オセンタルカの太陽帝国

私的設定では遠州地方はだらハッパ文化圏
信州がドラゴンパスで
柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

巨大ローラー作戦。

2011年01月17日 17時19分16秒 | ラーメン


ガチ党の党首。
3年前から結末の気になっていた『00』のテレビ版のDVDの最終巻を、ようやく買えました(もちろん中古ですけど)。が… なんだこの結末。ウワサには聞いていましたが、ほんとワケのわからん結末。映画版を観なければなるまい。半年前にこのDVDが買えていれば、映画館に観に行けたのにー、DVDは高い、、、 ってかまだ出てないのかな?
とりあえず、映画版はしばらく保留し、Vと∀の手持ちで欠けている巻を探そうっと

 

 

 

1月15 ジパング(豊町)

冬季期間限定の胡麻味噌ラーメン(880円)を食べに。
意外と気に入っていた特製みそ野菜麺(880円)がメニューから消えておった。

1月14 蔵前家(細江町中川)

53回目。チャーシューメンに海苔とキャベチャー増量、味濃い目。
確かこの日も店主だったと思う。
キャベチャも日によって感覚が違う、この日のは(見た目が)最高だった。海苔とキャベツの相性も存外良いと思う。
細く切られて入れられているチャーシューと和えられているドレッシングの味が余分なんですけど。

1月12 貴布禰(旧浜北市貴布祢)

2回目。野菜みそら~めん、680円。
前回来た時は、チャーシューにしか目がいきませんでしたからね。再訪したら、2種類あったチャーシューはメニューから消えておりました。哀しい。
とにかく「貴布禰」の本領はミソ味らしい。
「ミソとスープを合わせたあと、もう一度火入れをします。深いコクになります」と書いてあります。
うーーむ、甘い! とにかくひたすら甘い! 野菜の味が出ているんだなと思いました。
隣りに製麺所があるんですが、老人たちが麺を丹誠込めて作っているんですって(と壁に貼ってあった)。
老人達が主人公のヴィクトリーガンダムに再びハマっている私には、涙なしには食べられません。

1月11 一刻(サンストリート浜北店)

サンストリート浜北の2階にあった「浜北食堂」が、別のお店に変わっておった。
浜北食堂、一回しか行った事なかったよー。
一刻 堂は愛知発祥のチェーン店だそうですけど、浜松では2店舗目。国一沿いにあった一店舗目は遠かったし、サンストリートは仕事からの帰り道にあるので、寄れられる候補が増えたのはありがたい。(サンストリート浜北にはスガキヤもリンガーハットもあるし、最近のお気に入りは「クマールさんのカレー」でもあるのだけれど)

このお店では、ランチメニューを17時までやってるんですって。ありがたい。
「一刻こってり」(通常750円)を「チャーハンセット」にして注文。セットで780円。安いな。

「チェーン店だからね」という気分で行ったんですが、凄くしょっぱい。
なのにとても好みの感じでした。背脂はあっても無くてもどうでもいい感じでした。
このお店ではメインメニューが醤油味らしいんですが、その醤油が「あっさり」と「ふつう」の二種類がある。それに対する「こってり」が豚骨醤油なんですって。
とにかくしょっぱかった。麺はオーソドックスですがわたくし好みではない。
店員さんが私ごのみの可愛らしい方だったので、また来よう。

1月9 蔵前家(細江町中川)

52回目(ということにしておきます)。
チャーシューメンにのりと白ネギ増量。味濃い目。
最近、味濃い目でしか食べていません。疲れているからかな。
確かこの日も店主が作った。

コメント (2)
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笑う魚。クラドセラケ。

2011年01月16日 03時23分40秒 | ラーメン


東海大学の水族館は、深海魚の展示がとても充実しています

2011年に初めて食べたラーメン

記憶では確か1月の3日か4日に蔵前家に行ったんですけど、なぜかデジカメの中にその時の写真が無い、、、 確かに行ったんだよ。その混み具合に「今日が再開日だったんだね、ラッキー」と思ったもん。その あと2日置きぐらいで行っていたと思うが、手元にある写真で2011年の物は1/9から。あれ?
年が明けてから、私の勤務は朝番が多くなり、大体16時~18時ぐらいにはあがれることとなったため、蔵前家には寄りやすくなった。(夜番だと23時~24時の帰宅が多いのです)
ただ、この新年最初の時はお客さんが豊富で、滅多にない事に座る席まで指定され、とてもいきりたった雰囲気で、でも店主は休憩中か店内にはおらず、ちっちゃいにーちゃんとひょろながいにーちゃんたちの雑談も見られた。

12月27 むつみ屋(浜北大橋店)

2010年に最後に食べたラーメンでした。
幻の醤油、こってり。
思えば3年前浜松に引っ越したての頃、イオンの志都呂店にあったむつみ屋で、この幻の醤油ラーメンを食べた時の感想は忘れられない。…忘れはせられられないんだけど、以後なぜか、幻の醤油を食べる度に最初の体験とは違う感想を持つようになってしまう。あの最初の思いでは何だったのだろう。
味は濃く、いささかしょっぱい。魚の粉がとても印象的である。
このお店では、今は「月形」の醤油ラーメンの方が好みかな。

12月10

深海魚;アカグツ

この日はラーメンを食べなかったです。ラーメン日記じゃなくてごめんなさい。でもこの場じゃないと旅行記は書けないから。
昨晩、伊豆高原でラーメンを食べたあと、近くのネカフェで睡眠を取ろうとしたんですが、この店が最悪。なんでも改装中で入店する時に「道具が散乱していますがごめんなさい」と言われたんですが、なんと、夜中に至るまで作業してやがる。こっちが寝てる隣のブースでガーガーとドリルを回すのはともかく、夜中の3時に寝てる客の横で店員が大声で談笑してるってのはどういうことだ。2回ほど文句を言ったんですけど作業はやめず、一睡もできず。もともと物に横着せぬ私はカラオケ併設店でも普段はなんでもないんですが(どうせネカフェだしね)、今回ばかりは真剣に腹が立った。店員死ね。金返せっ

で、暗いうちに出立して、夜明け頃に椎の木三本。そこから下田市のペリーのモワイ像、吉佐美の八幡神社の頼政公の碑の写真を撮り直してから南伊豆町に向かう。下賀茂の道の駅に南伊豆町の観光協会があったので、「南伊豆町の大蛇伝説を巡っているんですけど、甲人の塔ってどこにあるかご存じですか?」って聞いたら、「庚申塔のことかな?」と言われた。(そりゃそうだ)。南伊豆は庚申塔もかなりあるそうで、職員さんは丁寧にいろいろ調べてくれたすえ、ついでに図書館の場所を教えてくれた。(感謝してます)
で、図書館に行ってみると甲人の塔についての説話がたくさんあるじゃん。もーー、誰も知らない物を私は求めているのかと思っちゃったよ。(でもこの図書館での一番の収穫は、吉佐美の石碑で言及されていた『吉佐美古記録』のコピーがあったことでした。なんとここに、われらが浜松の英雄、猪の早太が登場するんですよ。、、、、丹念に読んだ結果、井の早太と伊の早太は別人だという結論に至りました。吉佐美古記録の叙述者は源頼政らしいんですけどね)
そこから蛇石峠に向かって石になった大蛇を見て、松崎町に出てから素晴らしい「室岩洞」と源頼朝と文覚上人が会談した文覚山円通寺を見学し、一転して婆娑羅峠の大蛇院に寄ってから、戸田の町を目指しました。

やっぱり、深海魚で始まった旅だから深海魚で締めくくらなきゃってね。
西伊豆海岸の戸田村は、日本で唯一深海魚のフルコースが楽しめる町です。
今回の旅も、非常にもりだくさんでした。ごちそうさま。

深海魚の天麩羅定食は1400円で、以前に食べた時は「意外とアッサリ、いくらでも食べられる」と思ったんですが、今回は味に強い癖を感じられた。もちろんいくらでもたべられますが。
メギスの丸干しは確か5匹で500円。これはいくらでもビールが進む小憎い味ッ …車で来たのでガマンガマンですが。
お土産に、戸田特産の金目鯛と栄螺の良く出来たストラップを買って新しいケータイにくくりつけてから、浜松に帰りました。

12月9 吉田家(伊東市吉田)

柿木魂神社から見る小白ヶ沢。狩野城からさらにさかのぼったここには、石橋山の戦い後に狩野氏をおそった悲しい落城伝説が残る。
だが、この付近は似たような景色ばかりなので、このコシラガサワの場所を特定してその場に立つまでに、3年ぐらいかかりました。

伊豆の国から天城を超えるとその先は河津の町です。下田市に5年、伊豆の国市には4年住んだ私ですが、「将来老後に伊豆で過ごす場所を決めるとしたら」、選ぶのはきっと河津町なんです。河津には仕事で2年ほど通いましたが、ありとあらゆる道を走り込んだゆえに河津の町には非常な愛着がある。こんなに、小路の奥ごとにバラエティに富んだ違った顔を持つ魅惑の町がほかにあろうか。メルヘンの町であります。なぜか私にとって、小野不由美の『屍鬼』のイメージもこの町です。ここを舞台にしたらどんな物語だって書けると思う。源義朝公13歳の時の首の埋まる小鍋神社や見高高原、縄地の秘境などを巡っていたら暗くなってしまったので、風呂に入る為に下田を目指し、金谷旅館の千人風呂に入りました。ここもかつてgardenflower嬢やAKINONA嬢と来た事があるね。懐かしい。

風呂に入ってさっぱりすると、やっぱり食べたくなるのはラーメン。
天城の坂を戻ってふたたび鯨さんに行く事も考えましたが、ここは意を決して吉田家に行ってみる事にしました。

昨日はからずも松福のラーメンに違和感を感じたわたくし。
おそるおそる吉田家のラーメンを口に運んで自分の記憶の中の傑作と見比べてみますと、あらまあ
うまーーーーい
そもそも吉田家のラーメンは「しょっぱい」というのが私の頭の中にある記憶ですが
すごいしょっぱいのを想定しちゃっているから、食べる度に初口の甘みと旨みに悶絶しそうになる
食べ進めていけば、ちゃんとショッパくなるんですけどね(笑)

とはいえ、吉田家は何度来てもウマイ。
私の根底が六角家基準の蔵前家となってしまった今でも、吉田家は別個の傑作。
これはすごいことだと思います。お店ではなく私自身が変わってしまっているわけですから

12月9 一匹の鯨(伊豆の国市南条)

旅行の2日目は、朝6時ぐらいに函南町のネットカフェで目覚め、一路北上。
ちょっと前に三島市の宝鏡院とゆかりの深いおいもさんに「ホウキョウインという名前のお寺が関東にあるかどうか、探してみる」とお約束したのですが、すごく近い小山町足柄の竹之下に、「大雄山宝鏡寺」というお寺さんのあった事を知って。
室町幕府の2代将軍である“寶篋院殿”足利義詮公の院殿号が、何に由来しているのかというのを追求するのが今の私の夏休みの宿題です。ウィキペディアには「愛する楠木正行の首の埋まった横に自分の宝筐印塔を建てたから」然のことが書かれていますが、そりゃねーだろー。「真の寶篋院」は関東地方のどこかにあるに決まってます。
…でも、結果から言うと、何も分からなかったです。
「どうしてこのお寺は宝鏡寺という名前なのか」という説明は現地には全く無かったし、朝早すぎてそれを訊ける人も近くにはいなかった。もともと善光寺といったこのお寺が宝鏡寺と改称したのは1344年だそうです。その頃、寶篋院殿(=義詮)は関東一円の支配者として鎌倉にいたのです。そもそもこのお寺のある一帯は箱根竹之下の古戦場でして、足利一門としてゆかりのないわけがないのですが、それらを結びつけるいわれは何もないらしい。なんだろうこのモヤモヤ。さらにして、三島の宝鏡院との結びつきも全くナゾでした。むー。
なお、関係ないんですが、このお寺は箱根山麓小田原側の天狗のお寺・大雄山最乗寺の末寺ですってよ。
小山町と御殿場市で、最乗寺の天狗信仰と関わりのあるらしいお寺をいくつか見ました。宝筐院という名前のお寺が他にも無いか引き続き探してみる予定ですが、そろそろ関東北部に遊びに行きたいから、埼玉県あたりにねーかなー。
で、その後は長泉町にある一柳の首塚と三島市にある宝鏡院に寄ってから、ふたたび伊豆長岡を目指しました。ちょうど昼時になる頃を見計らってなっ!

伊豆に来たのは昨日なのに、大好きな鯨さんへ昨日行かなかった理由。
それは「9のつく日は鯨の日」、そして水曜日は鯨屋さんの定休日だからです。(でもそういえばちょっと前の鯨屋さんのブログで、「定休日を無くした」という記述があった事を、行った後に気づきました)。
9の付く日は2つも限定メニューがある。
その一つ目は、“R30ラーメンの義理の妹”山葵香るR35らーめん(750円)です。
2年ぐらい前に、このラーメンの試作品を食べさせて貰った事があるんですよね。
ワサビ味のラーメン、おいしくないわけがなく、2年前、ツンとくる味わいとR30との相性のよさに本当にびっくりしたのですが、その時は「Rは32ぐらい」と紹介された。
それが年月を経て制式化されたこれは、Rは35でR30の義理の妹となっという。このお店では、R40が辛くてR50は酸っぱいので、そのどちらかと結婚しているってことですよね。

またウッカリ太麺に換えてもらうのを忘れていました。細麺で来ちゃった。
記憶にあるものよりツンとくる具合は控えめで、なのにワサビの風味がひどく心地よかったです。すっごーい進化していましたよ。素晴らしい完成度。これは毎日食べたい。バージョン違いもいろいろ味わえるようにして欲しい。山葵大好き、、、、あああ、伊豆に帰りたい。
細麺だったせいか、何の苦もなくツルリンと食べきってしまいました。太麺でわしわしと食べたいですなあ。

折角なので、もう一つの限定メニュー、「ヘルシー豚骨SOY豚」(800円)も注文してみました。豆乳が入ってて、健康にいいんですってよ。

またまたうっかりしちゃって太麺で頼む事を忘れてて、慌てて奥に走って「太麺に換えてください」って言いに行ったら、「SOY豚はもともと太麺ですよ」とのことでした。ホッ。
見た目は鯨やさんの塩味豚骨そのものですが、さすが豆乳、甘い。
が、私の知っている浜北の美濃口屋の豆乳ラーメンとはまたひとくち違った味わいで、これは面白い体験でした。濃くてさまざまな味わいが立ち替わりノックしてくるのが鯨やさんです。さわやかではない。

さらに、R30も一度だけ食べた味噌ラーメンまた食べ直してみたかったんですけど、、、、
さすがにお腹一杯、「ちょっと天城にでも行って温泉にでも入ってお腹減らしてまた来るかな」と思って、車に乗って… 狩野城に寄って買ったばかりのケータイを駆使しながら念願の“コシラガ沢”に到達できて、調子に乗って天城峠を越えてしまって、、、、 その後再び伊豆の国に戻る事は出来ませんでした(涙)。

12月8 松福(沼津港)

旅行の一日目。
旧清水市から富士市へ移動し、暗闇の中をウロウロしておりました。
山川出版社の『静岡県の歴史散歩』には、富士市の頼朝史蹟として「平家越えの碑」「源太坂」「鎧掛け公園」などが挙げられています。でも私が過去に1年ほど富士市に住んでいたとき、源頼朝に関心がほとんど無かった為、それらに訪れたことも無かったのです。その頃の私の関心は「北条早雲」と「富士山の洞窟探検とその伝説」だったのですが、今も変わらぬ出不精だった為、「善得寺城」とか「竹採り公園」とかも行ったことがなかった。
今年、満を持して富士市を探検! …と思ったんですけど、あまりにも暗くて今回も吉原にある「平家越え」だけで断念してしまいました。あはは。
だってこんな中で写真を撮ってたら、変な霊とか写りそうだもん。
富士川の戦いについてもちゃんと調べ直したいと思って、はや5年。がんばれ、俺。

さて、そこから伊豆長岡へ移動し、暗い中、懐かしくて心配している場所をぐるりとしたあと、沼津港に戻って、松福で「うまいラーメン」(700円)を注文しました。

私が伊豆から浜松に引っ越してきて、もう4年です。
伊豆に住んでいる頃は家から20分の位置にあるこの松福は、一、二を争うお気に入りで、それはそれは頻繁に食べに来たものでしたが、、、、、 久しぶりに食べに来て、あれまぁ、想像していた味と違う。
決してこのお店の味が変わったんではなく、私が変わってしまったんです。
今の私にはすっきり洗練されまくった「蔵前家」のラーメンが根底にあるから、それに較べると松福のラーメンは甘みのある泡が表面に立ち、一方でスープの中身は暑い頃の海の中のように凪いでいて、麺は黄色くて歯応えがあるのにぬるっとしている。これはこれでウマイんですが…
私の中の記憶のうまいラーメンってどんなのでしたっけ?

メニューの中に、「うまいラーメンⅡ」というのが新登場していました。ただ券売機にはどんなラーメンかという説明が無く、「どんなのだろう?」と興味を持ちつつ、この日はこれまで通りのうまいラーメンを注文してしまった。あとで家に帰って調べてみたら、これまでのラーメンに対してまー油を入れて魚介風味を増やしてあるらしい。まー油といえば、これまでの「黒うまいラーメン」とどういう差異があるんだろう?
食べ比べてみたいけど、この日は2杯目を食べる気力がもうありませんでした。

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戦争ソナタ。

2011年01月15日 00時11分36秒 | わたしの好きな曲

セルゲイ・セルゲイエヴィチ・プロコフィエフの数ある作品の中で、わたくしが大好きなのは「戦争ソナタ」と題された3曲の作品です。
9曲あるピアノソナタの中で、6~8番までが、「戦争ソナタ」と呼ばれています。
有名なのは第7番の戦争ソナタなのですが、わたくしは高校生の頃から第6番の方をすこぶる愛聴しておりました。どの作品も大好きになれるショスタコーヴィチとは違って、プロコフィエフは作品ごとの個性が著しく、中には到底好きになれない作品もあるのですが、一方でわたくし好みの素晴らしい作品が何曲かあって、総合的にプロコフィエフはショスタコーヴィチと等価です私にとっては。大好きな作品はイワン雷帝、ロミオとジュリエット、ヴァイオリンソナタ2曲、ヴァイオリン協奏曲2曲、戦争と平和、ピアノ協奏曲第3番。…交響曲群は比較的好きじゃない。
有名な第7番と較べて第6番が好きなのは、極してしまえば高校時代の私の耳がほとんど熟していなかったからだと思います。第7番は曲として体裁を為してないと思う。第6番の方が古典的な均衡を保った傑作だと思います。第6番は起承転結がしっかりしている。その認識のままわたしは20年経過してしまった。今でも第7番よりも第6番の方が好きです。なんせヘンデル的楽曲が今でも一番好きですからね。…そう思うのは、プロコフィエフは結局、わかりやすい単純な曲を書くのに20世紀で一番長けていた傑人からだと思うからで、、、、 スターリンの言う社会主義リアリズムをショスタコーヴィチの百倍もしっかり体現していた。…かといって7番の素晴らしさを否定するものでもございませんが、オレンジやロミオと第7番だったら、私はオレンジを取りますよ。いまでも。


<3つのオレンジを愛した王女 ~行進曲>


<キージェ中尉 ~トロイカ>


<戦争ソナタ第7番 ~フィナーレ>

こう並べてしまうと、第7番の単純明快さもなかなかのものでありますが、ここでふたたび冒頭の第6番のフィナーレを聞いてごらんなさい? この端正さの方に私は目を見開くのだ。プロコフィエフ、好き好きー。言うなれば第7番のフィナーレは、ショパンの第2番のフィナーレ(←大嫌い)に通ずるものがありますよね?

 

さて、冒頭の動画は、現在28歳重慶生まれのユンディ・リのものであります。
私が永年愛聴していますのはロシア産のイェフゲニ・キーシンのものでして、CDは2種類を保持し、これは「キーシン以外の物はプロコフィエフはいらない」と正直思うほど素晴らしいものですが、(2枚とも10年前に富士市の中古CD屋で求めた物)、ユーチューブで見てみるとなぜか、んー、キーシンにはいささか迫力が足らず、ユンディ・リの方がいささか(音質的に)私の心に適った。だから冒頭に掲げてみました。
でも、第6番の一番の最適手はキーシンだと思いますよ。
この人は機械の手に美麗彫刻的な心を込められる人です。タニス・リーの銀色の恋人のイメージな人。音はともかくこの映像には感激。


<キーシン>

しかし、私が高校生時代に聴いて親しんでいたのは、どうやらスヴャトスラフ・リヒテルのものだったみたいだ。いま20年ぶりにこのタッチを聴いて、戦慄を覚えています。(ネット検索もしてみるもんだ)


<スヴャトスラフ・リヒテル、1966年>

 

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大晦日の日に。

2011年01月09日 05時34分33秒 |   ヘンデル

おおみそかのひ、HMVからバンゾ指揮の『ゴールのアマディージ』のCDが届きました。
・・・何のお年玉のつもりだ。

私がこのCDをHMVに発注したのは、忘れもしない10/19。
確か「10日前後で入荷」ってなっていたと思うけど(違ったっけ?)、その期日の頃に「ヨーロッパの業者と連絡が取れない、ちょっと待って」ってメールが一通来て、その後は音沙汰無し。
私は正直、「ああ、このCDはもう手に入らないな」って思った。
なのにHMVさんは律儀に2ヶ月半もかけて私の手元にこれを届けてくれたよ。
こんなに待たせたのに、それについてのお詫びは一言も無しだ。(要らないけど)
むしろ、私は続けてヘンデル作品をたくさん買いまくる気だったのですが、その頃調子に乗って散財しまくってしまって、危なくなりかけていた時期だったから、助かった。

ところがワナがあった。
この時、これと同時注文していたのは、アラン・カーティス指揮の『トロメーオ』とアラン・カーティス指揮の『エツィオ』のCD、それからアラン・カーティス指揮の『アリオダンテ』のDVDだったんですけど、、、、
なぜか『アリオダンテ』のDVDが2枚も入っていた。
「なんの嫌がらせだ~、いや、むしろこれがお詫び?」と思いながら目をごしごしとやってHMVのサイトの履歴を眺めてみると、どうも私、間違えて2回ボタンを押してしまったみたい。何か「予想よりも高いな?」と思ったのだった。しかしあんなに首を長くして注文履歴を眺めていたのに、今日まで全く気づかなかった。アリオダンテは大好きな作品ですが、同じ物は2枚も要りませんよ。

たまたま弟が帰ってきていたので、彼にあげちゃいました。
彼は全然興味なさそうな顔をしていました。(そりゃそうだ)

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ルルィェ・アンティーク。

2011年01月06日 11時13分28秒 |   南北朝


どうしてこんな抜群の空模様の日に見に行ってしまったのか。(12/8)。近いうちにもう一度見に行こうそうしよう。

年末年始の超過酷労働期間がようやく終りに近づきました。ぐわは。
12/31はお泊まりのお仕事で、それはそれは大変だったんですけど、朝の9時に上がれたので初詣に行ってきました。舘山寺のフラワーパークの裏にある曾許乃御立神社(←この神社についてはいっぱい語りたい事があるので、またいづれ)と、井伊谷宮。

井伊谷宮を訪れるのも久しぶりですね。
浜松北部では、初詣の参拝先として井伊谷宮はもっとも著名なところのひとつでございまして、普段来てもほとんど無人状態なことの多いこのお宮が、この日ばかりは人でごった返している。出店もたくさん出てたりしていましてね。こんな光景、滅多に見られないや。

念のため、井伊谷宮について再び説明申し上げておきます。

井伊谷宮(いいのやぐう)(静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)
祭神は征夷将軍宮・宗良(むねよし/むねなが)親王。親王は後醍醐天皇の第7皇子(第2皇子・第4皇子とも)で、南北朝時代に遠江、信濃、越中、越後などを転戦しながら北朝軍と苛烈に戦い、また二条派の歌人としても知られていた人。
明治元年に天皇が江戸城に移った際、宗良親王や護良親王・懐良親王らの霊を宮中に祀った物を、明治5年2月に各地に移した。宗良親王については各地に没承地のある中から井伊谷が選ばれ、社殿の造立には井伊家当主・井伊直憲(井伊直弼の子)が当たった。
歴史上の宗良親王は苦難の生涯を歩んだ御人ですが、祭神としての御神徳は、当の神社のサイトによると、「学徳成就・合格」「長寿・除災開運」だそうなのですが、個人的にはこれらに加えて、「旅行の安全」(=あの危険な時代にこのお方は結構安全にいろんなところを訪れている)、「恋愛旺盛」(=絶対そんなヒマは無かっただろうに、この人の歌集の中のロマンスの歌の比重の大きさはどうだ)、「家庭内円満」 (=この人の親類縁者への気のかけようは涙を誘う)、「人徳抜群」(=劣勢の南朝軍は、戦いに負けるたびに宗良親王のもとに集った)、「武威発揚」「感受性守護」「仏法修法」「苦難耐侭」「速攻回復」「地方隆盛」などなども加えても良いと思います。

宗良親王の廟所は、井伊谷宮の社殿の裏手にあります。
宗良親王の墓所の伝承地は、実は各地にあります。森茂暁氏のご本では「信濃の国大河原が有力」と書いてありますが、その他にも親王が死んだ場所の候補地として、浪合村、河内国山田、信濃国入野谷長谷などの説があるそうです。遠江国井伊谷の説は、それらを聞いてしまうとどうも分が悪い気がするのですが、しかし、江戸時代中期の幕府役人である大草公弼の書いた『南山巡狩録』にある記述が、その根拠になっているそうで、ま、ちょっとだけ胸を張ってみる。これを書いた大草という人… 大河原の香坂氏に関係のある人でしょうか?(よく分からんのですが、宗良親王は大河原近くの大草郷にちなんで“大草宮”とも呼ばれていた。“信濃宮”や“妙法院宮”とは全く違う“大草宮”という響きから、宗良親王は大草で崩御したという説は有力。浜名湖畔にも「大草山」はあるんですけど、これは全然関係ないらしい)。一方で、こんな本が書かれる以前に当の引佐にいくたりかのそういう伝承のあったことも、確かに間違いのないことなんですよ。
だがしかし、明治5年に江戸城内から井伊谷宮がここに移された事によって、事情が変わります。「宮内庁お墨付き」で「浜名湖畔が親王の終焉地」と認定されたことになったのです。井伊家の菩提寺であった龍譚寺の裏手に、おそらく何らかの石碑があったみたいなのですが、もともとは今の井伊谷宮のある場所は龍譚寺の敷地内だったのでした。
龍譚寺ってのは一体いつぐらいからあったんでしょうね。

さてさて、
神社の方では破魔弓を買う人たちやおみくじを引く人たちでごったがえしていました。しかし、この期に及んで私がおみくじなんて見ても仕方が無いからな。どうせ今年も凶だろうから。「神社の裏に回って親王の墓の前を拝んでから帰ろう」と思って、喧噪を離れてテクテク歩いていきますと、あら、まぁ、なんてことでしょう!

そもそも、井伊谷宮の裏には宗良親王の宝篋印塔があるのですが、その周りには土塁が設けられ、ふだんは入口ががっちりと閉められ、わたしたちは遙か遠くから小さな石塔の尊影を仰ぎ見るしか無いのです。
その入口には黒い鉄柵があって「みだりに域内に立ち入らぬこと 魚鳥等を捕らぬこと 竹木などを切らぬこと 宮内庁」の看板が庶民を見下しているのですが、今日ばかりはその鉄柵が開け放たれているではありませんか。
入れる、入れるぞっ。
このように開け放ってあるってことは、「正月だけは我が輩の前に罷り越しても良いよ」という神様の粋なお年玉なのでしょう。
何かの本で「昔は宗良親王の周りの土塁はなかった」「いくらでも墓石の前に詣でる事が出来た」という記事を読んで、(わたしも宗良様の眼前に立ちたい~、と)とても悔しく思っていたので、今日はまさに小躍りしました。

神の御墓の前には供壇が設けられ、なぜだかそこだけ照らすように白く陽の光が差し込んでいて、神々しくもまぶしい。
このお墓のうしろに聳えているのが井伊谷宮の社殿(の後ろ姿)なのですが、ということは神社は墓石の前に立てられているのですが、この墓石へはぐるりと回り込むようにして辿り着くのだから、つまり墓石は神社に背を向けて立っている形となる。(宝篋塔に前と後ろがあるのか知りませんが)。で、当然あの社殿の中には墓石とは別の神様の本体が入っているのでしょうが。

というわけで皆さん、井伊谷宮に来るのは正月に限りますよ!
お墓に参拝できますから!!
(※ただし関連グッズ売り場がお守りやおみくじばかりになってしまって、幾多の宗良親王グッズは手に入れられなくなります。宗良親王の私家集である『李花集』が手に入れられるのは、日本でもここだけ!)

ちなみに墓石には「冷湛寺殿」という字が彫ってありますよ。
もちろん「冷湛寺」は「龍譚寺」のことでしょうが、親王が冷淡な人だったみたいでオカシイ。この親王ほど熱い心のお人はおられなかったのに。

はっ、でも龍譚寺のサイトに、龍譚寺がそれまでの自浄寺という名前から龍譚寺って名前に改められたのは、戦国時代に井伊直盛(直政の2代前)が死んでからって書いてあったような気が。

まぁいいや、
宗良親王が神様を歌った歌。
・すはの海や氷をふみて渡る世も神しまもらはあやうからめや
    (「すわ!」という状況の連続を、薄氷を踏むような心境でここまで来たが、神様
     を信じる心さえ護っていれば、まあ、なんとかなったものだ)
・すはのうみやみきわの氷ふみわけて神も道ある世には迷はす
    (厳しい世でも、身を切る覚悟で進め。道さえあれば神様も迷わない)
・そのかみに祈りし末のいかなればかけはなるらむかもの河浪
    (大昔に想像した未来が、なんでこんなかけ離れたものになってしまったのだ。
     鴨川のほとりの宮殿はどこに流されてしまったの?賭けは負けなの? 神様のバカ!)

これを見ると、宗良親王には古来の神々に対する思いはなんとなく希薄なものだったみたい。
(だって天台座主だった人ですもん。仏法に対する思いは人一倍だったのですが)
まさか自分が神様となって祀られようとは、思ってもなかったに違いない。

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