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オセンタルカの太陽帝国

私的設定では遠州地方はだらハッパ文化圏
信州がドラゴンパスで
柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

どーしよー。

2008年03月29日 23時32分28秒 | 自分について言う

長らく、妹からデジカメを借りておったのですが、それをどこかに落としてきてしまったらしいです。
どーーーしよーーー。

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宗良親王の兄弟たち(その2)…尊珍。

2008年03月25日 11時20分47秒 |   南北朝


うわーーーい、久し振りのオエビだあー。グリグリ色を置いていけるのが気持ちいいね!
(※まだ描き途中です。…このまま放置してしまう公算の方が高いけど)
尊珍については、顔のイメージがさっぱり分かんないので、平安前期の名僧・円珍(=三井寺と聖護院を興した)の顔に似せてみました。“智証大師”円珍は「京銘菓・八つ橋の形のモデルとなった顔の持ち主」とされているんですよ。

宗良親王の「兄」とされている亀山院宮尊珍。
この人もナゾの人です。でも遠州にもなんにも関係ない人なので、簡潔な紹介に。
後醍醐天皇は1333年の鎌倉打倒に先立って、2度の討幕運動を起こしているのですが、これも高校日本史で必ず暗記させられる事項だったかと思います。一度目の「正中の変」(1324年)では天皇はすっとぼけた顔をしてすべての罪を忠臣の日野資朝になすりつけ、幕府も笑って見逃してあげたのですが、2度目の「元弘の変」(1331年)では幕府も我慢をしてあげず、後醍醐天皇と尊良親王と宗良親王が逮捕され、それぞれ隠岐・土佐・讃岐に流されました。
一度目の正中の変以降、鎌倉幕府は常に後醍醐天皇とその側近たちの動向を注視しておりましたので、「何か怪しいぞ?」と思った元弘元年(1330年)5月に後醍醐天皇の側近だった二条中納言為明(=尊良と宗良の甥、尊良に顧従す)並びに三人の僧を捕らえ、拷問にかけてみました。太平記には、「文観僧正は最初は厳しい拷問に必死に堪えていたが、やがてこらえきれなくなり全部白状した。忠円僧正は臆病な性格であったため、拷問に掛けられると聞いて、何もしないうちにあることないことベラベラ喋った。円観僧正は先の二人が全部白状したから必要なかったが「せっかく捕まえたのだから」と拷問を始めようとすると、北条高時が3000匹の猿が出てきて僧正を守護する夢を見たので、幕府は拷問を取りやめた」という話が載っております。なんだそりゃ。
ともかく、2人の僧の供述に従って元弘2年の6月に日野資朝と日野資基の二人が首謀者として相次いで斬罪になりました。元弘2年の8月には護良親王が後醍醐天皇に向かって「このままだと天皇も捕まります」とけしかけて笠置山へ向かわせ、自分は宗良親王と共に比叡山で僧兵たちをまとめて挙兵させます。この反乱はつまらないことが原因で霧散してしまうのですが(その顛末には宗良親王が深く関わっているので、いずれ詳しく紹介することがあるでしょう)、護良親王は山の中に潜伏し、後醍醐・尊良・宗良は捕縛されて配流されることとなるのです。

太平記には大体上のような流れで語られているのですが、一つ「皇子史」に関連して太平記では全く語られていない大事なことがあります。乱の計画が発覚したあと、幕府が日野家のふたりに厳しい処断をくだす前に(元弘元年12月)、突如、後醍醐の皇子の園城寺長吏=准三宮尊珍越前に流しているのです。その配流の原因については、何の資料にもどの本にも記されていません。仮にも皇族が罪をしたのなら、何か記録がないとおかしいのですけれど。

森茂暁著『皇子たちの南北朝』(中公文庫)では、数少ない資料をもとに尊珍という人物像について、さまざまな推理を行っています。ほとんど語られていない人であるが故に、ほとんど知られぬこの人が実は初期の後醍醐天皇の倒幕計画において中心人物ではなかったか?として。読んでいてイメージをいろいろ掻き立てられて面白い。「知られざる中心人物」ってところがいいね。

まず、尊珍の生年を推測できる資料が二つあるのですが、内容が食い違っています。森氏は「1306年の生まれ」という説を採るのですが、だとすると宗良親王とは5歳違いの年上となりますね。宗良の兄どころか“一の宮”の尊良(推定1306年生誕、諸説あり)よりも年長かもしれない。さらに、「群書類従」の中に、この尊珍のことを「亀山天皇の子」としてある箇所と「後醍醐天皇の子」としている記述があることから、「亀山院宮と呼ばれているくらいだからおそらく後醍醐天皇の祖父の亀山院の子であり、生まれる前(1305年10月)に亀山院が死去したので後醍醐の猶子となったのだろう」と推測しています。亀山の子である尊珍を優秀に育て上げ、手足として使えば後醍醐の兄・後二条天皇の遺児・皇太子邦良親王に対抗させられますからね。…しかし、「できすぎな説だ」という気もしなくはないです。だって後醍醐天皇も亀山院(※この場合は建物名)の中で成長したから彼も「亀山院宮」と呼ばれていたと思うし。(※しかし金沢文庫にある金沢貞顕の書状の中にも「尊珍は亀山院の御子」という記述があるそうです)。亀山院にも計20人の息子(爆)がいたのですが、他の子らがどうなったのか気になる。

尊珍の養君は北畠親房だったといいますので、世良親王と同じに育てられたのでしょう。18歳の時、尊珍は聖護院二品覚助法親王(=亀山院の弟)の弟子とさせられます。聖護院は山伏修験道に強い天台系の名跡で、後醍醐が「宗教勢力を味方に付ける為に息子を入れた」と語られています。尊珍という名は、当然「尊」の字が父・後醍醐尊治から、「珍」の字は聖護院を建てた円珍から採って、このとき名付けられたのでしょう。当然円珍と関わりの深い「園城寺派(=三井寺)を完全に取り込むことも後醍醐の念頭にあったのだと思います。源平の時代から比叡山と三井寺は激しく対立していて、比叡山は平家に、三井寺は源頼政に付いて戦ったのですが、この両方を仲良くさせてしまったらどれほど強い勢力となることか。宗良と護良が比叡山系妙法院・梶井門院に入れられるのはその翌年のことです。
(尊珍が聖護院に入った年、正中の変勃発)。正中の変と尊珍の関わりは明らかではありませんが、何も関係が無いわけがありません。

尊珍が親王宣下された形跡はありませんが(僧籍にある皇族が親王となった場合は法親王と呼ばれる)、僧となった2年後に「一身阿闍梨」の宣を受け(=高い身分の人が若いうちに阿闍梨になったときに名乗れる称号)、同時に「園城寺長吏」に任じられています。「」って何か小役人ぽい名称ですが、格式高い園城寺においての「長」のことで、他寺院の「別当」よりも格が高い(ってウィキペディアに書いてあった)。比叡山延暦寺の「天台座主」と同等ですかね。護良親王(尊雲)が天台座主となるのはその翌年のことです。延暦寺と園城寺の仲の悪さは有名ですが、尊珍と宗良・護良らの兄弟仲はどうだったのでしょうか?
後醍醐天皇自身は真言宗(の一派のエロエロ真言立川流)の人だったのに(だからこそ?)、息子たちを皆天台宗の掌握に走らせていて、(息子たちにとっては)迷惑な父ですわー。
そして2年後(嘉暦3、1328年)には尊珍は父によって准三宮の地位まで与えられ意味の良く分からない役ですが、これを得ると政府からかなり経済的に優遇される。要は、皇族っていっても「親王であるかないかで待遇は天と地」だそうですが、尊珍は同等扱いってことですよね)、でも元徳2年(1330年)に捕まって越前に配流され、その直後に死ぬのです。名前は全然知られていませんが、彼がかなり高い地位にいたのは確かなことであり、しかしその事実が抹消されていることからみて、森氏が語ることから私が勝手に推測することは、「尊珍が討幕運動の企画立案者の重要なひとりだったのであろう」ということです。
配所は越前のどこだったんでしょうね。(全然分かりません)
森氏によれば、「後醍醐天皇の迷惑のおかげで一番最初に死んだ皇族」ということになるそうです。

さてさて、一番の問題点は『太平記』です。
太平記では「尊珍」の名は出てきませんが、彼のことを「四の宮」の名で呼んでおります。その登場箇所は2箇所。しかし、森氏も述べておることですが、太平記の作者は「尊珍」と別の後醍醐の皇子である「静尊法親王」を同一人物だと見なしてしまっておるのです。静尊は尊珍の死後に聖護院に入室した人です。この人も出家してるけど一応戦う親王。元弘の変(つまり尊珍が死んだ翌年)に但馬国に流されました。…や、ややこしいわー。…要は、太平記の作者は尊珍と静尊の見分けが付かない立場にいた人で、聖護院というキーワードから「同一人物だ」と判断するしかなかった人なのでしょう。多分正中・元弘の変を同時代的には体験できなかった人なのだ。(あんな複雑な時代を全部見聞きしようとするなんて不可能なことですが)

念のために、その2箇所を抜き出しておきます。

太平記巻一の4 「儲王の御事」
「…第四の宮も同き御腹にてぞをはしける。是は聖護院二品親王の御附弟にてをはせしかば、法水を三井の流れに汲み、記ベツを慈尊の暁に期し給ふ。(※他の皇子たちについて) 此のほか、儲君儲王の選び、竹苑椒庭の備へ、誠に王業再興の運、福祚長久の基ゐ、時を得たりとぞ見へたりける。」

なんと、ここで「第四の宮は護良親王と同腹」って言ってるぞ!
(※森氏の本には護良親王の母(=通称・民部卿三位)が亀山院と通じて尊珍を生んだ事情、及びその女性の正体について、『増鏡』並びに「金沢貞顕の書状」に基づいて詳しく解説してあります)
上の文章が既に尊珍のことでなく静尊法親王のことを語っている可能性も考えられはしますが、太平記では巻一のこの部分はまだ正中の変のあたりで、つまり静尊はまだ聖護院に入っていないのです。
静尊の母は参議正三位藤原実俊の娘の遊義門院一条局で、世良親王と同腹の兄弟なんですって。

太平記巻四の1 「笠置の囚人、死罪流刑の事 付藤房卿の事」
「…按察大納言公敏卿は上総の国、東南院の僧正聖尋は下総の国、峯僧正俊雅は対馬の国と聞へしが、俄に其の議を改めて、長門の国へ流され給ふ。第四の宮は但馬の国へ流し奉りて、其の国の守護大田判官に預けらる。」

こっちは明らかに静尊法親王のことだそうだ。

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儀一さん、ありがとうです!!!!!!

2008年03月23日 22時49分50秒 | 自分について言う

なんて嬉しいことか。
一時期は「こんなに遅いなら私はコミュファを呪って亡霊になる!」と(家族に)吠えていましたが、思い留まって良かった。

なんと!なんと! 私の描きたかった当館のイメージキャラクター源よりトモ子さん(=みなもと静香さんの姉という設定)のおもむきそのものだ。よりトモ子さんの造形には思い悩んでいたところだったのですが、儀一さんのこの絵を私のアイデア源とさせていただいてもよろしいですか? 
この絵の全身身像が描かれていてポーズが自然でほのかに色っぽいところが、アップ像しか描けぬ私の羨望するところです。うっうっ、精進しよっと。

お返しと言っては何ですが、
当館のもうひとりのマスコットキャラクター、新田ヨシ子さんを描いてみました。

まだラフ状態ですけど、今日は酒をしこたま飲んでしまった為、多分もう寝てしまうとおもわれます。でも左上のカレンダーを眺めたら今日中に投稿するのが正しいように思われてきましたので、このまま投稿してしまいますねえ。2,3日中に完成させて、差し替えてしまいます。

 

ところで、儀一さんが最も敬愛する武将を私は思いつけなく、北関東についてもイメージばかりであまり詳しくないので、当館で一番北関東に関わりの深い新田ヨシ子さん(=新田義貞、新田義顕、新田義興の誰の女性化なのかは私にも分からないです。頭にアホ毛の生えていることから見て仁田“善男”忠常かも知れない)で描き始めてしまいましたが、北条早ウン子さんか北条うじテル子さんの方が良かったかしら。儀一さんにお気にの武将さんがいたらよかったら教えてくださいませ。早急に描き変えたいと思います。斎藤別当実盛は「儀一さんの絵をまず観たい~」と思って控えてしまいました。

ところで、案の定有り余る時間をニコニコ動画に時間を取られてブログを描く間もオエビを描く間も取れないでいます(笑)。バカかオレ。

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古の天子の辞するを軽んじ、今の県令を去るを難しとする。

2008年03月20日 08時26分25秒 | 自分について言う

ばんじゃーーーーい!

ようやく、2階の我が部屋のパソコンでもインタネッツが見えるようになりました。
長かった。覚悟していたより長かった。
とはいっても、これまでの間も階下に設置してあるパソコンでいろいろと遊んではいたのですが、自分の愛用の物でないと本格的にいろいろなことをやろうと思わないものでございます。、「なんとも贅沢なことを言う」と自分でも呆れてしまいますが。まず第一に、パソコンをいろいろカスタマイズする気にならない。「後醍醐天皇」ですら何回か使用していると「五代後天皇」になって、その後まともに変換しなくなる、変な日本語変換機能のパソコンだったのですが、辞書登録する気にもならなかったですもんね。本を読む時はいろいろと調べたくなる為、傍らにパソコンは欠かせないし、パソコンを見ている時にやっぱり本を何冊も隣りに積み上げてからじゃないと、真の文化的で創造的な精神活動など望めない。全くもって言葉を重ねる気にもならなくなるのです。絵を描くときなんか何をいはんや、です。

ようやくネット生活が再開です。嬉しい。嬉しい。嬉しい。
これでいろいろ遊べるぞー
これまで自分の部屋は「ただの倉庫」だったのですが、ようやく「生活出来る場所」になります。掃除もできるぞー。本も捜すぞー。

今日思いついた目標
(1).文章を推敲する
これは年末にも言っていた気がしますが、やっぱり文章は人を感心させるような物よりも、「何言ってやがんだコイツ」というものを読みたいですね。プロの文を読んでるんじゃないんだから。私がこの1ヶ月半の間に書き散らかした文章は、密度の点でかなり質が低下してしまっているように感じました。
何故ならば、2階で本を沢山読みながら「よしコレとコレとコレを述べよう」と思ってから一階に下り、一気に或る程度の文章を書き上げる。その「一気作業」が文章作成の基幹になってしまっていたからです。
そうじゃなくて、これからの私がやりたいと言いたいのは、これまでどおり「ちまちま更新」に戻そうと言うことです。文章は少しずつ少しずつ積み上げていくのが良いですわ。私の文章は常から穴がたくさんありすぎるので、書くと同時に自分の文書の厳しい批判者となっておきたい。変な文章を放置したままになどしておきたくない(だってパソコンの前に座れる時間が限られて居るんだもの)。チマチマ、チマチマ。それを私の目標とします。
すると、今まで通り未完結記事もまた増えると思いますがね。ま、そんなの些細なことだ。

(2).交流の機会を増やそう
上の文章とは相反してしまうかも知れませんが、考えてみれば自分のブログなんてどうでもいいんだ。折角パソコンに触れる時間が増えそうなんだから、これまでおろそかにしていた、よそさまのサイトに訪れる機会を増やそう。いろいろ義理を欠いている部分も大きいし、色んな人に色んなことを教えて貰いたいことも増えたし。
とりわけj.kさん。j.kさんとお話しするには膨大な知識と分析力が必要になるのですが、私にはそのすべが無かったのです。だってテレビも壊れちゃったのだもの。これまで録り溜めた数百本のビデオテープもすべてパーになっちゃった。今の私は時事にとてもうといです。そう言えば、中国餃子事件ってどうなっちゃったの? …とりあえず、ニコニコを見まくるところから始めます。
おっとその前に栞と紙魚子とのらみみくんを見ないとな。ガンダムも数ヶ月分見そびれてるよー。今から見ても話が分かるかしら。

(3).絵
「とうやら私は女の子を描くのが苦手になったらしい」
これが最近分かったことです。うううり? 以前はそんなこと思ったこともなかったのになー。
精進します。女の子を描きまくります。
でも「今までとは違う絵ばかり描いている」からって、「麁鹿火は人間が変わってしまった」だなんて思わないでくださいね。女の子が好きなんかじゃ一切無くて、ただ女体の構造を研究したいだけです(ォィォィ)。女体の構造、、、、 いや男体の構造の探求の必要の方がもっと切実だけれど。j.kさんに教えを請います。

(4).伊豆
伊豆ブログの肩書きも捨てたわけでは無いので、数回に一回は伊豆に対する憧れも書くぞ!

 

こんな感じ。
それにしても、今までずっとそうだったクセに、「自分のブログの文字が明朝体」ということに激しい違和感が。キーーーッ、ゴシック体だなんて大嫌いだったのに。慣れってイヤねーーー。

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宗良親王の親縁たち(番外編その2)…康仁親王。

2008年03月17日 21時12分08秒 |   南北朝

高校日本史の授業で必ず習う「両統迭立」。鎌倉時代の中頃に天皇家が持明院統と大覚寺統のふたつの系統にわかれ、皇位争いを鎮めるために幕府が仲裁して「天皇はそれぞれの系統が交互につくことにする」と決めたという、民主的で極めて簡単な話であるのに。
約束通り約30年間のあいだは、それぞれが順番に天皇位について表面上はメデタシメデタシだったのですが(※全然そうではない)、ついに後醍醐天皇というとんでもねーヤローが、「俺は自分の息子に位を譲る」と言い張って、それが元凶で未曽有の大混乱の時代=南北朝時代が始まったのでした。私はこの「みんなで決めたことを守らない」自己中人間であるがゆえに後醍醐天皇が大っ嫌いだったのですが、まー、それがそれが、本を読めば読むほど、事は簡単ではありませんね。
むしろ元凶は後醍醐よりも、その父・後宇多法皇のように思えてきました。そもそもこの頃の天皇は多く子を産み分流しすぎです。現代の「子が生まれない」(そーでもないか。愛子天皇万歳!)天皇家に分けてあげて欲しい。また、「交互に順番待ちせよ」というのは最初から、お行儀がいいはずの天皇家のおぼっちゃんたちでもイライラしてしまうほどの、無茶な要求だったのですね。いい教訓だ。
さすがに細かい解説は私には無理ですが、さすがウィキペディア! わかりやすくまとめてあります。文保の和談の記事の方がタメになるかも。他人の諍いは見ていると楽しいですね。

鎌倉幕府も、こんなどうでもいいものの仲介に割り込んだ結果、散々にごねられまくったあげく、あげくには「幕府滅亡の原因」とまでされてしまうんだから、つくづくご愁傷様なことです。そもそも真の問題点は、「次の天皇を誰にするか」に名を借りて、「誰が上皇となって院政をおこなえるようになるか」だったのです。院政なんてもの、まだあったのか。平安時代の院政の全盛期から200年も経っているというのに。逆に言うと、あくまで「天皇位」にこだわって絶対に上皇となって院政をすることは考えなかった後醍醐天皇はエラかったのかもしれない。…それがさらなる迷惑の種でしたけどね。


「後宇多のゴウダは剛田タケシのゴウダ~♪」
しまった後宇多のマユゲ描き忘れました。

<持明院統・大覚寺統天皇表>
89.後深草天皇(持明院統/在位13年)
90.亀山天皇(大覚寺統/在位15年)
91.後宇多天(大覚寺統/在位13年) ※実質的な両統迭立の始まり
92.伏見天皇(持明院統/在位11年)
93.後伏見天皇(持明院統/在位3年)
94.後二条天皇(大覚寺統/在位7年)
95.花園天皇(持明院統/在位10年)
96.後醍醐天皇(大覚寺統/在位21年)

うーーん、法則性がわからん。一応順番になっているようにも見えますが、何かの本かサイトで「10年ごとに譲位するきまりだった」という文章を読んだことがあります。たしかに優れた善人であった花園天皇は在位10年で後醍醐天皇に譲位し、自分の日記に譲位する決意をした心境をつづっているのですが、それがすべてではないみたい。この表から言えることは、「調停役として立った鎌倉幕府が順番/在位年数のバランスを取ることにとても心を配った」ということでしょうか。ご愁傷様。後宇多が13年だったからそれに続く伏見が11年だったのを見て、続けて持明院が立つことを許し、後二条が7年だったから文保の和談で後醍醐に続いて大覚寺統の邦良親王が立太子することを提案したんですね、たぶん。しかし、前言は撤回。10年も自分の順番を待ち続けるなんて、お行儀の良い天皇家の人々しかできそうにないですや。文保の和談で持明院統の人たちがぶーぶー言ったのも当然だと思います。(…が、その文保の和談というのは花園の治世が終わり、後醍醐に順番が変わる変わり目のところでのことです)

問題の後宇多院。
彼は13年間天皇位にあり、伏見/後伏見期を経て、自分の息子の後二条天皇のときに院政を敷いた人ですが、1305年までは父の亀山法王が生きていて、頭が上がりませんでした。亀山法王と後宇多上皇は仲が悪かったと言われています。原因は父の女好きで、学研の『歴代天皇全史』には「後宇多の皇后の忠子が亀山の元に走った」というようなことが書かれています。それが不倫のことなのかは良く分かりませんが。その忠子の息子が後醍醐。当然、後宇多は息子・後醍醐のこともこころよくは思っておらず、母が違うもう一人の息子・後二条を溺愛しました。…こんな話、源平時代の前後にもありましたよね。なにやってるんだこいつら。亀山院は後二条の後の持明院統の後に後宇多の弟となる恒明親王を皇太子とするように遺言しましたが、父が死んで自由にできることになった後宇多は、その遺言を無視することにしました。
そこからの後宇多の行動が、わけのわからないところです。
最愛の息子、後二条は早死にしてしまったのですが、その息子に邦良親王がいました。当然、後醍醐とは仲が微妙な後宇多は、息子より孫の方が可愛いのでこれを皇太子にしようとします。が、その邦良親王は年少(9歳)で病弱。この子が成長するまで、中継ぎとして後醍醐を花園天皇の皇太子とすることにしました。…平安期には8歳の天皇なんて普通だったのにな。とにかく早く自分の息のかかるものを皇太子にしておかなければ、大嫌いな父が遺言した恒明が皇太子となってしまいますから、選択肢は他に無かったのです。(後宇多には5人の息子がいましたが、長男以外は全部忠子の息子だった。大好きじゃん、後宇多は忠子が)。で、「後醍醐を皇太子とする」と決めたら後宇多は後醍醐のことがなぜか大好きになってしまったみたいで、「こんな良く出来た息子はいない」と言い始めます。文保の和談のあと、後醍醐が天皇になると、最初は院政をしてますが、3年後(1321年)に「すべてを後醍醐に任せる」と言って自分から院政を停止してしまっています。ただし「次の皇太子だけはくれぐれも可愛い可愛い邦良親王にしてくれよ」と言って。その3年後(1324年)に後宇多は死去。

父が死んで、晴れて好き放題できるようになった後醍醐は、さっそくしたい放題始めます。彼の一番の不満は、「自分の次は持明院統の量仁親王が天皇となり、その次が邦良親王で、その次はまた持明院統が天皇となり、その次は邦良の子が天皇となる」というように40年先まで順番が決められてしまっていて、自分の子供たちの出番が無かったことでした。(すでにこの時点で後醍醐には尊良・世良・護良・宗良らの秀れた子供らがいました)。が、最初の頃の後醍醐が父の言いつけどおり皇太子を邦良親王のままにしていたのは、早速父が死んだその年に最初の倒幕運動・正中の変を起こそうとしたら、失敗してしまったからです。1326年にその邦良親王も病死してしまい、多分後醍醐は自分の息子の中から皇太子候補を決めていたはずですが、1331年に元弘の変を起こして逮捕された後醍醐は隠岐に流され、幕府は次の天皇を持明院統の量仁親王としました。これが光厳天皇です。幕府がその光厳天皇(持明院統)の皇太子と定めたのは、邦良親王の息子の康仁親王(大覚寺統)でした。そんな決定に文句を言わないなんて持明院統の人って行儀がいいなー。
しかしながら後醍醐は勝手に隠岐を抜け出して「自分が天皇である」と言い張り、1333年に後醍醐が鎌倉幕府を滅ぼして建武の中興がなると、康仁親王の皇太子を無かったことにして、自分の息子の恒良親王を皇太子としてしまうのです。あわれ康仁。
その後、いつまでたっても順番の回ってこない持明院側が怒って足利尊氏と結託し、北朝を立ててしまうようなことが起こりましたが、康仁親王には一切の出番がありませんでした。

…ところが、なぜかなぜか。(※実は今日はここまでが前置きで、ここからが本題)。
われらが遠州地方には、「康仁親王は遠州に来た」という伝承があるのです。
なんでまた。守永親王にしろ尹良親王にしろ、遠州の人ってマイナーな人の漂着伝説が大好きなのかしら。

浜松に伝わっている伝説では、康仁親王は浜松の佐鳴湖の南部にある入野に移り住んで、ここに木寺宮家を開いたといいます。木寺宮家とは、ウィキペディアによれば、「中世には常磐井宮家(=亀山法皇の皇子・恒明親王が祖)に次ぐ、立派な世襲親王家の体裁を備えていた宮家だった」といいます。すげー。…でもなぜ浜松に?
ウィキペディアのノートには、「康仁親王の子孫が遠江に住したことは確かだが、康仁自身が浜松に住んだという確証は無い(むしろ逆証はある)」としています。でも浜松にはちゃんと、「康仁親王がここにいた」という伝承があるんだもん

考えられることは、「佐鳴湖沿岸も宗良親王の勢力圏だったから、その庇護を求めてきたのか?」ということですが、問題は、同じ大覚寺統でも嫡流の後二条系から皇統を奪った後醍醐系(しかも劣勢)のところにわざわざ来るのか、というところですねえ。宗良親王は北遠の山に篭もりましたが、浜名湖や佐鳴湖沿岸の南朝方の拠点は、当初から激しい北朝方からの攻撃に晒されていたと考えられます。入野村なんて地理的から見て真っ先に陥落していたことでしょう。だとしたら考えられるのは、「木寺宮家の人々は早々に持明院統の北朝に降伏し、頑強な抵抗を見せる宗良に従う遠州諸族を降伏させる為の要員として遠州まで連れてこられ、見せつけのために裕福な待遇を与えられたのではないか」ということですね。よく分かりませんけど。哀れなことです。
ただし、「康仁親王の師は普明国師である」とされており、この普明国師の経歴を見る限り(この人は北朝で大きな影響力を持っていた夢想礎石の近縁ですが)、その薫陶を受けていた康仁親王も波瀾の人生を送ることを運命づけられていたと言えそうです。うーーーんよくわからん。ウィキペディアの記事を書いている人が「十分現地聞き取り調査もした」と言っているので、これ以上の詳しいことはわからなさそうです。

木寺宮家はその後数代続き、戦国時代には三河から侵入して来た徳川家康と交戦して甲斐に逃亡しているそうです。(つまり或る程度の戦力を持つ豪族として存していた)。この一族にどんなドラマがあったか考えるとおもむき深いですね。
木寺宮家の本流は家康のせいで消滅してしまいましたが、最後の本家の娘・定姫は浜名湖湾岸・舘山寺の大沢基胤に嫁いでおり、息子・基宿を生んでいました。ウィキペディアによれば、大沢家が江戸時代に「高家筆頭」となったのは、大覚寺統の木寺宮家の血を引いていることが重要視されたから、ということです。ほんとかよー。

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