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第581回 人名いろいろ-8 名字の謎2

2024-06-21 | エッセイ
 シリーズの第8弾です。前回に引き続き「名字の謎」(森岡浩 ちくま文庫)をネタ元に、珍しい姓、ユニークな名字を中心に、その由来、由緒に敬意を表しつつご紹介します。なお、文末に、直近2回分へのリンクを貼っています。最後まで気軽にお付き合いください。

★1から億までー数字の名字★
 数字のつく名字は多いです。数字の「一」だけで、「いち」、「かず」、「はじめ」と読む名字があります。「九」で「いちじく」と読ませる名字が、東京都に実在します。不思議な読み方をするのが、宮崎県にある「五六」で、「ふのぼり」って、絶対に読めません。
 「四十」がつく珍しい名字がいくつかあります。「四十」(よと、しじゅう)、四十九(よとく)、四十物」(あいもの)などの例が挙げられています。中でも珍しいのは、「四十八願」と書いて「よいなら」と読む名字。戦国時代からある由緒ある名字で、仏教用語の四十八願(阿弥陀仏が法蔵比丘であったころ、一切衆生を救うために発した四十八の願い)に由来するとされています。仏教用語の「しじゅうはちがん」が、なぜ「よいなら」になったかは不明、と著者の言。
 数字が3つ連続するのは、「一二三」(ひふみ)、「二三四」(ふみし)、「三九二」(みくに)、「七五三」(しめ)の4つを著者は確認しているとのことです。
 大きい数字では、加賀百万石の城下町金沢には、ずばり「百万」という景気のいい名字があります。一番大きいのが、小豆島在住の「億」(おく)さん。なんとも景気のいい名字で、うらやましいです。

★ユニフォームからこぼれそうな名字★
 昭和56年、大分県の日田林工高校からドラフト1位で、源五郎丸(げんごろうまる)という投手が、阪神タイガースに入団しました。甲子園には出場していませんが、九州大会で優勝するなど実力は折り紙付きでした。阪神ファンの私も、その珍しい名字とともに、大いに活躍を期待していたのをはっきり覚えています。初めてのキャンプを前にして、ちょっと話題になったのが、「GENGOROMARU」という11文字にもなる選手名が、ユニフォームに収まるかどうか、ということ。文字を小さくしてなんとか収めている画像を見つけてきました。

 ところが、そのキャンプで足の筋肉を断裂してしまい、5年間の在籍期間中は1度も公式戦への出場の機会はありませんでした。活躍ぶりを見られなヵったのが返す返すも残念です。

★長い名字、短い名字★
 短い方からいきましょう。紀(き)、井(い)、何(か)という例が挙げられています。私のサラリーマン時代、仕事上で「井」さんとお付き合いがありました。名刺には「いい」と振り仮名が打ってあって、私たちも「いいさん」とごく普通に呼んでいたのを思い出します。
 長いほうです。難読姓辞典などには、「十二月三十一日」で「ひづめ」と読ませるのがよく載っているそうですが、著者によれば、実在は確認されてないそう。実在名字では、「勘解由小路」(かでのこうじ)という5文字の名字があります。京都の地名に由来する公家の名字で、ご子孫は山口県在住だそう。もうひとつは、埼玉県在住の「左衛門三郎」(さえもんさぶろう)という下の名前を二つ重ねたような名字です。朝廷の官僚に由来するのでは、と著者は推測しています。

★景気のいい名字★
 「金持」という大変うらやましく、縁起のいい名字があります。伯耆国(現在の鳥取県)日野郡金持という地名に由来し、「かもち」と読みます。鎌倉時代の御家人に金持氏がいて、吾妻鏡にもその名が見えることから、由緒ある名字といえます。現在では、「かねもち」「かなもち」「かなじ」などの読み方があるそう。
 おカネといえば、「一円」という名字があります。もともとは、近江国(現在の滋賀県)発祥の地名に由来し、一族が高知県に移って栄えました。「円」という貨幣単位がなかった江戸時代以前は、特に珍しい名字という認識はありませんでした。明治以降、「厘」「銭」の上の通貨単位になり、だいぶ有り難みが増しました。昭和の初期には、東京中どこでも1円という「円タク」も登場しました。
 戦後、円が最小の通貨単位になり、有り難みは薄れましたが、この名字を一躍有名にしたのが、関西学院大学学長もつとめた法学者の一円教授(故人)です。なにしろ、下の名前が「一億」ですから。ただし、「かずお」と読ませます。漢字は豪快ですけど、読み方を遠慮したみたいで、ちょっと頬が緩みました。

 いかがでしたか?なお、冒頭でご案内したリンクは、<第6弾 開高健編><第7弾 名字編-1>です。合わせてご覧いただければ幸いです。それでは次回をお楽しみに。

第580回 久米宏のラジオ・デイズ

2024-06-14 | エッセイ
 久米宏さん(以下、「氏」)といえば「ニュースステーション」(テレビ朝日系列)です(1985年10月の放映開始から2004年まで担当)。歯切れの良いコメントやテキパキした進行が魅力で、よく見ました。自叙伝ともいうべき「久米宏です。」(朝日文庫)では、この番組も含めTVでの活動も語られます。でも、TBSラジオのアナウンサーとしてキャリアをスタートしたラジオ時代のエピソードが秀逸です。こちらを中心にご紹介します。最後までお付き合いください。

 早稲田大学卒業を控え、氏はTBSラジオのアナウンサー採用試験に臨みました。試験、面接は7次まであり、何千人もの中から4人が選ばれるという厳しいものです。選考が進むにつれて、人が人に優劣をつける仕組みに怒りを感じ、人事部の若手と押し問答をしたり、面接官とケンカ腰になったりしたといいます。反骨精神は当時からのものだったようです。5次試験では、目の前に置かれたモノについて3分程度話をするという課題が与えられました。置かれたのは赤電話です。ポケットの10円玉を入れ、自宅の電話番号を回し、母親に今の状況を話す、という演技をしました。通話が終わって受話器を置いても、10円玉は戻ってきません。それに文句を言うと、試験官にはウケたといいます。決して優等生的に振る舞ったわけではないようですが、機転、熱意、センスなどが認められたのでしょう。1967年、見事合格、採用されました。

 入社して2年ほど経った頃、大きな試練が待ち受けていました。慣れない仕事のストレス、食欲不振からくる栄養失調などが重なって、肺結核を発症したのです。1日おきの注射と薬の服用で、電話当番などの軽い仕事を担当する日々が始まりました。さぞ辛い雌伏の時期であったことだろうと想像します。そして、病気が治りかけた頃、大きなチャンスが訪れました。1970年5月に始まった新番組「永六輔の土曜ワイド ラジオTOKYO」(土曜の午後1時半から5時の生放送)のレポーターに起用されたのです。若き日の永さん(左)とのツーショット(本書から)です。

 番組では、「久米宏のなんでも中継!!」のコーナーを任されました。上野動物園の猿山中継を皮切りに、歩道橋、山手線、蟻塚などを訪れ、利用者などの声を拾いながらナマ中継するという企画です。テーマはどんどんエスカレートし、「ミュンヘンの街角から」という企画では、街の雑踏や路面電車の音などをラジカセで流しながらレポートしました。「あっ、アベックがいる」と伝えたのに合わせて事前に録音しておいたドイツ人男女の声を流す、という凝りよう。さすがに、最後に「横浜・山下公園からの中継でした。」(同書から)と種明かしをしたとのこと。

 パーソナリティである永さんに褒められようと、企画は一層過激さを増し、ついに「日活ロマンポルノ」の撮影現場を中継することになりました。通常、この種の映画の撮影では、音声は映像に合わせて後から録音する(アフレコ)のだそう。ですから、現場では「頭をもっと後ろへ」とか「もっと気持ちよさそうにやれ」とかの監督の指示、怒号が飛び交います。それを中継しようという狙いだったのです。ところが、当日、緊張した監督さんはすっかり黙り込んでしまいました。「すると俳優たちがその沈黙を埋めようと妙に気を遣ってリアルな演技をしだした。」(同)のです。生々しいアエギ声を中継し続けるわけにはいきません。止められるのは永さんだけです。「「こんな中継やめだ!切って、切って」(同)の一声で、唯一、途中中断の中継となりました。

 「なんでも中継」が評判になって、更なるウケ狙いで始まったのが、「隠しマイク」作戦です。袖に隠しマイクを仕込んで、キャバレーやピンサロなどに突撃し、生々しいやりとりを中継するというアブない企画です。ある時、氏が銀座・三越の前にゴザを敷き、ホームレスに扮して中継した時は大問題になりました。歩き出すと通行人はよけます。店に入ろうとすると「入っちゃダメ!」との冷たい声がオンエアされます。数寄屋橋の交番で、「「トイレを貸してください」と頼んだら、お巡りさんが叫んだ。「ダメダメ、汚ねぇ!向こう行け!」(同)
 警察官が人を差別している、との抗議の電話が警視庁に殺到し、TBSは、警視庁記者クラブへの「出入り禁止」処分を食らう騒ぎとなりました。

 8年間レポーターを務めて、1978年から永さん、三國一郎さんに継ぐ3代目のパーソナリティとなりました。レポーターとして兼務したのが「久米宏の素朴な疑問」コーナーです。「コンニャクに裏表はあるか?」「おねえさんからおばさんにかわる基準は?」「魚にも美人とブスはいるのか?」などの「素朴な疑問」にあちこち電話して答えを出そうという企画です。「なぜ色鉛筆は丸くなくてはいけないのか?」という疑問には、みずから、文具店、鉛筆メーカー、はては鉛筆組合まで電話する奮闘ぶり。一見、教養っぽいコーナーですが、やっぱり娯楽路線でした。

 1979年にフリーとなってから、氏はテレビに軸足を移します。クイズ番組「ぴったしカン・カン」、歌謡番組「ザ・ベストテン」などを経て、「ニュースステーション」でブレイクするのを目(ま)の当たりにした方も多いことでしょう。ラジオ時代にナマ放送で鍛えられた瞬発力、胆力、現場力などがあったからこそ、というのが本書を読んで、十分に理解できました。
 いかがでしたか?2021年、氏は、TV、ラジオでの活動休止を宣言されました。本当に長年お疲れ様でした。
 それでは次回をお楽しみに。
 

第579回 兵馬俑の「超技術」を知る

2024-06-07 | エッセイ
 若い頃、機会に恵まれて、中国・西安の郊外にある「兵馬俑坑(へいばようこう)」を訪れました。紀元前221年に中国を統一した秦の始皇帝の墓を守る軍団の「俑(=人や馬を模した焼き物)」という程度の予備知識はあり、テレビの映像、本からの情報などにも馴染んでいました。でも、ホンモノの俑を目の当たりにした感動は格別で、昨日のことのように思い出します。
 1974年に、井戸掘り作業中の農民が、頭部を発見したのを端緒に発掘が進み、現在、約8000体の兵馬俑が発見されています。1号から4号までの4つの坑で現在も発掘が進められていて、あと数十年はかかるとも言われています。私も目にした最大規模の1号坑のほぼ全景です。

 そのとてつもないスケールだけでも驚嘆に値します。でも、「古代世界の超技術」(志村史夫 講談社ブルーバックス)を読んで、兵馬俑には超絶的な技術が発揮されていることを知りました。ポイントを絞り、コンパクトにご紹介します。どうぞ最後までお付き合いください。

 まずは、基本となる像の造形です。人を模した俑では、文官、楽士などもいますが、武官、兵士が中心です。背丈の平均は、180cm、重量は200キロになるものがあり、将軍から歩兵まで、あらゆる階級、兵科の俑が揃っています。左から、歩兵、将軍、軍吏、跪射兵の例です。(本書から)

 一体を作るだけでも大変な労力と技術を要するはずですが、粘土を型に嵌めて大量生産という方式ではありません。一体一体が手作り、オーダーメイドというのが驚異です。その証拠がこの画像(同)。様々な顔、表情で、全てにモデルがいた、ともいわれています。

 粘土による兵士俑の大まかな製作過程を、著者はこう説明しています。
①まず、帯状の輪を重ねて積み上げ、土台となる足と胴の部分を作ります。
②その上で、頭部、腕、手、鎧(よろい)などのパーツを製作します。
③頭部、顔は、モデルに合わせて細部まで彫刻を施し、入念に仕上げます。
④陰干しして、ある程度乾燥した段階で、各パーツを組み合わせ、最後に頭部を嵌め込みます。
 かくして、個性的な兵士の原型が完成です。

 ついで、焼き上げの準備工程に入ります。まず、各パーツを均一に乾燥させておかなくてはなりません。ムラがあるまま焼成すると割れてしまいますから。また、熱を加えることで、粘土は収縮しますから、それも計算に入れて、接合部には適切な空洞部分を設けておく必要もあります。
 それらのハードルを乗り越えて、いよいよ「焼き上げ」です。これだけの大きさの像を、大量に焼くのですから、窯も巨大なはず。その全体を長時間にわたって温度管理する技術、知恵などは、我々の想像をはるかに絶します。

 現在、私たちが目にする「俑」は、灰色をしています。しかし、完成時には、見事な彩色がなされていた、というのも驚きです。先の画像の跪射(きしゃ)兵(立膝で弓を射る兵士)が、1999年4月に2号坑から発見された時、全身が鮮やかに彩色されていることが世界を驚かせました。下地に黒の生漆(きうるし)を用い、自然鉱物顔料で彩色されていました。ほとんどの俑では、2千年以上の時を経て、漆と顔料は剥がれ落ちましたが、奇跡的にこの俑では残っていたのです。著者は写真で見ただけですが、皮膚は緑と白の上に肌色を重ね塗り、鎧は紺色、その紐は赤だったといいます。残念ながら、本書にその画像はありません。著者が見た写真とは違うようですが、日本で公開された彩色俑の画像をネットで見つけました。こちらです。

「驚異の地下帝国 始皇帝と彩色兵馬俑展」(2006年8-10月 江戸東京博物館)の展示品です。さすがに多少剥落はしていますが、往時の鮮やかな色彩をご想像ください。

 さて、最後にこれぞ「超技術」というべきものを紹介しなければなりません。
 それは、青銅(銅と錫(すず)の合金)製の武器で、兵馬俑坑では、なんと4万点も発見されています。青銅器時代は、エジプト、メソポタミア、中国などで、紀元前3000年頃から始まっていたとされます。銅は自然に産出しますが、錫は、錫石を珪石、石灰石などと合わせて加熱、溶解などして産み出されます。その上で、両者を厳格な温度管理の元で混合させた「青銅製品」が4万点ですから、気が遠くなります。そして、極め付けは、これらの青銅武器に施されている「クロームメッキ」です。緑青(ろくしょう=サビ)を防ぐため、10~15ミクロンのメッキがされていることがX戦分析でわかりました。20世紀に、ドイツで確立した技術がすでに使われていたことになります。そのため、発見された長剣は、光沢があり、重ねた新聞紙を切ることが出来たというのです。まったく言葉を失います。

 いかがでしたか?膨大なマンパワーを動員し、最先端の「超技術」で実現させた始皇帝のケタ外れの権力、スケールをあらためて思い知らされました。それでは次回をお楽しみに。

第578回 こんな広告戦略があった!

2024-05-31 | エッセイ
 広告・宣伝の仕事って面白そうで、ちょっぴり関心があります。商品、サービスを売るための知恵・アイディアを集め、その成果は(うまくいけば)今どきはネットも含めた様々なメディアで流されます。一方で、売上げという結果を求められますから、結構大変そうです。
 「1行バカ売れ」(川上徹也 角川新書)では、キャッチコピー(宣伝文句)も含め、売れる製品・サービスづくりの知恵、売り方の工夫などの実例が豊富に取り上げられています。なるほど~、と感心したユニークなケースをご紹介します。よろしくお付き合いください。

★反骨の本屋さん★
 心斎橋を筆頭に大阪市内3カ所で書店を展開するのが、こちらのスタンダードブックストアです(注:残念ながら2023年6月に廃業していました。以下の情報は本書に拠ります)。

 落ち着いた照明のもと、本だけでなく、文具、雑貨、洋服、バッグなど幅広い商品を扱います。地下のカフェは、買う前の本でも持ち込み可、というユニークさもあり、地域に根付いています。2006年、そんな本屋さんが、心斎橋店を新規オープンした時、地下鉄心斎橋駅に出した広告がニュースになり、一挙に知名度がアップしました。それが・・・・
<本屋ですが、ベストセラーはおいてません。>
 「よく売れてるから」とか「ベストセラーだから」というだけの安易な理由では置きません、独自の目利きを大事にしています、というメッセージなのでしょう。本を選ぶ眼に自信がある読書家にはグッと来そうです。もちろん、商売ですからベストセラーも置いていますが、店の姿勢、反骨精神を感じさせる、いかにも大阪的な「広告」です。
★リンゴにつけた付加価値★
 1991年9月28日朝、猛烈な台風19号が青森県を直撃しました。ちょうど収穫期を迎えていたリンゴのほとんどが枝から落ちてしまいました。これらはもちろん商品として売れません。わずかい残ったリンゴも商品価値は大幅に下がり、被害総額は、741億円にものぼりました。そんな中、ある町のリンゴ農家から、アイディアが出ました。落ちなかったリンゴに付加価値をつけて売ろうというのです。ターゲットは・・・・・・そう、受験生です。「落ちないリンゴ」と名付け、「合格」という朱印を押して化粧箱に入れ、1個1000円で販売しました。

 あっという間に完売し、その町のリンゴ出荷量は大きく減ったものの、販売額はそれほど落ちませんでした。「付加価値」という魔法を見た思いです。
★最大の弱点を「売り」に★
 アメリカのハインツ社は、1876年からトマトケチャップを発売している老舗です。人工保存料を使わない製法で支持を得、特に1906年に法律改正により不純物混入が規制されてからは、圧倒的なシェアを誇っていました。しかし、第二次大戦後、ファストフードの普及で市場が拡大し、参入企業が相次いだため、ハインツのシェアは急落しました。当時のケチャップはビンづめです。他社のケチャップは水分が多いので、簡単に出ます。でも、ハインツ製は、ビンを逆さまにして叩く必要があったのです。水分を増やすという姑息な策を取らず、その欠点を逆手に取った広告戦略を展開しました。
<ハインツのケチャップは、おいしさが濃いからビンからなかなか出てこない>を基本コンセプトに大々的な広告宣伝を展開したのです。見事、シェアを回復したのは何よりでした。
★お母さんにボイスレコーダーを売る★
 新聞記者が取材で、また、ビジネスマンが会議の記録用に、とよく目にするボイスレコーダーです。テレビ通販の「ジャパネットたかた」は、小さい子供を持つ働くお母さんをターゲットにし、大成功を収めました。学校から帰ってきてもお母さんがいなくて寂しい思いをするお子さんにメッセージを伝える道具にしたら、という提案です。「〇〇ちゃん、お帰りなさい。お母さん、まだ会社だけど、おやつは冷蔵庫に入っているからね。宿題は早めにちゃんとやってね。」
 こんなメッセージ例を出されたらたまりませんよね。心温まるアイディアに参りました。
★「義理」専用のチョコ★
 ブラックサンダーというココア味でクランチタイプのチョコがあります。有楽製菓(東京都小平市)が1994年から発売しているもので、ここ10年で、売り上げを10倍以上に伸ばしている人気商品です。チョコといえばバレンタイン・デー。各メーカーは、高級感を売り物に、「本命」「義理」を問わず、例年大商戦を展開します。ところが、有楽製菓が2013年から展開したキャンペーンのキャッチコピーはというと・・・・
<一目で義理とわかるチョコ>というもので、商品にもしっかり表示されています。

1個当たり単価は30円程度と手軽なうえに、売れる数は「義理」が圧倒的に多いはず。一見、開き直りのようですが、ターゲットを絞った、大手メーカーが真似できない販売戦略だと感心しました。これなら、「安心して」贈ったり、貰ったりできる、という付加価値もありますし・・・

 いかがでしたか?モノを売るための知恵出しは、大変そうだけど、楽しそうですね。それでは次回をお楽しみに。

第577回 芸が身を助けた旅人衆3人

2024-05-24 | エッセイ
 昔の人は、つくづく健脚でした。江戸時代、江戸と京都の所要日数は、平均15日前後だったといいます。1日あたり30~40キロほどの「歩き」をこなしていた計算になります。体力もさりながら、道中の費用(路銀)も相当なものだったはずです。商人ならそれなりの目算があっての旅でしょうけど、庶民にとっては、現在の海外旅行以上の冒険、ビッグイベントではなかったでしょうか。
 司馬遼太郎のエッセイ「浪人の旅」(「司馬遼太郎が考えたこと 5」(新潮文庫)所収)では、「芸」の助けで、食べるものを食べ、路銀も調達しながら諸国を旅した人物たちの興味深いエピソードが語られています。3人を選んでご紹介しますので、最後までお付き合いください。

 まずは、宮本武蔵の「武「芸」」です。

 半生にあれだけ諸国を歩き回って宿泊費や飲食費をどうしていたのか、というのは誰しもが抱く疑問です。「じつは武蔵はただであるけるのである。」(同エッセイから)と司馬はタネ明かしをしています。
 日本では室町時代以後、諸芸が盛んになりました。武蔵が在世したのは、豊臣期の終わり頃から徳川の初期にかけてです。戦国の遺風が残っていた時期でもあり、兵法(剣法)が「弱いものでも強くなれる技術」(同)として、地方の小豪族に人気があり、珍重されました。「まあ、ひと月ほども泊まってもらって、このあたりの者に教えてもらえれば・・・」みたいなことで、食う方の心配はなく滞在できたでしょう。次の目的地での有力者を紹介してもらい、ついでに道中の路銀もいただいて・・・というシステムに乗っていたというのです。
 ただし、腕は一流だからといって、それだけで「ただであるける」ほど甘くもありません。武士発祥の地は関東です。兵法への需要、関心も高いですが、同業者(教え手)も多いです。武蔵もそこでは商売にならないと考えたのでしょう。自身の出身地(播州(兵庫県)と作州(岡山県)の境)を含めた上方から九州を商圏と見定めました。これらの地方には熱心な旦那衆がいたことも計算に入れたマーケティング戦略で商売は成功しました。おかげで、剣豪といえば武蔵、との名声を今に残しています。

 「文「芸」」の分野から、戦国・室町期の連歌師・宗祇(そうぎ)が取り上げられています。「連歌」というのは、「五・七・五」と「七・七」を複数人がリレー形式で詠んでひとつの歌にしていく文芸です。いろんな約束事があり、高度な技、知識が必要とされます。彼のこんな画像が残っています。

 低い身分の出身でしたが、その芸をもって京では天子からも敬せられる身で、関白以下の公卿たちとも親交を深めていました。そして、このことが、なによりのブランドであり、資本(もとで)ともなり、地方の大名たちが宗祇を有り難がり、貴賓に近い厚遇を受けていました。
 現に、戦国期、織田家には、信長の父親の代に行っています。当時は正規大名でもなく、新興勢力であった織田家にとっては、箔(はく)がつき、近隣の豪族に鼻高々の自慢になったことでしょう。そんなことの積み重ねが、宗祇自身のブランド力アップにさらに貢献し、商売繁盛・・・お互いにメリットを享受するビジネスライクな関係が成り立っていたのですね。
 行けば厚遇されますが、道中には危険もあります。宗祇もある土地の山中で盗賊に出会い、所持金を巻き上げられたことがあります。こういうことには慣れていましたから、さっさと数里ほど歩いていると、先ほどの盗賊が追いかけてきました。用を聞くと、宗祇が顎に蓄えている見事な白髯(はくぜんーひげ)が欲しいと言います。禅僧が使う払子(ほっす)の材料として、京で高く売れる、というのです。それに対して、宗祇は歌一首を詠みます。
<わがために払子ばかりは免(ゆる)せかし塵(ちり)の浮世を棄(す)てはつるまで>
 幸いなことに、盗賊にも歌心があったのでしょう。こんどは芸が命を助けて、白髯を奪われなかったのは何よりでした。

 さて、江戸期の俳人・松尾芭蕉です。芭蕉といえば、「奥の細道」ということになります。
<「奥の細道行脚之図」、芭蕉(左)と曾良>
 でも、俳諧も含めた文芸の盛んな京、大坂とかではなく、なぜ東北だったんでしょうか。「江戸期の芭蕉ともなれば、旦那も小粒になった。(中略)生活面でいっても、京や大坂で点者(てんじゃー俳句の採点者)として旦那衆を教え、きまりきった相手とばかり鼻をつきあわせていても、収入はたかが知れている。」(同)というのが司馬の見立てです。
 旦那たるべき庄屋階級の場合、近畿では農地が細分化されていますから、総じて屋台が小さかったというのです。その点、関東から東北にかけては、物持(ものもち)の大地主が多い、という事情がありました。う~ん、風雅の道といいながら、芭蕉なりの計算が働いていたのですね。

 いかがでしたか?三人三様の旅暮らしの中で、高度な「芸」を自分の生活、人生に活かす知恵、戦略があったからこそ、後世に名を残すことができたのだ、ということにあらためて気づいたことでした。それでは次回をお楽しみに。

第576回 開高健のジョーク十番勝負-1

2024-05-17 | エッセイ
 酒場での会話を楽しく盛り上げるには、ユーモアが大事だと心得て、時に「ジョーク集」などと銘打った本を手にしたりします。でも、パンチの利いたジョークにはなかなか出会えません。そういえば、随分前に読んだ本で、笑えるジョーク満載で愉快なのがあったなぁ、と取り寄せ、再読しました。「水の上を歩く?」(TBSブリタニカ 1989年)がそれで、作家の開高健氏(画像右。項目名のあとに<K>)と、島地勝彦氏(当時、週刊プレイボーイ編集長。同<S>)が、4半期に1度、全十番にわたり、酒を飲みながら交わしたジョーク・バトルの記録です。

 ジョークですので少し色っぽいものも含めて、私なりに選んだものをお届けします。どうぞ気楽に最後までお付き合いください。、、

★現実は、ジョークを超える?<K>
 エジプトでナセル大統領が権勢を誇っていた当時ですから、随分、古い話になります。カイロに滞在していた開高氏の実体験です。テレビをつけると、朝から晩までナセル大統領の演説だけを延々とやっています。同行の記者に訊くと、国民の一致団結、愛国心の強化などを訴えているとのこと。毎日のことなので、ほかにチャンネルはないのかと記者に聞くと、チャンネルを変えてみたら、と言われました。で、やってみると、「ナセルとそっくりのヒゲを生やした警官が6連発のピストルをこっちに突きつけ、銃の先端をチョチョッとふってチャンネルを元へ戻せって・・・・」(同書から)  
 ウソみたいな本当の話で、大いに笑えました。

★VIPジョークに夫婦で登場<K>
 ケネディ大統領の元妻のジャクリーヌが、再婚相手の海運王オナシスとインドを旅行した時のこと。カルカッタの街角で笛吹きが笛を吹いています。すると、1本の紐(ひも)がスルスルと宙に立つではありませんか。商売道具だからとしぶる笛吹きに1000ドル払って、手に入れました。その晩、ジャクリーヌはベッドで一生懸命その笛を吹くのですが、オナシスには一向に瑞兆が現れません。夜が明けて、ジャクリーヌが寝ている夫のあの部分がこんもり盛り上がっています。「ジャクリーヌは歓喜して「ダーリン、ダーリン」と亭主を揺り起こし、毛布をはいでみたら、パンツの紐が立っていた」(同)
 さすがに実話ではないようですが、夫婦揃って、ジョーク界の人気者です。

★天国と地獄<K>
 ジョークではよくあるジャンルですが、ブラジル仕込みのネタです。
 ある男が死んで、天国と地獄の分かれ道に来ました。ここでは、両方の世界を覗いて、好きな方が選べるシステムです。天国ではみんな鋤(すき)や鍬(くわ)を持って畑を耕しています。
 一方、地獄の方では、みんなあぐらをかいて、膝に女性を抱きかかえ、テレビを見ながら酒を飲んでいるではありませんか。なんでこれが地獄なのかと尋ねる男に、係官が「よく見てみろ。あのテレビの番組は国営放送で、酒はブラジル産のウイスキー、それに抱いてる女はお前の女房だぞ!」(同)  ちょっとコワ~いジョークです。

★長生きの秘訣<S>
 かつて、長寿日本一で、マスコミでも話題になった泉重千代(いずみ・しげちよ)さんという方がいました。

 テレビのインタビューで、若い女子アナに「理想の女性はどういう方?」と訊かれて「年上の女だ」(同)と答えたといいます。また、泉さんは、いつも煙草を長いキセルで喫っていました。なぜそんなに長いキセルを使うのか訊かれて「医者が煙草はできるだけ遠ざけろというんでな」(同)
 理想の女性のエピソードは私も何かで耳にした覚えがあります。身についたユーモアセンスというのが、長生きの秘訣であるぞ、とあらためて肝に銘じました。

★無言の行<K>
 修道院で無言の行に入った僧がいました。20年間、行を続け、ある日、院長に呼ばれました。よく耐えたので、二言だけ許す。いいたいことがあれば言いなさい」と促されて、囁くように言ったのが「食事、まずい」(同)
 更に20年が経ちました。また院長に呼ばれて、二言だけの発言が許されました。「部屋、寒い」(同)と答えて、3度目の行に入ったのです。
 そして、また20年が過ぎ、代替わりした院長が、同じように二言だけの発言を許すと、「僧は大きい声を張りあげていったーーー「私、やめる」。すると院長がファイルのページをめくりながら、「そうだな、やめた方がいいだろう。記録でみると、お前は少し喋りすぎている・・」(同)
 宗教ネタで、笑っていいのか、悪いのか・・・・
 
 ほんの一部ですが、お楽しみいただけましたか?もう少しネタがありますので、いずれ続編をお届けする予定です。それでは次回をお楽しみに。

第575回 「ムー大陸」の謎を楽しむ

2024-05-10 | エッセイ
 古代文明とか古代遺跡などに関心のある方々なら、「ムー大陸」伝説はご存知でしょうか。この伝説の真偽を熱く語るつもりはありませんので、ご安心ください。伝説の由来と概要をざっとご説明した上で、(ムー大陸との関連を信じる人たちもいる)太平洋の島々に残る謎の遺跡をご紹介します。ネタ元は、「失われた文明の謎」(藤島啓章 学研M文庫)です。関心のない方にも、古代の夢とロマンにちょっぴり浸っていただければ、と思います。最後までお付き合いください。

 謎に満ちたムー大陸を世界に初めて紹介したのは、イギリス系アメリカ人のジェームズ・チャーチワードなる人物です。彼は、19世紀末、イギリス陸軍の軍人としてインドに駐在していました。その時、ヒンドゥー教の古い寺院に秘蔵されていた「ナーカル碑文」なる粘土板文書によって、ムー大陸の存在を知ったというのです。そして、退役後の1931年に「失われたムー大陸」を刊行し、世界にセンセーションを巻き起こしました。ただし、寺院の名前、碑文などは明らかにされておらず、信憑性は低いとされています。何はともあれ、彼の描くムー大陸像です。
 その規模ですが、東はハワイ諸島、西はマリアナ諸島、南はフィジー、トンガ諸島、東南はイースター島にも至る、東西8000キロ、南北5000キロにも及びます。5万年前に人類が誕生し、ムー帝国なる祭政一致の帝国を築きました。帝王で最高神官は、ラ・ムーと呼ばれ、ラは太陽、ムーは母を意味しますので、母なる太陽の帝国、というわけです。最盛時の人口は6400万人。10の民族から構成され、マヤ族は、中央アメリカで古代マヤ文明の担い手となり、ウィグル族は、蒙古からシベリアへ進出するなど、世界各地に植民地を展開しました。
 栄華を誇ったムー帝国に滅亡の時が来たのは、約1万2000年前のことです。大地震と大噴火が大陸全域を襲い、大帝国は一夜にして海中に没してしまいました。マヤ、ウィグルなど植民地の人たちは生き延びたものの、文明は衰退しました。以上が、「伝説」の骨子です。

 さて、実際に存在したかどうかについては、いささか分が悪いムー大陸伝説ですが、その存在を熱く信じる人たちもいます。根拠として、太平洋には、謎の遺跡が残る島々が多く点在することを挙げ、それらはムー大陸の一部だ、という主張です。また、これらの島々の多くが、かつて大洪水のために海中に没した巨大な島の伝承を語り継いでいることも、チャーチワードは例証としています。おっと、これ以上深入りするのはやめておきます。太平洋に残る遺跡のいくつかを同書からご紹介し、夢とロマンを共有することにしましょう。

 トップバッターは、イースター島です。南米大陸まで350km、最も近い無人島まで1600kmも離れた絶海の孤島です。この島を有名にしたのが、ご存知、巨石人像モアイ。

 大きなものでは、高さ20メートルで90トンに達するものもあります。約117平方キロの島で、数百体もの像を、どんな目的で、誰が、どうやって作り、どう運搬し、どう設置したのか、など今だに謎だらけです。ぎりぎり、ムー大陸の東南角に位置するというのが、ムー大陸ファンの心を熱くしているようです。
 ついでご紹介するのは、各地に残るピラミッド型遺跡です。植民地とされるマヤには数多くのピラミッド型遺跡が残っています。ウシュマルに残る「魔法使いのピラミッド」です。

 マヤだけでなく、タヒチ島などにも、中央アメリカのピラミッドを想起させるマエラと呼ばれる石造建設物があります。建造のための技術などが、かなり広く伝播していたことを思わせます。
 次にご覧いただくのは、マルケサス諸島のヌクヒバ島に残る「チキ神」と呼ばれる石像です。

 大きな目を持ち、口から舌を出すという異様な姿をしています。タヒチ島やハワイ諸島にも同種の石像があるとのことで、こちらも、なんらかの交流があったことを窺わせます。

 最後にご紹介するのは、ミクロネシア連邦のポンペイ本島に謎を秘めて眠る「ナンマドール遺跡」です。チャーチワードも「ここ(ポンペイ本島)にある遺跡は、南太平洋諸島中でも最も注目すべきものだ」(同書から)と熱く書いているといいます。

 約80万平方メートルの海域に、大小合わせて92の人工島が築かれています。水深1~2メートルの海底上に柱状玄武岩を積み上げ、城壁、宮殿、神殿、住宅などが建てられているのです。最大規模を誇るのは、神殿の島と呼ばれ、縦150メートル、横70メートルの巨島で、厚さ2.3メートル、高さ10メートルの外壁で囲まれていて、さながら城塞都市。チャーチワードの10万人は誇大としても、著者は少なくとも1万人規模の都市と推定しています。炭素14法による年代測定によれば、完成はおよそ800年前だといいますから、比較的新しいです。それでも、謎だらけ、というのは、これまでご紹介してきた遺跡と同様です。

 身近な太平洋にも、まだまだ謎を秘めた遺跡群があるのを知って、私は古代への夢がちょっぴり広がりました。皆様はいかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。

第574回 文豪たちの「言い訳」集

2024-05-03 | エッセイ
 文豪といわれる人たちも、やむを得ざる事情で、「言い訳」を書くことがあるようです。「すごい言い訳!」(中川越 新潮文庫)には、それらの方々の言い訳も集められています。どう文才を発揮されているのか、ちょっぴり好奇心まじりで、覗いてみました。なお、<   >内は、同書からの「言い訳部分」の引用です。
★宮沢賢治★
 宮沢賢治といえば、清貧にして、高潔な人格者とのイメージがあります。お馴染みの画像です。

 でも、実家は岩手花巻で大成功を収めた商家でした。30歳の賢治は、チェロ、タイプライター、エスペラント語を学ぶため東京にいました。そして、本来、自立していいはずの賢治は、その遊学費用を一切父親に頼っていたのです。お金の支援を求める手紙では、東京での奮闘ぶりを伝えた上で、<今度の費用も非常でまことにお申し訳ありませんが、前にお目にかけた予算のような次第で、殊(こと)にこちらへ来てから案外なかかりもありました。・・・第一に靴が来る途中から泥がはいっていまして、修繕にやるうちどうせあとで要(い)るし、廉(やす)いと思って新しいのを買ってしまったり、ふだん着もまたその通りせなかがあちこちほころびて新しいのを買いました。>「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」の質実で抑制的で、物欲とは無縁・・・・のはずが、違う顔を見せています。賢治ファンにはちょっとショックかも。
★高村光太郎★
 昭和22年、菊池正という詩人から、詩集の序を頼まれた時、光太郎は、こんな説明をして断りました。作品は評価した上で、<ところで、序文という事をもう一度考えましょう。なんだか蛇足のように思えます。小生は昔から序文をあまりつけません。「道程」の時も書きませんでした。他の人の序文は一度ももらいません。貴下も自序を書かれたらどうでしょう。・・・>
 独自の「序」不要論です。ところが、その3年前に、菊池の詩集「北方詩集」に序を書いていました。また、他の詩人にもいくつも序を書いています。大上段に不要論を説いていますが、単にその時は面倒だっただけかな、と想像したくなります。
★坂口安吾★
 D・H・ロレンスの「チャタレイ夫人の恋人」(伊藤整訳 小山書店)が、猥褻物頒布罪で、東京地検から起訴されたのは、昭和25年のことです。多くの作家、評論家が伊藤と小山書店を支援する中、坂口安吾も協力を惜しみませんでした。しかしながら、安吾は、東京地裁からの証人召喚状を受けた時、急迫する原稿の〆切を理由に、拒絶しました。<小生、・・・目下至急執筆中・・・まったく寸刻のヒマもありません。召喚状の文中、応ぜない時は過料に処せられ且(かつ)勾引せられる、とありますが、・・・それに従わざる時は法律上の制裁をもって脅迫されても、私情やむを得なければ仕方がありません。>
 公権力に対して、私的な事情で対抗する・・・・戦後無頼派の面目躍如です。

★森鴎外★
 明治の医学界、文学界に君臨した巨人にして、その唯一といっていい弱点が「悪筆」でした。明治34年、鴎外34歳の時、新進の歌人・金子薫園から頼まれた揮毫を断っています。金子の作品への敬意を表した上で、<小生大の悪筆にて、かようのものに一字たりとも筆を染めしことなく、今又当惑いたし居候(おりそうろう)。地方人に責められしときは、大抵友人に代筆せしめし事にて候。>と断っています。鴎外直筆の手紙を見た本書の著者も「達筆には程遠い筆跡で、味わい深いヘタウマ文字ともいえない感じです」と評していますから、そうなのかも。
★尾崎紅葉★
 贈り物の礼状を上手に書くのは難しいものです。知人から朝鮮飴を贈られた紅葉は、それが美味しかったこと、謝意などを縷々(るる)述べた上で、<是は決してあとねだりの寓意あるにあらず。美味に対するお礼とも申す可きかお蔭にて久しぶりにてうまき物腹に入り申候>と書いています。「あとねだりの寓意」とあるのは、飴をまたねだりたい気持ちをほのめかすものではない、との意を伝えたかったのでしょう。でも、これだけお礼を言われた方は、かえってまた贈らねば、と感じ、双方が気遣いの無限ループに入ってしまいそうです。
★夏目漱石★
 明治39年、39歳の漱石は、東京帝大の先輩、菅虎雄に100円(現在の100万円くらい)の借金がありました。その必要性を、彼への手紙で、<僕のうちでは又去年の暮れに赤ん坊が生まれた。又女だ。僕の家は女子専門である。四人の女子が次へ次へと嫁入る事を考えるとゾーッとするね。>とだいぶ先のことを言い訳にしています。その上で<君に返す金は矢張り(毎月)十円宛(ずつ)にして居る。今年中位で済むだろう>と、借りた方が、返済計画を決める勝手ぶり。大文豪漱石も、こと借金となると、なりふり構わぬ調子が微笑みを誘います。

 いかがでしたか?私には、文豪の皆さんが少し身近になった気がします。それでは次回をお楽しみに。

第573回 本をこよなく愛する人たち

2024-04-26 | エッセイ
 本は面白く読めて、時にブログ用のネタが拾えれば私には十分です。でも、世の中には、本を様々に楽しみ、ユニークな付き合い方をする人たちがいます。演劇集団・天井桟敷を率い、文才も発揮された寺山修司氏(1935-83年)の「書物に関する本の百科」(「幻想図書館」(河出文庫)所収)では、それらの話題が、幅広く、かつ興味深く語られています。一端をご紹介しますので、最後までお付き合いください。

 ある時、氏はパリで、その名も「本」という1842年出版の本に出会いました。著者は、トーマス・フログナル・デイブダン博士なる人物。出版の動機は「エラスムスのように、まず本を買い、残った金で衣類や食料を買うような」本好きのために、この本を書いた」というのです。なかなかの意気込みを感じます。
 博士によると、次のような徴候があれば「本狂い」と認定できるといいます。
 1.大きな本を集め始める
 2.ペーパーナイフの入っていない本に興味を抱く
 3.イラストの入った本を欲しがる
 4.上製革製本を隠し持つ
 5.第1刷の本を入手したがる

 読むためというより、モノとしての本を重視するのが条件だとわかりました。確かに当時は、本は貴重なモノでしたから、見た目が立派、ひとが読んでないもの、出たばかりのもの、珍しいもの、などにこだわるのもわかる気がします。
 もちろん、博士も「本は物ではない、知識を交換し、媒介するもの」としっかり釘を刺しているので安心しましたが・・・・
 そんな一節を読みながら、以前、当ブログの記事にした仏文学者・鹿島茂氏のことを思い出しました(文末にリンクを貼っています)。18、19世紀フランスの挿絵、写真入りの豪華本が収集のメインですから、条件の3と4をクリアしています。収集するだけでなく、じっくり読み込み、立派な著作も送り出しておられますが、ほぼマニアと認定されそう、というのがちょっと笑えました。

 さて、寺山氏の本に戻ります。
 そこには、世界一大きい本の話題が出てきます。1626年に、アムステルダムの商人が、イギリスのチャールズ2世に贈った地図の本です。こちらがその本(同書から)。

 高さ5フィート(150cm)、幅3フィート6インチ(86cm)という大きさで、大英博物館が所蔵しています。イギリスゆかりのモノとはいえ、大英博物館も物好きです。

 氏は、レイ・ブラッドベリのSF小説「華氏451」にも触れています(映画にもなりました)。そこで描かれる近未来の社会では人々は、電波だけでのコミュニケーションが許されています。すべての本は焼却炉に投げ込まれ、町から姿を消します(華氏451度は紙が燃え出す温度です)。
 ブラッドベリは、本が焼かれることに抵抗し、愛する本を完全に暗記して、「本になった人」を描いています。
  <あそこにいるのが、エミリ・ブロンテの「嵐が丘」です>
  <そして、、むこうにいるのはバイロンの「海賊」です>
 人を焼却炉に送るわけにはいきませんから、見事な「抵抗」です。「本離れ」が言われて久しい昨今、「ホントに本がなくなっていいの?」と皮肉たっぷりに未来を先取りしているSFといえそうです。

 最後に、寺山氏が引用しているユニークなエピソードを紹介します。
 1862年、イギリスのケンブリッジの魚市場に入荷した魚の中の一匹の腹を裂くと、1冊の本が出てきました。粘液にまみれて汚れきった船員のシャツで包まれています。調べてみると、ジョン・フリスという反カトリックの牧師が書いた宗教的論文でした。
 宗教裁判で有罪となり、魚倉庫に閉じ込められていた時に、魚の腹に隠していたようです。彼は後に、塔に幽閉され、火刑となりました。幸い、その論文は、社会状況の変化もあり、ケンブリッジの有力者の手で印刷、出版されました。「魚の声」または「本の魚」というタイトルで、16世紀の宗教弾圧の内実を伝える貴重な資料になっているといいます。こんな数奇な運命をたどる「本」もあったんですね。

 いかがでしたか?ご紹介した記事へのリンクは、<第437回 古書マニアの面白苦労話>です。合わせてご覧いただければ幸いです。それでは次回をお楽しみに。 

第572回 ゾクッ、「怖い絵」を観る

2024-04-19 | エッセイ
 「怖い絵」の「続」編ですので、タイトルに「ゾクッ」と付けて、シャレてみました(文末に、前回記事へのリンクを貼っています)。 独文学者で西洋絵画に造詣の深い中野京子さんの、今回は「新 怖い絵」(角川文庫)をネタ元に、3点の「怖い絵」をご紹介します。最後まで「こわごわ」お付き合いください。

★まずご紹介するのはこちら。ミレーの「落穂拾い」です。

 よく知られた名作で、「えっ、どこが「怖い」の?」と言われそうです。著者による謎解きは後ほどのお楽しみにしまして、まずは、作品と向き合うことにしましょう。
 舞台はパリから南へおよそ50キロのバルビゾン村です。19世紀の半ば頃から画家が次々に集まってきて、一種の芸術村のような様相を呈していました。都会暮らしに疲れ、売れない画家であったミレーが妻子とともに、この村に移ってきたのはこの頃です。パリ画壇は、伝統的な新古典主義派と情熱的なロマン派の闘いで活気づいていました。一方、新興の市民階級の中では、もったいぶったそれらの絵より、写実的な絵が好まれました。とりわけ自然に恵まれた田舎生活、農村風景を描いた絵が人気を集めていました。農村出身でもあったミレーにとって、バルビゾンへの移住は自然な流れだったのかも知れません。
 作品を見てみましょう。夕暮れのやさしい陽射しの中、後景には、麦わらが高く積み上げられ、おおおぜいの人たちが収穫の喜びに湧いています。
 前景の3人の女性は、腰を折って黙々と落穂を拾っています。それにしても彼女たちの逞しいこと。決して暮らしは楽ではなく、落穂を拾うのは、地主の目を盗むか、黙認されているのでしょう。とても生計の足しになるとも思えません。著者によれば、「落穂拾い」については、旧約聖書の「レビ記」や「申命記」に記述がある、というのです。「曰く、「畑から穀物を刈り取るとき、刈り尽くしてはならないし、落穂を拾い集めてはならない。それらは貧しい者、孤児、寡婦のために残しておきなさい、と。」(同書から)
「喜捨の精神」「貧者の権利」などと呼ばれる教義です。ミレーは敬虔なクリスチャンでしたから「説得力ある描写に信仰がミックスすることで彼の絵は普遍性を獲得した。」(同)とあって、ただの素朴な農村風景画でないことが理解できました。
 さて、著者によれば、ミレーと同時代の人の中には、この絵を本気で「怖い」と感じ、忌み嫌う人々がいたというのです。この作品が発表される9年前の1894年にマルクスとエンゲルスによる「共産党宣言」が世に出て、プロレタリアート(無産階級)の団結を呼びかけました。
 上流階級の中には、「宣言」の影響を受けた人々が「身分」の境界を越え、自分たちの神聖な領域に割り込んでくるのでは、と本気で心配する人たちもいました。そんな人たちは、文学であれ、美術であれ、そんな気配を感じると、それらの作品を叩き潰そうとした、といいます。そんな意図は毛頭なく、信仰心に裏打ちされて描いたミレーにとっては迷惑な話です。それだけインパクトのある絵だったから、ともいえるわけで、有名税かなと感じつつ、同情を禁じえません。

★お次は見るからに「怖い」こちらの絵です。

 ユダヤ系ルーマニア人のブローネル というモダン・アートの画家が、1932年、28歳の時に発表した自画像です。なぜか右目だけ、どろりと溶けて流れたかのように不気味に描かれています。もちろんこの時の彼は隻眼ではありませんでした。どうしてこんな縁起でもない絵を描いたのかは謎です。モダン・アートのひとつの手法と考えていたのかもしれません。
 事件が起こったのは、7年後です。ブローネル は知人が殴り合いの喧嘩をする仲裁に入りました。割れたガラスが飛んできて左目に突き刺さり、眼球を摘出するはめになったのです。右目と左目の違いはありますが、自身の未来を予見したような絵です。夢で未来を予知する「予知夢」というのがあります。「予知絵」というのもあったんですね、確かに「怖い」です。

★最後の作品はこちらです。

 19世紀、ヴィクトリア朝時代のイギリスの画家・マルティノーによる物語絵画です。豪華な館の主である画面右の男性はシャンパングラスを高く差し上げ、傍の息子ともどもハッピーそうです。でも中央の椅子に座る妻は、不安そうで浮かない表情を浮かべています。左端の祖母が涙を拭いながら執事となにやら相談をしています。そばの新聞には「貸間情報」が載っているのです。なんともちぐはぐな家族の様子の裏にあるのは、この立派で歴史の重みにあふれた家を、明日は出ていかなければならないという現実です。「懐かしい我が家での最後の日」という作品タイトルが、それをもの語ります。一体何があったのでしょう。著者によれば、絵の中にそのヒントが隠されているというのですが・・・・
 左下隅に競走馬を描いた絵が、あえて横向きに置かれています。これがヒントだといわんばかりに。王室主催のレースもあるという競馬にのめりこんだ男性貴族が、全財産を蕩尽してしまった、というわけです。ヤケクソなのか、またゼロから出直せばいいや、と楽観的にふるまっているのか、この男のヘンな明るさが「怖い」絵画です。
 いかがでしたか?なお、前回記事へのリンクは<第541回「怖い絵」をこわごわ観る>です。それでは次回をお楽しみに。