オセンタルカの太陽帝国

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柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

陸奥の宮(守永親王)ゆかりの寺院。

2019年05月11日 06時40分57秒 |   南北朝


袋井市にある「福聚山慈眼寺(ふくじゅさんじげんじ)に行ってきました。
かつてネットで「“戦う親王”守永親王が17年住んで死んだ場所」で、われらが浜名湖の堀江村(=舘山寺町)ゆかりの「堀江時国」が建てた寺、と言うことを知ったんですけど、行ってみたら全然案内板などなかった。おそらくこれじゃ袋井の人でもほとんど守永親王の名前など知らないだろうな。

本には「袋井市の高部」と書いてあったのですけど、現在高部という地名はありません。「本が間違ったのかな」と思ったのですが、袋井市立図書館のサイトによると、明治8年に高部村と赤尾村が合併して高尾村になったのだそうです。


『遠州三十三観音霊場めぐり ~花と観音霊場~』さんから引用

慈眼寺 縁起
慈眼寺は寺伝によると、今から680有余年前南北朝時代の元弘年中(1331~33)頃に開創、当初は那智山観音堂と称し天台宗であったとある。観音堂建立に際しては『遠江風土記伝』によると後醍醐天皇の皇子守永親王が東行の途中遠州灘沖で船が難破し、福田の浜より高部にきて行宮を建て17年間住まわれ没した。この時皇子に随従していた堀江新衛門中務大輔時国公が皇子の死去に歎き、一宇の観音堂を建立して供養したのが始まりとされている。その後、江戸時代の元和年中(1615~23)には観補馨察大和尚により開山。本堂を再建し福聚山慈眼寺と改め曹洞宗に改宗した。
ご本尊聖観世音菩薩は行基作の秘仏である。古来より福寄の観音さまとして信仰を集め、ご開帳は33年目毎で平常は前仏の観音さまを拝む。


まあ残念な事ですが、戦う皇族のことを偲べるものも全くありませんでした。
境内は広いんですけど、建物は多くなく(少なくも無い)



一番目立つのは楼門。
二階部分に鐘があります。



かっこいい扁額。(…が非学な私には「影武者」か「痛医者」と読めてしまう ←なんでや)




駐車場から楼門までの間に、参道なのか駐車場なのかどなたかのお宅の庭なのかよくわからない広大に敷地があり、その隅に立っていた龍燈型のお堂。中におわすのは観音さまっぽい。




本堂。
御本尊は聖観世で、33年に一回御開帳される秘仏だそうです(次回は2046年)。庭園も見事だそうですけど見られません。



まんなかの文字が「む」に見えてしまうんですねわたしには。



楼門の脇には地蔵堂(?)らしいものがあって、お地蔵様が(そうでないのもござらっしゃるが)ずらり。なんですかね、何かあったときにお地蔵様を奉納する風習などあるのでしょうか。



左手を見ると藤棚が。
半月前ぐらいに来たらすごかったんだろうなあ。

その奥にはしっとりしたスペース。



また龍燈型のお堂があって、「助命観音」と書いてありました。
覗いてみますと、内側だけ焼け焦げた樹のウロに安置された小さな観音様が見えます。



さらのその奥には、立派なお稲荷様がありました。



お稲荷はいいとして(←「翁稲船稲荷」というらしい)、参道の両脇に赤い鉄材で囲われた、参道なのか神域なのか隔てられたスペースがあるのが印象的ですね。仕切りの赤い鉄材には一定間隔で穴がたくさん開いていて、来たるべき祭日には赤いのぼりを無数に立てるのだと思います。





検索してみますと、「福聚山慈眼寺」という、山号までも同じお寺が全国に分布していて、「チェーン店かなにかなの?」と頭蓋骨をひねってしまいます。

・福聚山慈眼寺(宮城県仙台市太白区秋保町馬場字滝原)(金峰山修験本宗)
・福聚山慈眼寺(宮城県登米市迫町)(曹洞宗)
・福聚山慈眼寺(野崎観音)( 大阪府大東市野崎)(曹洞宗)
・福聚山慈眼寺(新潟県十日町市)(曹洞宗)
・福聚山慈眼寺(千葉県勝浦市植野)(日蓮宗)
・福聚山慈眼寺(愛知県知立市山町桜馬場)(曹洞宗)
・福聚山慈眼寺(東京都八王子市長房町)(曹洞宗)
・福聚山慈眼寺(京都市上京区出水通七本松東入)(曹洞宗)
・福聚山無量壽院慈眼寺(神奈川県小田原市城山)(黄檗宗)
・福聚山慈眼寺(岐阜県飛騨市古川町袈裟丸)(曹洞宗)
・福聚山金毘羅宮慈眼寺(滋賀県彦根市野田山町)(曹洞宗)
・由城山福聚院慈眼寺(埼玉県坂戸市中小坂)(真言宗智山派)
・福聚山慈眼寺(神奈川県平塚市豊田打間木)(曹洞宗)

…まだまだありそうですけど、どうやらグループ企業じゃないみたいですね。(この中で一番古いのは大阪の慈眼寺で天平勝宝年間(8世紀半ば)の創建。次いで岐阜の慈眼寺が白河院の頃の創建)。なんでこんなに同じ名前のお寺ばかり、、、 と思ったら、『古都奈良のやくよけ発祥の慈眼寺』さんの『副住職のブログ』によると、「慈眼寺」の「慈眼」とは「観音経」の「慈眼視衆生 福聚海無量」に由来していて、「慈眼」と「福聚」という語句はセットなのだそうです。だから観音様なのね。(「観音経」は「法華経」の一部)


さてさて、守永親王についてですね。
上述の説明文によれば、守永親王は嵐でここに漂着してから17年間ここにひっそりと隠れ住んで、そして死んだ。 …というように読めますけど、数少ないサイトを検索して読み比べますと、ここに漂着したあと、井伊谷やら奥州宇津峯やらいろいろ転戦して、そのあと正平7年にまた遠江に帰ってきて、正平10年にここで死んだ、と書いてあるところがあります。(何歳なんや)

注意するべき事ですが、上の方に挙げた文章で「観音堂建立に際しては『遠江風土記伝』によると」という記述、

正確に言うと『遠江風土記伝』(内山真龍)に書かれている文章は、
「古老曰ふ吉野朝廷二ノ皇子御舟に乗られ東行の時、天龍灘に於て難風吹き、御舟は福田港に着く。高所に行宮を建て住み給ふ。故に高部と云ふなり。其行宮跡存す。大門、御門、御陵、大塚、八坂等の名を嗅び、凡そ内裏に准じ皇居十七年、皇子滋に薨御す。御墓を造り俗に御陵と云ふ。〔年日御名伝はらず按ずるに第二皇子宗良親王なり詠歌並に事実引佐郡に註す〕」

となっていて、この皇子は守永親王じゃなくて宗良親王なんですね。
だけと世の宗良親王研究家は、「宗良親王が袋井市に長期滞在したとする史料なんてないので(あるんだが)、この記事は宗良親王と守永親王を混同したものである」としています。


また、じゃらんの観光地紹介に、袋井市に「守永親王の御陵」がある、と書いてあって(書いてないが)、びっくりぎょうてんしてしまいます。
しまった、知らなかったから行かなかった。(また行かなきゃ)

(引用)
大門大塚古墳について
大門大塚古墳は袋井市立袋井南公民館の北側、小笠山から西へ延びる太くて長い尾根の先端部に作られた段丘の上に立地しています。『遠江国風土記伝』や『遠江古跡図絵』に「高部の石棺」として記述され、後醍醐天皇の皇子の墓として古くから知られていました。二次にわたる発掘調査が行われ、古墳時代後期の円墳であることが確認されました。古墳時代の旧地表面(標高21.5メートル前後)からの墳丘の直径は約26メートルで、高さ約4メートルを測ります。古墳の周囲には幅5~6メートルで、深さ約1.5メートルの周濠がめぐり、墳丘は平坦な地面に周濠を掘削した時の土を一定の高さで外側から内側に向かって積み上げて造られているのが確認されています。 主体部は円礫を積み上げた横穴式石室で、明治の発掘の際に積み直されたようで、現在の石室は全長3.8メートル、奥壁の幅は1.6メートル、開口部の幅は1.8メートルを測り、開口部に向かって徐々に幅を増す構造となっています。奥壁、側壁ともに楕円形礫を小口積みにし、奥壁では小口積みした楕円形礫の上約1メートルの高さに大形の板状の石を二枚立て並べています。天井石と考えられる大型の板状石も残されています。石室の床面も明治の発掘の時に掘り抜かれ、開口部と奥壁では1メートル前後の高低差があり、階段状になっています。これまでの調査で発見された遺物は土師器、須恵器、馬具、武器、装身具、鏡などで、これらの出土遺物から大塚古墳の築造時期は6世紀前半を大きく遡らないと考えられ、静岡県西部の古墳時代後期を代表する古墳として、墳丘を中心に843平方メートルが平成5年に静岡県指定の史跡に指定されました。


…でもしかし、書いてあるように発掘調査の結果、古墳時代(5世紀後半)の遺物がたくさん発見されているので、南北朝時代の親王のために造営されたものではありえないのですけどね。
でも、江戸時代から「石室が露出している」ことで有名だったのに、明治の民間の有志の発掘で出土品が大量に出たというのは凄いことだ。


『遠江古蹟圖繪』(再彰館長庚、江戸時代後期)より。

「高部の石棺」
「袋井宿の南に山名郡高部村有り。石棺、山の中段に有り、民俗言に曰く、この石棺の蓋を執ると火の雨降る由を云ひ伝へ、人皆怖る。あるいはこの上へ人登れば忽ち煩ひ出すとなり。去る戌八月この所へ行き見るに、ただ平たき石ばかり有りて棺は見えず。その近所に耕作して居る老人有り。この人に石棺の事を問ふに、名高き石棺はこの事なりと云ふ。この事を詳かに教へたまへといへば、老父曰く、この近所に妙法院の宮と云ふ貴き人流れさせたまひ暫く滞留有り。高き所に御所を構えて御座しける。その跡を高御所村となづく。彼の妙法院宮崩御有りて、石棺に納葬りし所と云ひ伝へる旨を申す。宝暦年中までは、その棺土中より半ば出づる。近来埋も蓋ばかり出づる由。その脇に四角なる切石に、丸き石を置きて五輪の形とす。これ石碑の印とす。ゆゑに貴人の石棺なれば、上に登る人あれば罰を蒙る事なり。それゆゑにかくのごとき石塔の形をなすなりと物語りける。この所の者の云ひ伝へなり。その近辺に堅石一つ有り。鏡石と云ひ、ゆゑを知らず、この宮は後醍醐天皇の御子なり。世に二品尊澄法親王と申したるは、この宮の御事なり。昔の事なれば審かに分からず。高部村に日吉権現といえる社あり。社の脇に日吉松の朽木の株あり、昔は大木にして名木なりしと云ふ。この社は昔白河院高部村に寓居ましましける時に鎮守の宮なりと云ふ」


…そりゃ、普通の農夫が守永親王の名とか古墳時代の定義とかなんて知るはずがありませんからね。
全部宗良親王のことにしてしまうのは仕方のないところ。「二ノ宮」「妙法院宮」「尊澄法親王」「征夷大将軍宮」「遠江宮」「信濃宮」「越中宮」「大草宮」「宗良親王」は同一人物です。
で、ここには白河教皇が住んでいたこともあったのか。


で、現代の私たちでさえ、「親王が葬られたと伝わる場所」が、「この付近で最も大きい、大門大塚古墳」だと思ってしまうのですが、実は近くに「御所森古墳」という小さな古墳があって、名前からも立地からも、そっちのほうが本物の「皇子の墓」だと思うのです。


<袋井駅周辺の古墳の地図>
…袋井も磐田も町の中心部に古墳が密集していて羨ましいですね。浜松にも分けてほしい。


この地図で見ると「大門」からも「慈眼寺」からも少し離れているように見えるのですが、ここは近くに「高部不動産」という会社もあり、本来の高部っぽい。「行宮跡」はこの付近にあったのでしょうか。ただ、本には「御所森は三方が民家に囲まれ現在は茶畑になっている」「由緒の大要が書かれた看板がある」と書かれているのですが、ストリートビューでぐりぐり探してみても、もうそれっぽい場所がみつかりません。(また行って歩き回ってみなければ)


それから、「堀江時国」のこと。
これはもう完全に無名人物で、ネットで検索しても全然情報の得られない人ですけど、さすがに浜松では有数の観光地である「舘山寺温泉」の古名「堀江村」の由来となった人(実際に地名の由来になったのは、彼の戦国時代の子孫なのですが)、現地で書かれた地誌には何度か名前が出てきます。
(しかし本によって書いてある事が違う)

庄内郷土史研究会が編纂した『庄内の歴史(一)』(昭和47年)では、堀江時国を「藤原利仁流(斎藤氏)の裔で、越前国坂井郡堀江郷に70ヵ村を所有していた」としていて(藤原氏)、舘山寺観光協会が編纂した『古今往来 ~浜名湖かんざんじ温泉紀行~』(平成11年)では、「星合(新田)義顕の嫡男である時国が坂井郡堀江郷に住んで堀江氏を名乗った」とあります。
世に「堀江氏の由来」が二系統あるから意見が分かれているですが、新田義顕の長男(という説もある)だったのかい。

「源氏の嫡流・新田氏の知られざる嫡男」がここで人知れず戦っていた、としたらドラマチックだとは思いますが、現在知られている「新田流堀江氏」は新田義顕の弟の義宗の子孫で、しかも彼らは堀江庄には住めずにいた(越前は超激戦区だったから、上野・武蔵国で勢力を扶植した)のですが。公式には新田義顕は金ヶ崎で18歳で戦死したから子供は無いことになっていて、でもかの軽佻浮薄な新田一族が18歳にもなって全く子供を為していないはずがないから、Wikipediaには(伝)義顕の子として、「新田義和」と「天野顕政」の二人の名を挙げています。新田義貞が大いに将来を嘱望した義顕に、越前の国で最も広い坂井平野を任せた事は十分ありえることで、義顕が死んだので義宗にそれを継がせたがすでに越前では北朝の勢力(利仁流堀江氏)が強くなって、新田堀江氏は関東へ逃げていったのかも知れません。『星合系図』には「堀江左衛門大夫義藤は、新田義顕六世の孫也。義顕に二子あり、嫡子は越前堀江に居り、二男は同国本庄に居る。故に嫡子は堀江と号す」とあり、中興系図に「堀江・清和源氏、新田越後守義顕の末葉」と書いてあるのだそうです。ただ、時国が義顕の息子だったとしても、「時国」って名前は新田氏の係累っぽくないな。「新衛門中務大輔」って官名は新田氏っぽいですが。
ともかく、新田義貞は後醍醐天皇のために死に、義顕は尊良親王と共に死に、その息子は尊良親王の息子(守永親王)にいつまでも随従した、という泣けるお話は十分ありえそう。



『庄内の歴史(一)』(昭和47年)より。
「時国は、越前国でたびたび戦功をたて、また東国を鎮めようとして、延元3年(1338)尊良親王の皇子守永王に従って、宗良親王らと伊勢湾より船に乗り、遠州灘にさしかかったとき、たまたま暴風にあって難破し、将兵は各地に四散したが、時国は守永王と共に白羽湊(掛塚湊)に流れ着いた。時国や守永王は宗良親王と別れて、山名郡高部(袋井市高尾)に二年ほど滞在し、さらに白河城・小田原・関城を経て、ふたたび高部に帰り、行宮を建てて住まわれたが、守永王は14年ここにおられて死去された。時に24才の若さであった。時国はこれを嘆いて、王のために慈眼寺を建てて、ねんごろに供養した。時国は越前国坂井郡に帰り、元中3年(1386)70才で一生を終った」

…後醍醐のアホ野郎が孫(もりなが)に「おまえ東国に行って戦ってこい」と言ったのは、孫が最大限見積もって7歳未満だったときってことじゃん。懐良親王の時よりひどすぎる。でもこれによると堀江時国は延元3年には22歳で、その父の新田義顕が19歳で死んだのは延元2年(1337年)なので、堀江時国は自分の父(義顕)が生まれる2年前に生誕していることになる。(※『庄内の歴史』は「堀江時国は藤原氏」説を採用している本なのでこういうこともありえます。何かの史料を参照してるんでしょうけど)



ということで話をもどしますが、古い本では「袋井にいた南朝の皇子」はみな宗良親王だとしているのですが、現在ではそれは守永親王の事だとなってしまっているのです。その明晰な根拠を書いている本は私はまだ目にしていないですが、おそらくそれは『慈眼寺の由緒』に由来しているのだと思います。今回お寺に行って、それもまた見る事ができませんでしたけど、袋井市図書館に行ったらあるのかなあ。

(ネットで見つけた文章)
・第七番 福聚山 慈眼寺(袋井市高尾1169⁻1) ふくじゅざんじげんじ  
 創建:元弘年間1333~33、開基:慈眼寺殿精忠時国大居士(俗名:堀江新右衛門中務大輔時国)、本尊:聖観世音菩薩:木造立像75㎝伝行基作、宗派:曹洞宗、開帳:33年毎‣次回2013年・正月18日初観音・大般若大祈祷会を厳修、
縁起:
創建時は袋井駅付近にあり、天台宗那智山観音堂だった。当地に後醍醐天皇の皇子が行堂を建て住まわれた。皇子は正平七年(1352)病を得て十年に没した。従者堀江新右衛門時国が嘆いて観音堂を建てた。その後時国子孫政久が元和年間(1615~23)再建し、禅僧観補麼察和尚開山。延宝三年(1675)焼失、再建、安政大地震(1854)大破、大修理、明治34年(1901)現在地移転。昭和19年(1944)大地震後修理、昭和55年(1980)本堂新築、
高尾周辺:大門、三門、大塚、八坂、御所の森等の地名が残る。
・翁稲船稲荷
・喜多向延命地蔵堂
・助命観音、・新;観音、・正門:石像「慈眼寺」、・鐘楼門、石仏8(立地蔵3、座地蔵1、観音1、如来3)、堂(多地蔵、如来1)、
~周辺地のもの~
・新町喜多向地蔵:北向きに安置された本像1体、馬頭観音3体、8月24日地域の方々により地蔵盆が行われる。


場所ももともとは現在地じゃなかったんですね。
Wikipediaにも、「尊良親王の2人いた息子のひとり」と、「新葉和歌集に出てくる上野太守守永親王」と、「奥州で北畠顕信とともに戦った宇津峯宮」(と、「興国天皇」)が同一人物かどうかは史料がないけど慣例的にそうだとされている、となっているのですが遠州において「親王が袋井に流れ着いたのが延元2年なのか延元3年なのか」も意外に大切な事だと思います。(宗良親王も延元2年と延元3年に二度、船で伊勢湊から遠州のどこかに上陸した事になっている。)
延元3年の船旅では、宗良親王・義良親王(=1年後に後村上天皇となる7歳)・満良親王・北畠親房・中御門中納言某(経高?)・結城宗広・宇都宮氏綱・北条時行・新田義興・中村経長・伊達行朝らが、北畠顕信の用意した52隻の船に分乗して東国を目指した(※満良親王のみ西国)のですが、宗良親王と守永親王は一緒の船に乗っていなかったようです。遠州白羽の伝説では、嵐で散り散りになった船団のうち宗良親王と一緒に白羽に上陸できたのは17隻で、この中には北条時行もいたそうですが守永親王はいなかったらしい。「危機管理の原則」とかあって皇族はひとりひとり別々の船に載せられることになってたのかな。陸奥を目指した義良親王は北畠顕信と同乗だったらしいです。宗良親王は最初から井伊谷を目指していたらしいのですが、守永親王の目的設定地はどこだったのかな。なんといっても尊良親王と宗良親王は同母兄弟で、兄は弟をそれはそれは愛していましたから、弟も前年に死んだばかりの兄の遺児を井伊谷に引き取る気はマンマンだっただろうと思いますが、一方で随行に北関東勢が多い事から見て、“上野太守”守永親王は北関東に行く予定だったのかもしれない。(『太平記』では“上野入道(=上野介)”の結城宗広(道忠)はまた別の船に乗った事になっていますが)。この頃の北朝側の上野介は高師秋。北朝方の上野太守はいなかったと思います。(上野国は親王立国)
でもこれは親王の難破が延元3年説を採ったときの話で、これが延元2年の事だったら全然別の物語になります。
「三浦天皇の伝説」によると、後醍醐天皇の一ノ宮の尊良親王はすでに後醍醐から譲位されていて、延元2年に金ヶ崎で尊良親王が自害したときに守永親王はそばにいて、死ぬ父から天皇位を譲られた事になっています。大変なこっちゃ。
先日市田さんに教えていただいた「出羽国酒田の伝説」のこともありますし、守永親王は3人ぐらいいたのかもしれませんね。

宗良親王が編纂した『新葉和歌集』には、「上野太守守永親王」の歌が8首収録されているそうです。
せっかくなので全部抜き出してみますと、

春哥上(74)
咲きそむる 花やまがふと 白雲に 心をかけぬ 山のはもなし

夏哥(189)
ほのかなる 一こゑなれど 時鳥 又聞く人の あらばたのまむ

夏哥(209) 題しらず
うづもれし 苔の下水 音たてて 岩根をこゆる 五月雨の比

釋教哥(622)
色にそむ 心の花の 散りてこそ もとのさとりの ねに歸りぬれ

戀哥一(653)
すく藻たく なにはのこやの 夕煙 たつ名もしらず 身をこがす哉

戀哥二(739)
うつつには 逢ふ夜もしらず 思ひねの 夢こそ人の 契りなりけれ

戀哥三(805) 戀の哥の中に
いかさまに 結びおきてか 岩代の 松とばかりの 契りなるらむ

雜下哥(1292) 懐舊の哥の中に
かくばかり うきにたへても 有るものを いかで昔を 恨みきつらむ


・・・うーーむ、あんまり面白くないなあ。宗良親王と尊良親王の母は、朝廷歌壇の大御所・二条為世の娘=二条為子で、二条派の歌は「形式をよく守り、感情が平板」なことが特徴なので守永親王の歌はこれでよいのかもしれませんが、尊良親王の歌の方がこれの100倍はおもしろい。(いろいろ裏読みできる歌ばっかり作っている)。わたくしには歌の教養なんてまったくありませんが、それでも「上野太守守永親王」は歌作りなどほとんど興味などなかった人だろうということがわかる。本当に「日本の詩的魔人」と呼ばれた宗良親王を叔父に持つ人なのだろうか。また、『新葉和歌集』において宗良親王が守永親王に対して何かの親近感を示している箇所もありません。(ただし一ヶ所、尊良親王の歌のあと守永親王の歌が置かれてる場所がある)。…あんまり面白くないのに8首も採用したのが最大の好意なのかもしれませんが。
強いて言うならば、最後の歌。「みんな大変なのを乗り切った末に現在がある。昔のことを悔しがってもしょうがないじゃないか。なるようになったから今があるんだよ!」って、守永親王の性格が垣間見える気がしますね。(歌詠みには向かない竹を割ったような性格)

下から2つめの歌は「適当にいいよと返事してしまったけど、それがとてつもなく長い縁となってしまった(なんで俺はいまこんなところにいるんだろう)」って意味ですよね。あ、恋の歌か。

『新葉和歌集』にはもうひとり「上野太守」って人がいて、その懐邦親王は後村上天皇の皇子で、長慶天皇・後亀山天皇の弟だそうですが、守永親王が死んだ後に上野太守に任じられた人なんでしょうね。(だからおそらく守永親王は宗良親王より前に死んでいる)。ついでなので懐邦親王の歌も挙げておきます。懐邦親王の歌は4首あります。

夏哥(174)
一聲(ひとこゑ)も 小盬(をしほ)の山の ほととぎす 神代もかくや つれなかりけむ

秋哥上(292)
なにとたゞ こふれれどしるしなき 妻をうらみて 秋は鹿のなくらむ

冬哥(457)
こやの池の 玉藻の床や 氷るらむ うきねの鴨の 聲さわぐなり

戀哥四(888)
いとはるる 身はくり返し なげかれて たえぬ思ひの 賤のをだまき

…うーーむうむうむ。この人はなんとなく、遠くに行った事がない人のように感じます。
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12 コメント

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Unknown (河太郎)
2019-07-07 12:53:35
ご無事で何よりです。河太郎は春になると里に降りた山童子が変化したものです。私は季節でハンドルが変わるのです。
御実家にもどられましたか。
私もあと二三年以内には実家(となり町)に戻ります。今は勤め先が実家からも通えるけど、もっと近いので離れませんが。あ、私も再就職したのですよ。言ったかな??
ほぼ数ヶ月で指名客も出てきました。今は里山を歩いて紫陽花だの小鳥だの撮影していますが、そろそろ低山は湿気で登り難くなってきてます。
この日本列島を襲う低気圧で調子が悪くなる人が多く、
日本の変化点である遠江の貴殿らはなおさらでせう。
体を大事に。ではまた連絡いたします。
返信する
ブラマタリの供物。 (麁鹿火)
2019-07-10 02:43:10
河太郎さん!
ありがとうございます。わたくしも毎年季節が変わると所属会社が変わる者です。(←冗談になるとイイな)

おかげさまで私も、なんとなく休みの無い忙しい日々を送っております。実家暮らしはやや息苦しいです。薄給すぎて相変わらず伊豆へは行けません。(この業界(パフェ業界)は転職するほど給料が安くなる。先がないからですね。私だって分かってるんですけども)

河太郎さん、お仕事が順調そうで私も嬉しく感じます。さすが機知と技のある方はすごいなあ。新たなる冒険も行かれているのでしょうか。
遠江国は、他国の人が知ってる以上に災害が向こうの方から除けてくださる土地です。雪が降らなくて冬は暖かいし、夏は暑くても高気圧の事が多くて風が強くて爽やか。農作物の不作はおこらない。全国ニュースで「全国で最も熱い町」のひとつに旧天竜市二俣町がよく登場しますけど、隣町の旧浜北市民にとっては人ごとです。台風が上陸して甚大な被害を及ぼすのは常に年一回です。私は天竜川から徒歩一分に住んでますが、“暴れ川”といわれる割にこの川が氾濫したのは明治以降無いのじゃあるまいか。
すべてこの地ゆかりの坂上田村麻呂神と東照大権現と春埜・秋葉大神のご威光だと思います。いま東海大地震が起こったら大変だと思いますが、大地震は来る来るといわれ続けて数十年経っているので、浜松市民は皆鼻で笑っています。(もちろん日々訓練をしているので何かあっても非常階段で15階ぐらいは平気で走れますけど)
というわけで、浜松はおそらく日本一安全に暮らせる、温和な健康都市だと思ってます。(そりゃ犯罪は多いですけどね。それも常識と注意力を持っていたらこちらから避けられる様な物が多い)。えっへんぷい。
返信する
Unknown (河太郎)
2019-07-10 02:57:48
返信をありがとうございます。
大塔宮は好きな南北朝の武将(皇族だけど)です。なかなか嬉しかったですよ。
集塵前なので、また連絡します。かなり体調が悪い時に代理出勤をせざる得ないので(笑)
返信する
韓非子。 (麁鹿火)
2019-07-10 03:00:47
河太郎さんすみません、うっかりコメントを削除してしまいました。簡易的に復元してみましたが、本当にすみません。
集塵、、、、、 なんなんでしょう。お身体無理なさらないでくださいね。
返信する
Unknown (河太郎)
2019-07-11 00:20:28
アラカヒさん(変換しないの失礼!)こんばんは。
集塵は就寝の間違いでせす笑)今日は代出で休日出勤だったのですよ。貴兄ブログに会った時に、私は無職でプラプラしてました。まぁ資産価値は無いが棲家はあるし、いずれは実家に戻り、ヤモメの兄と暮らす相談もしてるので、そこそこ気楽にはやってます。けも1年半を遊んだからね。あちこちブラブラ歩いて。だから貯金も底を見せてきて、働き始めた訳です。幸いに手に職あるし。遺産分けも兄弟と話がついていて、まぁ大病しなければどうにか向こう10年やそこいらは
どうにか食ってゆけるだろ…くらいの立場す。
もう激しい自転車旅行や山歩きはしてまさん。小鳥や花を安物のデジカメで撮影し、友人の事務所や治療院のホームページやブログに使って貰い、お小遣いを貰う程度の里山歩きです。正直、あの祟り神の大木から後は夜営するようなアウトドアはません。もっかの楽しみはブライアン・ラムレイの「ネクロスコープ」訳が創元文庫から出たのと、9日からやっている三國志展に行くこと。親友の何故かなついてくれてる息子の誕生日に、彼の好きな鉱石を山で拾ったり集めて
送って喜ばせる事。ま、早くも老後ですな(笑)
ラムレイの訳本が薄いのに(上下)で一冊1200円もしやがるのには困りました。でも売れないと続編が翻訳されない。
とーせ10年も所有すれば値がつくので買うかと(笑)
さて、ちったぁ記事に関係ある事を書かないと。
貴兄に「出入り禁止」をくらいたくはないから!
確かに南北朝の動乱には興味はあるのですよ。でもね、この時代ってか、中世は鎌倉から学はないと解らないし、実は
弱肉強食で「淘汰」が進んだ戦国(北条や関東管令の上杉の争いの後の信長以後)に比べると「難解」なのね。
ヒジョーに解りにくい!
まぁ手始めに室町後半やら鎌倉炎上の事を調べたの。
私の産まれ育った地域は、鎌倉炎上の時から必ず軍勢が通る地域なのですが、いつも「素通り」する(笑)
何もないので、戦場なすらならない(笑)
ただ、新田義貞の進撃路は全て歩いて踏破していて、パターンが繰り返されています。鎌倉炎上後も、補給の関係なのでしょうが、家康が「源系」を名乗り「鎌倉殿」の後釜に座るまで、やっぱり遠江から駿河までが戦争の軸で、京都方面に至る歴史は「そっち」なのですね(笑)
ただ……私の関東それも武蔵、相模、上総、下総、常陸は、
常に「戦乱」状態で、実は南北朝の争乱がそっち(先進国)が収まるた後でも戦乱が続き、「プレ戦国」状態であったのが解るのです。関東争乱が続き、それが結局としては遠江や
尾張に戦乱の軸が移るのが「戦国後期」であるかと。
で、そのような理由ってのは、尊氏と義直の争いなのですね。色々とおるけれども、遠江より以北(以東)を室町幕府は
「蛮地は野蛮人に治めさせろ!」と「切り離した」ところががあって、「鎌倉殿」という「関東独自の軍閥」を黙認したのが伺える。それでバイオレンス・ジャック関東地獄地震なみに切り離された関東は、その地方行政官である「鎌倉殿」が軍閥化して、さらに鎌倉関東政庁が本国の京都の幕府からの「勅」も到達しなくなり、鎌倉殿は伊豆と鎌倉で別れるわ、その代官である上杉と、代官の代官である長尾が争うわ、伊豆の鎌倉殿系列を、西から来た北条早雲(新九郎殿ね)が奪うわで。関東争乱になってゆく。
それが西方に飛び火したのが「戦国」だと思うのです。
要するに室町幕府が関東を切り離したのが理由なんですけど、それは尊氏と弟の義直の争いに発していると。
つまりは南北朝の争乱の戦後処理がズルズルで、ズルズルのまま「関東は鎌倉殿に任せる」という無責任な関東切り離し政策の為に起こる関東争乱が、西へ向かい、尾張から遠江あたりが「戦国の主役」になってゆく原因かと。
結局、南北線朝の争乱をきちんと整理して決着しないから、
血筋が旗印になる中世の争乱を、西から東に投げて、それが
西へ送り返されたのが「戦国時代」なのかと。
ぁ我ら「板東」が将門からこっち、蛮地だったのは認めるのでせが、先進国である関西や中京がガタガタで情けないから
南北朝争乱→応仁の乱→戦国になったってーのが、関東人としての結論なんですね。ではでは。
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陽の天蓋の寺院。 (荒貝)
2019-07-11 23:46:32
河太郎さん、私がした御無礼に対し温かなお言葉、ありがとうございます。
ちょっと実家で不具合がおこっており、一週間ほどネットが使えないこととなりました。(とても不便)
なので少し経ったらご返事させていただきます。南北朝時代は日本史の中では一番おもしろい時代だと思っています。どの陣営で物を語るかによって無数の物語があって、それは戦国時代の物語とは異質の臭いを放っている。(全然違うものですが)デリースルタンの諸朝や十字軍諸王朝の歴史を読んでいるときの感興に近い。
数日間、本だけを読んで過ごすこととします。
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幸運と死の支配者戦争。 (麁鹿火)
2019-07-18 13:40:02
河太郎さん、
ようやくパソコンが復活しました。

家のネットをコミュファからフレッツ光に乗り換えようとしたのがそもそもの始まりだったのですが、Wi-Fiは普通に使えるのに有線の回線が繋がらない状態になり(私のパソコンはWiFi使ってない)、フレッツの代理店の人に何度も来て貰ったんですけど、「結局コミュファに戻そう」となったのがきのう。無駄に時間ばかりが過ぎて誰も得しない結果となりました。
唯一、「悪い」と思ったのか工事の人が、LANを繋ぐハブを、かなり古い100BASEだったものから1000BASEのものに取り替えてくれたので(よく分からないが)ネットが格段に早くなったという。最近になって(ここ6年ほど)World of Tanksというゲームができなくなって困っていて、「原因はこれだったのかー」と。「これで出来ると思いますよ」と言われホクホクして、昨晩は戦車合戦をしまくろううと奮起したんですけど、原因は別だったらしくて「ビデオのドライバが破損しています」とか言われて幾度もゲームがストップしてしまう。ドライバを入れ直せば正常にゲームできることもあるのですけど(大砲を豪快にぶち放つのが爽快なゲームです)、どうもマチルダⅡで遊ぶと無事に遊べる事が多いが、チャーチルⅦで遊ぶと高確率でドライバが壊れる。夜中まで試行錯誤を繰り返しましたが、試合開始直後に画面が真っ暗になってしまう事が重なって、チームに多大な迷惑を懸けてしまう事が続いたので、泣きながら寝てしまいました。…このパソコンも買って6年ですからねえ。(そろそろWindows7の期限も終わるのも痛いところ)

南北朝時代について、
人がたくさん出てくるだけで、そんなに複雑な時代でもないと思うんですけど(応仁の乱の方がまだわけわからん)、河太郎さんとわたくしの見方と、興味を持つポイントが全然違うのも面白いところですよね。

何度か言っているかと思いますが、私にとっての南北朝時代の興味は「登場人物の移動距離が長い事」です。戦国時代の武将たちにはみんな「拠点」があり、「ご当地性」を持っていてそれが面白いと思うのですが、南北朝時代の武将たちは、本拠地以外の場所で見せる活躍が面白い。日本には「まれびと信仰」というのがあって、よそから訪れてきた人が停滞していた地域に新しい流れをかたち作る。源平時代に伊豆にやってきた源頼朝や奥州にやってきた九郎判官がしでかしたことの、拡大版のような感じです。南北朝時代のおかげで、日本中に、千早赤坂、新田庄、足利庄、井伊谷、吉野、伊勢、十津川、三河湾の篠島、箱根竹之下、陸奥宇津峯、九州八代、大河原、津島、浪合などのたくさんの僻地の「聖地」ができました。

足利直義はおそらくずっと関東・鎌倉の方に愛着を持っていたのだと思いますけど、手が回りきらなくて子ども(基氏)を送り込むしかなかったのだと思います。
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Unknown (河太郎)
2019-07-20 02:31:53
お久しぶりです。湿気で体がダルいです。
えー一つお願いですが。気長に御付き頂ければ幸いであると。実はアラカヒ様いがいのブロガーさん数人と交流してきて、自身はブログしないのに名物コメント主になってました。貴殿の御帰還の間に、ブログ主様に次々と別れを告げて「引退」表明してました。
理由は……あるサイトでの「いじめ」なコメント合戦を見たからです。それでネックに対する嫌悪感が出た事。
それと私も50の半ばとなり、これからどう生きるかボケ~と考え、良い影響も受けるが、精神的に疲れ病むネット交流を一先ず片付けようかと。
ネットに熱を入れるよりも、少し離れて、読書したり散歩したり、医療の勉強をし直したり。
で、残ったのが貴殿なのです。
貴殿なら政治とかの話をしないで付き合うてくれそうな気がしましたし、互いに急がないお付き合いを頼めるかなと。
で、南北朝ですが。
確かに移動距離は長いですね。
農民反乱が数百キロメートルから千㎞単位に拡大し、10万人単位の飢民が駆け巡る中国の動乱とは違うのが日本でした。
で、伝統的に「兵站=ロジスティクス」の概念がない日本で、なんであんな広範囲な戦闘が出来たのか?
思うのですが、親戚・遠緣の領地を伝わりながら軍隊を移動させたのでは?と思うてます。
もともと姓は同じ祖先神を持っ部族の名です。
氏はその祖先神を同じくする者が、支配する領地の地域名から来るてます。(←中国の場合)
木曽義仲は「木曽の源氏の義仲」ですよね?
必ずしも同系子孫が同盟するとは限りませんが、家名が旗印になる中世のこと。
同系列の子孫の領地を移動しながら、補給を受けて進んだのではないかと思うのですよ。
実際、関東などでは近世に入るまで陸路でなく、海と川が交通路です。物資は湊に集中する。(または門前町)
田畑を耕す農民から直接税を取るのは、実は行政側にも多大な管理能力が必要とされます。そういうのはご当地に目覚めた戦国以後と思います。
ほういう官僚集団が有能ではない時代は、農民からでなく、
関所や湊で「関税」を取る方が効率的です。
てことは、物質の集積点を握る寺社や、湊を抱える武家に、
コネクションを受ければ、兵力の移動と、物質の補給が受けられます。
同じよう一族の出である、領主や宗派が物流を押さえている場合、そこにコネクションがあれば良い!
その時に寺社や領主とのコネクションが必要になりますが、
互いの利害はあれども、それを「血縁」を基にしていたのが
中世な気がするのですね。
これが南北朝での長駆した軍勢の移動の背景かと。
このように理解してます。
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Unknown (河太郎)
2019-07-20 02:55:00
あ、追記。
関東から西へ戦乱が投げ返された…というのは。
実は遠江も関西も先進地域なのですね。
すると物流業や貨幣経済は発達しているが、身分制度や権威というものの底が厚い!
そこへゆくとワイルドウエストな関東では、いち早く
「下克上」が始まる。
主家を対して乗っ取る。
これは社会基盤のしっかりしたり先進地域では難しい!
中国も三國志を見ると、前半は遠術や遠紹ら、漢帝国の中枢にいた家系がリードします。曹操は華北の政権だし。孫権らは南の豪族。劉備に至っては傭兵隊長に過ぎません。
でも、戦乱が激化して群雄割拠してゆくと、地方政権で身を固めた者が覇権を競うようになる。
地方は関東と同じで、蛮地だから、前時代のしきたりや縛りが破壊されるのが早かったからです。
関東が戦国への「架け橋」になったというのは、野蛮地帯だからこそ、先進地帯には出来ない身分や家柄を無視した下克上が発達したという話です。これが西へ波及して戦国時代劇へと突入したと。
あと物流と関税とかの話ですが。
街道が整備されるのは近世以後です。
熊野水軍と熊野大社の関係を観ても、基本的に湊と水運と海運なんですね。
「城下町」が発展さてくるのは信長や秀吉以後です。少なくとも戦国中期。
つまり湊と寺社が物流の集積地点であったと。
だから宗教か湊や輸送路を持っ領主と話をつければ、物質と兵士の大量移動&調達が可能であったと。
勿論、後醍醐天皇ら皇族が持つ「権威」も力はあったでしょうが、既に荘園を失っているので、物流をおさえていたのは
仏教団体と武士であったと思います。
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Unknown (河太郎)
2019-07-20 03:22:17
再三に失礼です。たぶん…アラカヒ様と私の何かが違うのは
戦争やらを「銭勘定」で観ている点だと思います。
米1㎏を500円として、一万人に三合の飯を喰わせると、
毎日4500㎏の米を食わせます。一月で6500万円の米代金ですね。勿論、算だけで戦争が起きるとも思わないのですが、
結局、最後まで戦える奴が残るとすると、こういう計算から
ウイナーが出るかと。
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