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第508回 歩行者と車の共存ー英国流

2023-01-27 | エッセイ
 たかが道路を横断するだけで、あれほど恐怖を感じたことはありません。若い頃、出張で出かけたエジプトのカイロでのことです。スキマ時間を利用した市内見物で、結構幅の広い(15メートルほど)道路を横断するハメになりました。信号なんてものは見当たりません。まして横断歩道も。信号がありませんから、両方向とも車の流れは途切れず、押し寄せてきます。渋滞に近い状態で、車のスピードはそんなに出てないとはいえ、途方にくれました。
 現地の人を見ていると、大胆に第一歩を踏み出しています。ドライバーも、人が思い思いに横断するのは当然と心得ているらしく、停止したりはせず、微妙なスピードの調節で、横断者との「間合い」を測って横断させています。ですから、横断者は、一旦道路に入れば、決して立ち止まらず、一定のスピードをキープして、渡りきるのがコツだとわかりました。勇気を奮って最初の一歩を踏み出し、なんとか渡り切りました。今では懐かしい思い出です。

 さて、(当時のカイロにはなかった)横断歩道は、歩行者と車が共存するためのシステムのひとつです。でも、いろいろ工夫の余地があるのも事実。
 リンボウ先生こと林望氏(以下、先生)のエッセイ「ホルムヘッドの謎」(文春文庫)では、イギリスでの様々な工夫が紹介されています。イギリス人ならではの合理性、じっくり考えた知恵をご一緒に読み解いていきましょう。

 どこの国であれ、「やむをえず」信号も横断歩道もない車道を横断する場合、両方向の車の流れが途切れるのを待たなければなりません。その上で、幅の広い横断歩道の場合は、渡り切れるかどうかを自身の歩行スピード(特に車椅子の場合など)も考慮して渡る決断をする必要があります。ここで登場するのが、イギリスの2段階横断とも呼べる仕組みです。20世紀初頭頃の様子を描いた先生のイラストです。

 道路の中央に、歩行者用の「島」を設けます。
 英国は、日本と同じ左側通行ですから、まず、右からの車の流れが途切れた時、「島」へ渡ります。そして、今度は左からの流れを見て、渡り切る、というわけです。「島」の両端には安全のためのポールが設置され、夜間は街燈で、ドライバーにその存在を知らせます。両方向の流れが途切れるのを待つ必要がなく、早く歩けない歩行者、車椅子の利用者にも配慮した優れたシステムです。
 最近のイギリスの「島」の画像をネットから入手しました。車が誤って突っ込まないよう目立つ表示板の設置、「島」を避けるよう誘導する路上ペイントなど、安全への配慮が進んでいます。

 先生によれば、住宅地などでは、50mおきくらいに設置されているとのことで、歩行者は本来、どこを渡ってもよい、という歩行者本位の思想が徹底しています。

 さて、イギリスにも、日本と同じゼブラ模様で、信号機のない横断歩道があります。歩行者がいるのを見かけたら、停止するのが、日英とも基本ルールです。でも、日本では、あまり守られていないようです。後続する車のこと、並行して走っている車のことを考えると、ドライバーには危険な判断になることもあります。そこで、イギリス流の工夫です。先生のイラストをご覧ください。

 横断歩道の両端、中央のポール(夜間は点滅式)でドライバーにその存在をしっかり知らせます。そして、歩道の両端10mほどにジグザグのペイントが描いてあります。ここは、追い越し、駐車は厳禁です。少し手前からでも、横断歩道の状況が確実に見渡せるためのルールです。これなどは、日本でも導入出来そう。ルールをきっちり守るのが大前提ですが・・・

 車道には通常の信号があり、そこに横断者専用の信号がある横断歩道の場合はどうでしょうか。歩行者、車が信号を守っている限り、安全性は高いです。でも、設定されたタイミングで信号が変わりますから、横断者がいないのに車側の信号が赤で停止させられる、ということがあります。また車優先の設定が多いでしょうから、横断者は待たされる時間が長くなりがち。待っている間に車が途切れる、なんてこともあります。そこで、横断者専用の信号は「例外なく押しボタン式」というのが英国流です。待たされる時間は少なく、横断する人がいないのに車をムダに停める必要はない、というメリットがあります。

 先生は、最後に「横断地下道」に触れています。イギリスには、横断歩道橋なんて、人に何十段もの階段を登り降りさせるような非人間的な設備はありません。それに代わるのが、「地下横断道」です。
 出入口をスロープにした横断のための地下道で、サブウェイ(subway)と呼ばれます。人が通れる高さの緩やかなスロープですから、カラダにやさしく、車椅子での横断にも便利です。車と遭遇しませんから、なにより安全、といいことずくめ。横断歩道橋とは全く逆の、歩行者第一の発想がここにも貫かれています。ホントの意味での「歩行者と車の共存」って、こういうことだと気づきました。
 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。

第507回 半藤さんの屁っぴり薀蓄話

2023-01-20 | エッセイ
 作家の半藤一利さん(故人)は、昭和史を中心に歴史を掘り起こし、多くの著作を世に送り出してきた方です。私もずいぶん愛読してきました。綿密で膨大な考証を重ねる作業って大変なのでしょうね。時に息抜きのような軽いエッセイもお書きになり、それにも親しんできました。
 今回は、「江戸時代の屁の名人録」(「ぶらり日本史散策」(文春文庫)所収)からの蘊蓄(うんちく)話に、私なりのネタも書き足して、「香り高く」お届けするつもりです。最後までお付き合いください。

 前フリでは、氏が「漱石ぞな、もし」(文春文庫)で紹介した2句が引用されています。
 <口切(くちきり)にこはけしからぬ放屁哉(かな)>(漱石)
 口切ですから、商売か行事が始まるところなのでしょう。そこへ放屁とは縁起でもない、失礼な、と怒りとユーモアを交えた漱石らしい句です。
 <屁もひらず沈香(じんこう)もたかず年の暮れ>(一茶)
 1年を無事に終えた感懐をこんな句に仕立てる手がありました。

 話は、屁の上品な言い方である「おなら」の語源に及びます。「鳴らす」からというのが通説ですが、半藤さんはこんな説を紹介しています。もともとは、宮中の女御たちの隠語だったというのです。有名な和歌「いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重に匂いぬるかな」を踏まえて、思わずとりはずしたときに「九重に匂う」から「お奈良」と称した、というもの。う~ん、高貴な香りがして、説得力があります。

 さて、本題の江戸時代に入って、浮世絵師の北斎が、屁の句を作っていたと言うのです。
 <赤兎馬(せきとめ)の屁に雲長も苦笑い>
 三国志の世界です。雲長とは関羽将軍のこと。その将軍の愛馬が千里を一気に駆け抜けるといわれた赤兎馬。駿馬といえども「屁」くらいするだろう、との諧謔精神です。
 <誰が嗅いでみて譬(たと)えたか河童の屁>
 小さい頃、簡単にできることを「屁の河童さ」と言ってましたが、江戸時代からあったんですね。
 <木魂(こだま)して天地にひびく井戸屋の屁>
 当時は井戸があちこちにあり、「井戸屋」という商売がありました。綱一本で井戸の底に降り、垢を取ったり、修繕したりします。そんな井戸屋が仕事中に放つ屁は、きっと天地に響いたことでしょう。庶民の生活ぶり、仕事ぶりを彷彿とさせます。

 江戸時代と屁、ではずせないのが、かの平賀源内の「放屁論」です。こちらの方。

 私もごく部分的に読んだだけですが、「へ」という言葉のもじり、「屁」をめぐるあれこれ話に感心したことを覚えています。半藤さんも、同書から、「屁っぴり男」の話題を、意訳して引用しています。両国の見世物小屋での「演技ぶり」です。
「この男、まずは舞台中央にうつ伏せに横たわり、尻をまくる。そして芝居の三番叟(さんばそう)の下座(げざ)のヒューポンポンに合わせて一発また一発、つぎにププププと梯子(はしご)屁、つづいてプィンプィンと数珠(じゅず)屁、それからこんどはトンチンシャンの三味線に合わせて曲屁を奏で、最後に「淀の水車」と銘打ってプープー放ちながら体をくるりくるりと回転させたそうな。」できることなら、「見て」「聞いて」「嗅いで」みたかったスゴい芸です。

 半藤さんのあとで、いささか気が引けますが、私なりのネタをご披露します。まずは、句から。
 <汝(なんじ)らは何を笑うと隠居の屁>
 小さい頃、母親から教わりました(どんな母親?)。年をとると、肛門の筋肉が緩んで、屁をした自覚がなくなる、というのが母親の説明でした。でも今は、耳が遠くなったり、恥の感覚がなくなることを揶揄している、と私流に解しています。
 <嫁の屁は五臓六腑を駆けめぐり>
 お酒だったら、「しみわたる」のでしょうが、亭主、舅、小舅に気を使って、出すに出せません。内に籠って「駆けめぐる」・・・哀しくも笑える句です。

 最後(っ屁)は、落語のマクラでような聞いた気がする小噺です。タダならなんでも頂戴するというケチな男に、ある男が言います。
「なんでも有り難く頂戴するんだな?じゃあ、両手を揃えてオレの尻のとこへ出しな」
 そこへブーッと一発かまされたケチ男。両手をそのままに、畑へ駆け出しました。
「お~い、どうすんだぁ~」
「畑に撒くんです~。ただの空気よりは栄養がありますから~」

 いかがでしたか?いささか尾籠な話題にお付き合いをいただきありがとうございました。それでは次回をお楽しみに。

第506回 4回も脱獄した男がいた

2023-01-13 | エッセイ
 学生時代、友人たちと北海道貧乏旅行で網走刑務所を訪れました。「(高倉)健さんが、ふらっと出てきそうだね」などと笑いあったのを思い出します。現在の同刑務所の正門です。

 先の戦争を挟んで、この刑務所も含め4回も脱獄した男の話を、吉村昭の「破獄」(新潮文庫)で読んだのは随分前です。最近、氏のエッセイ「史実を歩く」(文春新書)を読み、この作品が出来上がるまでの綿密な取材ぶりを知るとともに、男の超人的な知恵と工夫などにあらためて溜息が出ました。その驚くべき「手口」とその人生にしばしお付き合いください。

 昭和10年、未解決となっていた準強盗致死事件の主犯として、のちに脱獄を繰り返すS(小説では「佐久間清太郎」との仮名)が、共犯者とともに逮捕されました。二人は青森刑務所柳町支所に拘留され、裁判でSは死刑を、共犯者は懲役15年を求刑されました。そして、まもなくSが脱獄したのです。部屋の扉の錠は合鍵で開けたらしく、自由に開閉できるようになっていました。この時は、3日後に逮捕され、合鍵の作製方法を供述しています。入浴時に手桶のタガを外し、房に持ち帰ります。入浴時にふやかした掌を鍵穴に押し付け型取りです。鍵は尻を洗うフリでタガをコンクリートに押し付けて削り、成型したというのです、並外れた知恵と執念です。裁判で無期懲役となり、宮城刑務所へ移管されたものの、空襲の激化により、一時、小菅刑務所(東京)に収容された後、秋田刑務所に送られました。

 ここで2回目の脱獄をしたのは、戦中の昭和17年6月です。鎮静房と呼ばれる1坪足らずの頑丈な部屋の上方3.2メートルにある天井の明かり窓(直径30cmで金網入りガラス製)を破っての脱獄でした。脱獄して3ヶ月後、Sは小菅刑務所の看守長のもとに自首してきました。小菅に在監中、なにかと親切にされた恩義を感じて、と後に供述しています。とはいえ、2回も脱獄した凶悪犯ですから、今度こそというわけで、昭和18年4月に、冒頭で話題にしました網走刑務所に送られました。大正5年以来、17年間脱獄なしの記録を誇っていた堅固な刑務所です。

 なんとそこでも、昭和19年8月に、3回目の脱獄を決行するのです。手錠のナットが外され、環が開いていました。囚人監視用の視察窓を枠ごと外して脱出、通路を走って壁を這い上がり、天窓のガラス板を破って逃走しました。それにしても、手錠のナットと、窓枠をどんな方法で外したのでしょう。毎朝の食事についてくる味噌汁を、根気よくネジの部分にかけ続けたのです。やがて塩分でネジの鉄が腐食し、脱獄できた、というわけです。知恵と執念、そして、作業などで所内を移動する際、可能な逃走ルートを観察する抜け目のなさが、ものを言いました。
 敗戦後の昭和21年8月、北海道の滝川で逮捕され、札幌刑務所に収容されました。そこでは、日に3度の検身、房内検査の実施など脱獄阻止に万全を期すのですが、昭和22年4月1日未明、またもや、4回目にして最後の脱獄を敢行します。床板の一部が横に切断され、板が斜めに浮き上がっていました。床下を這って、獄舎の外へ脱出したのです。今回は、力技での脱獄でした。

 昭和23年1月、道内琴似町の巡査に逮捕されました。Sと気づいた巡査はタバコをすすめ、おだやかに事情を聴くなどしたため、Sは素直に逮捕されました。敗戦直後の混乱期でもあり、GHQの指示は二転三転しましたが、東京の府中刑務所へ収容と決定し、米軍提供の有蓋貨車を特別に仕立て、厳重な監視のもと、送り込まれました。
 そこでは、所長の温かい扱いで、Sは脱獄の意志を失い、模範囚として、刑に服したことが知られています。吉村としては、それを小説に書き込むためには、当時の所長鈴木英三郎氏(小説中では、「鈴木圭三郎」の仮名)への取材が必須です。いろいろアプローチを試みましたが、刑務所長という職責もあり、色よい返事はもらえませんでした。そこで吉村は、「破獄」の書きかけの原稿を送るなどし、ようやく取材ができたのです。

 吉村が聞き出したSが到着した時のエピソードです。看守が驚く中、所長は、Sの手錠と足錠をその場で外させました。所長から見せてもらった回想メモを吉村は引用しています。
「所長(私)は、これから何時でも会おう、今日は疲れているであろうから、顔や体を拭きゆっくり休息するよう言い、彼を獄房に連れて行くよう命じた。彼は丁寧に頭を下げ、何年ぶりかで重い手錠足錠から解放され、勝手の違った足取りで室を出ていった」(同エッセイから)
 また、秋田刑務所での脱獄の時、3.,2メートルもの壁をどうやって点ったのかの実演までさせています。「房のコーナーに行き、両足の裏を一方の壁に、両掌を片方の壁に密着させ、掌をずり上げ足もずり上げて天井まで昇り、片手を伸ばして電燈を取り外した」(同)
 頭だけでなく、肉体能力も飛び抜けていたことがわかります。

 Sには入浴、軽作業への従事もさせ、厳重な監視体制の気配は見せず、一般の受刑者と同じ扱いをしたといいます。温情に応えたSは、模範囚として過ごし、所長の尽力により、昭和36年12月12日に仮出所しました。所長はその前年に退官していましたが、Sは毎年、新年の挨拶で鈴木氏を訪れていたといいます。そして、昭和53年12月に、71歳でドラマチックな人生を閉じました。Sの執念もスゴいですが、鈴木所長の人間味溢れるエピソードを引き出す吉村の取材への執念も負けず劣らずです。
 最後は、「ちょっといい話」になりましたが、いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。

第505回 大阪弁川柳で初笑い<大阪弁講座53>

2023-01-06 | エッセイ
 年末の「笑い納め」に引き続き、恒例の「初笑い」ネタとして、大阪弁川柳の第3弾をお届けします(文末に過去2回分へのリンクを貼っています)。
 ネタ元は、田辺聖子さんのエッセイ「川柳でんでん太鼓」(講談社文庫)です。

 残念ながら、今回がシリーズの最終になります。川柳と大阪弁の面白みを存分に堪能いただき、明るく新年をお迎えいただければ嬉しいです。私なりの勝手なコメント付きでお楽しみ下さい。

★倒産したとは母校知りはらず★(奇童)  
 同窓会の案内だか、卒業名簿だかが送られてきました。だいぶ間が空いていたのでしょう、倒産前の会社の経営者のままで。「~(し)はる」というのは、大阪弁独特の敬語表現です。当講座の第1回でも取り上げました。カジュアルに広く使えます。「知りはらず」は、「ご存知ではない」ということですが、「母校」にまでこの敬語を使うのが、いかにもの川柳的おかしみです。よほどお世話になったか、迷惑をかけたのでしょうかね。

★もしわてが死んだらもらいはるやろな★(河村日満)
 「~(し)はる」の句をもうひとつ。「わて」は、主に年配の男性が使う自称です。自分の嫁さん(自分の妻のことも「嫁さん」と呼ぶのが大阪では普通)へ向けたメッセージなんですけど、自分の嫁さんに敬語を使っている気の遣いようがたまらなく笑えます。よっぽど尻に敷かれて、頭が上がらないんでしょうね。今度はええ旦那見つけや、ってそこまで余裕があるとも思えませんが。  

★母の会わいの女房が会長や★(西川晃)
 「わい」は男性専用の自称ですが、ただ威張ってるだけだと、いささか面白味に欠けます。「家では「母」らしいことやってんのか?」「しかも「会長」いうたら、うるさいお母さん方をまとめていかなアカン立場やで。大丈夫か?家のこともロクにできてへんのに」そんな心配半分のオヤジさんの声が聞こえてきそうです。
 家では、ダンナを立ててつつ、外では、ちゃんとやって「はる」と思いますよ。  

★助平な話せんよになってボケ★(市場没食子)
 どこでも通用する「助平な」というのを、川柳とはいえ、臆面もなく使うのが大阪流。それよりも、「せんように(しないように)」を大阪弁的に短縮化して「せんよに」としてるのが(文字数合わせということはあるとしても)ぐっと来ます。それ以上のコメントは・・・・特にありません。

★男皆阿呆(あほう)に見えて売れ残り★(山川阿茶)
 大阪弁独特の「阿呆」のニュアンスさえ取り違えなければ、野暮な説明は不要ですね。存分に笑ってください。

★おばはんを抱く豆腐屋の冷たい手★(谷垣史好)
 私がよく行く豆腐屋の製造責任者の方と親しくしていただいてます。手作りが売り物のお店ですから、朝早くから夜遅くまで働きながら、音楽活動にも打ち込むナイスガイです。
 「豆腐屋」の文字でそんなことを思い出しました。さて、大阪人も普通に「さん」を使いますが、気心の知れた間柄だと、「はん」の出番です。季節は冬、水仕事の冷たい手で、おばはんを抱く・・・いろいろ想像が広がります。

★なにか言うてないと淋しい生まれつき★(西尾栞(しおり))
 「言うて」とこちらも大阪的「う音便化」しています。男女を問わず、大阪人はよくしゃべる、
と関西人の私でも思います。おまけに声がでかい、笑いをとってなんぼがウザいとの声もよく耳にします。根は寂しがり屋だからとの好意的なご意見も。ハイ、気をつけます。

★名人をよめはんぼろんちょんにいう★(岩井三窓)
 何十年来使ってませんが、「ぼろんちょん」てのがありました。「ぼろくそ」の方が通りがいいようですが、これも大阪弁っぽいですね。濁音を適当に混ぜながら、インパクトのある言葉を作るーその造語能力に感心します。何の名人か分かりませんが、よめはんの前では、形なしです。

★子は育つ壁はぼろぼろ落ちよるが★(岩井三窓)
 「落ちよる」の「よる」が根っからの大阪弁です。いろんなニュアンスで使いますが、ここでは、いまいましさ、いらだちが見て取れます。「貧乏暮らしやからしゃあない(仕方ない)けど、壁まで落ちやがってからに・・・・まあ、それでも子供が育ってんのが救いかな」
 そんな心の内を読み取って、勝手にホッとしています。
 
 いかがでしたか?なお、過去2回分へのリンクは、<第404回><第454回>です。合わせて初笑いいただければ幸いです。それでは次回をお楽しみに。

新年のご挨拶<芦坊>

2023-01-01 | エッセイ
「芦坊の書きたい放題」ご愛読の皆様へ

 新年明けましておめでとうございます。
 うさぎ年にちなんで、こんなデジタル年賀状を作ってみました。



 うさぎ、といって私が思い浮かべるのはピーターラビットです。その作者ビアトリクス・ポターさんと並べてレイアウトしました。
 一番右は、彼女が39歳の時にロンドンから移り住んだヒルトップ・ハウスと呼ばれる自宅です。2013年の訪英で、北西部にある湖水地方を訪問した時に撮りました。
 それまで、ロンドンとその近郊は訪れていました。でも、スコットランドや湖水地方は機会がなく、退職を機にそれらの地域を組み込んだツアーに参加した時のものです。スコットランドもよかったですが、このような落ち着いた佇(たたず)まいの家々が、豊かな緑、自然に溶け込んでいる風景に圧倒されました。懐かしい思い出です。
 デジタル年賀状はいかがでしたか?今年も楽しくて、タメになるブログを目指して頑張ります。新年第1回は、1月6日(金)にアップの予定です。引き続きご愛読ください。
 皆様方のご健勝、ご多幸、ご活躍をお祈りいたしております。

2023年 元旦  芦坊拝