★★★ 芦坊の書きたい放題 ★★★

   
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第376回 大の男が怖がるもの-松永弾正の場合

2020-06-26 | エッセイ

 織田信長と同時代の戦国武将に「松永弾正(だんじょう)久秀」(?~1577)なる人物がいます。こんな画像が残っています。なかなか勇猛そうです。

 もともとは、阿波国主・三好長慶の家来でした。天文年間、群雄割拠して、京が捨てられたも同然になった時、海を渡ってその京を軍政下においたのが長慶です。

 そんな中、持ち前の才覚と胆力で長慶の心をつかんだ弾正は家老にまで昇りつめます。更に国主を目指す弾正は、長慶の子を毒殺するのです。そのため父親の長慶は心が衰え、大病までわずらいます。追い打ちをかけるように弾正はあらぬ噂を吹き込み、ついに長慶を憂死させるのです。

 いくら戦国時代とはいえ、これほどの悪事は天下に知れ渡り、信長の耳にも入っていました。で、ここから先は、「余話として」(司馬遼太郎 文春文庫)の一章(「幻術」)によるのですが、まずはこんなエピソードが紹介されます。

 のちに弾正が信長に臣従していた頃のことです。年若の徳川家康と同席する機会がありました。その時、家康に弾正を紹介した信長の言葉です。
 「三河殿(家康)はこの老人をごぞんじあるまいが、これは松永弾正と申し、世上の人のなしがたきことを三度までした仁(じん)である」(同書から)

 ひとつは三好氏をそそのかして足利将軍義輝を殺したこと、もうひとつは先ほどの長慶の息子の毒殺、そしてもうひとつは、奈良の大仏殿を焼き払ったことです。いずれも事実ですが、いかにも信長らしいストレートな紹介で、さすがの弾正もいたたまれなかったに違いありません。

 で、そんな弾正をめぐる本題のエピソードです。

 時期的には、弾正が3つの悪事をなし、信長に臣従する前のことです。彼は大和国をおさえて多聞城にいました。そこへ幻術使いの果心居士(かしんこじ)なる人物がやって来て、弾正みずから引見したというのです。雑談は夜にまで及び、「恐怖とはなにか」が話題になりました。

 「若い頃から戦場を往来して白羽をまじえたことは数かぎりなくあるが、一度も恐れを抱いたことがない」(同書から)と誇る弾正。幻術使いといっても旅の幇間(ほうかん=たいこもち)のようなもので、そこはそつなく、殿こそ勇者におわすと調子を合わせ、持ち上げる果心。
 一方、「どうだおれをおそろしがらせることができるか」と気分を良くして果心に持ちかける弾正。とてもとても、と尻込みしたものの、果心は数日の滞在を許され、ここから両者の心理戦、駆け引きが始ります。

 「おれをこわがらせてくれ」と何度も言っているうちに、弾正は自分でこわがりたいという気持ちを育てていったのでしょうか。そんな心理を見透かしたように、ある夜、果心は弾正の要請を受けることを伝え、近習や武器を遠ざけ、広い部屋で二人きりになりました。庭に降りた果心の姿が消え、やがて、人影らしきものが弾正の目に入ります。はたしてそれは何だったのでしょうか?ちょっと長めになりますが、同書からの引用です。

 <痩せおとろえた女性で、髪ばかりが長く、肩で息をしている様子が弾正の目にもみえ、しかもひどく苦しげである。それが立ちあがるともなく立ちあがり、やがて弾正のそばに近づいて、すわった。妻であった。五年前に亡くなった妻が出てきたのである。
 しかも唇をひらき、ー今夜はまた、いかがなされたのでございます。おそばに人もなく、いと徒然(つれづれ)げにて、と言い、さらに物語をはじめた。弾正は総身の毛が立つばかりに慄(ふる)えあがり、たまりかねて、果心果心と虚空へ叫び、
「やめよ、やめよ」というと、女の声音がすこしずつ変って、やがて果心居士の声になった。弾正の前にすわっているのは女ではなく、果心だったのである。>

 司馬によれば江戸時代の「醍醐随筆」所収のエピソードとのことで、真偽のほどは分かりませんが、果心居士なる人物が実在したのは事実のようです。
 自分が殺した人物の亡霊、幻覚ならねじ伏せ、吹っ飛ばしてやろうと身構えていた弾正の裏をかいた果心の見事な催眠術、そして作戦がちー事実とすればーですね。

 敵があってこそ奮いたち、敵と対抗することで精神を鍛えてきた弾正。そんな彼にとって、唯一敵でなく、最愛の存在であった妻の亡霊の出現がなによりの恐怖だった、というのが、他人事(ひとごと)とは思えません。つれあいは大事にしなくては、とあらためて決意したことでした。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。


第375回 不自由さが生んだポケベル語

2020-06-19 | エッセイ

 いささか古い話題にお付き合いください。1970年代に入って、無線呼び出しサービスと、それを利用するためのポケットベル(以下、ポケベル)と呼ばれる機器が普及し始めました。

 なにしろ当時は、一旦、外に出かけたら連絡手段はなく、どうしてもの時は、こまめに出先から公衆電話で連絡を入れるくらいしか方法はありません。
 そこへ登場したのがポケベルです。自宅とか職場などから、ポケベル番号を回します。電波がポケベルに向けて発せられ、ポケベルのベルが鳴ります。利用者にはポケベル番号を知っている職場の人とか家族とかが連絡を欲しがっているというのが分かって、電話をかける、という仕組みです。

 会社から「持たされる」ことはなかったです。また、出かけている時くらいは束縛されず、自由でいたいと思ってましたから、便利とは思いつつも、結局利用したことはありませんでした。

 普及が加速したのは、1987年に、数字が送信できる機種が登場してからじゃないでしょうか。こちらです。

 連絡して欲しい電話番号を表示させるのが本来の使い方ですが、90年代に入ってから、女子高生を中心に、数字と、限られた記号に工夫を加えて、それなりに意味のある内容を連絡し合うのが社会現象ともいえるブームになりました。

 井上ひさしのエッセイ「ポケベル文法」(「ニホン語日記2」(文春文庫)所収)には、言葉好きの彼が集めた1995年当時の用例(?)がいろいろ載っています。ちょっと懐かしい想いも込めて、ご紹介しましょう。

 まず、基本中の基本として、数字に、日本語の音を当てる「語呂合わせ」です。
 13(父さん)、88(母)、11(いい)、18(いや)、100003-1(万歳)なんてのが挙げられています。
 中には、5643というのも。「ゴム持参」と読んで、「デートには、コンドームを持ってくるように」というメッセージだというんですが、いやはや。

 待ち合わせとかに欠かせない地名。郵便番号や市外局番で表す手もありますが、ここも語呂合わせの出番です。
 428(渋谷)、88(高田馬場)、1393(ちょっと苦しいですが、浅草)のように。
 さて、296はどこでしょうか。ブクロと読んで、池袋です。学生運動はなやかなりし頃、池袋に拠点を置いていた一派を、他派が「ブクロ」と呼んでいたのを思い出します。

 時刻には、117を付けるというアイディアもあります。なぜかお分かりですか?117は電話の時報サービス用の番号だからなんですね。
 19-117-1900は、(午後7時に行く)となります。

 記号も、当事者の間で、約束事として、使われている例があります。例えば、
 ] [ が否定を表すというものです。9494] [(クヨクヨしちゃだめ)のように。そして、文字通り「かっこ」として使う用法があります。
 [ 11 ](かっこいい)、[ ] ] ] ](かっこつけすぎ)、[ 11 ] に否定を表す ] [ をつけて、[ 11 ] ] [ とすれば、(かっこ悪い)というわけです。

 数字を、その形からいろんなものに「見立てる」という技も開発しています。
 000ーは、お団子であり、111は、川のことです。0000は、自動車ですが、00は?
 そう、バイクまたは自転車です。
 男の子のポケベルに、女の子から、1-1と送られてきたら喜んでいいんじゃないでしょうか。
 「エッチしよっ」というメッセージだから、というんですが・・・・

 数字と限られた記号しか使えないという「不自由さ、制約」を逆手に取るたくましさ、アイディア、創造力に感心します。
 その後、文字が送れる「便利な」ポケベルが登場しましたが、もはや彼女たちの創造力を刺激することはなかったようです。時代の流れはケータイへ、そして、ポケベルの一般向けサービスは2019年に廃止となりました。

 いまやスマホ全盛。メールやSNS上では、絵文字も含めてあらゆる文字が使え、写真まで送れる「何不自由のない」時代です。そうなると、問われるのは、創造性とか工夫ではなく、メッセージの「中身」かな、とオジさん的イヤミ半分で思ったりします。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。


第374回 しぶとい宇宙-その終わりをめぐって

2020-06-12 | エッセイ

 「Newton」(ニュートンプレス刊)という科学雑誌があります。数学なども含めた科学全般から幅広い話題を取り上げ、文章よりもビジュアル勝負で、分かりやすさに知恵を絞っています。例えば、ご覧のような具合です。

 同誌が、2020年2月号で、「宇宙の終わり」という壮大なテーマに挑んでいます。難しい理屈、理論はヌキで、最先端の科学がどんな宇宙の終焉を想定しているのかを、プロセスを追ってご紹介しましょう。

★太陽系の死まで★
 138億年前のビッグバンによって、「今の」宇宙が誕生しました。そのタイムスケールの中で、20億年後を展望すると、太陽内部での核融合反応はますます盛んになり、1.2倍の明るさになるというのです。地球も温暖化どころではなく、灼熱地獄となり、生物は死に絶えます。

 45億年後、宇宙規模だと「身近な」存在である天の川銀河(地球もその一員)とアンドロメダ銀河が大衝突を起こし、夜空が輝きを増すというのです。星同士が衝突するのはまれで、銀河同士がくっついたり、離れたりを繰り返し、完全に合体して一つの銀河になるには、さらに数十億年かかると考えられています。こんな画像が載っています。

 一方、太陽ですが、60億年後、膨張を開始し、水星と金星を飲み込んでしまいます。地球の軌道にまでは達しないだろうとされています。でも、80億年後には、いったん収縮し、その後、再び膨張して、地球を飲み込んでしまうのです。そんな太陽も、最後には「白色矮星」となって、「太陽系」の時代は終わりを迎えます。

★超銀河の時代からブラックホールの消滅まで★
 で、話はいきなり1000億年後に飛んで、銀河同士の合体が進む超巨大銀河の時代です。こうなると、ある超巨大銀河からほかの銀河は見えません。空間の膨張が早すぎて、光が届かないからです。ひとつひとつの超巨大銀河といえども、ものすごく寂しい存在になってしまいます。 

 その銀河を構成している恒星も、有為転変を繰り返しながら、結局は宇宙へ拡散していってしまい、10兆年後には、すべての星が燃え尽き、宇宙は輝きを失います。だけど、まだまだ、宇宙は終わりません。実にしぶといのです。

 いよいよ、「10の34乗」年後という気の遠くなるような将来、巨大なブラックホールだけが残されます。そのブラックホールですが、これで終わりかというと、まだ先があるんですね。かのホーキングの予測によれば、ブラックホールも、少しずつ光や電子などを放出して、軽く、小さくなっていく、つまり「蒸発」する、というのです。そして、「10の100乗」年後、ブラックホールすら消滅してしまう、というのが、概ね確からしい予測です。

★「その後」の3つのシナリオ★
 やれやれという感じですが、その先を考えるのが科学者のお仕事です。誰も検証出来ませんから、「言いたい放題」のようで、同誌によれば、代表的なシナリオが3つあります。

 ひとつは、ビッグ・フリーズ(大凍結)と呼ばれる予測。宇宙はほぼ空っぽになり、時間も意味を失う、というもの。う~ん、分かりやすいんですけど、これが「終わり」だといわれても、「その先」が気になって、なんだか納得がいきません。
 2つ目は、ビッグ・クランチ(大崩壊)と呼ばれる理論で、空間の膨張が収縮に転じて、最後は”無”に帰すというもの。最初のものと似たり寄ったりの「寂しい」結論です。

 そして3つ目は、ビッグ・フリーズした宇宙が、さらに遠い将来、小さな宇宙に生まれ変わる、との予言です。
 「宇宙は、空間も時間も存在しない”無”から生まれた」とする「無からの宇宙創世論」を1982年に提唱したことで有名なアレキサンダー・ビレンキン博士らの説です。理論的な計算によって導かれたものであり、何よりも宇宙が終わらず、「転生する」というんですから、夢というか救いがありますね。

 宇宙の「終わり」もそうなんですけど、「始まり」も考えだすと、疑問のループに入ってしまいます。138億年前に始ったらしい今の宇宙ですけど、「その前」ってどうなってたんでしょうか?ホントにな~んもなかったんでしょうか?やっぱり”無”から”有”が生じたんでしょうか?まあ、あまり突き詰めず、壮大なロマンとして胸に秘めておくことにします。
 
 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。


第373回 大英博物館のモノ語り-1

2020-06-05 | エッセイ

 ロンドンの大英博物館を訪れたのは30数年前になります。NHKでその収蔵品を紹介するシリーズ番組があり、それを見ながら、どうしても現地に行きたくなり、中学生の息子と冬休みを利用して出かけました。

 初めての英国でしたから、ロンドンとその郊外の定番スポットを観光し、夕方には、毎日のように二人で博物館に足を運んだものです。とにかくやって来たという感激と、本とかで見知った実物を前にする感動は格別のものでした。

 そんなことがありましたから、その後、「100のモノが語る世界の歴史」(ニール・マクレガー 筑摩書房(2012年 全3巻))が出た時は、一も二もなく買って、読みふけりました。

 大英博物館所蔵の膨大なコレクションの中から、世界の歴史、人類の歴史を雄弁に物語る100のモノを選んで紹介したBBCのラジオ放送(2010年)がベースです。私なりに特にインパクトのあったモノを、何回かに分けてご紹介することにします(画像は同書から拝借しました)。

<<オルドゥヴァイの石のチョッピング・トゥール>>
 タンザニア(アフリカ)のオルドゥヴァイ渓谷で発見された手作りの礫器で、発見された地層から180~200万年前のモノと推定されています。

 動物の骨と一緒に発見されましたので、動物の皮をはぎ、肉を切り、中の髄を食べるため骨を砕くのに利用されたのでしょう。親指と残りの4本の指で包み込むようにして使う場面を想像すると実に使い勝手がよさそうです。刃先も鋭く、しっくりと手に馴染む優れたデザインです。
 樹皮をはいだり、根をむくことも出来ますから、当時の人類の食生活を支え、人類が今日まで生き延びられた源泉のひとつと確信できます。

<<アイン・サクリの恋人たちの小像>>
 まずは、こちらをご覧ください。何に見えますか?

 ベツレヘムに近い砂漠で出土した石の彫像で、紀元前9000年のモノと推定されています。膝を立てて座っている男女の像です。「たがいに包み込むように夢中になって抱擁を交わす二人の裸の人物が描かれている。これはカップルが交わる様子を再現した最古の作品として知られている。」(同書から)

 この「作品」が作られた頃、人間社会は変わりつつありました。地球規模で温暖化が進み、狩猟中心の生活が、農耕での食糧生産へと切り替わっていったのです。獲物次第という不安定な暮らしからある程度解放され、人類も「創造的活動」を行う余裕ができたのでしょう。こんなにリアルで遊び心に溢れた作品を作ったアーティストと適うことなら会って、話がしてみたいです。

<<縄文の壷>>
 日本から唯一エントリーしているのが、この縄文土器です。

 古代から世界各地で土器は作られてきましたが、これは紀元前5000年頃と推定され、世界最古の土器というのが、誇らしいです。
 大きさは、子供が砂遊びに使うバケツほどの大きさで、食べ物の貯蔵のほか、煮炊きにも使われたようです。なんといっても表面の縄目文様が見事です。日常使っていた植物製の籠をイメージしているのではないかというのが著者の推定です。農耕は始っていませんでしたが、魚や植物の実などが豊富にあって、食べる心配がない生活が生み出したモノといえます。

 内側の漆と金箔は、17~19世紀のいずれかの時期に、茶道具の水差しとして利用するため行われた細工だろうと著者は推測しています。「器を作った人も、それで気を悪くすることはなかっただろうと私は思う。」(同書から)私も同感です。

<<ウルのスタンダード>>
 イラク南部のウルにある王家の墓から見つかったモザイク細工の木製の箱です。紀元前2600~2400年頃のモノとされています。

 発見者のレオナード・ウーリーが、軍隊が行進の時などに使う儀杖旗(スタンダード)の一部ではないかと推定したのでこう呼ばれていますが、本当の用途は分かっていません。横58cm、高さ19cmほどで、両面3段に精緻な絵柄がモザイクで描かれています。

 ウルはメソポタミア(現在のイラク)の中心都市で、ご覧の面には、多くの交易品、奉納品と思われる品々を運び、納める様子が見てとれます。3~4万人とも想定される人間集団をまとめあげる権力と統制の仕組みがすでにあったわけです。

 さらに、モザイクの素材のラピスラズリはアフガニスタンから、赤い大理石はインドから、そして貝殻は全てペルシャ産と判明しています。交易の活発さ、広大さを物語る「箱」です。

 いかがでしたか?いずれ続編をお届けする予定です。お楽しみに。

<追記>続編は<こちら(第390回)><こちら(第487回(最終回)>です。合わせてご覧ください。