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第577回 芸が身を助けた旅人衆3人

2024-05-24 | エッセイ
 昔の人は、つくづく健脚でした。江戸時代、江戸と京都の所要日数は、平均15日前後だったといいます。1日あたり30~40キロほどの「歩き」をこなしていた計算になります。体力もさりながら、道中の費用(路銀)も相当なものだったはずです。商人ならそれなりの目算があっての旅でしょうけど、庶民にとっては、現在の海外旅行以上の冒険、ビッグイベントではなかったでしょうか。
 司馬遼太郎のエッセイ「浪人の旅」(「司馬遼太郎が考えたこと 5」(新潮文庫)所収)では、「芸」の助けで、食べるものを食べ、路銀も調達しながら諸国を旅した人物たちの興味深いエピソードが語られています。3人を選んでご紹介しますので、最後までお付き合いください。

 まずは、宮本武蔵の「武「芸」」です。

 半生にあれだけ諸国を歩き回って宿泊費や飲食費をどうしていたのか、というのは誰しもが抱く疑問です。「じつは武蔵はただであるけるのである。」(同エッセイから)と司馬はタネ明かしをしています。
 日本では室町時代以後、諸芸が盛んになりました。武蔵が在世したのは、豊臣期の終わり頃から徳川の初期にかけてです。戦国の遺風が残っていた時期でもあり、兵法(剣法)が「弱いものでも強くなれる技術」(同)として、地方の小豪族に人気があり、珍重されました。「まあ、ひと月ほども泊まってもらって、このあたりの者に教えてもらえれば・・・」みたいなことで、食う方の心配はなく滞在できたでしょう。次の目的地での有力者を紹介してもらい、ついでに道中の路銀もいただいて・・・というシステムに乗っていたというのです。
 ただし、腕は一流だからといって、それだけで「ただであるける」ほど甘くもありません。武士発祥の地は関東です。兵法への需要、関心も高いですが、同業者(教え手)も多いです。武蔵もそこでは商売にならないと考えたのでしょう。自身の出身地(播州(兵庫県)と作州(岡山県)の境)を含めた上方から九州を商圏と見定めました。これらの地方には熱心な旦那衆がいたことも計算に入れたマーケティング戦略で商売は成功しました。おかげで、剣豪といえば武蔵、との名声を今に残しています。

 「文「芸」」の分野から、戦国・室町期の連歌師・宗祇(そうぎ)が取り上げられています。「連歌」というのは、「五・七・五」と「七・七」を複数人がリレー形式で詠んでひとつの歌にしていく文芸です。いろんな約束事があり、高度な技、知識が必要とされます。彼のこんな画像が残っています。

 低い身分の出身でしたが、その芸をもって京では天子からも敬せられる身で、関白以下の公卿たちとも親交を深めていました。そして、このことが、なによりのブランドであり、資本(もとで)ともなり、地方の大名たちが宗祇を有り難がり、貴賓に近い厚遇を受けていました。
 現に、戦国期、織田家には、信長の父親の代に行っています。当時は正規大名でもなく、新興勢力であった織田家にとっては、箔(はく)がつき、近隣の豪族に鼻高々の自慢になったことでしょう。そんなことの積み重ねが、宗祇自身のブランド力アップにさらに貢献し、商売繁盛・・・お互いにメリットを享受するビジネスライクな関係が成り立っていたのですね。
 行けば厚遇されますが、道中には危険もあります。宗祇もある土地の山中で盗賊に出会い、所持金を巻き上げられたことがあります。こういうことには慣れていましたから、さっさと数里ほど歩いていると、先ほどの盗賊が追いかけてきました。用を聞くと、宗祇が顎に蓄えている見事な白髯(はくぜんーひげ)が欲しいと言います。禅僧が使う払子(ほっす)の材料として、京で高く売れる、というのです。それに対して、宗祇は歌一首を詠みます。
<わがために払子ばかりは免(ゆる)せかし塵(ちり)の浮世を棄(す)てはつるまで>
 幸いなことに、盗賊にも歌心があったのでしょう。こんどは芸が命を助けて、白髯を奪われなかったのは何よりでした。

 さて、江戸期の俳人・松尾芭蕉です。芭蕉といえば、「奥の細道」ということになります。
<「奥の細道行脚之図」、芭蕉(左)と曾良>
 でも、俳諧も含めた文芸の盛んな京、大坂とかではなく、なぜ東北だったんでしょうか。「江戸期の芭蕉ともなれば、旦那も小粒になった。(中略)生活面でいっても、京や大坂で点者(てんじゃー俳句の採点者)として旦那衆を教え、きまりきった相手とばかり鼻をつきあわせていても、収入はたかが知れている。」(同)というのが司馬の見立てです。
 旦那たるべき庄屋階級の場合、近畿では農地が細分化されていますから、総じて屋台が小さかったというのです。その点、関東から東北にかけては、物持(ものもち)の大地主が多い、という事情がありました。う~ん、風雅の道といいながら、芭蕉なりの計算が働いていたのですね。

 いかがでしたか?三人三様の旅暮らしの中で、高度な「芸」を自分の生活、人生に活かす知恵、戦略があったからこそ、後世に名を残すことができたのだ、ということにあらためて気づいたことでした。それでは次回をお楽しみに。
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