです。それでは次回をお楽しみに。 

第572回 ゾクッ、「怖い絵」を観る

2024-04-19 | エッセイ
 「怖い絵」の「続」編ですので、タイトルに「ゾクッ」と付けて、シャレてみました(文末に、前回記事へのリンクを貼っています)。 独文学者で西洋絵画に造詣の深い中野京子さんの、今回は「新 怖い絵」(角川文庫)をネタ元に、3点の「怖い絵」をご紹介します。最後まで「こわごわ」お付き合いください。

★まずご紹介するのはこちら。ミレーの「落穂拾い」です。

 よく知られた名作で、「えっ、どこが「怖い」の?」と言われそうです。著者による謎解きは後ほどのお楽しみにしまして、まずは、作品と向き合うことにしましょう。
 舞台はパリから南へおよそ50キロのバルビゾン村です。19世紀の半ば頃から画家が次々に集まってきて、一種の芸術村のような様相を呈していました。都会暮らしに疲れ、売れない画家であったミレーが妻子とともに、この村に移ってきたのはこの頃です。パリ画壇は、伝統的な新古典主義派と情熱的なロマン派の闘いで活気づいていました。一方、新興の市民階級の中では、もったいぶったそれらの絵より、写実的な絵が好まれました。とりわけ自然に恵まれた田舎生活、農村風景を描いた絵が人気を集めていました。農村出身でもあったミレーにとって、バルビゾンへの移住は自然な流れだったのかも知れません。
 作品を見てみましょう。夕暮れのやさしい陽射しの中、後景には、麦わらが高く積み上げられ、おおおぜいの人たちが収穫の喜びに湧いています。
 前景の3人の女性は、腰を折って黙々と落穂を拾っています。それにしても彼女たちの逞しいこと。決して暮らしは楽ではなく、落穂を拾うのは、地主の目を盗むか、黙認されているのでしょう。とても生計の足しになるとも思えません。著者によれば、「落穂拾い」については、旧約聖書の「レビ記」や「申命記」に記述がある、というのです。「曰く、「畑から穀物を刈り取るとき、刈り尽くしてはならないし、落穂を拾い集めてはならない。それらは貧しい者、孤児、寡婦のために残しておきなさい、と。」(同書から)
「喜捨の精神」「貧者の権利」などと呼ばれる教義です。ミレーは敬虔なクリスチャンでしたから「説得力ある描写に信仰がミックスすることで彼の絵は普遍性を獲得した。」(同)とあって、ただの素朴な農村風景画でないことが理解できました。
 さて、著者によれば、ミレーと同時代の人の中には、この絵を本気で「怖い」と感じ、忌み嫌う人々がいたというのです。この作品が発表される9年前の1894年にマルクスとエンゲルスによる「共産党宣言」が世に出て、プロレタリアート(無産階級)の団結を呼びかけました。
 上流階級の中には、「宣言」の影響を受けた人々が「身分」の境界を越え、自分たちの神聖な領域に割り込んでくるのでは、と本気で心配する人たちもいました。そんな人たちは、文学であれ、美術であれ、そんな気配を感じると、それらの作品を叩き潰そうとした、といいます。そんな意図は毛頭なく、信仰心に裏打ちされて描いたミレーにとっては迷惑な話です。それだけインパクトのある絵だったから、ともいえるわけで、有名税かなと感じつつ、同情を禁じえません。

★お次は見るからに「怖い」こちらの絵です。

 ユダヤ系ルーマニア人のブローネル というモダン・アートの画家が、1932年、28歳の時に発表した自画像です。なぜか右目だけ、どろりと溶けて流れたかのように不気味に描かれています。もちろんこの時の彼は隻眼ではありませんでした。どうしてこんな縁起でもない絵を描いたのかは謎です。モダン・アートのひとつの手法と考えていたのかもしれません。
 事件が起こったのは、7年後です。ブローネル は知人が殴り合いの喧嘩をする仲裁に入りました。割れたガラスが飛んできて左目に突き刺さり、眼球を摘出するはめになったのです。右目と左目の違いはありますが、自身の未来を予見したような絵です。夢で未来を予知する「予知夢」というのがあります。「予知絵」というのもあったんですね、確かに「怖い」です。

★最後の作品はこちらです。

 19世紀、ヴィクトリア朝時代のイギリスの画家・マルティノーによる物語絵画です。豪華な館の主である画面右の男性はシャンパングラスを高く差し上げ、傍の息子ともどもハッピーそうです。でも中央の椅子に座る妻は、不安そうで浮かない表情を浮かべています。左端の祖母が涙を拭いながら執事となにやら相談をしています。そばの新聞には「貸間情報」が載っているのです。なんともちぐはぐな家族の様子の裏にあるのは、この立派で歴史の重みにあふれた家を、明日は出ていかなければならないという現実です。「懐かしい我が家での最後の日」という作品タイトルが、それをもの語ります。一体何があったのでしょう。著者によれば、絵の中にそのヒントが隠されているというのですが・・・・
 左下隅に競走馬を描いた絵が、あえて横向きに置かれています。これがヒントだといわんばかりに。王室主催のレースもあるという競馬にのめりこんだ男性貴族が、全財産を蕩尽してしまった、というわけです。ヤケクソなのか、またゼロから出直せばいいや、と楽観的にふるまっているのか、この男のヘンな明るさが「怖い」絵画です。
 いかがでしたか?なお、前回記事へのリンクは<第541回「怖い絵」をこわごわ観る>です。それでは次回をお楽しみに。

第571回 「〜さかい」ほか-大阪弁講座57

2024-04-12 | エッセイ
 大阪弁講座の第57弾をお届けします。

<~さかい>
 先日、車で出かけていた時、ラジオから懐かしい歌のアタマが流れて来ました。

踊り~疲れた~ディスコの帰り~/
これで青春も終わりかな~とつぶやいて~/

 少し年配の方ならご存知だと思います。「大阪で生まれた女」(作詞・作曲・歌 BORO)です。こちらがBORO(ボロ)さん。こんな方だったんですね。知りませんでした。

 曲はやがて、サビに入ります。

大阪で生まれた女やさかい/
大阪の街 よう捨てん/
大阪で生まれた女やさかい/
東京へは ようついていかん/

 聴きながら、「そや、「~さかい」て、コテコテの大阪弁で、講座のネタに使えるな」と思ったのが、我ながら貧乏性で、苦笑いしてしまいました。
「~なので」「~だから」と理由を説明する言い回しです。前に名詞が来る場合は、「~だ」とか「~である」を意味する大阪弁の「や」を付けて、歌詞のように「女や「さかい」」となります。
「アイツは悪知恵が働くヤツや「さかい」、気ぃつけや」のような用例も。
 そして 動詞に続く場合は、「さかい」をつけるだけです。
「こっちはワイがやる「さかい」に、そっちはアンタがやってくれるかな」、「あんたがワァワァ言う「さかい」、まとまる話がまとまらへんがな」なんてのを思いつきました。

 調べてみると、この曲は、1979年にリリースされています。私が30歳ちょっとの頃です。もう少し若い頃に聞いたような気がしていましたが・・・
 東京の女性が、大阪へいくのをいやがる・・・これだとリアル過ぎて、歌になりにくい気がします。大阪で生まれ育って、この街にすっかり馴染んでいる女性が、いまさら男について東京へ行くのを「堪忍(かんにん)してぇ~」となるから、可哀そうやなと(特に大阪のオッチャンなんかは)気持ちが動き、ホロっとなるのでしょうね。
 ここまで東京と大阪を対比させる大胆さ、ストレートさに新鮮な驚きを感じたことを思い出します。

<正味な>
 食品などに、よく「正味○○グラム」などと表示があります。容器とか外装材を除いた実質的な内容量のことです。「正味8時間」働いた、といえば、休憩などを除いた実質労働時間を指します。

 大阪弁だとこれを「正味な」と無理矢理に形容詞化します。どんな使い方してたかなぁ~、と考えて、思い出したのが、かつて人気を誇った「横山やすし・西川きよし」の漫才コンビです。

 とにかく愛用していたのが、横山やすしさん(故人)です。
 「付き合うてる男の子のこと、どう思うねん、てその女の子に訊いても、うつむいた顔を赤らめて、もじもじするばっかりで、要領を得えへんねん。どない思う」と話を振る「きよしさん」に、
「そら、ふたりはデキとるわ。「正味な話し」がっ」と一刀両断する「やすしさん」。
 
「ぶっちゃけて言えば」「早い話が」「結論をはっきり言えば」「遠慮なく言わしてもらえば」などの意味合いです。「話」とセットで使われることが多いような気がします。いらち(短気)な大阪人愛用の「大阪弁」です。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。


第570回 アポロ同時通訳の裏話

2024-04-05 | エッセイ
 アポロ11号が月面着陸したのは、1969年7月20日。私は大学生で、生中継で刻々と送られてくるテレビの映像を見ながら、英語と日本語の同時通訳に接して、大変なスキルと能力が必要な仕事があるのを知りました。メインで通訳をされた西山千さん(故人)の「こちらヒューストン」「万事順調」などは、今でも耳に残っています。
 その時、若くして同時通訳に参加され、その後、日本の英語教育分野でも活躍されているのが鳥飼玖美子さんです。女史の「通訳者たちの見た戦後史」(新潮文庫)を読んで、その時の同時通訳の裏話に大いに興味をそそられました。話題が話題ですので、少しだけ英語も登場しますが、エピソードをご紹介します。お気楽に最後までお付き合いください。

 欧米で初めて同時通訳が採用されたのは、ナチスの戦争犯罪を裁くニュールンベルグ裁判でのことで、比較的新しいシステムです。そして、日本では、7号以来、一連のアポロ宇宙船の報道で、その存在が注目を集め、11号の月面着陸で一挙に脚光を浴びることになりました。
 その背景には、テレビ側の事情もあったといいます。ドラマチックな場面がそう刻々と入ってくるわけではありません。そこで、スタジオに特設のブースを設けて、同時通訳ぶりをテレビ的に「絵として」伝えることにしたのです。顔の売れた西山氏などは、街でオバちゃんに声を掛けられこともあったといいます。

 さて、最大のハイライトである月面に降り立つ瞬間が来ました。

 その時のアームスロング船長の言葉は、公式の交信録では、
< That's one small step for a man, one giant leap for mankind. >
(一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ)となっています。
 教科書にも載るほどの名言ですが、そこを担当した西山氏には「実際には< man >の前の不定冠詞< a >は聞こえなかった」(同書から)というのです。< a man >なら一人の人間(この場合は、アームストロング船長自身)ですが、不定冠詞の付かない< man >だと人間(人類)一般という意味になります。
 「同時通訳は聞いたそばから訳して行くので、「これは小さな一歩です。人間(人類)にとっては」と訳し、次に< giant leap>「大きな飛躍」と続いたので「?」と思いながら訳していったところ、最後に< mankind >(人間、人類)が登場したので、「あれっ??」となる。人類にとって小さな一歩だが人類にとって大きな飛躍では、まるで意味をなさない」(同)というわけです。
 中継終了後、同時通訳の仲間内でも、不定冠詞< a >はなかったはずだと随分話題になった、と女史は書いています。後日談として、船長もやはり緊張していて、あらかじめ用意していた「名言」の< a >を発音し忘れたのが事実らしいとも書いています。通訳の皆さん方の耳、そして瞬時に通訳していく技術がいかにスゴイかを物語るエピソードです。

 西山氏のサポートとして同時通訳を担当した國弘正雄氏もこんなエピソードを残しています。船長が月の石を拾いながらしゃべっているのを同時通訳することになりました。ところがガ~ガ~と雑音がひどく、ろくに聴き取れません。唯一、< origin >(起源、組成などの意味)という単語が聞こえたのを手がかりに、こんな「訳」をでっち上げたというのです。
「「私がこうやって石を集めているのは、こうすることによって月のオリジン(origin)ねー僕は組成と訳したような気がするんだけどー月の組成が明らかになるかもしれないと思って、それを望んで今やっているんです」というふうに訳したわけよ。僕はほっとして、「ああ,良かった。どうやらもっともらしいことを言えたな」と思ったわけよ」(同)
 この訳はニュースでも流されました。後日、交信録で、まったくの「勧進帳」であったことがバレ、テレビ局からお叱りを頂戴した、とあります。後年、同時通訳として名をなした國弘氏にしてこのエピソード。演技力とクソ度胸も同時通訳に必要な資質のようです。

 女史自身のエピソードです。放送前のスタッフとの勉強会で、月に存在すると予想される石の名前を、彼女はだいぶ覚えました。その中の< basalt >という単語が交信の中で出てきました。「「しめた、出た!」と勢いづき、「玄武岩がありました」と大きな声ではっきり訳した」(同)
 正しい訳でしたが、スタジオの学者は騒然となりました。玄武岩は火山の溶岩で出来る石ですから、月でも火山活動があったことになります。月と地球の成り立ちなども含め、専門家を興奮させた、とちゃっかり自慢話をしているのが、ほほえましくて笑えました。

 いかがでしたか?同時通訳の世界をちょっぴり知っていただけたなら幸いです。それでは次回をお楽しみに。