オセンタルカの太陽帝国

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我が上に 月日はてらせ 神路山 あふぐ心に わたくしはなし。

2022年08月18日 01時39分33秒 |   南北朝

火の玉の話、あと倍ぐらい書くつもりだったのに停滞してしまいました。今だってやる気満々なのにどうしてなんでしょうね。といっても、あと水木しげるの話と浜松のお松さんの話をして、最後にうしろの百太郎で締めるだけなんだ。(がんばるぞ)

と、いいながら申し訳ないのですが、旅行に行ってきたのでその話を先にします。
一ヶ月ぐらい前、何も考えずにとことん遠くに行きたくなって、東を目指したのですけど、東京の檜原村まで行った所で気が変わって帰ってきてしまいました。一泊二日車泊でした。できたら岩手県ぐらいまで行こうと思っていたんですけどね。意気地なしなんだから私。でも、2日間で箱根峠で3時間だけ仮眠したほかはずっと運転し続け、神奈川県を2周ぐらいして江戸城のまわりも一周半したのでした。写真は一枚しか撮らなかった。(「写真は一枚だけ許可する」で有名なお店)

リベンジで、今回は西方です。行く前は、できたら広島県ぐらいまでは行きたいと思っていました。けど、結果として5日かけて行けたのは神戸まででした。じゅん兵さんの意気地なし。

まず最初はコレです。近江ちゃんぽん。
10年ぐらい前からとても気になっていたのですよね。琵琶湖に行くたびに滋賀県にだけ大量にある近江ちゃんぽんのお店。近江ちゃんぽんとは何ぞや。しかし私は滋賀県ではほぼ天下一品か鮒寿司しか食べませんので、疑問は疑問のままでした。今回は心をチャンポンにして毅然として行きます。
彦根にあるお店が本店だそうなので、そこを目指しました。

お店は写真で見るより巨大でインパクトがあります。
開店直後から家族連れが大量に訪れて(お盆連休中だから)大混雑でしたが、こんな巨大な見た目だから二階席があるのかと思ったら、なかった。

わたくしたちは肥前の民なのですから九州原理主義者であり、ちゃんぽん的なものには一家言あるはず。でも九州ちゃんぽんの定義とか、近江ちゃんぽんの歴史(発祥の場所とか原点の店をかべが何かとか)とか近江の独自性は、ネットで調べた方が早いし少しややこしいので全部省き、一度食べたら全部疑点は氷解したので大満足でした。これは身体にいい食べ物です。日常的に食べたくなるのは良く分かる。飯田に行ったとき、「皿うどん」にも長崎血うどんとそうでない血うどんがあったのも、これと関係があったのでしょうか?

黄金スープ。なぜかタマゴ入りのを頼んでしまって(多分メニューの中央にあった)、900円ぐらいだったかしら。
見えませんけどキクラゲもちゃんとありましたよ。もう、肉なんか入れなくてもいいくらい、朝食べたい滋味深いちゃんぽん。
滋賀県にしかないと思っていましたら、われらがららぽーと磐田にもあるそうですよ。そのうち行ってみよう。でも、この野菜的な感じって、私の中の概念ではタンメンなんですよね。日頃タンメンなんて食べないのでタンメンの定義もよく知らないんですけど、だとすると今度は、来るときによく見て「大増殖してるな」と感じた、「岐阜といったら岐阜タンメン」が気になるところ。

 

私が奈良・京都を巡るといいましたら。それは天下一品を食べに行くということなんです。でも今回は、5日間で2店しか寄りませんでした。

彦根東店。

奈良庵治(おうじ)店。
天下一品ってすごいよね。店ごとに味わいが全然違う意味が分かんない。帰ってきてから思いますけど、なんであと10店舗ぐらい食べてこなかったんだろう。
私が初めて天下一品を食べたのは20年ぐらい前に神戸ででしたが、あのお店は今回見つけられませんでした。

彩華ラーメンにも一店舗だけ行きました。

田原本(たわらもと)店。
わたし、8年ぐらい前に彩華ラーメンで一度戦いに負けて浜松に逃げ帰ったことがあったんです。その復讐戦です。む、イメージと違う。にんにくの臭いはするがそれよりもラー油の方がはるかに強い。とてもおいしゅうございます。私が酷敗した天理市の石上神宮前のお店、行ったら見当たらなかったんですけど、なくなってます? その数年前に奈良の南の方の山の中で彩華ラーメンを食べた記憶が、私の初めての彩華の記憶なんですよね。宇陀のあたりだったかしら。そろそろ「天理スタミナラーメン」にも挑んでみなければ。

この年になってしまうと、ラーメンとかって基本的に昔食べたことのある思い出のものしか食べたくなくなってしまうんですね。それはそれで楽しいことなんですけど、自分の全盛期は15年前なんです。もう世の中は動かなくていい。

 

さて、今回の旅行の名目上のテーマはコレです。

ご朱印集め。
左が天狗関連神社用の御朱印帳で、右が「建武中興十五社」用の御朱印帳。思い立って買ったのは5年ぐらい前なんですけど、それから急に私は旅行に行かなくなってしまい、それで少し前に鎌倉を通過したとき、「しまった、車に御朱印帳を積んでない」と後悔したんですよね。それで思い出して、改めて「建武中興十五社巡りをしよう」と思ったのでした。

関西には、大阪に2ヶ所、兵庫に1ヶ所、奈良に1ヶ所の「中興神社」があります。
(大阪と京都の天狗神社も巡る気満々だったのですけど、時間的な問題で左側の御朱印帳の出番はありませんでした。)

なんせ私は、ご朱印集めなんてこれまで親しんでなかったですから、ご朱印をいただくときの作法とか全然知らないのでした。

最初に押した井伊谷宮は平成30年(笑)。

つくづく、この十五社というのは浜松に住んでいる私にとっては、(熊本以外は)都合の良い配置になっていると思います。九州に何とかして行く計画を立てねばな。鳥取はまあなんとかなるだろう。これが隠岐の島(後醍醐天皇)とか笠置山(後醍醐天皇)とか佐渡ヶ島(日野某)とか土佐国(満良親王)とか讃岐国(宗良親王)とか忽那島(懐良親王)とか篠島(義良親王)とか青森(長慶天皇)とか越中越後(宗良親王)とか奥州(北畠顕家・顕信)とか奥州(守永親王)とか無数にあったら、とても困ってしまいます。「ひとりにつきひとつ」なのがありがたい。数に制限がないのなら、宗良親王だったら10ヶ所はできてしまいます。

 

★四條畷(しじょうなわて)神社 (大阪府四條畷市)

“小楠公(しょうなんこう)”楠木正行(くすのきまさつら)を祭る。
わたし、楠木正成はそれほどでないんですけども、楠木正行と楠木正儀は大好きなんだ。
御朱印は300円でした。

「有孚顒若」、かっこいいですね。どういう意味でしょう。
(※「真であれば、厳かとなる」だそうです)

「御妣(みおや)神社」も素敵な文字。

「楠公」は「なんこう」と読みますからね。この五輪(?)様が慰霊しているのは正成公の方です。
元中3年(1386年)が本当のことだとして、終始一貫して北朝側の武将だった(が、のちに乱を起こした)大内義弘が、本当にこれを立てたとしたらスゴイ。

お母さまの名前は久子さん。1991年の大河ドラマでも、この名前でしたね。

ちょっと読めないと思うので拡大。

「参道を下って1km先に墓所がある」と書いてあるんです。
でもわたくし、この看板ざざっと斜め見しただけで、ちゃんと読まなかったので、なぜか1km先にあるのは「四條畷合戦にまつわる何か」だと勘違いし、「きっと「古戦場の碑とかあるのだろう」「それをみに行こう」と思ってしまったのです。だって「楠木正行の首塚」は京都の寳筺院にあることを知ってましたから、墓がこんなところにもあると思わなかった。その役目としてこの神社があるのだと思った。結果として、そんなむやむやした状態で漠然と探しただけなので、何も見つけることはできませんでした。
この「四條畷」、すごい土地です。今日は東大阪市八尾の方からずっと北上してきたのですが、なんか大阪でも独特の不思議な文化の感じられる地帯なんですよね。この山麓には西側に巨大な沼(深野池)があり、山と沼に挟まれた細い道路(畷道)が南北に走っていた。こんな変なところででどうして戦ったのかというのがこの戦さのキモで、「高師直が凄かった」と言うしかないのですが、Wikipediaによるとはるかに広い範囲で戦ったそうで、これはなかなか楽しい戦いでしたね。(私は高師直・師泰も好き)。小楠公が戦死した場所もなかなか遠かった。
とにかく、参道からしばらく歩いても何も見つからず(とても変な巨大邸宅が途中にありましたよ)、20号線の門があるところで足が痛すぎると思って諦めて帰ってきてしまいました。1㎞は歩いたと思ったのですけど実は600mで、本当に400m先に楠木正行の墓があった。
「四條畷合戦古戦場の碑」はどこにもないそうです。
「四條畷の合戦」「沖田畷の合戦」「山木判官攻め・韮山城攻防戦」「藤波畷の戦い」「木原畷の戦い」「獄門畷の戦い」「松本市の縄手通りの宇宙堂」「八丁畷治安悪い」は、日本史の「五大不思議畷」として有名です。
そもそも四條畷神社の創建って明治23年なんですね。井伊谷宮(明治5年)よりはるかあとや。
あとで、「四條畷神社の宮司さんはとてもすごい人」と、歴史に詳しい人に聞きました。

 

★阿部野神社 (大阪市阿倍野区)

野区にあるのに阿野神社。北畠親房と北畠顕家の親子を祭る。
ここ、極めて細狭な住宅街のただ中にあって、Googleマップを見ながら「裏側から攻めて、ここをこう行ってここからこう行けば行けるだろう」と思った道からは行けませんでした。どう行ったら正解の道なのか、今もさっぱり分かりません。30分は行ったり来たりしましたぞ。

北畠顕家像。ゴクミ。私はゴクミと同い年なんですよ。この神社、御祭神が北畠親房・顕家両卿なんですが、やや2:8ぐらいの比率で親房卿(公?)よりも息子の方が顕彰されている。
なぜかといったら近くに顕家卿のお墓があるからで、、、 知らなかったから行かなかったぜ。しまった、前を通ったのに。(こんなのばっかり)。
(戦死地は別の場所(堺市)です。どうしてこんなところに墓があるのだろう。)
北畠顕家はなんとなく“軍神”上杉謙信に通ずる、軍行して勝つためだけに生きた最強戦士。
軍行して戦い続けていたのに負けばかりだった(のに長生きした)宗良親王とは正反対の運命の生涯。

一願一遂之宮。(叶えられない願いもあります。願いとはあなたが自分で遂げる物)

神は人の敬によって威を増し、
人は神の徳によって運を添う。 

見よ、かの森は顕家が孤忠を誇る常磐木ぞ
みよ金剛、峰の色 青史に永く正成が至誠を誌す不朽の字。

まず気づくのが、この神社では境内社のお稲荷さんの存在感が異様に大きいことです。
この写真だけ見ると「神社でよくある赤鳥居の道じゃん」と思われるかと思いますが、中に入ると分離していて、わたくし数えで少なくとも3つのお稲荷の小祠がある。
「旗上芸能稲荷」と書いてあるんですけど、なんで芸能?(親房卿の和歌の道つながりですかね)

で、あとあと境内地図をみましたら、「旗上稲荷社」、「旗上芸能稲荷社(鈴之宮)」、「土の宮」の3つがあるそうでした。
土の宮は正確にはお稲荷さんじゃないそうですが、十分お稲荷に見えます。

世阿弥八世 観世銕之亟。

阿部野神社ではお狐様は「喜常」と呼称するんですって。

ウマ。

詩歌の道。井伊谷宮みたいに、ここに北畠親房のすばらしい歌が陳列されているのかと思いきや、ここには御洒落な小路とお茶室があるのみでした。

「勲之宮」。忠臣・南部師行を祀る。
なんぶもろゆき、、、 ごめんなさいあんまり知りません~、と思ったのですけど、戒光祥出版の『南北朝武将列伝』にもちゃんと独立した項が立てられている(それも初項)、すばらしい武人でした。ごめんなさい。南部師行、楠木正行、北条時行の「行」の字は、誰に由来しているんでしょうね。

「向い鶴」は南部家の家紋だそうです。嘴広鸛に見えます。変な生き物。遠野へ行きたい。

働きは最上の喜び。
本殿をぐるりと取り囲むようにして回廊があって、後ろ側に奥の宮があります。空間を無駄なく使おうという工夫が余すところなく見られるのですが、その、木で作られた塀は三面のすべてが文字でびっしり埋め尽くされているのです。写真では感じられないと思いますけど、これは圧巻。祝詞なのか、古事記的な物語なのかなかなか興味深く見ましたけど、さすがに全部読めませんでしたよ。とにかくサービス心全開。

そして、「何もかも文字で説明しつくそう」という意気込みが随所にありました。さすがにこれも全部は読めませんでしたけど、すごいなあ。

とにかく、とても狭い境内の社なのに見どころたくさん。なにこれ。さすが大坂。井伊谷宮もこうして欲しい。

御朱印をいただきに行ったら、とても会話が心地いいお嬢さんがいて、Googleで見たクチコミの良い人がこの人なのだと思いました。ただ困ったのが、この神社、異様に御朱印の数が豊富なことで、お嬢さんの説明を聞いていると全部欲しくなる。実は12日に浜松の家を出発したとき財布の中身は1万円。「1まんえんでどこまで行けるかチャレンジ」をしていた最中で(※ガソリンと高速はカードで払っていたので別)、8/14のこのとき財布には千円札1枚しか入っていなかったのでした。彦根城で3000円ぐらい取られたのが痛かった。こまめに温泉施設にも寄っていたし。
御朱印なんてほんと興味ないので、普通の御朱印でいいのですが、お稲荷さんの御朱印とか、期間限定のお稲荷さんの修復のための記念御朱印とかお姉さんの解説を聞くとどれも魅力的。お稲荷さん、3つもあってあんなに支援者が多そうなのに、さらに基金が必要なのか。さらに、お嬢さんによるとこの御朱印群の中で一番魅惑的なのは「月替わりの御朱印」だそうで、特別の御朱印帳があって、12ヵ月通って揃えるとそれはそれは見事だそう。見本があったので写真を撮ってきました。ただ、それは書き置きの朱印だそうで、御朱印帳に直接印を押して欲しかったわたくしは、「うーん、だったら普通の御朱印でいいかな」と言ったら、「でも普通の御朱印も書き置きですよ」と言われたので、「じゃあ月替わりの御朱印ください」って言ってしまったのでした(笑)。
でも、最初500円と言われた気がしたのに、なぜか800円払ったぞ。朱印貿易かい。
「遠くから来たので毎月はむりでんねんやねんなあかんなしかし」と言ったんですが、お嬢さんは浜松はあまりよく知らないようでした。(そりゃそうだろう)。建武中興十五社もおそらく御存じない。

 

★湊川神社 (神戸市中央区)

“大楠公”楠木正成を祭る。「湊川の戦い」のあった場所。
神戸の町ってどこが中心なのか素人の私にはわかんない。Googleマップを見ながら慎重に慎重に来たのに(ながら運転は逮捕だぞ)、あと少しで湊川神社というところで変な道路に入ってしまって旋回できぬ道で神戸ポートランドまで行ってしまった。最初からやり直しです。三車線以上ある道には必ず罠が仕掛けてあるのはどうしてなんだろう。(だって川崎とか横浜とか名古屋とか一番左車線は必ず駐車専用レーンなのに、意外に大坂とか神戸とかそうじゃないんだもん。普通真ん中走るじゃん。でも真ん中走ることが罠の場所もあるんだから)。10年間ガラホ使いだった私がスマホに買い換えたのは半年前ですが、確実に半年前より私は道に迷っている。以前は家でGoogleマップを頭に叩き込んでから旅に出かけた物ですが、そもそもGoogleマップすらない25年前の方が、なぜか何もしなくても一直線に目的地にたどり着けていた気がするんですよね。(記憶が美化されているだけかもしれませんが)。実際、方角さえわかればいい。スマホアプリだと向かってる北と南が分かんないんです。

 

コメント
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