タイトル:國府理作品集 KOKUFUBOOK
著者:國府理
企画・編集:國府理作品集出版委員会
協力:國府克治
デザイン:豊永政史
発行:京都 : 青幻舎
発行日:2016.6
形態:166p(おもに図版) ; 27cm
内容:
初期作から集大成《相対温室》までの約100点、独自の設計思想で「未来」を切り開いた國府理の全軌跡。
外がうちに、内がそとに移るとき、自然と人工の境界が反転し、國府理の作品=機関がどこでもない場所へと走り出す。—椹木野衣
國府理(こくふ・おさむ 1970‐2014)は、乗り物の形態をモチーフに、実際に稼働させる動力と機能を備えた大型の立体作品を制作、発表。移動手段の実用枠を超えたユニークな乗り物を独自の設計思想と自らの手でつくり出し、機械・自然・人とが融合・対立・循環するメカニズムを考察し、それらを「もう一つの世界」として現実世界と相対させながら、人間と自然が共生していく「未来」を模索し続けた。本書は、代表作約100点に、彼自身による「言葉」を添え、國府理の世界を一望する決定版作品集である。
目次
エッセー|國府理
KOKUFUBOOK
循環する水、反転する世界—相対温室の一考察|近藤由紀
國府理の彫刻|金井直
《Typical Biosphere》への道—國府理の未完の物語|松下和美
作品リスト、ドローイングリスト
年譜
略歴・展覧会記録
主要文献目録
頂いた日:2016年7月6日
アートスペース虹にお伺いした際にご恵贈いただきました。どうもありがとうございます。
以前にも書いたことだが、東京・ギャラリーエークワッドで行われた國府理の展覧会は私にとって國府作品を再考する貴重な機会となった。今回の作品集を見ると、始発点こそ自動車・機械に重点、関心があることがわかるが、徐々に國府の作品に「植物」が占める率が増えていくのである。もし、國府が生き続けていたら、後には植物だけを素材とした作品を制作したかもしれない。メカニズムというのは機械だけでなく、自然や人間にもあるものだからだ。そもそも、機械のメカニズムは、人間や植物の機構を参照し生み出されたものではなかったのか。そして、機械も植物も人のメンテナンスがあってこそと考えると、國府の死は機械/植物への介護・介助だったのか、はたまた生と死という自然の一つのサイクルだったかと空恐ろしい考えが頭をもたげる。
だが、作家や作品を伝説・神話化することは気をつけたい。まして、生にならともかくも死に意味を与えるなど、無意味なことである。いま、AI(人工知能)やICT、IOTの普及によって、機械が人間や植物をメンテナンス、管理する時代が来るかもしれない。この先の未来、私たちが共生するのは、もはや人間ではなく、機械や人のかたちをした「何か」かもしれないのだ。國府の作品は、そんな共生の視覚化だとも言えるだろう。
著者:國府理
企画・編集:國府理作品集出版委員会
協力:國府克治
デザイン:豊永政史
発行:京都 : 青幻舎
発行日:2016.6
形態:166p(おもに図版) ; 27cm
内容:
初期作から集大成《相対温室》までの約100点、独自の設計思想で「未来」を切り開いた國府理の全軌跡。
外がうちに、内がそとに移るとき、自然と人工の境界が反転し、國府理の作品=機関がどこでもない場所へと走り出す。—椹木野衣
國府理(こくふ・おさむ 1970‐2014)は、乗り物の形態をモチーフに、実際に稼働させる動力と機能を備えた大型の立体作品を制作、発表。移動手段の実用枠を超えたユニークな乗り物を独自の設計思想と自らの手でつくり出し、機械・自然・人とが融合・対立・循環するメカニズムを考察し、それらを「もう一つの世界」として現実世界と相対させながら、人間と自然が共生していく「未来」を模索し続けた。本書は、代表作約100点に、彼自身による「言葉」を添え、國府理の世界を一望する決定版作品集である。
目次
エッセー|國府理
KOKUFUBOOK
循環する水、反転する世界—相対温室の一考察|近藤由紀
國府理の彫刻|金井直
《Typical Biosphere》への道—國府理の未完の物語|松下和美
作品リスト、ドローイングリスト
年譜
略歴・展覧会記録
主要文献目録
頂いた日:2016年7月6日
アートスペース虹にお伺いした際にご恵贈いただきました。どうもありがとうございます。
以前にも書いたことだが、東京・ギャラリーエークワッドで行われた國府理の展覧会は私にとって國府作品を再考する貴重な機会となった。今回の作品集を見ると、始発点こそ自動車・機械に重点、関心があることがわかるが、徐々に國府の作品に「植物」が占める率が増えていくのである。もし、國府が生き続けていたら、後には植物だけを素材とした作品を制作したかもしれない。メカニズムというのは機械だけでなく、自然や人間にもあるものだからだ。そもそも、機械のメカニズムは、人間や植物の機構を参照し生み出されたものではなかったのか。そして、機械も植物も人のメンテナンスがあってこそと考えると、國府の死は機械/植物への介護・介助だったのか、はたまた生と死という自然の一つのサイクルだったかと空恐ろしい考えが頭をもたげる。
だが、作家や作品を伝説・神話化することは気をつけたい。まして、生にならともかくも死に意味を与えるなど、無意味なことである。いま、AI(人工知能)やICT、IOTの普及によって、機械が人間や植物をメンテナンス、管理する時代が来るかもしれない。この先の未来、私たちが共生するのは、もはや人間ではなく、機械や人のかたちをした「何か」かもしれないのだ。國府の作品は、そんな共生の視覚化だとも言えるだろう。