先日、久々に友人と出会い、ザセンソウを見学し、北近江リゾートでランチバイキングと温泉を堪能し、黒壁まで足を伸ばした。
その時、友人に「私、もう少しかまったほうが(みづくろい)」いい?」と聞いたら
友人は私の顔をみつめ、静かにうなずいた。(^_^;)
友人曰く
「これからの人生の中で、今日が一番若い日なんだから。毎日今日が一番若い日なんだからね」 と。
そんな風に考えたことはなかったけれど、なるほどその通りだ。
人は生まれ落ちた日が、一番若く、その後は皆死へのゴール目指して、その日まで生き続けることだけは平等に決まっている。
現在56歳、多分人生半ばを過ぎているのだろうけど、かなりの貧乏状態も経験したため、化粧品代がもったいない、化粧をしたら、それを取るための化粧品代がいるから、なおさらもったいない。おまけに時間がもったいないと、この10年、ほとんどかまってこなかった。
衣服もほとんど購入せず、買う時は古着と決まっていた。そんな10年の中で、もともとたいして持ち合わせていなかった「おしゃれ」や「化粧」への興味も失せてしまっていた。
新しい服や、リッチな化粧品やTVや新聞がなくても貧乏ながら幸せな時間は過ごした。
しかし、ここにきてこの友人のヒトコトは心の中に深く沈んだ。
もっともその時は「誰に見せるでもなく、化粧したって落としたら、きちゃない顔があるだけやし、めんどうくさいやん」
「誰も人のことは見てへんって。見てる人は自分にコンプレックスがあったり、人のことが気になる人だけや」と、可愛げのない返事をしたのだった。
一応ファンデーションは乾燥と日焼け防止のために塗ってはいるが、 塗っているだけで自分を少しでもキレイに見せようという意識はない。
そして、いったい私の好きな着たい服ってなんだろう?という疑問にぶちあたった。
仕事をしている時はスーツが多かった。
いろんな初対面の人と出会う時、まずは服装で判断されるだろうという思い、その頃は女性が男性と肩を並べて仕事をするということが珍しく、名刺1枚で、いろんなところに出張するということはかなり珍しかったようだ。
「女の人やのにえらいな」というお褒め?の言葉を頂戴したり、
「男性の方はおられないのですか?」というようなあきらかに「差別的」な発言も頂戴した。
でも、ひとたび仕事を成功させたら、男性よりも高い評価を得られたようだ。
しかしながら、男性社会の職場では出る釘は打たれ、出すぎた釘は抜いてしまうまでというような扱いも受け、ココロはひどく傷ついた。
今から30年ほど前はそんなものだったから、身だしなみには一応気をつけてはいたが、それは「世間の常識」だからという理由で、自分が何を着たいという目標があってではなく。「並んでいるスーツの中から、比較的自分の好みのものを選ぶ」という選択の仕方だった。それも給料という後楯があってこそ出来るもので、収入がなければ、そんな選択はできない。
バリバリ働いていたころのスーツは5万円とか10万円近いものもあったので、値段が高かったという理由だけで、生地が日焼けしてもう着られないものまで捨てられないという私がいる。もったいないお化けに取り憑かれているだけだということがわかっていても捨てられない。
さて、話を戻して、友人の言葉から、はて、私は何を着たいのか?という
自分のことながら、わからない問題にぶちあたった。
服はその人の主張なのだろうか?
何を着るかで、人は変わるのだろうか?
昨今の風潮は、みなと同じ格好でないと不安 とか、
服は1年か2年着たら捨てる という話を聞く。
服って誰かに見せるために着るのだろうか?
自分が気持ちいいために着るのだろうか?
スーツを着ていたころの私は、「よく見られたい」という思いがあったと思う。
以前の私は、人と同じ格好はイヤという主張は間違いなくあったが、選ぶものは質がよく、流行り廃りに影響されないものを選ぶ傾向が強かった。でも、それは本当に私が着たいものだったかというと、そのころ生きていた背景で選んでいたように思う。
最近は冬は暖かかったらいい、夏冬通じて、Gパン1本やりで、Gパンで仕事ができるところがいい というところまで成り下がって?いる。
この衣服問題は、何が着たいか、何が好きなのかを探求するのにちょっと楽しそうなので、自分探しをしてみたいとは思うが、
なにはともあれ、「人生で一番若い今日」というコトを毎日自覚していればいいのだ というところで落ち着く私って
やはりすでにオンナを捨てている?
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本当、良い友達がいてくれてありがたいことです。