★★★ 芦坊の書きたい放題 ★★★

   
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第312回 「とんち教室」で学ぶ言葉遊び-3

2019-03-29 | エッセイ

 昔懐かしいラジオ番組「とんち教室」の司会を、長年務められた青木センセイの「「とんち教室」の時代」(1999年 展望社)をネタ元に、いろんな言葉遊びやエピソードをご紹介してきました(文末に過去2回分へのリンクを貼っています)。こちらの本です。

 残念ながら、ネタもほぼ尽きましたので、今回がシリーズの最終回になります。これまでの分と合わせお楽しみください。

 まずは、<上の句づけ>から。
 七・七が与えられて、上の五・七・五を付けます。お題は、AだけどAでもない、とか、AだったりBだったり、のように、対照的なものを並べるのが定番です。

 「大きすぎたり小さすぎたり」に付いたのは
   「兄さんが居るばっかりに僕の服」(下の子は、おさがり専門)
 「先(さき)になったり後(あと)になったり」では
   「独り者洗面するのが朝食の」
 「上を向いたり下を向いたり」には
   「打ち上げの花火見に来て金(かね)落とし」
 「ほめたくもありほめたくもなし」に
   「恋人に友の性格尋ねられ」
 「見せたくもあり見せたくもなし」では
   「待ちぼうけさせた彼女怒る顔」
  (恋愛2句はいかにも、と思わせます)

 さて、割とハードル低そうなので、自作自演してみました。

 お題は「嬉しくもあり嬉しくもなし」で、
  「若い気でいたのに席を譲られて」と付けたんですけど、どうですか?この年齢になると、電車で、席を譲る、譲られるって、ビミョーなものがありますからね。

 <ものはづけ>という遊びもあります。「~なものは?」に、ちょっとありがちなもの、とか状況をウィットを効かせて、答えるものです。

 ぞっとするものは・・・女房のミニスカート
 高くて低いもの・・・・坊やを褒められた時の女房の鼻
 ちょっと失礼なもの・・女の赤ちゃんを男の赤ちゃんと間違えた時
 ちょっと非常識なもの・バスの降り際に千円札を出す男
 (かつては、千円札が高額紙幣でしたからね)

 なぞかけのバリエーションと言えなくもないですが、<類似点見つけ>という遊びがあります。
 一見、言葉の一部は共通なだけで、関係のなさそうなもの同士の似ているところをこじつけて見つけようというものです。

  沢庵と答案
    あまり辛くつけて(漬けて、点けて)もらいたくない
    歯がたたないのはそのまま出してしまう

  扇風機と倦怠期
    うるさいのもあれば、首を振ってあっちを向くものがある

  お灸と月給
    どうかすると途中で消えることがある
    罰としてすえおかれることがある
  

 最後に、私も以前、自作を披露した<いろはカルタ作り>です。 
 カルタですから、本来制約はありませんが、いろいろシバリをかけて作る、という手があります。

 「とんち教室」では、自分の名前の最初の1文字で作る、というシバリで作りました。

  石黒敬七さんの「イ」には
    イヤな奴だが金(かね)がある
  落語家橘ノ圓(たちばなの・まどか)さんの「マ」には
    前から税金後ろから借金

 その場にいるひとで、「イ」から順番に作っていく、テーマ(「男と女」、「私の夢」、「酒」など)のシバリをかけるなど、酒の席での余興としても楽しめそうな「言葉遊び」です。

 前回(第291回)前々回(第270回)分も合わせてお楽しみください。

 いかがでしょう?お楽しみいただけましたか?それでは、また次回。


第311回 羞恥考

2019-03-22 | エッセイ

 「羞恥」というちょっと「恥ずかしい」話題を取り上げます。話題が話題なので、性とかハダカにまつわるエピソードにも(やむを得ず)触れざるを得ませんが、社会的、歴史的考察も含めて、真面目に筆を進めるつもりですので、最後までお付き合いください。

 さて、何をもって「羞恥」とするかは、国、地域、時代、社会階層などによって様々ですし、突き詰めれば個人の価値観の問題でもあります。
 江戸時代、銭湯は男女混浴でした。一方で、西鶴の「好色一代男」では、幼少期の世之介が、庭で行水する女性を遠眼鏡で覗く場面があります。当時の住宅事情では、屋内で行水というわけにはいかなかったのでしょうが、ある程度見られるのは覚悟の上で、というおおらかさ、ユルさは、今よりもあった気がします。

 「羞恥の歴史」(ジャン・クロード・ボローニュ 大矢タカヤス訳 筑摩書房)という本があって、フランスを中心に、「羞恥」の歴史、習俗を扱っています。

 それによると、たとえば中世から19世紀まで、道徳面での反撃はあったものの、フランスにおいては、女性の上半身の露出には、概ね極めて寛大で、乳房をすべて露出する型の服装がしばしば流行したとあります。
 一方で、女性がスカートから脚を露出させることは、20世紀前半まで、絶対に合ってはならないこととされていたのが、不思議な気がします。

 男性はといえば、15世紀から100年間、性器を誇張、誇示する股袋(またぶくろ)が流行し、これをつけないことは非礼とされた、といいます。このような代物です。




 また、中世からルネッサンスにかけては、王侯から民衆までベッドは一家にひとつしかなく、家族だけでなく、客人までもがそのベッドに寝ました、しかもハダカで。

 とまあ、いろんな例が挙げられているのですが、一番興味深いのは、「フランスの羞恥は、身分差によって生まれる」という指摘です。

 これで思い出すのが「アーロン収容所」(会田雄次 中公新書)での著者自身の有名な体験です。
 学徒動員でビルマ戦線に投入された彼は、ビルマでイギリス軍の捕虜となります。「女兵舎の掃除」が仕事です。ある日、部屋に入り掃除をしようとして驚きます(以下、同書から)。

 「一人の女が全裸で鏡の前に立っ て髪をすいていたからである。ドアの音にうしろをふりむいたが、日本兵であることを知るとそのまま何事もなかったようにまた髪をくしけずりはじめた。部屋 には二、三の女がいて、寝台に横になりながら『ライフ』か何かを読んでいる。なんの変化もおこらない、私はそのまま部屋を掃除し、床をふいた。裸の女は髪 をすき終わると下着をつけ、そのまま寝台に横になってタバコを吸いはじめた」(以上が引用です)

 看護婦かPX関係者か、いずれにしろ、そう社会的身分が高いとも思えないイギリスの女性兵士にして、身分差と羞恥という意識は骨の髄まで沁み込んでいるようです。まして、アジア人ともなれば、身分差とか階層差とかは超越した「人間じゃない存在」なんでしょうね。全裸をさらすことに何ら羞恥も感じないのも道理です。

 さて、「羞恥の歴史」によって、話をイギリスと同じく身分差社会であるフランスに戻します。身分の高いものは、低いものに一切羞恥を感じる必要がありません。一番身分の高い国王の場合、誰にも羞恥を感じる必要はありませんから、やりたい放題です。「穴あき椅子」とよばれるトイレに座ったまま、政務をこなし、面会も行いました。
 王妃の場合は、浴槽に入ったまま、朝のお目通りも行ったといいます。

 このように国王一家は、誰に対しても羞恥を感じる必要がありませんでしたから、食事、排泄、出産まで、庶民は宮殿に入って、私生活全般を見学することが出来ました。
 フランスの王室って、なんと「開かれている」ことか、とかつては、私も思ってましたが、身分差を背景にした仕組みだったんですね。食事以外の私生活を見たいとは思いませんが、目からウロコでした。

 それにしても、街行く人、電車内の人などの振る舞いを見てると、相対的なものだとは分かっていながら、「羞恥」ってなんだろう、と考えることも多い今日この頃です。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。


第310回 大阪弁講座-35 「ぼちぼち行こか」ほか

2019-03-15 | エッセイ

 早いもので、居庵さんが亡くなって、2か月になります。山形のご出身でしたが、大阪での勤務経験を踏まえて、大阪弁講座にも軽妙なコメントをいつもいただいてました。寂しい想いがつのりますが、「大阪弁ファン」の皆様のため、めげずに第35弾をお届けします。

<ぼちぼち行こか>
 監督のこの一言で、勝ち進み、夏の甲子園で優勝した高校があるんですね。どこの高校かは、あとのお楽しみにして、まずは、言葉の解説から。

 「ぼちぼち」にはいくつかの使い方があります。ひとつは、「ゆっくりした速度で」という使い方です。「雨で足元が悪いから、「ぼちぼち」行きや(行きなさい)」のように。
 程度が、ほどほど(良くも悪くもない)である、という用法もあります。
 「儲かってまっか?」「ぼちぼちでんな」で、すっかりお馴染みのはず。

 そして、時間的に「そろそろ」とか、「潮時なので」という感じで使われるケースです。
 「一通り飲み食いしたから、「ぼちぼち」店を変えよか」
 毎晩のように、大阪のあっちこっちで、この言葉が飛び交ってることでしょう。

 さて、この言葉で全国制覇した学校とは、1986年の天理高校(奈良)です。試合の終盤で、リードされたり、不利な試合運びの時に、監督から、この一言が出ると、魔法のように逆転したりして勝ち進み、ついに頂点を極めた、というのです。

 共通語だと「そろそろ行こうか」と、まるで遠足にでも行くのを誘ってるか、飲み会を切り上げる(高校生にはあり得ませんが)時のようなユルい一言で、選手が奮い立って、結果を出した、というのが不思議です。

 でも考えてみれば、監督自身がどこまで意識してたのかは別にして、なかなか深慮遠謀に満ちた言葉ですね。

 プレイをするのは、選手であって、監督ではありません。だけど「行こか」と、監督も、選手も仲間のような気分で、一緒になって「(勝ちに)行こか」と声をかける。日頃の練習を通じての信頼関係と実力があってこそですが、緊迫した試合の中で、何より選手をリラックスさせる効果が大きそうです。

 「ぼちぼち」というのも面白いですね。

 (いままでは、ちょっと手ぇ抜いとっただけやろ。お前らが本気出したら、負ける相手とちゃうわ(違う)。回も押し詰まって来とんねんから(来てるんだから)、「ぼちぼち」本気出したらどうや)

 そんな監督の胸の内が聞こえてきそうです。

 大阪弁にも、キツい命令形はいくらでもありますが、ユルくても、モチーベーションを高める言い方があるもんだと、気づかされました。「ぼちぼち行こか」で掴んだ栄光の場面です。


<せわしない>
 おマケで、もう1語。
「忙しい」とか「手が離せない」という意味です。「せわしないとこ、すんまへんな(お忙しいところ、申し訳ありませんが)」みたいな使い方になります。

 で、この言葉を、自分の置かれている状況に対して使うと、忙しくしてる状況を察してくれよ、見たら分かるやろ、空気を読んでんか、という相手への非難めいたニュアンスが出るんですね。
 「いま、えらく「せわしない」ねん。悪いけど、あとにしてくれるかな?」

 性格を表すこともできます。大阪弁で言う「いらち」、標準語だと「せっかち」「短気」。
 「次から次へと、注文出しよってからに・・・物事は順番や。ホンマに「せわしない」ヤツやな。ええ加減にしときっ」

 いかがでしたか?次回をお楽しみに。


第309回 「きれい好き」の先の世界

2019-03-08 | エッセイ

 「きれい好き」から「潔癖「性」」あたりまでは、ひとつの性向を表す言葉として、日常的に使ってます。それが、「潔癖「症」」を経て、「不潔恐怖症」まで嵩じてくると、精神科、神経科の領域になるケースもあり、本人の苦労、周りの迷惑もなかなかのものがあるようです。

 私が、小学校3年生の時、父親が大病で入院、手術ということになり、丸々ひと夏、旅館を営む親戚に預けられたことがあります。旅館という非日常的な場で、従兄弟たちに囲まれての生活は楽しいことだらけで、親元を離れた寂しさとかストレスとかの自覚はありませんでした。

 ところが、預けられてしばらく経った頃から、食事の前とか跡に、さかんに手を洗うようになったのです。それ以外の時でも、かなり神経質に手を洗う私を見て、「手をきれいにしとくのは、ええことやで」と叔母からは言われたものの、今にして思えば、軽度の「潔癖症」にかかってたのかな、という気がします。精神のバランスが微妙に崩れていたのでしょうかね。幸い、父親が退院し、自宅に戻ってからは、二度と「発症」していませんが、ちょっと不思議な経験でした。

 「私、もう吊革はつかまない」(全日本清潔生活クラブ編 ソニー・マガジンズ)では、「不潔恐怖症」のレベルに達したと思われる人たちの悩み、そして、自らを「守る」ための戦いぶりが、ふんだんなイラスト付きで紹介されています。こちらが表紙です。

全体的に深刻なトーンはありません。それぞれの悩みには、「私ならこうする」というアドバイスのコーナーも設けられていたりして、「明るい悩み」のノリです。興味本位で取り上げるのは控えなきゃいけませんが、そんなノリに甘えて、いくつかご紹介します。

 他人が使用、触れたものを利用せざるを得ない「部活」は、中高性の彼ら、彼女らにとって鬼門。ある女子高生の場合です。

「他人がさわったピアノの鍵盤が触れないんですけど・・・」との申し出に、「手袋してピアノが弾けると思ってるの!!」との指導教師の言葉が返ってきて、音楽部は断念。「茶器で回し飲みなんてとても出来ない」と、茶道部も断念。読書研究部への入部をすすめられたが、「ずら~っと並ぶ他人が触った汚い本を読むのは無理」とこれも挫折。
 最後にたどりついたのが、なんと「生物部」。顕微鏡を覗いて、バイ菌を殺す快感に目覚めたのだという。ただし、他人の顕微鏡は使えないので、当然「マイ顕微鏡」持参。

 他人と寝食をともにする修学旅行も、彼らにとっては、恐怖のマト。

「毛布、枕、バスタオル4枚、タオル10枚、ハンカチ20枚、抗菌グッズはいつもの倍を持参した。が、荷物多すぎて腰を痛めた」という女子高生の告白には、同情しつつも、頬が緩んでしまいました。

 さて、他人と乗り合わせること自体が苦痛なのに加えて、電車の中は、不潔なものだらけ。それでも摑まらざるを得ない「吊革」とどう向き合うか。
 ハンカチでつかむ、というのは誰でも考えます。薄手の手袋着用、吊「革」の部分を握る(そこも十分不潔だと思うんですけど・・・)、握る前に、輪を1回転させて、吊革の部分で汚れを取る(かえって汚れると思いますが・・)、そして、手で握らず、手首の部分を輪に乗せる(手首が汚れますよ)
 と、ツッコミどころ一杯の涙ぐましい工夫のオンパレードです。
 
「温泉」自体は、カラダをきれいにするので、好きな人もいるようですが、ここも、危険がいっぱい。
 まず、他人がいっぱい通ってる簀(す)の子の上は、つま先立ちで、素早く通り抜ける。洗い場では椅子には座らない。湯船の端にはゴミが集まるので、真ん中に入る(どこも変わりないと思いますけど)。湯に浸かったあとは念入りにシャワー。このあたりが基本ワザのようです。でも、いろんなワザの使い過ぎで「かえって疲れる」という一言に、実感がこもってました。

 出張などで、利用せざるを得ない格安ホテルも悩みのタネ。

 あるキャリアウーマンの場合ですが、
 まず、部屋のスリッパからリモコン、電話、水道の蛇口、ドアノブ、電機のスイッチなどすべて拭き、徹底除菌。浴槽も洗ったものの、結局入らず(入れず?)。寝る時は、掛け布団がかけられず、なるべく動かないようにして寝た、というのです。
 これでは、くつろぐどころではありません。お気の毒です。

 皆さん、それぞれに「こだわり」があるようです。が、あまり無理をせず、「清潔生活」をお送り下さい。

 いかがでしたか?次回をお楽しみに。


第308回 職人好き

2019-03-01 | エッセイ

 小さい頃は、大工や左官といわれる人たちが身近な存在で、その巧みな手技(てわざ)に敬意を抱いていました。
 オトナになってからは、アートの分野で、工芸家と呼ばれる方々の精緻な仕事ぶり、職人的こだわりに興味を魅かれています。

 工芸品(漆、木工、金工、陶器、織物など分野は多岐に亘ります)とか工芸家というのは、美術番組で時々取り上げられるテーマです。作品そのものにも魅かれますが、その制作過程が紹介されたり、かつての名工達の超絶技巧を、現代の名工が再現する場面には特に目を奪われます。
「近いものはできましたけど、ホンモノにはとても及びません」
「どうしたらここまで出来るんでしょう?」
 そんな現代の工芸家、職人さんたちの言葉を聞いて、作品の凄さを思い知ると同時に、私も一緒にため息を漏らしています。

 そんな根っからの「職人好き」ですので、ドイツ文学者池内紀(いけうち・おさむ)さんの「ドイツ職人紀行」(東京堂出版)に自然に手が伸びました。
 職人といえばドイツ。いろんな職種に、マイスター制度(高等職業能力資格制度)が残っている国で、伝統と技が脈々と受け継がれています。そんな国で、さまざまな(広い意味での)職人さんたちと触れ合った記録です。

 取り上げられるのは35の仕事。時計師、眼鏡師、靴匠など、いかにも「職人」という仕事も取り上げられますが、古書肆(こしょし)、書店のほか、弁護士、公証人など、いわば、「その道のプロ」と呼ばれる人たちも登場します。

 例えば、精肉業(日本でいえばお肉屋さんですが)での、いかにもプロ、そしてドイツ的なこだわりぶりが興味深いです。

 「ドイツでは精肉店へ肉を買いにいっても、ななかな肉にたどりつけない。」とあります。

 まず、どのような料理に使うのか、どこの肉を、どれだけと告げて、初めて店主の了解が得られ、その上で、店主からいくつかの案が示される、という手順です。
 部位だけでも、肩、胸、腹、腰、脚など細かく分かれてますから、客の方にも、提示された案から選んで決めるだけの知識が要求されるというわけです。「肉のプロ」たる店主からは、牛肉買うのも、ひと苦労です。
 いや~、知りませんでした。日本なら、「フィレ」「サーロイン」「ももブロック」くらいの区分で、パックされたのを買うだけですから。

 さて、「西洋職人づくし」(1970年 岩崎美術社)という本が、本書の中で、たびたび引用、言及されるので、気になって、ネットで取り寄せました。

 元になっている本がドイツで出版されたのは、1568年なので、日本だと、江戸時代より前、安土桃山時代です。紹介されるのは、114の仕事。それぞれに、ヨースト・アマンによる木版画と、ハンス・ザックスによる八行詩が付いています。

 読んでみて驚くことがあります。

 まずは、そんな古い時代のことなのに、現代でも十分に仕事の中味が理解でき、個人の手を離れているにしても、日常生活、社会生活に必要なものの作り手がほとんどだということです。
 活版師、印刷師、製本師など印刷、製本に関わる仕事が8つというのが、目を引きます。また、鉄砲鍛冶、甲冑師、銃床つくり、よろい師、弓師など武ばった仕事が多いのも、時代背景を感じさせます。
 なかには、「守銭奴」「大食い」なんてのも取り上げられてて、ユーモラス。

 もうひとつは、冒頭で取り上げられている「職人」。なんと「教皇」なんですね。「神に仕えるお仕事」だとは思うのですが、こんな木版画に、八行詩が付いています。



 この世のありとあらゆる
 心を握るのが このわしじゃ
 地上には 異端・異教がむらだち
 これらすべてを いたるところで
 聖なる神のことばをもって
 力のかぎり根だやすのが わしじゃ
 かくて、キリスト教世界すみずみまで
 信仰一致の平和がつづく

 「教皇」に続けて、「枢機卿」などの聖職が4つ、「皇帝」「国王」なんかも取り上げられてるのが面白いです。原題が「職業の書(Standebuch)」なので、構わないとは思うのですが、作り手の批判精神というか、揶揄(やゆ)精神を感じます。

 いかがでしたか?次回をお楽しみに。