★★★ 芦坊の書きたい放題 ★★★

   
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第363回 世界の本好きたち

2020-03-27 | エッセイ

 読書が数少ない趣味のひとつですので、当ブログのネタも読んだ本から拾ってくることが多いです。また、「ことば」にも関心がありますので、大阪弁、英語弁の話題を定期的にアップしたりしています。

 そんな私のツボにハマる本に出会いました。
「本にまつわる世界のことば」(著者代表:藤井光 創元社)がそれです。タイトル通り、本をめぐるいろんな国の言葉や話題に、ミニエッセイとイラストがついています。

 国を超えても変わらぬ本好きたちの思い、ところ変れば変る本をめぐる事情など取り混ぜてご紹介します。<  >内が、本書で取り上げられている「ことば」です。

 日本で、本好き、読書好きを指す言葉といえば、「本の虫」でしょうか。世界の本好きたちにもいろんな喩えがあるようで・・・
 <bukvoed(ブクヴォエド)>ロシア語で「文字を食べる」という意味ですが、一文字一文字を食べるがごとく読む様子を連想させます。
 <knihomol(クニホモル)>チェコ語で、蛾の一種です。「本の虫」と通じるところもあるようですが、蛾のように、本に張り付く連想でしょうか。こんなイラストが付いています。

 <tsundoku(ツンドク)>「積ん読」が今や国際化(?)して、日本からエントリーしています。読みたい本はいっぱいあるのに、読む方が追いつかない・・・そんな悩みは万国共通のようです。

 日本語では、「眼光紙背に徹する」「熟読含味」「行間を読む」など、知識、教養を高める手段として身を削るがごとき真面目な読み方を表現する言葉がいろいろあります。ですから、
 <naname-yomi(ななめ読み)>なんて日本語が取り上げられると、ホットとします。私は、「拾い読み」、「飛ばし読み」も得意ですが・・・

 イスラム圏でも手抜きの読み方はあるようで、
 <varaq zadan(ヴァラグ・サダン)>は、ペルシャ語で、ページをパラパラとめくる読み方を指します。同じくペルシャ語で、
 <khar khan(ハルハーン)>という言葉もあって、文字通りには『ロバ読み」つまり「濫読」のことなんですが、ロバにとってはいい迷惑。

 さて、本を書く人がいなければ読書の楽しみもありません。アイスランドにはこんな言い回しがあります。
 <ad ganga med bok I maganum(アズ・ガウンガ・メズ・ボウク・イー・マガニュム> 誰もが頭の中に本を持っている、という意味です。国民の10人に1人が本を出版するという「出版大国」ならではの表現と感心しました。

 ご自身でも文章をお書きになった故「居庵さん」がよく口にされていたのが、一旦書いた文章を「寝かせる」「発酵させる」という言い回しです。私もその教えを守って、ブログにアップする文章は、できるだけ時間をかけ、手直しをし、練り上げるよう心がけてはいます。なかなかうまく「発酵」してくれませんが。

 <pisat' v stol(ピサーチ・フ・ストール)>机の中に書く、という言葉がロシア語にあります。小説、詩などを書いて、机の中にしまっておく、というわけで、「寝かせる」に通じる発想が人類共通かなと感じます。
 <literatura do supliku(リテラトゥラ・ド・シュプリーク)>というよく似たチェコ語があります。引き出しのための文字というのが直訳ですが、社会主義体制下、発表のチャンスがなく、引き出しに眠っていた原稿というちょっと暗い歴史を背景にした言葉です。こんなイラストが載っています。

 

 さて、英語圏の作家、出版社が目指すのは、
 <page-turner(ページ.ターナー)>じゃないでしょうか。(面白くて、面白くて)ページをどんどんめくりたくなるような本、というわけです。なかなか出会えませんが。

 世界にはこんな本もあります。
 <百部図書(ペップドソ)>と呼ばれます。脱北者による情報ですが、北朝鮮で、世界各国の小説を百部だけ翻訳・印刷して、作家同盟の作家に回覧する制度とのこと。これらの小説を「反面教師」として、これを超える作品を書け、というありがたいような、そうでもないような仕組みです。

 <必読書(ピルドクソ)>という言葉が韓国にあります。漢字だと、まんま日本語と同じです。読まなきゃいけないんだけど、なかなか手が出ない・・・国の壁を越えて、ヒトの悩みって変らないものかも知れません。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。


第362回 身銭を切る

2020-03-20 | エッセイ

 無料というのは何かにつけて魅力的ですが、時には「身銭を切る」のも大切かな、と思うことがあります。

 私が趣味でよく足を運ぶ美術館の場合、東京都美術館(上野)は、毎月の第3水曜日が「シニアデイ」で、65歳以上は、入場無料(年齢を証明できるものの提示が必要)です。特別展にも適用されるのがありがたく、随分お世話になっています。
 企画内容、作品、アーティストなどに関心があって足を運ぶのですが、無料だと、どうももうひとつ身が入らないというか、鑑賞が雑になるようです。「どうせ、タダだから」そんな想いがよぎっているんでしょうね。

 本の場合だと、図書館で借りるという手があります。私も割合利用する方です。入手が困難、値段が高価、ちょっと中味が知りたいだけ、などその都度自分を納得させていますが、目次だけのざっと見とか、流し読みが多くなりがちで、「どうせタダ」の呪縛から抜けられません。

 自費出版した本をいただいたことが何度かありました。そのうちの1冊です。

 ご覧の通り、いかにも本好きで教養豊かな方にふさわしい装丁で、内容も立派(そう)だったりはするのですが、どうも手が伸びません。ご本人には誠に申し訳ないことながら、本棚の奥の方で眠っています。身銭を切らない「いただきもの」というのも、(私の場合)読書意欲を刺激しないようです。

 それで思い出すのが、若い頃読んだ作家・立花隆の本にあった「本は買って読みなさい。買えば読むし、読めば(つまらない本であっても)何か得るものはあるはず」」という趣旨の言葉です。
 読書には、肉体的にも、精神的にもある程度のエネルギーが必要です。たとえ100円、200円程度の中古本であっても、自分で選び、納得して身銭を切った以上、何らかのモトを取らねばという意欲(単なる貧乏性かも知れませんが)が、なんとか私の読書生活を支えてきた、と彼の言葉をあらためて噛みしめます。

 一方で、7年ほど続けている当ブログの書き手として、つくづく身にしみるのは、「身銭を切ってまで買ってもらえる本が書けるプロにはかなわない」ということです。
 書くに足るだけの豊富なネタ、話題、知識があり、それを巧みな話の展開と、的確な描写でぐいぐい読ませる文章力ーー自身が書き手になって初めて分かるプロのスゴさを思い知らされます。

 ーこういう書き出し、ツカミでその気にさせて、読ませる手があったかー
 ー会話もこう使えば臨場感が出たり、説得力があったりするなぁー
 ーこんなさりげないユーモアだったら使ってみたいなぁー
 などなど、いろいろ気づくことは多いのですが、とてもその域には達しません。

 少し前になりますが、馴染みの店で、雑誌の編集に携わっておられて、私のブログを愛読していただいているKさんとご一緒しました。そのKさんから「芦坊さんのブログもだいぶ記事が溜まったみたいだけど、本にする気はあるの?」と訊かれた時、まずその事が頭に浮かびました。

「とてもとても・・・自分なりに納得できる記事がたまに書けたかなと思うこともありますけど、所詮アマチュアです。適当に拾ってきたネタを寄せ集めた雑文だと自覚しています」とまったくの本心で答えて、こう付け加えました。
「第一、こんなものを本にして、タダで配っても、誰も読まないでしょっ」

「さすがよく分かってらっしゃる。そうなんだよね。タダで貰った本って、誰も読まないんだよね」とのコメントがKさんから返ってきました。タダ本が読書欲を刺激しないのは、私だけじゃないんだと、妙に安心したのを覚えています。

 と同時に、「タダにもかかわらず」当ブログを愛読いただいている読者の皆様への感謝の思いが一層強くなりました。
 卑屈にはならず、慢心せず、「アマチュアはアマチュア」なりで、少しでも面白い記事、ためになる記事が書けるよう努力・工夫を続けて行くつもりです。引き続きご愛読ください。

 それでは次回をお楽しみに。


第361回 こんな「あの世」観

2020-03-13 | エッセイ

 亡くなった人の「冥福」を祈るって、「冥(あの世)」での「福(幸せ)」を願うということで間違いはありません。
 でも、この言葉の裏には、単なる死生観を越えて、世界観にまでつながるほどの奥深い世界があるというのを「お言葉ですが・・・別巻1」(高島俊男 連合出版)の中の「「冥福」ってなあに?」の項で知りました。

 著者は中国語、中国文学の専門家です。漢字に限らず言葉全般について、深い学識に裏打ちされた軽妙なエッセイを数多く世に出しています。中でも、この「お言葉ですが」シリーズは十数巻の既刊を重ね、私もファンの一人です。

 さて、同書によれば、古代中国人は、死ねばあの世(「冥」)へ行くと信じていました。宗教的信仰ではなく、民族全体の考え方、つまり、風習のようなものです。な~んだ、と思わないでください。「あの世」のイメージがなかなかユニークなのです。

「「あの世」とはどんなようすかというに、この世と大差はない。この世で死んだ時とおなじ顔かたちをしており、飯も食うしカネも要る。もちろん貴賤貧富も大いにある。」(同書から)

 そんな「あの世」で、食うに困らず、大きな家に住み、召使いをたくさん使って(この辺りが古代中国的ですが)暮らすのが、共通認識としての幸せ(「福」)なのですが、そのためには。「この世」からの応援が是非とも必要だというのです。

 ですから、さしあたり必要なもの、庶民のレベルなら、おカネが大事ですから、紙銭と呼ばれる作り物の紙幣をお墓の前で燃やします。こちらは、現代中国の紙銭です。結構ハデですね。

 また、お墓や仏壇に供えるというような形で、食べ物もずっと送り続けるなければなりません。
 日本でも、ご先祖様のために花や食べ物をごく当たり前のように供えますが、本来、仏教に先祖を祀る、まして、花や食べ物を供えるという考えはありません。
 中国的「あの世」観と仏教がゴッチャになって、日本に入って来たから、という著者の説明に、なるほどと納得します。

 「あの世」のために、とてつもないものを準備させた代表選手が、秦の始皇帝です。何千体もの兵馬俑が発掘されていますが、全容は解明されていません。また、未発掘の陵墓には壮大な地下宮殿があるともされています。あの世でも、豪華な宮殿に住み、軍勢を駆って、中国全土(当時の全世界)を支配し続ける・・・始皇帝にとっては夢でも何でもなく、ごく現実的で必要なことだったのでしょう。

 さて、このような「あの世」観から出てくるのが、ご先祖様への「孝」を重視する思想です。食べ物などを送り続ける「孝行」を怠ると、ご先祖様が餓えて、餓鬼(あの世へ行った人間は呼び名が「鬼(き)」に変わります)になってしまいますので。

 で、子孫から見た時、ご先祖様をどの範囲までとするか、という問題(?)があります。
 自分自身の一番近い先祖(というのも変ですが)は、両親です。その両親にもそれぞれ両親がいるわけで、どんどん枝分かれして行きます。10代前の先祖は、その代だけで1024人、9代前までの先祖を加えると2000人以上になります。

 とてもそこまでは面倒見切れない、ということなのでしょう。実に中国的に割り切るのです。
 先祖を、自分の父、その父、そのまた父という具合に、上への男子一直線だけを先祖にすることにしました。ですから女性は立つ瀬がありません。「あの世」へ行っても、子孫たちは「孝」を尽くしてくれませんから。男尊女卑の極みのような思想、仕組みです。

 日本でも、その影響と言えるのかどうか、例えば、家を継ぐのは男子が基本などという男性優位の風潮はまだまだ根強いですし、女性天皇の是非など皇位継承問題にもいろんな形で影を落としています。

 でも、幸いなことに、日本では「孝」の対象がもっぱら「この世」の両親、祖父母、そして今時は、曾祖父母(結婚している場合はそれぞれ両家の)というのが定着しています。尽くしかたに程度の差はあれ、これだけは、中国直輸入でなくて良かったです。子や孫からの「孝」を期待する年齢、立場になって、その有り難さが身にしみます。

 中国的「あの世」観からスタートした「孝」の思想とその対象、そしてそれが、今の日本人の根っこに残している影と、日本的に変容して良かった部分・・・「冥福」という言葉を手がかりに、いろんなことを考えさせられる含蓄に富んだ一文との出会いでした。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。


第360回 商売人武将の話

2020-03-06 | エッセイ

 以前、「司馬遼太郎の目配り」(第344回)と題して、司馬遼太郎の「歴史のなかの邂逅」シリーズ(中公文庫 全8巻)から、無名の人物二人を紹介しました。

 今回は、第2巻の「堺をめぐって」の章から「小西行長」を取り上げようと思います。
 秀吉のもとで、「朝鮮ノ役」を指揮した武将だったかなぁ、という程度の知識です。が、同書のエッセイを読んで、その数奇な一生に魅かれると同時に、そこそこ名が知られている割に、不人気な背景を知りました。こんな絵が残っています。

 元々は、堺の豪商の二代目です。その彼が、大名、武将として取り立てられるのには、当時の時代背景が大きく関係しています。

 室町時代頃から、中国(当時は「明」王朝)の揚子江以南の地で、にわかに、南海方面を中心とした国際規模での商業活動が活発になりました。優秀な航海技術を持ったアラビア人に負うところが大きかったのですが、港々は殷賑を極め、日本もそのうねりに飲み込まれます。
 折しも、信長、秀吉という進取の気性に富み、海外との交易も含めた商業活動の意義を十分に理解し、推進した政権が続きました。

 特に秀吉の時代になって、堺や博多が貿易港として格別の繁栄と存在感を誇る一方、日本からの産品と交換に中国から入ってくる大量の銅銭(明銭)が、我が国に貨幣経済をもたらしました。

 その堺で、薬商を営んでいたのが、行長の父の小西隆佐(りゅうさ)です。秀吉政権が安定してくる中、貨幣経済の担い手として、また、豊臣家の財務担当として、登用されたのが隆佐です。交易が生み出す利権、利益などで、政権の財政基盤を支えてきました。

 そんな功績が認められたのでしょう。秀吉は、息子の行長を、異常な出世で、大名、武将に取り立てます。家業は薬屋ですから、取引の相手国は朝鮮です。日本から何を持っていったかは分かりませんが、朝鮮からは、朝鮮人参や薬草の類いを輸入していました。

 行長の若い頃の事蹟はよく分かっていませんが、買い付けで、しばしば朝鮮へ行っていたようです。朝鮮の地理にも明るく、言葉も堪能だったと言われています。

 そんな経験が、行長の運命を大きく変えることになります、
 冒頭で触れました「朝鮮ノ役」です。ーー朝鮮を道案内役に、明王朝を征服して東アジアの大将になるーーという老境に入った秀吉の「誇大妄想的な、これはもう精神病理学の対象になる反応」(同書から)が引き起こした征服戦争です。

 かの加藤清正とともに、行長は最重要である先鋒大将に選ばれました。加藤清正は根っからの武人ですから、順当な人事です。事実、彼は、はるか満州国境近くまで猛進しています。
 一方の行長は、一介の薬商人です。(たぶん)朝鮮通だからというだけで選ばれて、取引先との戦争の指揮を執るなんて、悪夢でしかありません。こんな馬鹿げた戦争はないと心底から思ったはずです。当時。彼の父親は存命でしたが、私が父親だったら「命令やからしゃぁないけど、むこうではほどほどにやっときや」と声を掛けてますね。

 清正は、途中から割り込んできた行長を徹底的に嫌っていました。「どんな旗印で戦うのか」と嫌みたっぷりに行長に訊きます。薬屋だから、薬袋でも使うかな、と行長は答えたといいます。こんなところにも、武人である前に商人であるという彼の自負、反骨精神を見る思いがします。

 そんな武将のもとで、兵士のモチベーションも上がりません。行長軍は現在の平壌(ピョンヤン)辺りまで攻め入りましたが、清正の半分ほどの行程です。清正が、虎退治のエピソードまで生み出して、戦国武将的な勇猛果敢さが讃えられる一方、行長は、人気がなく、評価されないのには、こんな背景があったんですね。

 それに対して司馬は書いています。
「西洋でなら、むしろ行長の方が評価されるかも知れませんよ。清正は勇敢で興味ある人間である。しかしただそれだけではないか。(中略)しかし日本という孤島にいて世界性に目覚めていた人間というのは少ないんだから、この点で行長をもっと愛情を持って見てやろう、と」(同書から)私も同感です。朝鮮に甚大な戦禍をもたらしたという事実は変えようもないのですが。
 
 さて、その後の行長ですが、関ヶ原の時も、実にダメな武将として登場します。大軍を擁しながら十分に働かせることが出来ず、西軍敗北の原因の一つになりました。そして、逃げて、捕らえられ、最後は斬首(クリスチャンでしたので、切腹(自殺)は出来ませんでしたから)されて、一生を終えます。「ワイは根っからの商売人や。武将なんかに向いてない」そんな心の叫びが聞こえてきそうです。

 「お百姓の感覚で一生を生きた人」(同書から)家康が、閉鎖社会、閉鎖経済を作り上げていったのは、歴史の趨勢だったのか、皮肉だったのか・・・いろんな想念が浮かびます。

 いかがでしたか?次回をお楽しみに。