<この絵は「長巻」という南北朝時代に一番はやった武器を描きたくて書きました>
日本刀にしても薙刀にしても、南北朝は武器が一番巨大化した時代です。槍は戦国時代の方が長いし、甲冑は変わり兜とかはまだ現われてないんですけどね。…でも長巻、こんな構え方したら威力は半減だ。じっちゃんが悪いー。
う~~きょきょきょきゃきゃきゃきゃきゃっっっ
この一ヶ月で堀江城と舘山寺と浜名湖縁辺について言ったことは、全部一旦白紙とさせてください。なんだか間違いばかりと寸足らずのことばかり言ってしまっていたみたいです。自分では、本を何冊も読んで、想像力を存分に駆使して十分練って書いてるつもりだったんですけどねえ、昨日たまたま手に入れた本に書いてあった記述で、それが全部完全にくつがえってしまいましたとさ。とほほのほ。
その本とは、舘山寺の観光協会が編纂した、『古往今来--浜名湖かんざんじ温泉紀行』という本です。なんでこんな観光地ガイド本が、歴史の分野でこんな充実してるんだ? いや、これこそ地元本のあるべき姿ですけどね。ただ、この本は写真が主体なため、お値段も立派なものです(2500円)。その中に『庄内三城物語』『家康と大沢家』という章があって、これが極めて秀逸。観光協会で買えると思う。
主に訂正したいことは、「堀江の地の地名の由来について」、「対家康との堀江城攻防戦について」、「堀江城の縄張りについて」、「対信玄との堀江城攻防戦について」、「家康の対堀江感情について」、「高家について」、「浜名湖の湖運について」、「浜名湖の形成過程について」、「三ケ日人について」、「堀江藩の万石事件について」、「大沢基寿について」、「堀江県について」です。…いままで語ったこと、ほぼすべてですね。…さすがに、ここしばらく舘山寺ばかりで飽きてしまっているので、(何より早く変な名城・浜松城の解説に入りたいのに。研究しに行ったのは半月も前だから、忘れてしまう~~)、少しずつ小出しに説明し直したいと思います。
まず、「堀江」の地名についてです。
これは私は「内浦が自然の堀の役を果たしていたから堀の江」ではなく、この地の大昔の領主の名に由来するものだそうです。
遠州堀江氏の祖は、南北朝時代の新田義貞の嫡男・新田義顕です。義顕は金ヶ崎城で尊良親王と一緒に玉砕しましたが、越前国坂井郡堀江庄を領していた義顕の息子・新田(堀江)時国もまた、尊良親王の息子の守永親王の近くに侍り、守りました。
前の記事で、「尊良親王の息子のことは名前以外分からない」と書いてしまったのですが、ナゾの皇子どころか、この親王はわれらが遠州地方へ来て、ここで戦っていたんですね。当然この日記で大々的に稿を設けて取り上げねばならない人物だったのでした。…どこかにもっと詳しい本は無いでしょうか? それにしてもこの時代はなんでこんなに戦う皇族がいっぱいいたんでしょう。元凶たる後醍醐天皇ってヤツはつくづくとんでもないヤローだ。
守永親王と堀江時国が遠州地方へ来たのは、この本によると延元2年です。船に乗って奥州へ行く途中に遠州灘で難破して、浅羽町苫野(現在の富野)に上陸したんだそうです。…この事件って、延元3年の「四皇子の難破」と混同されてない? 後醍醐天皇は太古の「四道将軍」に憧れて、自分の皇子たちに命じて東国へ向かわせたのですが、伊豆崎で嵐に襲われて船団は散り散りになり、宗良親王は遠江に、義良親王は伊勢に、満良親王は土佐に漂着したのでした。この船団に守永親王も乗っていたのかな。そういえば、前の記事の追加文で、「この難破事件のとき尊良親王は宗良と一緒に井伊谷へ行った」と書いてしまったのですが、尊良はその前年に越前金ヶ崎で戦死してるんですよね。おかしいな、確かにそういう記述のある本を読んだんですけど、もしかしてこれは守永だったんでしょうか。しかしながら、宗良の上陸した場所は浜松の白羽だとされているので(※浅羽とは少し離れています)、別の船に乗っていたとも別の機会だったとも考えられます。
とにかく、延元2年に父の尊良が戦死したとき27歳だったとされているのですが(※森氏はこの説について「論拠が無い」と断じておられるのですが)、その翌年に子の守永が出陣しているとは、そこそこの年齢になっていたということでしょうか。しかし、後醍醐天皇は8歳の(※この年齢も俗説)懐良親王に「九州を平定してこい」と命じるとんでもねー父親なので、守永も10歳弱だったことは充分考えられます。
遠州に上陸した守永親王は、袋井市の高部に行宮を作り、そこで過ごしたのでした。それに堀江時国はつき従っていました。その後の守永親王の足取りは(現時点での私の情報網では)定かではないのですが、堀江氏は拠点をこの舘山寺に移しています。ここは井伊谷に拠点を置く宗良親王の勢力圏だったと考えられますから、守永親王も宗良の保護下に入り、一鋒としてこの村櫛を任され、時国と一緒に舘山寺に入った可能性も考えられます。堀江氏はここに佐田城という城を築き、最初の時点ではこの本丸は現在の舘山の山頂にありました。佐田城の初代城主は時国の息子の堀江光真だったと伝えられておりますが、堀江氏が館を作ったので、この山は「舘山」と呼ばれるようになったということです。しかしこの舘山は堅い岩盤で出来ていて水利が悪かったのでしばらく後に、本丸を南の丘陵(現在のパルパルのある位置)に移しました。…現在のパルパルは「堀江城址」だと前回の記事で説明しましたが、堀江城と佐田城は全然別の城だそうです。堀江城は大沢氏の建てた城で、本来は1kmほど離れた南の場所にあり、2回の引っ越し(…エッ?)を経て、佐田城が滅びた後にいまのパルパルの場所に移ったのだそうです。…城の移転はよくあることでしょうが、名前を持ったまま移転するってことはありえます? この本の説によると、舘山寺を擁する庄内地方には「堀江城跡」は三ヶ所あり、「佐田城跡」もふたつあって、最後の堀江城と佐田城は同じ場所になっていて、でも堀江城と佐田城は「別の城」だというのです。…わけわからん。
この堀江氏はたぶんずっと南朝方の与党だったのでしょう。南北朝期と室町初期にかけて栄え、諸流をいっぱい出したのだそうです。名をあげると、「中安氏」、「遠藤氏」、「野中氏」、「安間氏」、「間瀬氏」、「紅林氏」、「権太氏」等が堀江氏の分流だそうです。そんなに多くはないけどこの付近でたまーに見かける名字だな。それにしても藤原氏でもないのに「遠藤」ってなんなんでしょ。
で、室町時代の中頃にこの城は今川氏親に攻められて陥落します。城主の堀江為清は自刃しますが、城は今川に降伏して為清の息子の清泰が家督を継ぐことを了承されますが、清泰は幼少だったため、村櫛の南部の志津城にいた大沢氏が後見となることになったのだそうです。この堀江清泰は成人してすごく慈悲深い領主となったそうで、天文8年に彼が40歳で亡くなった時、佐田村の村人たちが陳情して(今川氏に?)村名を「堀江村」と改称したのだそうです。
その後、堀江氏は没落し、その末裔は大沢氏の家臣となります。
……ありゃ?
守永親王について語るつもりだったのに、彼はどっかいっちゃった。
彼はどこでどういう生涯をたどったんでしょうね。近くには宗良親王だけでなく、その息子の尹良親王もずーーーーっと戦っていましたから、その傍らで同じように転戦していたのかもしれませんね。
本田猪三郎氏の『掛川城物語』という御本に、北遠の「京丸山」に伝わる伝説として、「京丸の落ち武者伝説」を紹介されています。これは一般には「平家の隠れ里」として語られているのですが、こんなところに平家がいるのはおかしなことで、一方、村には「後醍醐天皇がこの山に落ちてきて没した」という言い伝えの一節があるそうです。本田氏は「後醍醐天皇の本物がいるわけがない」として、可能性として(1).宗良親王、(2).尹良親王 (3).守永親王 を挙げておられます。私は最初これをみたとき「守永って誰?」と思っていたのですが、今回の舘山寺のこの本でようやく謎が解けた。
「遠州の最後の秘境」と言われる京丸山にも、そのうち行ってこようっと。
中国人によれば、中国は朝鮮戦争でアメリカに勝利したそうですし、新幹線もほぼ独自の技術で開発に成功したそうです。
あの国はインターネットですら思想信条の自由は無いのです。
中国マンセー以外のサイトには検索かけられないですし。
(反体制サイトにはヒットしない仕様に設計した検索エンジンの提供をGoogleに要請。結構黒いんですよ、Google。エリア51も空白ですしね、GoogleEarth)
情報の海を泳ぐ現代で情報統制をするなんて、人民を過保護にするようなもんです。そういう意味でも危険ですね。
このままでは国際競争力もろくに身に付かないまま中国は自滅するかも知れませんね。
歴史を語るには、「たくさん知ってる」←→「知識量が少ない」を競うのではなくて、与えられている材料から、どうやって組み合わせて何を結論とするかが大事な能力となるのですから、それを発揮できる場がないとダメです。後出しで本で情報を小出しにされても困るだけなのよー。だからインターネットってとても素晴らしい発明で、ブログ文化が世界一発達しているという日本に生まれて良かったと思うんですけど、いまだマイナーな本でしか得られない知識が多すぎるんですよねぇ。
三方ヶ原の戦いも家康によると武田軍が敗走したことになっていますよ(笑)
j.kさんは中国がお嫌いなんですね。何を隠そう、私は最近中華思想が大好きになってきているので、、、 詳しく語るのはやめとこっと。もちろん住むのは厭な国ですが。情報を管理できると考えること自体が素晴らしすぎると思いますが、あの国は四千年間それを実現できてるんですもんねえ。
それ以上に私が「いま一番住みたくない国」は日本なんです。…と人に言うと、「だったら出てけばいい」と簡単に言うヴぁカが多いのが一番イヤ。
後醍醐天皇なんて迷惑きわまりない利己主義ヤローは、中国だったら一瞬で粛清されているのに。日本だけだと思います、こんな変な人が表舞台で活躍できるのは。
本棚には陳瞬臣の本が何冊もありますし、聊斎志異なんかは何度も読みました。
老荘思想の解説本などもあれば論語、白居易なども持ってますよ。
ただ、最近の中国には愛想が尽きました。色々と。
中華思想の発祥地、というと、文字通り中国であるわけですが、一見「汎中華的世界観」「中国以外は全てカス」「中華に非ざれば人に非ず」という傲慢な態度は、陳瞬臣によればその起源は19世紀の清朝末期、国力が衰える一方で西洋列強の魔手に脅かされ始めた時代にあるそうです。
それ以前の朝貢貿易なんて、外国から使節が来るたびに大量かつ高価な「中国土産」を与えなければならないから、むしろ中国皇帝から「もう来なくていいよ。君らがオレらを立ててくれてるのはいい加減わかってるからさぁ」と再三通告しているくらいです。
(国庫を圧迫するほど、大変な負担になったらしい)
追い詰められ見下された民族だけが持つ劣等感の補償行為、反動から来る民族の誇り、「一つにまとまらねば食い物にされるだけ」という一致団結への機運。
「本場」の中華思想の正体はこういうものだ、と中国文化研究の第一人者である陳さんは言うのです。
インフレを起こした国粋主義、態度のデカイ民族主義である、と。
(ナチズムや八紘一宇思想も似たようなもんですが)
他の中華思想大国というとフランス、アメリカが挙げられますが、フランスにしても事情は同様で、「フランス最高!」とうるさく言い始めたのはナポレオン戦争の敗戦後、ウィーン会議以降からナポレオン3世が台頭する時代ぐらいからです。
中国もフランスも、その中華っぷりは意外に歴史が浅いんですよ。いずれも弱者の劣等感の裏返しです。
アメリカについては言わずもがな。
どの国でも駐留米軍は嫌われ者ですが、ちょっとでも自分たちより歴史と伝統のある国の文化に触れるとコロッと参ってしまうヘタレっぷりから考えても、アメ公のデカイ態度は文化後進国の国民が持つ劣等感の裏返しですよ。カアイイもんですな。
また、無駄に国土が広いからすぐに端っこの地域はあわよくば分離独立を狙ってたりするんですよ。
南北戦争以前から「南部諸州」は北部が嫌いです。
(未だにテキサス州あたりは「ウチは違う国だ」くらい考えてるのでは?「グレート・テキサン」は?)
簡単に空中分解するモロさ・危険性を内包しているから、何かと「アメリカン・スピリッツ」とか「自由と平等の国」とか言ってまとめようとするんですよ。
21世紀の現在でも、ある意味、ビスマルク以前のドイツ、ガリヴァルディ以前のイタリアのような不安定さを抱えているのですよ、アメリカという超大国は。(その点は多かれ少なかれ大国と呼ばれる国なら共通する問題ですが)
情報、様々な価値というものを自分なりに選べる自由があるのはすばらしい事だと思います。
知りたい事が調べられない、思想や信条を選べないなんて、そんな不自由な国には一秒たりとも住みたくないですね。
あ、堀江というと、大阪では家具の町です。
ここ何年かはオサレな大人の町として売り出したいみたいです(笑
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E6%B1%9F_%28%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%B8%82%29
才色兼備な美人の国なんてどこにも絶対にありません。
実際のところ、外国人の知人なんてそんなにいないのですが(でも最近知り合った中国人の女性がすごく面白い人だったので、最近の私は中国贔屓です)、一方で、歴史の視点でいろいろ悪口を言うのはすごく楽しいですね。
>情報、様々な価値というものを自分なりに選べる自由があるのはすばらしい事だと思います。
知りたい事が調べられない、思想や信条を選べないなんて、そんな不自由な国には一秒たりとも住みたくないですね。
その通りっ!
日本のバカヤロー! 資本主義と多数決原理なんて消えて無くなってしまえ。
>ま、私が嫌いなのは中国人というよりは全体主義国家と日本人の悪口しか言わない外国人なんですけどね(笑
その通り! ま、我々日本人は紳士たるべきですので、にっこり微笑んで華麗に受け流すのが正しい姿だと思います。私たちには素晴らしい「金持ちケンカせず」という思想がありますし。
堀江の情報ありがとうございます。
私も最初、大阪の堀江のことが念頭にあったのですが、詳しく知らないので明晰に結びつけることができなかったのでした。オサレな町なんですね。…遠州には無縁だなあ。
◎後醍醐系の系図
http://nanteo.s14.xrea.com/keyz/gnan/gnan002.html
これはとても便利なサイトさんです。
守永親王は延元2年に元服していたんだな。
われらが尹良親王にはこんなに子孫が広がっていたのか(知らなかった)。
でも、その妹姫の「桜子女王」が載っていませんね。
世良親王(※次の次に取り上げる予定)には娘がいたのか。知らなかった。
◎遠江国袋井の慈眼寺
http://www.kannon.st/fudasho/fudasho14.html
遠州に漂着した親王はここに行宮をつくりここで没したことになっています。、、、って、こんなところで死んでちゃいかんじゃないか。この記事の薄さには思うところが生じてきます。
◎福島県の郡山の伝説
http://voice.lucky-bits.com/light/2001/01-2-1/2-1.html
ネットで一番たくさんひっかかるのが、この宇津峰の戦いと北畠顕信に関する記事です。
◎守永親王の戦い
http://ja.wikisource.org/wiki/%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E7%B7%A8%E3%80%80%E5%90%89%E9%87%8E%E6%9C%9D%E6%99%82%E4%BB%A3
これも同じ戦いについて述べたものですが、夢が広がりますね。
◎守永親王の墓所?(山形県)
http://www.genbu.net/data/dewa/rokusyo3_title.htm
なんと「一品」ですって。護良親王や尹良親王は「二品」だというのに。福島-山形の守永親王について詳しく知りたいー。私の山形県の知り合いと言えば、、、、 コウベちゃんーー、生きてるのか―――い????
◎守永親王を神として祀っている地方
http://tanuki-bayashi.com/tone-ponpokou/daiheijinjya/index.html
「お大平様」ですって。
茨城県の利根町だということで、とても親近感が湧きます。我らが遠州旧浜北市にも宗良親王の拠点だった「大平城」があります。なにか関係があるのかしら。こちらのは読みが「おいだいら」で利根のは「だいへい」だというんですけど。
「我死なば、我が身を立てたまま埋葬せよ。すればこの村に私のようなムキムキ男を3人ずつ絶えず出現させてやろう」→「でも村の人は迷惑に思って神を横向きにして葬った」 …泣けてきます。
◎三浦天皇
http://suzuqi.net/history/archives/000079.html
そういえばこんなのおったおった。「偽天皇」についてはだいぶ前に一度浚ったことがあったのですが、その頃は尊良親王に興味が無かったので、気にとめることもありませんでした。そう考えると、三浦天皇も変な事を云う面白い人物ですね。三浦天皇が言うには、守永親王も「真の天皇位」に付いていて、その名は「與国天皇」だそうです。
興味深いお話、ありがとうございます。
酒田市は鶴岡市と隣接していて、やはり守永親王についての伝承がいくつも存在しているのでしょうか。わたくしが南北朝時代について戦国時代より大きな関心を抱いている理由のひとつに、「登場人物ひとりひとりの移動距離が非常に長い」という事があります。1年前に関東にいたと思ったらこの年には出羽か越か長野にいて、ひょいと奈良にも現れる。有名人物でもそうですが無名人物でもしかりで、守永殿下は宗良親王以上に謎の人物であります。宗良親王が編集した新葉和歌集に出てくる守永親王の肩書きは「上野太守」(系図纂要でも一品上野太守)なんですよね。
北畠顕信卿も私はよく知りたい人物の一人です。山形県で何か詳細なことがよく分かる本など出ておりませんでしょうか。ご記述の新聞記事についてですけど、酒田市には守永親王について調べている研究家の方がおられますのですか?
あわてて「都興山帝立寺」について検索しました。
ネットで読める『空間の表象としての人形 : 山形県飽海郡遊佐町の場合』(鈴木正崇)という論文に、
「寺院としては都興山帝立寺(曹洞宗)が平津山麓にある。岩手県の黒石にある曹洞宗の名刹、正法寺の末寺とされ、開基は帝立太子という南朝の貴族で、嘉吉元年(1441)正月五日創建とされる。史実かどうかは確証はできないし、この年の干支は辛酉(かのととり)で、暦の上では大きな出来事が起こる年とされるので、後世の作為かもしれない。(中略)地元の伝説によれば、開基とされる帝立太子は南朝の貴族の落人で、大楯を根拠地に飽海郡一円を支配していた遊佐氏の招きで平津に来て仏教寺院を造営したと伝えられ、平津楯主であった殿塚弾正の庇護を得て隠れ住んだとされる。現在でも本寺の大檀那は弾正の子孫とされる今野家である。「帝立寺年代記」によれば大楯には帝立太子の殿舎の跡があったという(遊佐郷村落誌(上)、1979)。伝説によれば、中央で内乱が起こり中央から帝立太子に迎えが来た。その時、「年ふればここも雲井の遊佐の浦住めば平らの都なりけり」と和歌を詠んで、迎えの人を帰した。当時、太子が兜に入れて持って来た一寸七分の仏を守り本尊としていたが、現在も寺に安置され、「村仏」と呼ばれて拝まれている。本殿の向かって左側に厨子があり,右手に村仏,左手に観音、右手手前に「太子位牌」、左手手前に「弾正位牌」を祀る。寺号を「都興山」というのは、「都を興しミカドを立てる意味」が籠められているのだという。帝立太子という人物名もこの伝承に由来すると考えられ、史実ではない可能性が高い。但し、伝説には「貴種流離譚」の性格があり。民衆が伝承してきたことの意義は大きい。太子の墓とされる塚が大楯村の田圃にあって、五輪塚や太子塚と呼ばれ,昔は帝立寺から真直ぐの道が通じていたという。現在は小祠があり、石像三体を祀る」
……嘉吉元年(1441年)の創建?
系図纂要によれば守永親王は延元2年(1337年)に元服し、弘和3年(1383年)に出家したとある。彼の人生で最大のイベント“宇津峰城の戦い”は正平7~8年(1352~53年)の出来事ですから、もしこの方が嘉吉まで生きていたとしたら、宗良親王以上の長寿の嘉人と言うしかありませんね。(南北朝の合一は元中9年/明徳3年(1392年))。…ただし、お寺で言う創建の年代と開基の人の活躍年がかなり隔たっているのは、よくあることでもあります。
結局のところ、守永親王って何ものなんでしょう?
正式な記録に表れる最後の記録は正平11年(1356年)だそうですが、庄内の人がまとめたらしい
★出羽庄内歴史伝 wiki
(https://rekisiden.wiki.fc2.com/wiki/%E5%87%BA%E7%BE%BD%E5%BA%84%E5%86%85%20%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%99%82%E4%BB%A3)
には、山形で伝えられている守永親王の幸せな老後の伝説が記されているっぽくあります。
ただ、なぜかこんなに無名の歴史人物であるはずの親王の行跡は、調べてみるとさらにあって、
★常陸の国の「守永親王別宴の地」(筑西市)
(https://kojodan.jp/castle/1308/photo/92820.html)
三河の国では守永親王は「小鷹様」と称されているのだそうです。
★十輪寺
(https://blogs.yahoo.co.jp/kantaro_yamaguchi/folder/1593844.html?m=lc&p=1)
★東三河エネルギー研鑽会さん
(http://tousaneneken.blog58.fc2.com/blog-entry-227.html?sp&sp)
★山野内(やまのうち)城(宮城県仙台市)
(http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.yamanouchi.htm)
守永親王の息子とされる「山村宮(正平親王)」が活躍した城だという。…そりゃ息子もいるよね。“正平親王”って称号、なんか感慨深い。
Wikipediaによると、鎌倉大草子の記述に即して、守永親王が永徳年間(1382年頃)に信州浪合村で戦死したという説もあるそうですね。宗良親王か尹良親王のことと混同してるんじゃないかと思いましたけど、尹良親王の浪合村での戦死(?)は応永31年(1424年)のことですから違うらしい。浪合村に行きたいなあ~、と思いつつ、今の私は貧乏かつ連休が無いので泣けます。今日は休みなのですが、遠くへは行けないので、浜松祀りでも見に行くことにします。袋井市の慈眼寺へは、近いうちに行くことにします。