これは秋葉寺の何かよく分からない彫り物。
「永正15年6月1日、富士禅定の一行が突然の嵐に襲われて、13人もが遭難死した。---其の内に内院から大きな熊が出てきて先達3人まで喰い殺された。これは熊ではない。大鬼神(天狗)のしたことだという噂が立った。徳川幕府以前の富士登山は、それほど危険が伴っていたのである。その頃から富士の裏山小御岳の正真坊は、荒天狗として里の者達に恐れられていた」(知切光歳『圖聚天狗列伝』)
「富士講には独特の唱文の唱え方、加えて独自の文字まで作成していて、第三者には窺い知ることのできない口伝が多いので困るが、頂上の仙元大菩薩と北口中腹の小御岳正真坊を信仰の中心としているらしい。同書にある「小御岳太郎坊正真」という呼び方は富士太郎すなわち正真坊を指すものかと途惑わされるが、富士太郎坊は南口、小御岳正真坊は北側の天狗として別々に考えるべきである。そのことは他の史料で明らかである」(知切光歳『圖聚天狗列伝』)
「東方の小結、富士小御岳正真坊は、由緒・知名度その他の点で(西の小結・彦山豊前坊と比べて)たしかに若干の見劣りがするが、決して小粒ではない。しかも山の高さ、品位においては何といっても霊峯富士山の北口、山梨県側を司る正真坊である。正真坊は荒っぽいことでは定評がある。武田信玄の在世時代の前後百年のことを誌した都留郡の日蓮宗寺院の『妙法寺記』は富士山麓の農民の悲惨な生活をありのままに記録した貴重な民俗資料として珍重されているが、その『妙法寺記』に、富士山の中腹で多勢の天狗が鬨の声を挙げて騒いだのは不吉の前兆であるとか、天狗が突風を起して砂礫を飛ばし、岩石が降ってきて登山者が圧死したとか、北側の天狗の生々しい記録が残っている」(知切光歳『天狗の研究』)
「富士講には独特の唱文の唱え方、加えて独自の文字まで作成していて、第三者には窺い知ることのできない口伝が多いので困るが、頂上の仙元大菩薩と北口中腹の小御岳正真坊を信仰の中心としているらしい。同書にある「小御岳太郎坊正真」という呼び方は富士太郎すなわち正真坊を指すものかと途惑わされるが、富士太郎坊は南口、小御岳正真坊は北側の天狗として別々に考えるべきである。そのことは他の史料で明らかである」(知切光歳『圖聚天狗列伝』)
「東方の小結、富士小御岳正真坊は、由緒・知名度その他の点で(西の小結・彦山豊前坊と比べて)たしかに若干の見劣りがするが、決して小粒ではない。しかも山の高さ、品位においては何といっても霊峯富士山の北口、山梨県側を司る正真坊である。正真坊は荒っぽいことでは定評がある。武田信玄の在世時代の前後百年のことを誌した都留郡の日蓮宗寺院の『妙法寺記』は富士山麓の農民の悲惨な生活をありのままに記録した貴重な民俗資料として珍重されているが、その『妙法寺記』に、富士山の中腹で多勢の天狗が鬨の声を挙げて騒いだのは不吉の前兆であるとか、天狗が突風を起して砂礫を飛ばし、岩石が降ってきて登山者が圧死したとか、北側の天狗の生々しい記録が残っている」(知切光歳『天狗の研究』)
五合目には5つぐらいの巨大なお土産売り場&休憩所があって、たくさんの人(主に外国人)がひしめいているのですけど、そのうちの一つが非常に天狗推しなのでした。
日本の天狗文化って、海外ではどういう説明をなされているのでしょうかね。
「天狗」を発明したのは中華の人たちでその歴史も古く、中華の天狗の姿は日本と較べても比べものにならないほど種類が多く多岐に渡っているのですけど、現在の中国では天狗は全く姿を消しているだろう。これは完全に日本独自の風習なはず。この独特な信仰形態を、ここにいる外人さんたちに知らしめてさしあげたいのですけどね。
店内には天狗の姿が各所にアピールされてあるのですけど、富士山土産としては天狗グッズはひとつも売られていないのでした(笑)
さて、順路が逆になってしまいましたけど、吉田口の登り口となるのが富士吉田市にある「北口本宮冨士浅間神社」です。
同じ「浅間神社」でも、山梨県の方は富士宮本宮の「冨士氏」とはほとんど結びつきはありません。
知切光歳尊師の説明によりますと、戦国時代~江戸時代にかけて角行とその一統(身禄、光清ら)が『富士講』を起こした時、富士宮側はあまりに冨士大宮司家と村山修験者(大宮司家の分家が長となっていた)の威勢が大きかったのであえてそれを避けて、北口からの登拝をするようにしたという。この北口の方が江戸から近くて便利だったので、江戸時代中期から富士講が大流行すると、富士宮口よりも北口(吉田口)の方が栄えたという。
一応簡単な位置づけを示しておきますと、
《静岡県側》
・山宮浅間神社(富士宮市)…「世界で最も古い浅間社」を名乗っているのがここ。第7代孝霊天皇の頃に起こった富士山大噴火の害を憂れいて第11代垂仁帝が浅間神を奉じた(推定紀元前27年)。その場所は「富士山の山足の地」というが、浅間大社の説明によると「山足」とは特定の場所を示す語句ではないという。日本武尊が駿河ノ国造たちに陥れられピンチに瀕したとき富士山に祈ったら運が開けたので、感謝のために現在地に磐座を設置した。(推定紀元後110年)。
・富士本宮浅間大社(富士宮市)…駿河國一宮。大同元年(806)に坂上田村麻呂が平城天皇の命を受け山宮を現在地に移した。大宮司家として君臨する冨士氏(和邇氏の係累)が坂上田村麻呂に伴って当地に来たのは801年。富士宮の浅間社の大部分は大社と深い関わりを持つ。(人穴浅間神社は違う)
・富知神社(富士宮市)…孝霊天皇2年(推定紀元前289年)創建。「富知」は「ふくち」と読む。大社を造ろうとしたときその場所にこの神社があったので、邪魔なので近くに移した。祭神は大山祇神だが「富知=福地」とは「恵まれた土地」を表す言葉で、大社への「土地譲り」は水の神から火の神への国譲りを示す出来事だという。
・富士根本宮村山浅間神社(富士宮市)…孝昭天皇2年(推定紀元前474年)に富士山中腹に建てられた社を、大宝元年(701)に役行者が現在地に移した。中世には"修験の霊地"として栄え、富士登山を行うものは必ずこの地で身を清めてから登った。神仏習合の最も理想的な形が見られた場所で、浅間大社との関係もおおむね良好だったという。明治以降は甚だしく衰微した。
・冨知六所淺間神社(富士市)…孝昭2年(推定前474年)創建。「冨知」は「ふじ」と読む。“四道将軍”のひとりの建沼河別命が強く崇めたという。延暦の頃、富士山の火害が著しかったので富士山山腹から現在地に移した。中世には「三日市浅間」と呼ばれるほど周辺で盛んに市が開かれた。地域では「どらヱモン神社」として親しまれている。(※参考)
・東口本宮浅間神社(須走浅間)(小山町)…延暦の大噴火は東麓からだったため、山を宥めるために大同2年(807)に創建。伝説では弘法大師はここから富士山に登ったとされる。
・新橋浅間神社(御殿場市)…「御殿場口」が整備されたのは他に較べて新しく(19世紀)、この浅間神社の興隆の歴史も新しい。(だが一説には源頼朝が御殿場で巻狩りをやった時に創建)。愛鷹山(瓊瓊杵命)と桜姫をセットで祀っていることが特長。
・須山浅間神社(裾野市)…景行天皇40年(110)創建。日本武尊がここを通りかかった時になにか(奇瑞)があって建てたそうで、そのあと400年後になぜか蘇我稲目もここで何か関係したみたい。御殿場口が開かれる前はここが「東口」だったが、現在は「南口」と呼ばれている。
《山梨県側》
・冨士山下宮小室浅間神社(富士吉田市)…大同2年(807)、延暦帝の東征の成功はここから冨士山に祈願したおかげだとして坂上田村麻呂が創建。「後に各村で浅間明神を一祠に祀るが、今も猶上吉田には子生まれて百日の後社参するに、先ず下宮へ参詣す」だそうです。神紋は「桜」紋。「神様が着るお召し物」としてたくさんの女性用の着物が飾られている。一番古いのは120年前の奉納物。大塔宮の首塚と雛鶴姫の遺跡がある。
・北口本宮冨士浅間神社(富士吉田市)…景行天皇40年(110)に日本武尊がこの場所のすぐ近くにある丘(大塚丘)に立って富士山を仰いだのが始まり。神社として本格始動(?)したのは北条義時の頃。江戸時代には長谷川角行、村上光清と関わりが深い。伊藤身禄は光清とは対立していたはずだけれど、なぜかここでは一緒に祀られている。
・冨士御室浅間神社(河口湖町)…北側で最も古い浅間社を名乗っている。文武帝3年(699)に二合目に建てた社が本宮で(石を立てて作った室だったので“御室”というのだという。その場所は現在「奥宮」となっている)。天徳2年(958)に現在地に里宮を建てた。「小室浅間」と「御室浅間」は兄弟的な関係。読みはどちらも「おむろ」。武田信玄が最も保護したという。
・新倉冨士浅間神社(三国第一山)(富士吉田市)…文武帝の慶雲3年(705)年の創建。延暦の大噴火を愁いた朝廷は大同2年(807年)に勅使し、鎮火の儀式を行ったのがここだという。このとき平城天皇は「三國第一山」の称号を与えた。もちろん三国第一は富士山そのもののことだが、いつしかこの神社の呼称となった。景色が抜群に良いため「外国人に最も人気のある富士山神社」だという。
・北東本宮小室浅間神社(大明見浅間)(富士吉田市)…崇神天皇6年(推定紀元前92年)の創建時は別の神社(阿曽谷神社)だったが、応神天皇の頃の富士山の噴火の時に応神天皇の第2皇子を迎えて浅間神社となった(らしい)。聖徳太子もここを訪れ「富士山北東國本宮阿座眞明神」という名を与えた。大明見(おおあすみ)の里は徐福伝説や『宮下文書』と関わりの深い土地だという。
・河口淺間神社(河口湖町)…この神社にも「三國第一山」の扁額がある。貞観6年(864)の富士山大噴火がおこると朝廷は駿河國の職務怠慢を責め、甲斐國側にも浅間大社を造営すべしとの勅を出す。甲斐ノ国の式内社で明神大社の格を持っているのはここだけである。…と、そのとき建てられた“大社”はどこかというと今では3つの論社があって、実はよく分からない。当然その“大社”は“甲斐ノ國・一宮”であるはずだけど、他の2社に較べて河口湖のここは一宮を名乗ってはいない。河口湖北岸は富士山登山口からは遠いが、「河口御師(おし)」は吉田御師と同じぐらい興隆していた。
神託を受けて体長が2尺~7尺に伸びたり縮んだりしたという甲斐側初代祝の伴真貞のミハカは河口浅間にある(らしい。笛吹にもある)。
・忍野八海浅間神社(忍草浅間)(忍野村)…大同2年(807)の創建。源頼朝が保護した。木花咲耶姫命と共に「鷹飼の神(邇邇芸尊)」「犬飼の神(大山津見命)」を祀る。伝・運慶作の金剛力士像もある。境内に「天狗社」として武甕槌神の祠がある。
・一宮浅間神社(市川一宮)(西八代郡)と甲斐國一宮浅間神社(笛吹浅間)(笛吹市)…西八代郡の方は景行天皇の御代、笛吹市の方は垂仁天皇8年(推定紀元前22年)の創建で、貞観6年の大噴火のとき朝廷の命で木花咲耶姫が遷座されたという。富士山からはちと遠いのは噴火の直接の害を避けるため。どちらも武田信玄が最も保護した。
・山宮浅間神社(富士宮市)…「世界で最も古い浅間社」を名乗っているのがここ。第7代孝霊天皇の頃に起こった富士山大噴火の害を憂れいて第11代垂仁帝が浅間神を奉じた(推定紀元前27年)。その場所は「富士山の山足の地」というが、浅間大社の説明によると「山足」とは特定の場所を示す語句ではないという。日本武尊が駿河ノ国造たちに陥れられピンチに瀕したとき富士山に祈ったら運が開けたので、感謝のために現在地に磐座を設置した。(推定紀元後110年)。
・富士本宮浅間大社(富士宮市)…駿河國一宮。大同元年(806)に坂上田村麻呂が平城天皇の命を受け山宮を現在地に移した。大宮司家として君臨する冨士氏(和邇氏の係累)が坂上田村麻呂に伴って当地に来たのは801年。富士宮の浅間社の大部分は大社と深い関わりを持つ。(人穴浅間神社は違う)
・富知神社(富士宮市)…孝霊天皇2年(推定紀元前289年)創建。「富知」は「ふくち」と読む。大社を造ろうとしたときその場所にこの神社があったので、邪魔なので近くに移した。祭神は大山祇神だが「富知=福地」とは「恵まれた土地」を表す言葉で、大社への「土地譲り」は水の神から火の神への国譲りを示す出来事だという。
・富士根本宮村山浅間神社(富士宮市)…孝昭天皇2年(推定紀元前474年)に富士山中腹に建てられた社を、大宝元年(701)に役行者が現在地に移した。中世には"修験の霊地"として栄え、富士登山を行うものは必ずこの地で身を清めてから登った。神仏習合の最も理想的な形が見られた場所で、浅間大社との関係もおおむね良好だったという。明治以降は甚だしく衰微した。
・冨知六所淺間神社(富士市)…孝昭2年(推定前474年)創建。「冨知」は「ふじ」と読む。“四道将軍”のひとりの建沼河別命が強く崇めたという。延暦の頃、富士山の火害が著しかったので富士山山腹から現在地に移した。中世には「三日市浅間」と呼ばれるほど周辺で盛んに市が開かれた。地域では「どらヱモン神社」として親しまれている。(※参考)
・東口本宮浅間神社(須走浅間)(小山町)…延暦の大噴火は東麓からだったため、山を宥めるために大同2年(807)に創建。伝説では弘法大師はここから富士山に登ったとされる。
・新橋浅間神社(御殿場市)…「御殿場口」が整備されたのは他に較べて新しく(19世紀)、この浅間神社の興隆の歴史も新しい。(だが一説には源頼朝が御殿場で巻狩りをやった時に創建)。愛鷹山(瓊瓊杵命)と桜姫をセットで祀っていることが特長。
・須山浅間神社(裾野市)…景行天皇40年(110)創建。日本武尊がここを通りかかった時になにか(奇瑞)があって建てたそうで、そのあと400年後になぜか蘇我稲目もここで何か関係したみたい。御殿場口が開かれる前はここが「東口」だったが、現在は「南口」と呼ばれている。
《山梨県側》
・冨士山下宮小室浅間神社(富士吉田市)…大同2年(807)、延暦帝の東征の成功はここから冨士山に祈願したおかげだとして坂上田村麻呂が創建。「後に各村で浅間明神を一祠に祀るが、今も猶上吉田には子生まれて百日の後社参するに、先ず下宮へ参詣す」だそうです。神紋は「桜」紋。「神様が着るお召し物」としてたくさんの女性用の着物が飾られている。一番古いのは120年前の奉納物。大塔宮の首塚と雛鶴姫の遺跡がある。
・北口本宮冨士浅間神社(富士吉田市)…景行天皇40年(110)に日本武尊がこの場所のすぐ近くにある丘(大塚丘)に立って富士山を仰いだのが始まり。神社として本格始動(?)したのは北条義時の頃。江戸時代には長谷川角行、村上光清と関わりが深い。伊藤身禄は光清とは対立していたはずだけれど、なぜかここでは一緒に祀られている。
・冨士御室浅間神社(河口湖町)…北側で最も古い浅間社を名乗っている。文武帝3年(699)に二合目に建てた社が本宮で(石を立てて作った室だったので“御室”というのだという。その場所は現在「奥宮」となっている)。天徳2年(958)に現在地に里宮を建てた。「小室浅間」と「御室浅間」は兄弟的な関係。読みはどちらも「おむろ」。武田信玄が最も保護したという。
・新倉冨士浅間神社(三国第一山)(富士吉田市)…文武帝の慶雲3年(705)年の創建。延暦の大噴火を愁いた朝廷は大同2年(807年)に勅使し、鎮火の儀式を行ったのがここだという。このとき平城天皇は「三國第一山」の称号を与えた。もちろん三国第一は富士山そのもののことだが、いつしかこの神社の呼称となった。景色が抜群に良いため「外国人に最も人気のある富士山神社」だという。
・北東本宮小室浅間神社(大明見浅間)(富士吉田市)…崇神天皇6年(推定紀元前92年)の創建時は別の神社(阿曽谷神社)だったが、応神天皇の頃の富士山の噴火の時に応神天皇の第2皇子を迎えて浅間神社となった(らしい)。聖徳太子もここを訪れ「富士山北東國本宮阿座眞明神」という名を与えた。大明見(おおあすみ)の里は徐福伝説や『宮下文書』と関わりの深い土地だという。
・河口淺間神社(河口湖町)…この神社にも「三國第一山」の扁額がある。貞観6年(864)の富士山大噴火がおこると朝廷は駿河國の職務怠慢を責め、甲斐國側にも浅間大社を造営すべしとの勅を出す。甲斐ノ国の式内社で明神大社の格を持っているのはここだけである。…と、そのとき建てられた“大社”はどこかというと今では3つの論社があって、実はよく分からない。当然その“大社”は“甲斐ノ國・一宮”であるはずだけど、他の2社に較べて河口湖のここは一宮を名乗ってはいない。河口湖北岸は富士山登山口からは遠いが、「河口御師(おし)」は吉田御師と同じぐらい興隆していた。
神託を受けて体長が2尺~7尺に伸びたり縮んだりしたという甲斐側初代祝の伴真貞のミハカは河口浅間にある(らしい。笛吹にもある)。
・忍野八海浅間神社(忍草浅間)(忍野村)…大同2年(807)の創建。源頼朝が保護した。木花咲耶姫命と共に「鷹飼の神(邇邇芸尊)」「犬飼の神(大山津見命)」を祀る。伝・運慶作の金剛力士像もある。境内に「天狗社」として武甕槌神の祠がある。
・一宮浅間神社(市川一宮)(西八代郡)と甲斐國一宮浅間神社(笛吹浅間)(笛吹市)…西八代郡の方は景行天皇の御代、笛吹市の方は垂仁天皇8年(推定紀元前22年)の創建で、貞観6年の大噴火のとき朝廷の命で木花咲耶姫が遷座されたという。富士山からはちと遠いのは噴火の直接の害を避けるため。どちらも武田信玄が最も保護した。
こんなにある富士山周辺の浅間神社ですけど、天狗探求的に必ず訪れるべきなのが、富士吉田市にある「北口本宮浅間神社」なのです。
ほら、あんなところに天狗様が!
なんてステキな天狗さまだら!
「天狗の浅間」といわれるこの神社において明瞭に天狗がおわす場所は実はこれしか無いのですけど、参拝するに当たって一番要所となる位置(五合目の小御岳神社の天狗面と同じ位置)に天狗は飾られてござらっしゃる。
そして、「冨士太郎杉」と「冨士次郎杉」。
北口本宮の第一神木が太郎杉。
太郎杉! やっぱり北口の天狗(小御岳正真坊)は「太郎坊」なんじゃん、と安易に思いそうになりますけど、「次郎杉」とセットになっているのが怪訝ではある。京都の大天狗には「太郎坊」と「次郎坊」がいるのですが、東側では「次郎坊」って聞いたことが無いのですよね。そもそも神社の公式な説明では、この神杉を天狗と絡めては語っていないのでした。日光東照宮にも有名な「太郎杉」がありますし、一番立派な杉のことを「太郎杉」と名付ける習いは東国にはあるのかもしれない。もしかしたら南極の二匹の犬にちなんでいるのかもしれない。(※非公式に「北口の天狗と太郎杉」の関係を述べている人もいないではありません)
でも、天狗の神社で太郎杉といったら、ふつうはてんぐ様だよなあ。
太郎杉から見て、拝殿と本殿の繋ぎ目あたりを護るあたりの控えめな位置に「次郎杉」があります。本当に天狗護神でも宿っていそうな杉様だなや。
…さて、このあたりで富士山の天狗の特徴について説明しなくてはなりません。
知切師は「北口の天狗はとてつもない暴れ者」と言っていますが、この天狗はどこから来たか。
たとえば京都や九州では大天狗は明確に名山と結びついていて、それらの山々の大棟梁天狗はまさしく神の如しです。例えば、愛宕山太郎坊は火の神カグツチの第4の霊感(=娘?)として生まれ、カグツチ自身の化身として神と山と一体化しつつ山全体を巨大な翼で覆っている。秋葉山三尺坊の場合は、信州戸隠に神童として生まれた小坊主が越後國栃尾で突如覚醒し各地を数百年飛び回ったのち遠州秋葉山で神霊を見て降り立ち、秋葉権現(=大己貴)と一体化して護山となった。
こういった説明は「冨士山大天狗」には無いように思われる。
現在「冨士山の神様」として一般的に名前が出てくるのは「木花咲耶姫」というたおやかな女性ですが、この美女は太古からの天狗伝承とは全く結びつかない。「桜に宿る天狗」などというのは聞いたことが無いし(←そうでもないか。吉野と上州あたりに出没すると聞いたことはあった)、でもおおかたの天狗はたった一週間で散ってしまう桜の根性無しなど軽蔑している(と思う)。
そのあたり甲斐國側の小御岳神社は頭が良くて、「岩神」である磐長姫を持ち出すことによって、「冨士山の最も古い地層である小御岳の岩山から生まれた岩天狗は自分のかわいい妹(冨士山全体)を護山する(磐座信仰の変形)」と言っているのですけど、磐長姫信仰の本場である静岡県側では、そもそも磐長姫が天敵である木花咲耶姫の近くにいることなどありえないので、そういう説明をフンと鼻で笑う。磐長姫を信仰するならば、富士山を誉めてはならないのです。富士山神学的に言えば木花咲耶姫も新参の神で、もともとの「浅間神」は、姫の父上である「大山祇命」なのですけれど、この大神は日本全国7千万の山々すべてを統括する神でなかなか忙しく、個々の山の個々の天狗などには構ってはいられないようなイメージがある。
では、冨士山の天狗はどこから出てきたのかというと、「富士行者」(←静岡県側)と「冨士講先達」(←山梨県側)なのです。富士山の天狗とは、この人たちが説明する「冨士山の自然の不思議」の顕現です。
中世頃から富士の登山は盛んになったと言われてますけど、やはり富士山はとてつもなく厳しい山でした。今でも少しの不注意で富士山で死ぬ人のニュースを耳にします。でも、富士山ほどの山ですから、何百度も富士山に登って山頂でお茶することを日常とする人たちもいて、そういう人たちが「先達」として有料で登山者達のガイドをする。富士山は登るのは簡単だけど死ぬのも簡単。それは江戸時代から言われていたことだと思います。
ちょっとでも時季を外したり道を外したりしたら簡単に遭難する山。そういった登山で先達たちがお客さん達を統率するためにみんなで創り出した神の鞭が、「富士山の荒々しい天狗たち」だったのだと思います。実際にわたくしたちが漠然と思っているより、富士山の自然って荒々しいそうですね。たとえば御嶽山や浅間山や剱岳だったらみんな確固たる決意を持って登るのでしょうけど、富士山ぐらいだったらむかしから「だって富士山でしょ」と言いながらジーンズとハイヒールで登る人が多かったんじゃないか。
そういった加波の国の人たちを嬉々に見つけて神の鉄槌を細々に様々に与えていた人たちが、富士山の天狗さんたちだったと思います。
一見して、行者さんたちの天狗さんたちを見つめる目は優しい。
「富士山修験の最後の法印と言われた秋山芳秊翁(明治26年生まれ)から直接聞いた話だが、彼らが夏山にこもる入峯の行に入ると、必ず飯綱さんの場所(=宝永山の下方にかつてあった社)で木札を納めてゴマを焚いたという。飯綱さんが座る場所にモミの枝を敷いて、赤飯のむすびを奉納する。その際、変わったことに赤飯を空中高く放り上げて、「天狗!」と大声に叫ぶ。その声に反応して天狗がむすびを受け取るのだといい、三度ほど繰り返すと、近くのモミ林の枝に一つぐらいはひっかかって落ちてこない。すると「天狗さんが受け取ってくれた」と言って喜び、全て落ちてくると「今日はお天狗さまの機嫌が悪い」と言って大慌てで後ずさりして下山したものだという。その際、飯綱さんに背を向けないように本当に後ずさりして退去したという」(遠藤秀男『富士山歴史散歩』)
「さらに秋山翁の話によれば、山麓の大モミという所にむかしは行場があり、山伏が泊まって行をした。その夜天狗が必ず来ては悪戯を仕掛けたという。突然大風が吹き、枝がボキボキ折れる。その音を聞いても古参の者は驚かず、「天狗の奴がまたイタズラしてらァ」と言って平気で寝ていたが、新参者は恐ろしさで寝付けなかったという。翌朝小屋を出て見ても、枝の折れた跡もなければ大風の通った跡もない、というのが通常だった。ただ彼の祖父はそこで疝気だった事があり、「天狗に金玉を抜かれた」と言っていたそうである」(遠藤秀男『富士山歴史散歩』)
「彼らは13日間を山中で修行して下山するのだが、その間の食事はカユだけであった。そのカユも、お椀一杯に米が36粒しか入っていないという薄いカユなのである・そのため頂上周りをして行場に帰る時には、空腹のため「夜道に黄色い星がとんで歩く」というほどだったという」(遠藤秀男『富士山歴史散歩』)
「江戸の学者原徳斎が文政11年(1828)に表口村山から登山した際、山中で用便をしたくなった時に案内人の強力がこう教えたという。「鼻高様が住んでいらっしゃるから、お山を汚さぬように懐中紙を地に敷いてなさいませ」。「これを守らねば、ときとして怪事もまま有るとぞ」」(遠藤秀男『富士山よもやま話』)
「さらに秋山翁の話によれば、山麓の大モミという所にむかしは行場があり、山伏が泊まって行をした。その夜天狗が必ず来ては悪戯を仕掛けたという。突然大風が吹き、枝がボキボキ折れる。その音を聞いても古参の者は驚かず、「天狗の奴がまたイタズラしてらァ」と言って平気で寝ていたが、新参者は恐ろしさで寝付けなかったという。翌朝小屋を出て見ても、枝の折れた跡もなければ大風の通った跡もない、というのが通常だった。ただ彼の祖父はそこで疝気だった事があり、「天狗に金玉を抜かれた」と言っていたそうである」(遠藤秀男『富士山歴史散歩』)
「彼らは13日間を山中で修行して下山するのだが、その間の食事はカユだけであった。そのカユも、お椀一杯に米が36粒しか入っていないという薄いカユなのである・そのため頂上周りをして行場に帰る時には、空腹のため「夜道に黄色い星がとんで歩く」というほどだったという」(遠藤秀男『富士山歴史散歩』)
「江戸の学者原徳斎が文政11年(1828)に表口村山から登山した際、山中で用便をしたくなった時に案内人の強力がこう教えたという。「鼻高様が住んでいらっしゃるから、お山を汚さぬように懐中紙を地に敷いてなさいませ」。「これを守らねば、ときとして怪事もまま有るとぞ」」(遠藤秀男『富士山よもやま話』)
富士山の浅間神社業界において、北口本宮は新参だったのだと思う。
後進ではあったが立地は良かった。(富士山が最も威勢が良かった王朝期はこのあたりは最も危険で、他の神社は少し離れた場所にできたからです)。だからこそ戦国時代に長谷川さんが目を付けたのだと思うし、戦国時代に流行しかけていた天狗ブームをどこよりも先駆けて取り入れる余地はあったし、「富士山天狗」という独特の文化を創り上げる可能性はあったと思う。富士山には天狗(=自然の驚異)は太古から有ったが、富士山の歴史の変転そのものが存外に激しいために、富士山周辺に住む人々の神霊に対するとらえ方も激しく変化があった。現在でも富士山の天狗信仰は北口周辺が一番色濃く残っていると言われますけど、結局のところはそれは江戸時代中期ぐらいのブームの残滓なんだ、と(自分にとっては)噴飯たることを思わざるをえませぬ。『富士講』という信仰は現在でも少しだけ残ってはいるのです。でも江戸時代の中頃に「宝永大フィーバー」という再度の盛り上げが起こり、この時山梨県側の富士山の天狗の人たちは何をしていたのか、それが私の気になるところです。
要するに北口本宮はこういう飾り物に象徴される神社なのです。
天狗グッズも2点だけ売られておりました。
北口本宮の神紋は、「桜」。おお! そりゃそうだよね。
「三国第一山」の語句がこんなに気になるとは思ってなかったので、その時撮った写真はこんなに不鮮明なものでした。
さて、この浅間神社で最も興味深いのが、この神社には「火祭り」の行事があるということです。
「火祭り」といえば天狗。
8月の終わりに北口浅間宮から始まる「吉田の火祭り」は「日本三奇祭のひとつ」と呼ばれるほどだとか。
浜松人には、火祭りがどうやったら「奇祭」になるのかよく分かりませんけど。
ただ、この「吉田の火祭り」は調べれば調べるほどよく分からない祭りです。
まず、神社で行われるまつりなのですから神事であり、神様の何らかの逸話にまつわる捧げごとなので「火坊天狗」がいる山なら何の不思議は無いのですけど、北口浅間宮の場合、祭りのおこりがはっきりしていないらしい。富士吉田の町で起こされた火が吉田口の登山道を通ってそれぞれの山小屋で続き、それが富士山五合目まで続くというのですから、富士山の火神に捧げる神事であり、その担い手が富士山五合目の「小御岳正真坊」であるというのが一番わかりやすい説明なのですけど、実はこの祭りは「浅間神社」ではなくてもともとは境内にある摂社(もともとは別の神社だった)「諏訪神社」の神事だったという説が強いんですって。
諏訪神社と言えば水の神。なんで水の神社で火祭りをすんねん。
このあたりが、“火の神”を奉じる秋葉神社や愛宕神社がやっている“防火”の神事と、噴火に悩まされた富士山の国の人々が“水の神様”に祈った“鎮火”は思想が違うというしかないようです。
北口浅間内にある諏訪神社
神社が掲げる「一説」として、
浅間神社の祭神である「木花咲耶姫」には、夫に不貞を疑われて憤懣した姫は産屋に火をかけ、燃えさかる炎の中で「火照命」(ほでりのみこと=海幸彦)、「火闌降命」(ほすせりのみこと)、「彦火々出見命」(ひこほほでみのみこと=山幸彦)の三つ子を産んだという神話がある。これにちなんで「木花咲耶姫」=「火の女王」=「優美と猛々しさを併せ持つ富士山の化身」とみなして火祭りの神事をおこなう。
と言っているのですが、これはあくまで「一説」で、
古記録を検証すると、有力なのは
諏訪神社の祭神である「建御名方の神」が国譲りの争いに負けて「建御雷」に追われ全国を逃げ回っていたとき、富士山の住民が手に松明を持って神様を迎えた。それを見て追っていた建御雷軍は「援軍がいる」と勘違いして一時退却したので、諏訪の神様は富士吉田にしばらく滞在した。その故事からいつしか、大松明を焚き上げて町角に設置し諏訪の神様を称える火祭りをおこなうようになった。
という起源説だそうです。
ここには天狗が出てくる余地は無い。が、やっぱり吉田の火祭りの起源は不可解です。
なんでここに諏訪の神が出てこないといけないかわからん。そもそも全国に他に「火祭り」をやっている諏訪神社はあるのだろうか。と天龍川のほとりで生まれ育ったわたくしは非常に関心が湧くのでした。この吉田の火祭り、もっと詳しく調べてみたいですね。
山中湖から見る富士山。
こっち方面から見る富士山の形は、静岡県民が想う富士山とは違う形です。新鮮。
…事前に富士山の浅間神社と天狗について適当に調べてからここに来たのですけど、「北口浅間にだけ行けば大丈夫!」と思い込んでしまっていたからそこにしか行きませんでしたが、実は河口湖畔の「御室浅間神社」にも天狗面があり、そこも「天狗の浅間」らしい。また、忍野八海の浅間神社にも建御雷を祀った「天狗社」があるというのですが、この時は知らなかったのでした。…とほほ、また来なければならんのか。
(…つづきます)
輝く星のイオドかな?