★★★ 芦坊の書きたい放題 ★★★

   
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第240回 大阪弁講座−28 「かみます」ほか

2017-10-27 | エッセイ

 第28弾をお届けします。

<かみます>
 大阪のディープサウスに天王寺(てんのうじー大阪人は「てんのじ」ともー)動物園というのがあります。

 私が小さかった頃、ライオンや虎のような動物の檻の前の札には、一言「かみます」とだけ。
 う~ん、共通語だけど、いかにも大阪らしく簡潔で、力強さに溢れてる。ひらがな4文字なので、子供でも分かる。思い出すたびに、笑いがこみあげてくる。ネットからこんな画像が拾えましたので、「良き伝統」は守られているようです。



 普通の動物園だったら、「これは獰猛な動物です。噛み付くことがありますので、絶対に手を出したり、えさを与えないでください。・・・・・」などと、グダグダ書くはず。大阪人の柔軟さ・シンプルさを全国的に見習ってほしいものです。

 そういえば、スペインも、ユニークさでは、負けてない。

 「ペンキ塗り立て」のベンチに”MANCHO”(マンチョ)とだけ書かれた貼り紙。

 これは、基本形”MANCHAR”(マンチャール=汚す)の主語が、「私」の時の形。スペイン語では主語が省略できるので、「(私は)汚しますよ」と、ベンチの立場で警告を与えている、というわけだ。ラテン系の血が流れてる(?)もん同士だけに通じる発想のユニークさがある。

<どや>
 大阪のオッチャンが自慢する時使うのが「どや」。「どうだ」を大阪弁に変換して「どうや」、更に短縮して「どや」の出来上がり。「ワイが一声かけただけで、こんだけの人が集まんねん。「どや」、大したもんやろ」てな具合。今や全国区になって、「どや顔」などという表現が広く通用している。こじゃれたカフェかなんかで、Macのノートパソコンを開いて、いかにも自慢げ、得意げに、キーを叩いてるニイちゃん、ネエちゃんの顔が思い浮かぶ。

 近況、様子を尋ねるのに使うのもありだけど、大阪だともう少し気軽に、カジュアルに使える感じ。「近頃「どや」ねん。ちゃんと商売やっとんか?」

 「それがどうした?」「だから何なんだ」とツッコミにも使える便利さは、大阪弁ならでは。
 「彼女から、ああ言われたとか、こう言われたとか・・・だから「どや」ねん。ええ加減にしと
  き!」

<毎度っ>
 大阪の町で交わされる挨拶で、かなり頻度が高いのがこれ。「毎度おおきに」「毎度おせわになります」「毎度お邪魔します」などなど、例によって、短縮して「毎度っ」

 商品や出前の配達の時に、商売人が、お客さんに向かって掛けるのが、一番普通の用法だけど、幅広く応用が効く。始めての商取引でも、いかにも日頃から付き合いがあるかのごとく、厚かましく使える、のも大阪流。

 横山やすし・西川きよしの漫才で、やすし(ガラの悪い方。故人)が、開口一番使うのが、この「毎度っ」だったのを思いだします。「おう、よう来たなワレ。ヒマで困ってるから来たんやろけ
 ど、安うもないカネ払うてんねんから、しっかり笑うて、元(もと)取って帰りや」と翻訳できる。

 客の方から使う手もある。馴染みの居酒屋のドアを開けながら、マスターへ「毎度っ」
 これなんかは、「こんばんわ。いつものように(わざわざ)足を運んで来たでぇ。馴染みやねんから、今日も安うしてよ」と(自分に都合よく)翻訳できる。

 いかがでしたか?次回をお楽しみに。


第239回 ライヴコンサートあれこれ

2017-10-20 | エッセイ

 久しぶりに、とうふ屋さんの製造部長であるHさんのライブコンサートに行ってきました。彼のお店の売り場の様子です。



 ここしばらくは、仕事が忙しく、ライブ活動がままならなかったようですが、新しく参加したバンドのメンバーとして活動を再開したので、とのお誘いを受けました。いきつけの店の忘年会や、かつてのライブなどで、彼の卓越したギターの演奏技術、ジャンルの広さには、敬服していましたので、喜んで足を運びました。

 当然、彼の演奏ぶりを楽しみにしているんですけど、バンドの一員として、彼が、その技術、実力を発揮する「場」を与えられてるかどうかが、ちょっぴり気になっていた点。

 もちろん、彼自身は、自分の演奏をやるだけ、と思ってるはずです。私の思いは、彼の実力のほどを、お客さんに存分に披露する機会が与えらればいいが、というだけの個人的なもの。

 数年前、彼が別のバンドのメンバーとして、活動していた頃の話です。祭り会場、ライブハウスでのライブなど、何度か足を運びました。

 そのバンドは、ヴォーカルを担当する男性がリーダーで、彼自作のカントリーフォークっぽい歌の合間に、トークが入る、という懐かしいスタイルです。

 トークも歌も、リーダーである彼が中心の進行です。Hさんを含めて、ベースギター、バイオリン(フィドル)、クラリネットなどの楽器は、粛々とリーダーの伴奏を務めています。だけど、私にとっては、Hさんあってのライブなわけで、彼が裏方、黒子に徹してるように見えて、物足りない気がしました。

 ジャンルは全く違うんですけど、ついジャズライブの演奏スタイルを、私は、思い浮かべてたみたいです。バンドには、それぞれのスタイル、方針があります。まして違うジャンルのことに、私みたいな素人があれこれ言うのは、僭越至極、的外れなのは承知のうえで、Hさんに思いを伝えたことがあります。

 「楽器の演奏が、全体に地味な気がするなぁ。ジャズとかだったら、ソロのパートがあって、   
  プレイヤーも張り切るし、ファンも盛り上がるよね。伴奏とはいえ、楽器も、もうちょっと目
  立っていいと思うけど・・・」
 「僕は音楽とギターの演奏そのものが好きなので、演奏さえが出来れば、満足なんですよ」
 「う~ん、Hさんのそういう謙虚なところが好きなんだけどさぁ・・」

 そんな思い出に浸っているうちに、30人ほどのお客さんを前に、演奏が始まりました。

 リーダーは、ヴォーカルを担当。ギターは、Hさんと、ベースの2本、それに、サックス、ピアノ、アコーデオン、ドラムというなかなか豪華なというか、異色の編成で、私的フォークのテイストの曲が中心のようです。

 こんな編成だと、今日も、Hさん、地味めに終わるかな、と心配してたら、中程で、彼が、2曲続けて、ソロで、歌を歌うという趣向になっていて、驚くやら、嬉しいやら。
  
 そのうち、1曲は、なんと彼自作の歌で、「とうふ屋の歌」

 「朝の6時から~、夜の10時まで~」「16時間も働いて~」とのフレーズが、リフレインされる。私も、常々彼の店にとうふを買いに行って、その仕事ぶりを見てるから、「そうだろうなぁ」と思わず、頬が緩む。生活感溢れるというか、仕事感がいっぱいの歌詞と歌いっぷり。
 (ちゃんと、残業代払ってもらってるのかぁ~)そんな心配もアタマをよぎります。

 どうやら、バンドのリーダーも、彼の実力は認めているからこその「扱い」のようで、十分に目立って、私も満足です。(句会をサボって)足を運んだ甲斐がありました。
 
 若い女性のサックスは、ジャズっぽい演奏ぶりで、自然と目立ってましたが、ほかのメンバーの扱いは、ちょっと地味め。ドラムは、若い女性でしたが、リーダーの真後ろで、座っての演奏だから、せっかくの熱演ぶりがよく見えず、気の毒。

 各プレイヤーの技術レベルは高く、演奏も楽しめたのですが、来てくれてる友人、知人たちへの心配りとして、ひとりひとりを、もう少し際立たせる演出があってもなあ、と、ふと感じました。

 メンバー紹介の時に、自分の楽器で、得意の1フレーズ、2フレーズくらい演奏させる、歌を皆んなで分けて歌う、ひとりひとりにトーク(来てくれた知人への挨拶、お礼程度でも)の時間を割
くなど、それなりに花を持たせる工夫はありそうだけど・・・

 考えてみれば余計なお世話で、サラリーマン的発想かな、とも思い直して、ひとり苦笑いしてましたが、コンサートの後半は、手拍子も出て、盛り上がりました。演奏が終わって、知人のひとりひとりに声をかけ、送り出すHさんの満足そうな笑顔が脳裏に残っています。

 いかがでしたか?次回をお楽しみに。


第238回 銃社会への珍なメッセージ-英語弁講座15

2017-10-13 | エッセイ

 またしても「狂気の沙汰」としか言いようのない事件が、ラスベガスで起こりました。犯人は、ホテルの32階から、地上のコンサートの観客に向けて、銃を、約9分間乱射。58人が死亡、500人以上が負傷した、というものです。

 犯人は、スーツケース13個分もの銃器を持ち込んでいました。それらの銃は、合法的に入手したものです。銃の中には、セミオートマチックのライフルをフルオート並の連射、速射を可能にする装置(bump stockーこれも合法です)を付けていたものもあった、といいます。画像の右の部分が、その装置です。



 こういう事件があるたびに銃規制が話題には上るのですが、その前に大きく立ちはだかるのが、
NRA(National Rifle Association (全米ライフル協会))です。
 2016年の大統領選挙では、5400万ドル(約60億円)の寄付を行っています。議会選挙でも、豊富な資金力を背景に、議員の当落に大きな影響力を発揮するため、民主、共和両党から恐れられている存在です。

 さきほどのbump stockですが、NRAの「お許しを得て」、議会でも、付け焼き刃的に規制の動きが出ています。一方、ガンショップでは、規制を見越して、売り切れ続出というから、とことん病んでる国だとしか思えません。

 銃を持つのは合衆国憲法で認められた権利であるというのを大前提に、今回のような事件があるたびにNRAが主張するのが、「「銃」が殺すのではない。「人」が殺すのだ」というもの。

 残念ながら、これを突き崩す理屈は見い出し得てないのが現状です。国民の中にも、こんな事件があるからこそ、自分の身を守るために銃が必要だと考え、実際に保持する人が多いようです。議論は袋小路から抜け出せません。

 前置きが長くなりましたが、銃規制の問題で思い出したエピソードがあります。

 だいぶ前のことですが、日本の英字紙Japan Timesに、「銃追放運動」の新聞広告で、
 "NO MORE GUN"というのが、掲載されたことがあります。

 とたんに、抗議の投書が殺到しました。運動への反対かと思いきや、そうではなく、「こんなナンセンスな英語はありえない」「大金を使って広告を出すなら、ネイティブのチェックくらい受けたらどうか」など、語法の誤りを指摘するものでした。

 "No more ~"というのは、「これ以上の~は、許さない」という意味です。ですから、「文法的」なことだけ言えば、数えられる名詞"gun"の複数形"guns"としなければならない。

 ところが、これだと、「今ある銃(アメリカだけで2億丁もあると言われる)はともかくとして、これ以上の銃は許さない」という「腰の引けまくった」「冗談としか思えない」表現になってしまうんですね。さすが、英字新聞読者の目は厳しい(当たり前だけど)。

 たぶん、「ノー・モア・ヒロシマ/ナガサキ」という一時流行った言い回しを「漫然と」応用するから、こうなったに違いありません。

 英語圏での反核パレードの横断幕には、正しく、
 "NO MORE HIROSHIMAS & NAGASAKIS"となっています。
 現に、広島・長崎には、アメリカが原爆を投下した(オバマの広島スピーチのように、「天から降ってきた」のではない!)わけで、「それ以上、つまり、第2、第3の広島・長崎を許さない」という主旨ですから、英語としては、広島・長崎にもそれぞれ複数の"S"がちゃんと付いて当たり前というわけです。

 以前、「チカンはアカン」という大阪のベタな車内吊り広告を紹介したことがありますが、それと一緒で、「そ~かぁ~、銃はアカンのかぁ~、ほなら、止(や)めとこか~」なんて誰も思わないと断言できる。

 それはともかく、横文字を使えばカッコよくて、インパクトがある、と単純に思い込んでる日本人への痛烈な一撃、警鐘ともなった意見広告でした。

 いかがでしか?次回をお楽しみに。


第237回 うるさい日本

2017-10-06 | エッセイ

 この前、元の会社の後輩と、祭りを見ようと、最寄り駅で待ち合わせしました。
 祭りの始まる頃は、降りる人が圧倒的に多いですから、そう広くもない駅構内の大部分を、降りる客専用のスペースにし、残った狭い通路は、一方通行。

 こんな時だから、その程度の規制,不便は仕方がないんですけど、我慢ならないのは、臨時の警備員4~5人が、ハンドマイクで、絶え間なく、がなり立てるように「ご注意」しまくること。

 「立ち止まらないで下さあいい〜」、「この通路は〜一方通行になっていまあす〜」、「北口へはぐるっとガードをくぐって行ってくださあいい〜」などなど。
 待ち合わせしてる15分ほどの間、音の暴力に晒され続けて、心底、腹が立ちました。

 「うるさい日本の私ー「音漬け社会」との果てしなき戦い」(中島義道 新潮文庫ほか)という本があります。こちらです。



 著者は、東大出身の哲学者でその方面の著作も多いです。でも、本のタイトルからも想像できるように、ユニークなキャラの持ち主。なかなか「出世」出来ず、ず~っと、助手に甘んじてた人です。
 それをネタにした「東大助手物語」(新潮社)なんて本も出したりして、しっかり商売もしてるんですが・・・

 で、中島の主張を要約すれば、とにかく公共の場での、無用の放送が多すぎて、迷惑な騒音でしかない、ということに尽きます。彼のユニークなところは、それを行動に移すこと。騒音の主(鉄道会社、駅員など)に、いちいち文句を言いに行くのです。
 もちろん、まともに相手にされず、挫折の連続ですが、彼の言い分は、私もよく分かる。

 例えば、鉄道関係。

 プラットホームに立てば、到着する電車の予告に始まって、到着番線、行き先、途中の停車駅、各停の場合、どこまで先着するか。そして、「黄色い線の内側まで下がってお待ちください」「駆け込み乗車はお止めください」「まもなく発車します」「次は◯◯~」

 乗ったら乗ったで、停車駅の案内、乗り換え案内、到着番線、待ち合わせの有無などなど、ここも騒音が溢れてる。

 鉄道会社も本音では、やめたいのでしょうが、この種のサービスって、一度始めると、やめられないのでしょうね。やれ「不親切だ」「案内がないから乗り間違えた」などのクレームが殺到しそうで。

 一方で、最近の傾向かも知れませんが、騒音問題に神経を尖らす日本人が増えてるのも事実。大晦日恒例の除夜の鐘も、「うるさいっ」との苦情が出て、取りやめたり、夕方に突く「除夕の鐘」にしたりと、関係者も大変なようです。

 また、保育園の新設が、園児の騒音を危惧する近隣住民の反対で、認可されなかった、というニュースも目にしました。

 駅や車内での親切すぎる放送は、私には、それ以上の「騒音」としか思えないんですけど、「なんとかしろ~」という声はあまり上がらない。大多数の日本人にとっては、必要かつ大事なお知らせで(その割には、誰も頼りにしてませんけど)、ハナから「騒音」と認識してないのが不思議。

 ところ変わって、イギリスの例ですけど、駅でも、車内でも、日本のように「親切な」アナウンスは、一切ありません。時間になれば、列車は「黙って」出て行き、到着します。

 アナウンスがあるのは、出発番線が急遽変わったとか、運転が途中で打ち切りなるとかの、通常とは違う「異常事態」が起こった時だけです。しかも、1回かせいぜい2回きりというのが多いです。日本みたいに、くどくど繰り返したりしません。
 
 アナウンスがあったら、とにかく大事な情報だから、耳をそばだてる、と言う習慣が、利用者の側に、自然に身についてるし、合理的なやり方です。つくづくオトナの世界だと感じます。(エラソーに書いてますけど、私もむこうで大事な放送を聞き逃して、側にいた乗客に教えてもらった事があります)

 目や耳が不自由な人にとっては、音声での案内がなきゃ不便だろう、と言う反論が出そうですが、欧米流オトナの世界の基本にあるのは、「自立」ということだと思います。

 駅の構内では「無用の」案内放送はないことを前提に、ハンディのあるなしにかかわらず、事前の準備、情報収集、必要により、現地でいろんな人の助けを借りる、ほかの乗客も助けを求められれば応じる、鉄道会社も「騒音放送以外の」必要な情報の掲出、スタッフの配置は心がける・・・そんな自立したオトナの生き方が身についていれば、やかましいだけの放送なんか不要であるし、迷惑だ、というのが、中島の主張です。

 私も、まったく同感です。うるさいだけの放送を当然のことと受け止め、折あらば、クレームでもつけようと身構えてる日本人が「子供」に見える、
 鉄道会社も分かってて、「子供扱い」してるんだと思いますけど・・・

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。