★★★ 芦坊の書きたい放題 ★★★

   
           毎週金曜日更新

第436回 加賀百万石の生き残り戦略

2021-08-27 | エッセイ

 先年、夫婦で加賀の国「金沢」への小旅行を楽しんできました。私は何度か訪れていましたが、機会がなかった家人からのたっての希望に応えたものです。
 武家屋敷、茶屋町などの古い街並み、広大な兼六園などの定番観光スポット中心でしたが、伝統と文化に触れることができ、二人の大切な思い出になりました。

 それにしても、と思うのです。加賀百万石といいますが、大した武勲、武功のない前田家がこれだけの領地を与えられた背景、そしてそれを幕末まで維持できた秘密は何だろうかと。

 だいぶ古い本ですが、手元にあった「歴史を紀行する」(司馬遼太郎 文春文庫 昭和44年)」の中の「金沢」の章を読んで、大いに腑に落ちるところがありました。我が不明を恥じつつ、ご紹介することにします。

 最初の方で、金沢弁を話題にしています。司馬がタバコを買った時、タバコ屋の店番をしている老婦人から「まいっさん あんや つんじみす」との言葉が返ってきました。「毎度さま ありがとう 存じます、ということである。たかがタバコ一つでこれだけの荘重な敬語を用いてくれる土地はいまどきどこにあるであろう。」(同書から)
 ちょっとした言葉づかいも見逃さず、歴史の重みを伝える司馬ならではの一文です。

 さて、本題の加賀百万石の生き残り戦略です。

 加賀藩の祖、前田利家の発祥の地は尾張です。織田家家臣としては中の上の家柄で、利家は小さい頃、通称「犬千代」と呼ばれていました。質朴な性格がことのほか信長の気に入られたようで、彼が元服後も「お犬」と呼んで、信長はつねに身辺から離さず、寵愛したといいます。

 秀吉の時代になっても、その律儀な性格が好まれて、晩年まで仕えることになります。そこには、織田家から政権を奪ったものの、配下の大名の多くが織田家の同僚である上、秀吉には親衛勢力とすべき肉親が少ないという事情がありました。
 そのため、利家をいわば「身内」同然に扱い、ついには、加賀の地で、徳川家康に対立する勢力に仕立て上げられました。加賀百万石の祖と称される由縁です(実際の石高が百万石となったのは、二代目、三代目の時代といわれています)。

 その利家ですが、秀吉の後を追うように没します。そして、豊臣家と徳川家の天下分け目の戦いを迎えます。
 二代目利長は、公然、家康側につき、豊臣家と断絶するという果敢な決断をします。豊臣家への義理は亡父利家が充分に果たしたから、との理由です。

 家康からもその功績を認められ、加賀の地は安堵されるのですが、旧豊臣方であったという事実は変えられません。ひたすら幕府に気を遣い、戦々恐々の外交戦術で生き残りを図ることに二代目の一生は費やされたといってもいいでしょう。
 そして、それを完成させたのが、三代目の利常です。こんな絵が残っています。

 その戦略ですが、「かれは自分を阿呆仕立てにした。顔の印象から変えた。鼻毛をのばし、口をあけ、外観を低能としてよそおった。」(同書から)というから凄まじいです。こんなエピソードが紹介されています。

 あるとき、利常は江戸城出仕を病気のため休んだことがあります。後日、老中から欠勤を咎められると、「利常は「はあ?」と口をあけ、やがて顔色を変え、いきなり袴をたくしあげて睾丸(こうがん)をほうりだしたのである。「ごらんあれ」と言い、「このところが痛うて歩きもできませず、やむなく出仕を控え申した」といった。」(同書から)
 この阿呆ぶりではとても反逆などできまい、との印象を与える巧妙な振る舞いです。

 さらに、利常と加賀藩(以後、ずっとそうですが)は、軍備をおろそかにしているとの印象も与え続けなければなりません。「このため、藩をあげて謡曲を習わせ、普請に凝らせ、調度に凝り、美術工芸を奨励し、徹頭徹尾、文化にうつつをぬかした藩であるという印象を世間に与えようとした。」(同書から)

 暗愚な藩主ではとても出来ないこんな戦略で幕末まで生き残ったとは知りませんでした。でも、おかげで、先の旅行では、その成果ともいうべき文化と伝統の一端に触れることが出来たわけですから、感謝しなければいけませんね。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。


第435回 アーミッシュという生き方〈旧サイトから〉

2021-08-20 | エッセイ

 <旧サイトから>の第6弾になります。
 18世紀以降の文明を一切拒否するなど独特の教義を信奉する「アーミッシュ」と呼ばれる人々の生き方を取り上げました。
 現代社会では、ある意味で不便で、厳しい生活を強いられますから、若い世代に、この教義に生きるか、棄てるかの選択機会を与える仕組みがあります。また、やむを得ない事情で信仰を捨てる人々の苦悩が大きいこともテレビのドキュエンタリーで知りました。重いテーマですが、真摯に向き合っていただければ幸いです。
 
★ ★以下、本文です★ ★
 アーミッシュというのは、アメリカに23万人の信者がいるといわれるキリスト教の一派です。
 17世紀の終わりに、スイスで生まれたキリスト教の一派で、徹底した非暴力主義、一切の傲慢の排除、神への謙遜と服従などが教義の柱です。ローマン・カトリックにも、国家にも従わなかったため、迫害を受け、信仰の自由を求めてアメリカに移民してきました。ペンシルバニア州を中心に、居住区での農業による自給自足の生活を送っています。アメリカでは、1980年代頃から、比較的知られた存在です。

 2006年10月、居住区の学校に、ショットガンを持った男が乱入し、5人の少女を射殺、多くに重傷を負わせた挙句、犯人は自殺するという痛ましい事件が起こりました。
 生存者によると、縛られた少女のひとりは、「他の子のかわりに、私を撃って」と申し出たと伝えられます。また、遺族の親たちが「私たちは犯人を許す」とコメントしたことも、当時、話題となりました。理屈だけでない強固な宗教的信念を持った人たちです。

 教義の思想は、日常生活のあらゆる面に及びます。
 18世紀以降の文明を一切拒否していますので、居住区内には、電気、電話、自動車などはありません。移動手段は、ご覧のような黒い箱形の馬車だけです。

 テレビ、ラジオ、ネットはもちろん、聖歌以外の歌も禁止され、男女とも、17世紀の農民の服を着用します。服のボタンも、虚飾なので禁止、許されるのはホックだけ、という徹底ぶりです。言葉もドイツ語が基本です。英語を話すアーミッシュの人たちは、「イングリッシュ」と呼ばれ、軽蔑されます。

 文明に毒された(?)我々から見れば、あまりにも厳しいアーミッシュの人々の生き方は、若い世代にどう受け入れられ、どう受け継がれていくのでしょうか?
 実は、「ラムシュプリンガ」という興味深い仕組みがあります。

 アーミッシュは、男女とも16歳になると、居住区の外にアパートを借りて、一定期間(この期間を「ラムシュプリンガ」と呼び、数年に及ぶようです)共同生活をします。そして、なんとそこでは、セックス、ドラッグ、ロックミュージックなど、世間一般の若者なら誰でもやっているか、やりたいことが何でも許されます。

 さて、その期間が終わった若者の選択肢は2つ。もとのアーミッシュに戻って、厳しい戒律の生活に戻るか、それとも、アーミッシュを棄てるかです。望んでアーミッシュの家に生まれたわけではない子供たちに、一生に一度だけ選択のチャンスを与える、そして、アーミッシュに戻るにしても、思い切りハメを外す事でのガス抜き、(不謹慎ながら)そんな狙いも見えてくる気がします。

 もとのアーミッシュに戻るのは、どれくらいの比率だとお思いですか?
 以前読んだ本によると、なんと9割だというのです。子供の頃からしみ込んできたアーミッシュの信仰、価値観を棄てるのは、相当難しいようです。

 一方で、アーミッシュを棄てるというのも厳しい決断だろうと想像できます。親、兄弟などとの関係を一切断ち切って、独立独歩、自分の才覚だけで生きていかねばなりません。「ラムシュプリンガ」での一時的快楽だけに溺れて、安易に結論を出せるような問題ではないのです。

 中には、家族ぐるみで、やむを得ざる事情により、アーミッシュを棄てるケースもあります。
 だいぶ前に、アメリカのドキュメンタリーで見たのは、こんなケースです。
 遺伝性の病気(閉鎖的な集団なので、近親婚が多く、遺伝性の病気を抱えた子供の比率が高いことが以前から指摘されています)の子供を抱えた両親が、子供に最新の治療を受けさせることを決断します。
 治療それ自体も許されない上に、通院のためには、自動車の利用も不可欠であり、アーミッシュを棄てざるを得ないというというのが両親の選択です。
 子供のためとはいえ、まったく新たな世界に踏み出さす両親の不安、苦悩の大きさが、ひしひしと伝わってきました。
 日々、安逸な生活を送っている私などには、想像もつかない重い決断に粛然とさせられたことを思い出します。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。 


第434回 水木センセイの不思議体験

2021-08-13 | エッセイ

 マンガ家の水木しげるといえば「ゲゲゲの鬼太郎」などの妖怪マンガです。でも、ご自身の悲惨な戦争体験やら、古今東西の奇人、変人、怪人の伝記など幅広いテーマに取り組んでこられ、私も愛読したものです。
 最近、「水木しげるの不思議旅行」(中公文庫)を読んで、私の「不思議なこと好き心」が久しぶりに刺激を受けました。ご自身の不思議な体験のいくつかをご紹介することにします。

<不運の家>
 氏が子供の頃、近所に古い空き家があって、どういうわけか、そこに入居する人を不運が襲います。「不運といっても病気などという生やさしいものではなく、”爆発”とか”死”という、激しい不運に見舞われる」(同書から)というのです。5ページほどにわたって克明に書かれた10件ほどの事例(いずれも氏が見聞きし、克明に記憶しているものです)のうちいくつかをご紹介します。

・ある船員は、50トンくらいの漁船に紛失物を探しに行ったところ、その漁船が突然大爆発を起こし、船体はまっ二つ、船員は船底に「小判鮫のようにへばりついて死んでいた」(同書から)といいますから、すさまじいです。
・岡山県から来た農家の一団の目的は、沈没船の金塊探しでした。1月たっても2月経っても金塊は出てこず、殺人には至らなかったものの刃傷事件を起こしたといいます。
・ある漁師は、入居したとたん、地元の古親分から、「おまえだけに」との約束で、秘密の漁場を教えてもらいます。ところがその船員は酔った勢いで秘密を漁師仲間にバラしてしまいました。その漁場に漁船が集まるのを見た親分は怒り心頭、「ぶっ殺してやる」との騒ぎになります。男は恐怖のあまり7日間ほど船底に隠れていましたが、ウイルス性の病気にかかり、発見されてすぐに亡くなりました。
 いずれも偶然の一致と思いたいですけど、怖いですね。

<戦場で生死を分けるもの>
 氏がラバウルなど南方の島々で従軍していたことはよく知られています。苛酷な日々の中では、ちょっとした運、不運が生死を分けることがあります。

・ワニのいる川を戦友と二人、小舟で渡っていた時のことです。戦友の軍帽が風に飛ばされ、拾おうと川に手を突っ込みました。あっという間に、ワニに水中に引きずりこまれ、2、3日後に下半身だけの遺体が川の上流から流れて来たといいます。「反対にぼくの帽子が飛んでいれば、今ごろ、こんな文章を書いているわけもない。」(同書から)

・徹夜の不寝番に立った氏が、朝になり、兵舎に戻ろうとした時のことです。何百羽というオウムが飛び回っているので、思わず10分間ほど見とれていると、猛烈な銃撃音が聞こえてきました。米軍による一斉射撃で、兵舎にいた全員が死亡したといいます。ほんのちょっとした気持ちの余裕が命を救いました。

・銃撃を受け、片手を失くしておられますが、「すぐ近くに衛生兵がいて、止血してくれたから助かったのだ。あのとき、ほんの5分でも衛生兵がそばをを離れていたら、どう見たって出血多量で死んでいただろう。」(同書から)よくぞご無事で、と心から言いたくなります。

<「小豆(あずき)はかり」との遭遇>
 氏が知人と二人で北海道に出かけた時のことです。所用を済ませて、岩見沢まで戻って来た時には、随分遅い時間になっていました。手近な宿も見つかりません。やっと見つけた宿は、廃屋のような建物で、床、天井、壁が異様にゆがんで、めまいがするほどでした。眠ろうとするのですが、神経が高ぶって寝られません。
「そのとき急に、闇に波紋をひろげる物音がした。かすかな音はどうやら上の方から降ってくるらしい。天井裏で石ころをころがしていつような変な音だ。」(同書から)

 驚いて隣に寝ている友人を起こそうとするのですが、体が動きません。やっとのことで叫び声をあげて、友人のほうへ転がるように逃れたのですが、友人がいません。
 なんとか帳場に駆け込んで、急を知らせると、なんとそこには友人の姿がありました。友人もまったく同じ体験をしていたのです。宿の主人の言葉です。
「気にせんこった。「小豆はかり」が住んどるが、別に悪さをするわけじゃねえんだから。恐ろしがらんでもええ」(同書から)水木の描く「小豆はかり」です(同)

 ふたり同時に体験してますから、信憑性は高いですね。それにしても、妖怪の専門家たる水木センセイの怖がりように(不謹慎ながら)頬が緩みました。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。


第433回 大阪弁講座46 「がめつい」ほか

2021-08-06 | エッセイ

 第46弾をお届けします。

<がめつい>
 小学生の頃、「がめつい奴(やつ)」をテレビで見た記憶があります。調べてみると、1959年に東京の芸術座で初演され、大当たりとなりましたから、それの劇場中継だったようです。その公演ポスターがこちら。その後、映画化、テレビドラマ化されるなど、随分話題を呼びました。

 主人公は、お鹿というケチで強欲なお婆さん、つまり「がめつい奴」です。ストーリー、場面はほとんど覚えていませんが、ポスターの一番後ろに映っている中山千夏の達者な子役ぶりだけが印象に残っています。

 さて、「がめつい」って、いかにも大阪弁的な響きがあります。でも、子供心に「あまり聞いたことのない言葉やなぁ」と感じていました。それも道理で、制作者の菊田一夫の「造語」だったのです。
 どうやってこの言葉をひねり出したのでしょう。諸説あるようですが、「ガメる」という大阪弁動詞の「がめ」に、「つい」をつけて形容詞化したのでは、というのが有力です。

 そういえば、小さい頃、母親が古い噂話の中で、「あの人の麻雀は、とにかく「ガメる」ねん。高い役、大きいアガリばっかり狙ってたわ」と話してたのを思い出します。強引、強欲に勝ちにいく、儲けにいく・・・そんなニュアンスで使ってたようです。
 子供同士だと「あんた、おやつ「がめ」ったらアカンで。みんなで分けて食べようよ」と一人占めや、取り分をごまかす行為をたしなめるのに使ってました。

 「こっちも精一杯、がんばって値引きさしてます。これ以上、安うせえて「がめつい」こと言われても困りまんな」
 今や(たぶん)全国的に通用する「がめつい」ですが、「がめつい」ことを必ずしも悪いこと、恥ずかしいこととしない大阪という風土、そして大阪弁という文脈に一番馴染んでいる気がします。

<商売あがったり>
 「あがったり」というから「順調」かと思ったらそうじゃないんですね。「干上がる」という言葉からの連想でしょうか「うまくいってない」ということを意味します。

 とは言え、大阪人が使うのですから、今日、明日にでも倒産、などという深刻なニュアンスはありません。一時的に、売り上げ、儲けに影響が出る(かもしれない)という程度のことが多いです。自分の責任でないことのせいにして、自虐的にぼやいたり、他人(ひと)の商売のことを、ちょっと心配して使うのが、一番ハマるようです。

 「こんな暖冬続きじゃ、冬モノ扱うてる店は、「商売あがったり」やろな」
 「近頃は、みんなネット通販とかを利用するもんやから、ウチみたいに、店頭だけでコツコツやってるとこは「商売あがったり」や」

 具体的な商取引の場面で、この言い回しが登場することがあります。 
 「そないな(そんな)値段で納品せぇ言われても勘弁しとくんなはれ(してください)。それじゃ「商売あがったり」ですわ」
 もちろん駆け引きでしょうけど、大阪商人の「断る力」の発揮しどころです。

 「商売」というのを、仕事、職業として捉えて、こんな言い方もできます。
 「デジカメ、スマホがこんだけ普及して、素人でも写真の加工ができる時代ですやろ。私らプロの写真家は、「商売あがったり」ですわ」
 プロとしての収入への影響ということもありますが、持っている技能、技術を発揮する場が減る、奪われる・・・そんな思いを込めた使い方です。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。