オセンタルカの太陽帝国

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信州がドラゴンパスで
柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

ヒル神とジブ・ジブの高原。

2020年07月15日 13時20分15秒 |   南北朝


ちょっと高い所から眺めた上蔵(わぞ)の里。

 

7月の頭に4日間出かけた「隠れ伊那谷を巡る旅」、の一日目(その2)。
浜松市から見て飯田市は隣り町なので「いつでも行けるや」と後回しにしていたのですけど、こういう時代になってしまったので、「今こそ」と思って行ってみたのです。おとなりさんだけど遠かったです。

さて、次に大河原城の近くにある「信濃宮」に行きました。
祭神として“信濃宮(しなののみや)”宗良親王を祀っているので「信濃宮」なのですが、いわゆる「建武中興十五社」には入っていません。井伊谷宮とか鎌倉宮とかが明治時代なのに対して、この神社は昭和時代(昭和15年~23年)の創建なのが関係あるのでしょうか。それとも「名跡は一人の人物に対してふたつはいらない」という考えなのかな。「信濃宮」は「しなのぐう」と読みます。

信濃宮は小高い所にあります。
坂を登る途中に、「一ノ鳥居」があって、ここから歩いて登れようになっているのですけど、雨が凄いのでこれは歩けなかった。

古寂びている。
笠木の部分の一部分に銅板が巻いてあるんですけど、これはどういった意味があるんでしょう?
(その下の貫の方にも同じ物が巻かれていたらしい形跡がある)
何か字でも書いてあるのかと思ったのですけど、ただの雨の模様でした。

この門にはひとつ宗良親王の歌碑があります。

写真がブレてしまって判読するのに苦労しましたけど、これは「谷深き 雪の埋木 まてしばし あわではつべき 春ならなくに」の歌ですね。(なぜか万葉仮名で書いてあります)。この歌には『李花集』では「山ふかくすみ侍りし頃さらに雪のみふりつみて月日の行方も覚えず侍りしかば」の詞書(ことばがき)があるのですが、この歌ってどういう意味? 「あわではつべき」の意味が分からないのですけど、要するに「雪が多すぎて春なんて来ねーよ」という意味ですよね。「俺は泡となって果てるべき」という自虐ですかな。だとすると「まてしばし」がよく分かんないんですが。もしかして1370年前後に越中方面を平定していた斯波義将のことでしょうか。待て斯波氏! 宗良親王が若い頃流されていたのは阿波でなくて讃岐ですが、この人のことですから「安房」は「勝つ」海舟(=安房守)と掛けているとか。(※冗談ですよ)

坂道を登っていくと、社殿の後ろ側に駐車場スペースがあるのですが、障害物があってそこまで辿り着けず、どこかの畑の前に道を塞ぐ形で車を放置して(どうせ他の人など来ない)、百数十m歩いて神社に到着したのでした。

思ったよりでかい!(そして写真ではあの大きさ感は表現できてない!)と思ったのですけど、ここ、本殿だけで拝殿がありません。

この場所は特に宗良親王にちなんだ場所とかではないのだそうで、どこかのだれかが昭和15年に「ここなら神社を建てるのにちょうど良さそうだ」と適当に選んだ場所だそうですけど、それにしては「宗良親王はあんな所よりもここに城を建てたら良かったのに」と思ってしまいたくなる好地です。

神社創建の経緯については案内板に詳しく書いてあります。
昭和15年に皇紀2600年を記念し(『今、甦る村の浪漫!』には「昭和12年からの支那事変の泥沼化に国威発揚の必要を感じて」と書いてある)、近衛文麿の側近だった長野県知事・富田健治が主導しておこなわれた事業。場所の選定については紆余曲折あったが、宗良親王の研究で名高かった市村咸人氏らの運動によって現在地になったという。小学生などから金を出させて必要な資金を集め(・・・浜松でも似た様な話があったような気が)、勤労奉仕で山地の整地を開始。かなり土木作業が進んだ所で昭和20年の終戦。資金が無いことになってしまったので(どこにいったのか)、ふたたび募金を募って、昭和23年に本殿のみ建立。

行ってみると、かなり広いのです。
当初の予定では、社殿をいろいろ建てる計画だったと思われます。
(桜をたくさん植えて、「信州の吉野」とする未来だったといいます。その座は高遠に奪われてしまいました)

この建物は何でしょう?(社務所は別にある)
大鹿村のことですから、歌舞伎を奉納する神楽殿かな。

本殿前の小門の左右にも歌碑があります。

「われを世に ありやととはば 信濃なる いなとこたへよ 嶺の松風」

「君がため 世のため何か 惜しからむ 捨ててかひある 命なりせば」

立派な建物群の中にあって、手水だけが刳り抜き式木棺型の木製。朽ち果てまくっているけど、ちゃんと水道の蛇口が(2つも)付いている(笑)
もしかしてこれは昭和23年創建当時の物でしょうか。味ある。

手水の右側にも歌碑がありまして、

(歌碑には書いていない詞書き) 信濃国大川原と申し侍りける深山の奥に、心うつくしう庵一二ばかりしてすみ侍りける谷あひの空もいく程ならぬに月をみてよみ侍りし
「いずかたも 山の端近き 柴の戸は 月みる空や すくなかるらむ」

また斯波だ!
興国3年に宗良親王が初めて越中へ行ったときに、越中国で猛威を振るっていたのは斯波高経(=斯波義将の父)だったのです。もちろん何の関係もありませんけど、この歌は「越中との境はどこも斯波の門が堅すぎて、信濃の山奥に籠もっているしか無い」という意味に違いありませんね。もちろん「月」とは富山湾の蛍烏賊漁のこと。「ホタルイカがくえねーじゃないか」と親王は怒っている。

ということで、信濃宮にある宗良親王の歌碑は4つでした。
信濃宮の敷地はなかなか広いんですけど、浜松の井伊谷宮と同じく、見所がほとんどないです。来ても面白くない。昭和の計画の通りにここが「桜の名所」とならなかった事が残念ですね。いや、長野の桜の名所としては高遠城が戦前から有名なのですから、ここは『李花集』にちなんで「スモモ(李)」のきれいな白い花の木をたくさん植えるのでも良かった。(※『李花集』の「李」「式部卿」の唐名(李部大尚卿)にちなんでいるのだそうですけど、『新葉和歌集』では宗良親王は自分のことを誇らしく「中務卿」と書いているのにね。これに先立つ30年前の延元2年に二品尊澄法親王が還俗し、一品宗良親王と名前を変えたときに、後醍醐天皇がくれたのが式部卿の役職だったそうです。『李花集』の完成は『新葉和歌集』の製作よりも少しだけ早いのですけど、もしかして『新葉和歌集』を長慶天皇に出す直前まで、宗良親王は式部卿のままだったのでしょうか。(少なくとも皇族にとっては後村上天皇にもらった「征夷大将軍」よりも後醍醐天皇に頂いた「式部卿」の方が価値が高い?)
ただ、井伊谷宮も信濃宮と同じぐらいつまらないとは言っても、井伊谷宮には宗良親王の和歌の「超解釈」な案内板がたくさん立っているので、それは眺めていてなかなか面白く、見所と言ってもいいような感じもあります。信濃宮もあの路線でいけばいいのにと思います。

手水と歌碑の前には、何も載っていない石檀が置いてあります。作りかけにも見えなくもない。
遠州に住んでいる私たちには「これは龍燈(秋葉山常夜燈)が立っていた跡か?」と思いたくなりますが、そんなわけがなく、ここに何かのお堂とかこの大きさに合う常夜燈とかを建てるとしたら手水と歌碑が遮られることになってしまい、甚だ不便な配置に見えますので、いささか不可解な基壇です。
宗良親王の銅像でも建てる計画があったんでしょうか。そうしても段が低すぎる。これに見あう像を立てるとしたら宗良親王は3m級です。

 

境内の随所が草深く薄暗く湿気に満ちて人気がまったく無いので、また山ビルに襲われるんじゃないか、そこらの木の枝にこんもり血吸い蝙蝠が集って人の首筋に落ちる機会を窺っているんじゃないかと冷や冷やしながら歩き回ったんですけど、意外と全く大丈夫でした。山ビルって滅多に来ない人間より鹿とか山犬とかを常の宿主としているので、人里のほとりにはほとんど出ないようです。鹿とか山猫とかは人の気配のあるところは絶対近づかない。(もちろん本来はカモシカも)。また旅の途中のビビリな私みたいな人間ならいざしらず、村の人間は蛭の危険度はよく知っているから見かけたらすぐに消去行動に出てしまうと思う。血を吸っている途中の山ビルは動けないので、訓練されている里人を相手にしたら到底増えない。山ビルが出るか出ないかは、自然世界と文明社会の境界を示していると思います。

 

・・・次は、さらにこの奥の奥、宗良親王が30年も棲まっていたとされる「御所平」を目指しました。
上蔵の里の時点で思いっきり山の奥の奥の里、という感じが強いのに、さらにどんづまりのずんどまりがあるだなんて、宗良親王はなんてマゾヒストなんだ。親王が山登り沢登りが趣味だったとは聞かないんですよね~。(※赤石岳山頂には宗良親王にまつわる伝説があります)

地図で見ると、本当に、マジかよこの奥にさらに行くのかよ、という場所です。
ただ、道の脇に一定間隔で石仏が設置されているのを見かける。伊豆などでもよく変な所に石仏があったりするのですが、それは「ここは古道です」という目印です。この道も、見た目以上に「人が通っていたんだよ」というアピールなのでしょうか。十数個はあったと思います。ただ、石仏同士の統一感はなく、いろいろな時代の物が無作為に(一定間隔をもって)置いてある気がして、何らかの偽装的な意図も感じます。

 

御所平に行く途中に「釜澤」という集落があり、そこにある八幡宮に、「宗良親王の宝筺印塔」というものがあるといいます。

伝・「宗良親王の墓碑」

宗良親王の入寂場所伝承地には5説あって、

(1)、静岡県浜松市の井伊谷
(2)、長野県大鹿村の大川原
(3)、大阪府枚方市河内山田
(4)、岐阜県中津川市(恵那郡高山と坂下に伝承地がある)
(5)、長野県阿智村の浪合

ですが、最新研究で一番有力なのが伊那の大川原。浜松市民には微妙な感情が湧きおこりますね。文献的な根拠がその説のゆえんなのですけど、この宝筺印塔はその物証だとされています。(※他に長野県には4箇所ぐらい“宗良親王の墓”あるいは“死んだ場所”があります)。Wikipediaには新潟と富山にも宗良親王の没地伝承地があると書いてありますが。(どこだ)
宗良親王の兄である護良親王も6つ首塚がある「首が8つぐらいある人」だったので、宗良親王も「死んだ後に身体が7つぐらいあった人だった」としてもそんなにおかしくありませんけどね。

石造物には詳しくないのですけど、この宝筺印塔は西日本型であるそうだ。
『太平記』の中でわたくしの最大のお気に入り人物の一人である足利義詮のアダ名が「寳篋院殿」なので、「宝筺印(院)とは何か?」という事のなぞときも少しずつ再開しなければとは思っているのですけど、宝筺塔の研究はめちゃくちゃややこしそうです。
塔身中央に「宝筺印ダラニ」を納める空洞がある(ことになっている)(はこ)形を持つのが宝筺印塔。
陀羅尼とは仏を表す言葉であり仏尊と等価(=仏そのもの)とされているので、この箱は仏がおわす天であるということで、転じてお墓の形にふさわしいということになったんでしょうかねえ。「箱」なのでその箱の中に故人の御骨とか入れるのかと思うとそうではなく、埋葬郭は他のお墓と同じく地下です。実際には塔身には殆どの場合空洞などありません。古墳なんか造成した盛り土の中に埋葬郭を作るので、それと比べることも文化の変化史として面白いと思う。この宝筺印塔が作られることが無くなったことは何が起因だったのかも。で、「宝筺印塔に入れるから宝筺印陀羅尼というのか」と思いきや、陀羅尼の解釈では「宝篋」とは如来の加持する仏の一人らしいですよ。宝筺印陀羅尼は比較的長めの陀羅尼です。(読み上げるものではなく書く陀羅尼だからか)

で、大鹿村のこの伝・宗良親王墓標は村人の間では「九輪さま」と呼ばれていたそうです。
「九輪」の「輪」とは、

ここ(・・・ってどこかは察して欲しいんですけど)の部分が9つの輪っかが重なっていることになっているからだと思われるのですが、宝筺印塔って普通ここは九輪なのが標準らしい。なんやねん。
屋根の部分のこの形のことは「馬耳型突起」というそうだ。馬?

現地ではこの案内板、ちゃんと読めたのでカメラに収めて帰ってきたのですけど、やはり光量が足りなさすぎたのか、家に帰って写真でこの案内を読もうとしてみて、読めそうなのになぜか読めないことに憤った。
なんとか解読してみますね。

「大鹿村指定文化財 石造宝篋印塔
所在地 大鹿村大字大河原 番地
建立 室町時代初期
構造 石質(?) 多孔性安山岩 通称 伊豆石
塔総高 八七.九糎 基盤 四五.五糎平方
基礎石には正面に花瓶、側面に蓮花、後方
月日輪を●●、塔身には四面に四種の梵字●●
蓋上部四隅に馬耳型突起が斜立する●●
霊盥(?)、伏鉢、受花、九輪、宝珠が組まれ、又
塔は多少、損傷はあるが室町時代初期の名
残●●●いる貴重な●●●●。
由来
里人に古来よりの伝承 ●九輪ノ塔●●
宗良尹(?)良両親王御●●●●●、●●
盡く、南北朝時代●●●根拠地
なれば、宗良親王●●●●と、南朝●
李花集●●●●●●。
    昭和四十九年●月
          大鹿村教育委員会」

全然読めーん。
晴天の日に写真を撮ればバッチリだったに違いありませんのに。(また写真を撮りに行くしかないのか?)

これ、梵字なんですね。(下り藤かなんかかと見たときは思った)
下の変な模様は「花瓶」だったのか。(確かに花を挿せるようになっています。水を入れるスペースもあるんでしょうか)

これが「蓮の花」。(紅葉の葉かと思った)
宗良親王熱烈崇拝者のわたくしですが、別に瘧(おこり)の持病は持ってなかったから、この苔を持ち帰って煎じて飲んだりしようとする気は起きませんでした。よかったよかった。怒りの持病は持っています。年取って怒りっぽくなっちゃって。宗良親王は怒りの感情はある人だったんだろうか。(短気な人は90歳近くまでなかなか生きられない)。瘧って何だろう。太陽フレアにも効くといいね。

この宝筺印塔は釜澤の里の「宇佐八幡神社」の境内の隅にあります。

神社についての案内板が無いので詳細がよくわかりませんが、この神社がなかなかくせものの神社。

この八幡神社の祭神は応神天皇と尹良親王なのです。なぜだ。
尹良親王が大河原にもいたという物的証拠は(彼の母が井伊の姫ではなく香坂の縁者だったという異説はありますが)ここしかないと思います。まず、なんでただの「八幡神社」ではなくて「宇佐八幡」なんでしょう? 遠江國気賀にある二宮神社では、祭神である「駿河姫(二宮神)」の傍らに「若宮八幡」として仁徳天皇ならぬ尹良親王が祀られていたりもするのですが、八幡神は武神ですから戦士の化身()である宗良親王と同一視されたこともあったかとは思いますが、なぜ宇佐?(宗良親王は九州へは行ったことがありません) 『浪合記』で「尹良親王は大河原で戦死した」と書かれているのを反映しているのではないか。

・・・いろいろ考えたいことはありましたが、なにしろ雨がひどくて、早々に車に退散しました。
本によると、この神社には八幡神、尹良親王のほかにも、洞院実世・園基隆・藤原光資・堀川光継・宇佐美殿・桐羽殿も配祠されているといいます。変な形の建物ですが、地元の人でないと中を見ることはできないでしょうねえ。この釜澤の里には宗良親王が開いたという「大龍寺」があり、また大龍寺は尹良親王の菩提寺であったといいます。(おそらく大龍寺の痕跡は現在はまったく無い)
釜沢の里の南の端に「宗良親王の妃の一人」だと伝わる「紀伊のきさきのひよう所」があると書いてあります。

この宝筺印塔と宗良親王の関係について分かりやすく書いた本も読んだことがある気がしますけど、どの本だっけ。

 

そこからさらに先にあるという「御所平」を目指します。
「釜沢」の里ですら奥地の奥地という気がするのに、まだまだ奥にまで行って住んだなんて、一体親王は何を考えていたのか。「ここまで来たら、行けるところまで行かぬと心願成就せぬ気がして・・・」みたいな宗良親王の声が聞こえてきそうです。釜沢はなんとなく昨日の大雨で道路通行が制限されている気配があって、人が住んでいるような気がしない場所でした。でも民家の建物は比較的新しいし、車もあったし、「人がいない」と思ったのは私の錯覚でしたでしょう。

宇佐八幡社からしばらく進むと、「この先通行止め」の看板があります。
うそぅッ!?、聞いてないっ!!
ここを見るためにはるばる来たというのにっ、通行止めだなんて困る。

『ゆるきゃん△』で、「通行止めって書いてあっても、行ける場合がある」って学んでたので、とりあえず進んでみます。(さっき蛇洞林道は結局進めなかったけどな)。だってここはこの道以外の迂回路は無い(と思われる)のですから。
釜沢から御所平までおよそ2km。
道路は随所で側面から水と小石が吹きだしていて確かに危険でしたが、こんなのこの程度の山道ならよくあるある。私の小回り利く愛車はへっちゃらです。いくつか川となっている箇所を通り過ぎてから、とうとう私でも「ヤバイ」と思うバリケードの前までやってきました。道路が損壊してるんですって。(ホントかよ)。
いやーん、ここから歩くしかないのか。(まだ行くつもり)
バリケードの前に車を置いて、歩き始めます。ちょうど運良く雨はほとんど止みかけていました。車でかなり来れたので、歩く距離は半分の1kmぐらいなはずです。私が住んでいる浜北大橋は長さがちょうど1000mということになっていて、私はいろいろな所を歩くとき、距離をこの橋で換算することに慣れています。なんだ、浜北大橋片道分じゃん。当然帰りの道を考えると倍になりますが、そうは言っても浜北大橋往復になるぐらいなのですから。(歩き慣れたあの橋はほんと短いという体感なのでね、私にとっては便利)

900mほど歩いたところで突然現れた崩落箇所。
こりゃ車は通れねーや。
ここを乗り越えようとして、私は「アスファルトはとても柔らかい」ことに気づいて愕然としました。写真の手前の所ですでにグズグズ。アスファルトは固い地面の上にあるから堅いんですね。こいつ自体はこうなってしまうとひどく脆いのです。経験とするため、とりあえず崩れた所を歩いてみましたけど、これ、絶対やめたほうがいいですよ。ここ、崩れた所がさらに落ちれば100mは滑り落ってやられるでしょう。実は左側の護崖のコンクリの部分がこんな状態になってもさすがかなり強固なので、この上を歩くべきです。

この先少しの所に、宗良親王最大の遺蹟「御所平(ごしょだいら)」があります。

この小屋が、宗良親王が30年棲まったという御所を模しています。
この場所の侘しい感じを演出するための観光施設です。
昭和56年刊行の『宗良親王 信州大河原の三十年』という本にはこの小屋のことが書かれてませんので、それ以降に建てられた物だと思います。
(建物の前の「宗良親王御在所跡」の石碑には「平成2年12月」と彫ってあります)

この小屋自体にはどうせ作り物なので何も思うことはないですが、何も無いよりはいいですやね。
宗良親王好きにとっては『李花集』の中には、この場所で詠んだと思われる歌がとても大きな比重を占めているので、場所そのものがとても感慨深い。

「いづかたも 山の端近き 柴の戸は 月見る空や すくなかるらむ」

・・・確かにこの場所は山が迫り全く空が狭い。
同じ大河原であっても、この歌が詠まれたのは大河原城のある上蔵の里ではなかったと感じます。

宗良親王が600年前に眺めた山の空。

 

「心ざし ふかくふりつむ 雪なれど とふべき人の なきぞ悲しき」
「ふりにける 雪と我身ぞ あたらしき 春にはあへぬ ものにぞありける」
「かりの宿 かこふばかりの 呉竹を ありし園とや 鶯のなく」
「春ごとに あひやどりせし 鶯も 竹の園生に 我しのぶらむ」
「山にても 猶うき時の かくれがは ありける物を 岩のかげみち」
「いはで思ふ 谷の心も くるしきは 身をうもれ木と 過ごすらん」
「風わたる 賤かかきねに はふ葛の くるしや何の 恨みなるらむ」
「ありとても あるかひもなき 帚木の 伏屋にのみや 年をへぬらむ」
「今はわが 友とだにみす 窓の竹 むかしながらの 色しあへねば」
「かかる世の ためしもいまだ 白雪に うもれやせむ 園のくれ竹」

 

・・・宗良親王の小屋は竹の垣根で囲われていたと思われるため(そしてなぜか宗良親王はいつも竹から勇気やさまざまな感情をもらっていた)、ここにも竹の垣根を再現するべきですね。また数人の(高貴な)従者もこの四方に小屋を建てていたと思われます。

高床式。
ムカデとかヒルとか怖いですもんね。
蛭ヶ小島の頼朝公は高床式は許されなかったと思われます。

小屋の後ろのなだらかな坂地は、「なにかがあったのだろうな」と思わせます。
(いくつかの小庵とか、畑とか?)
でもさすがに山ビルが怖くて、私はあそこに足を踏み入れられませんでした。

どこかに「的場」があって「今でも鉄の鏃が発見される」そうですけど、それはここから少しだけ離れた場所であるようでした。

 

・・・・ただ、ここまで歩いてくる途中ずっと考えていたのですけど、宗良親王がこんなところに30年間ずっと隠れていたというのは、本当は無かったんじゃないか。宗良親王が山登りが趣味とかだったら分かるんですけど多分そうではなく、なんでこんな場所を選んだのか。確かに大河原は実は隠れた交通の要衝であり、宗良親王が好んだどんづまりのごんどまりであり、しかし、ここまでくろのくろ(←これは遠州弁)まで来る必要はあったのか。その前に居た遠州國の井伊谷は親王にとって便利な場所だったのですが、好地すぎて早々に仁木義長や高師泰らに攻め落とされてしまった。越後の寺泊や越中の名子の浦、諏訪氏の諏訪も同様です。便利すぎてはいかんのです。奴らはすぐそこを落とします。でもそれを知り尽くした宗良親王や南朝の方々も、長い時間をかけて「便利ではなさそうだけど実は便利な場所」「奴らが「あそこだったらちょっと見逃してやろうかな」と思うんじゃないかという場所」のキワのキワを追求したのだと思う。
宗良親王の行動基準的に、大河原の里のこの御所平の位置は、不便が大きすぎて便利はどうだったのかな。(「絶対敵が来ない場所」を突き詰めたらここ以上はないんですが)、宗良親王は「決して諦めない人」で「必要に応じていろいろ場所に現れる」ことを身上にしていた人だったんですから。
この「御所平」の場所は、「都から来たという高貴なだれか知らない人が数十年間いることになってるけど、本当かどうかはだれも知らない」という伝説の場所で、敵は決して宗良某がそこにいるのか確認しには行かない。親王は本当は身を隠していろいろな場所を随時訪れていたり、もっと気持ちいい場所に避暑的に棲み着いていたりしたんじゃないか。

今はここは道の終点なんですけど、宗良親王の時代にはここから北方面に鹿塩郷にぬける峠道(「越路」)があり、ここから北に1kmの山の中にある寺沢という集落(!)には、「長谷庵」という宗良親王が創建したという寺院があったといいます。(現在は全く痕跡は無いそうです)

また、ここから谷底を見下ろすと遙か下方に寺沢川が見えるんですけど、あそこまで下りていく山道もありそうですよ。(宗良親王の時代にはやっぱり谷沿いに歩いてきて、あそこからここまで上がってくる方法が一般的であり、つまり私が車で来て崩落していたあの道は親王当時は無かった(逃げるための獣道)だったでしょうなあ)

ただし現在は、ここが道の一番奥です。
いくらこの「御所平」が、観光で保っている小村・大河原の重要な見どころのひとつであるとはいえ、ここは全く無人で、人が住む場所から離れているのです。そこに至る唯一の道が崩れてしまっているのですが、あそこは修復されるんでしょうか。それにかかる経費を考えると、それはかなり先のことでないでしょうか。今日私は運良くここまで歩いて来られましたけど、すごく危なかったから、いずれあのバリケードももっと強固な物にされ、私も他の世の宗良親王愛好家も、次にここに来られるのは数年後になってしまうんじゃ(あるいは永遠に来られなくなってしまうんじゃ)ないでしょうか。・・・あそこが崩れたのはいつのことなんでしょう?

・・・などと考えながら、道を歩いて戻ります。
すると、私が車を止めたバリケードの前にもう一台白い軽トラが停まり、2人のおっちゃんが私の車の前でなにやらしゃべっているのが見える。
やべぇッ
立ち入り禁止の場所に入ったのが見つかっちまったっ。当局の人だ。
怒られるっ。

どうしようもないので、不必要にへらへらしながら
「すみません~~、やっぱダメでしたかぁ~~?」
とか言いながら近づいていったら、「なんだこいつ」みたいな顔をされ、
逆に、「この先どうなってました?」「どこまで進めますか?」「私たちもこの先行くのは初めてなので」とか言われました。
(中部電力の人たちでした)

愛想笑いしながら狭い道で車をUターンして道を戻っていくと、電力会社のトラックが次々と。
そうか、電線はあそこまで通っていたものな。
ああいうのは一度通してしまったら、駄目になったらすぐに元に戻さないとならない。
いま調査に来たとすると、あそこが崩落したのは今日昨日の話なのかもしれない。だったら意外と早く復旧するのかも。宗良親王の道、早く元に戻って欲しいですね。
(※7月28日現在、御所平へはまだ通行止めのようです。釜沢までは時間を区切って一時的に復旧しました)

 

・・・こんな感じで私の初めての大河原行きは完結してしまいましたけど、道の修復を待って(数年後?)、また行かなければならないと思っています。だって、こんなにいろいろなところを歩いて覗き廻ったのに、それをほとんど記録(写真)に撮ってない。いくつかの重要な事項は私の頭の中にしか無いのです。それは雨がひどすぎたから。カメラが壊れたら困ると思ったから。とかいいつつこのカメラはネットで2まんえんぐらいで買った安いカメラ(FinePixS1)なんですけど、乱暴に酷使しすぎました。そろそろ(今日ぐらいに)壊れてしまうんじゃないかみたいなヒヤヒヤ。びしょぬれだー。(防水ではない)

浜松からここまで来て、見て聞きたかったことは2つです。
(1).ここから見えるという赤石岳はどんな感じか。宗良親王は登山をしたのか。
(2).ここではホトトギスの泣き声がたくさん聞こえるのか。

私は本当にこの付近でホトトギスの鳴き声をたくさん聞いて、とても感動した。
「きょっきょ、きょきょきょきょー」という特徴ある変な鳴き音。
宗良親王の詠んだ歌は1500ぐらいあるんですが、個人的になんとなくホトトギスの歌が気になっていたんですよね。
宗良親王の歌にはホトトギスが多いんです。別に、宗良親王がこの鳥が特別に好きだったのではないと思います。なんとなく詠んでいるという感はあり、でもウグイスや鶴や鶉やカラスよりもこいつが彼に珍重されていたんだということはわかる。これは宗良親王ばかりではなく、この時代の人ってやたらホトトギスで何かを詠みまくっているんですね。(これは私が『新葉和歌集』を読んだ印象)。私は天竜川下流の平野に住んでいますが、こんな変な声の鳥、それほど聴いた記憶が無かったんです。日本でホトトギスを愛でる文化って、中世と近世ではかなりの隔絶が生じてしまっているのではないか、と思いまして。なかぬなら、なくのをききにいこう。

そしたら、大鹿村では時鳥をたくさん聞くことができた。山の中ってたくさんいるのだなあー。
ホトトギスって、ほんと変な声だなやあー。きょっきょきょキョ

 

「物おもふ 我にかぎらば 時鳥 なかぬも怪にぞ こころあるべき」
「なかぬかな とふかき夜の 時鳥 ただなのるべき 里のあたりを」
「深山を ひとりないてそ 時鳥 われも都の 人はまつらむ」
「一聲の 後にいかにせむ ほとときす 鳴くよりなかき 夏のよならば」
「時鳥 ただの一聲の なみだにて 雲ものこらぬ よひの村雨」
「ひと聲は おぼつかなきを 郭公 われもききつと いふ人もかな」

 

・・・悲しい。
カッコーとホトトギスはどう考えても別の鳥なんですが、日本の文化史上は同じ鳥だということです。ネットで検索すると腑に落ちる説明がたくさんあります。これは日本独自の文化。ヨーロッパにはキョッキョキョキョキョキョと鳴く鳥はいるのでしょうかね。ヴィヴァルディとかジャヌカンでは「カッコー」としか鳴かないです。欧州ではカッコウは嫌われ者。

・・・いや、ヴィヴァルディのこれってキョッキョキャケタキャなのかな。
イタリアでもカッコウ=ほととぎす? これは世界認識?
逆に腑に落ちた。

 

 

(・・・つづきます)

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