オセンタルカの太陽帝国

私的設定では遠州地方はだらハッパ文化圏
信州がドラゴンパスで
柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

中央構造線。

2020年07月30日 02時41分20秒 |   南北朝


<大西山崩壊礫保存園(大西公園)>
昭和36年の大雨による大崩落で亡くなった42名を慰霊するための公園。
広域に桜がたくさん植えられ、花の名所となっています。案内板の説明(・・・本来崩れ難い場所が崩れ落ちたから大災害となった)がとても読んでいて面白い。
亡くなった方々には申し訳ないですが、日本列島には繊細な造りの場所が多々あり、中央構造線を巡るだけでとても有意義な長野旅となるだろう。
若い頃から「フォッサマグナ」という語句が好きでした。(伊豆半島の衝突がその形成に大きな役割を果たしています)
さっき崩れていた御所平もそうですけど、この付近(中央構造線の南側の柔らかい部分)には「~~崩落地」という地名が随所にあります。

7月の頭に行った「隠し伊那谷を巡る旅」の記録。1日目(その3)。
この頃は浜松はとても静穏だったのでわざわざ(観光地を助けるために)行ってやろうかな、と思って行ったのですが、その後一ヶ月経ってその浜松は「出かけたくない町」になってしまった。


<小渋湖-四徳湖>
昭和44年の小渋ダム完成によるダム湖。この水の下に「桶谷」の里があったという。「桶谷」の地名の由来は“高貴な人が棲まった”という「王家谷」が転じたものだという。

何度も同じ地図貼ってごめんなさい。
新しい地図用意するのめんどくさい。

 

次に、宗良親王の盟友であった北条時行が同じく長期間住んでいたという「桶谷」「四徳小屋」も近くにあるというので、それを見に行きます。

ずっと参照している『宗良親王 信州大河原の三十年』という本の地図に、「桶谷には北条時行の墓がある」と書いてあるんですよね。さっき道の駅で観光案内所のお兄さんに、それはあるのかどうか訊いてみました。私の持っている本(そんなにたくさんないが)に北条時行の墓について書いてあるのはこの本だけ。(北条時行という人は有名人物なのに「墓所」が存在しないようです)
でも、観光案内所のお兄さんの反応は、やっぱり「知らない」でした。(当たり前か)。ただ、川の底に沈んだ桶谷のことをそれなりに教えて下さいました。実はさっき私が大河原入りしたのは松川町から小渋川を遡ってだったのですけど、事前に地図を見ながら「桶谷の里があったとしたらこのあたりかな」と思っていた場所(「桶谷の泉」より東側)は、予想より全然そういう気配が無かったのです。(本では小渋川と鹿塩川が合流する所のすぐ下みたいな書き方だったのにな)。
でも、お兄さんによると「ダムによって沈んだ桶谷」は確かにあの川沿いにあったという。私が思っていたより桶谷はもっと西側だったのかもしれない。
お兄さんは、「お墓のことはよく知らないけど、道路の途中に何かの石碑があるのは見たことがあるので、それを見に行ったらいいかもしれない」とも教えて下さいました。(それはその後うっかり通り過ぎてしまいましたけど、恐らくGoogle-mapに「交通事故供養仏」と書いてあるやつですかね。それとも桶谷の泉のことかも)

「四徳小屋というのがどの付近か」も聞いてみたかったのですけど、聞いても無駄なような気がしてやめてしまいました。(「桶谷」までは大鹿村だけど、「四徳」は中川村で管轄が違うでしょうから)

(※道の駅で買った『今、甦る村の浪漫!』に少しだけ記述があります。「『伊那史概要』は「大河原の北条坂の麓に、北条家と名乗る家が四戸あり、時行の末孫と称し、そこに時行の墓というのがある。しかし、上伊那の藤澤谷、福地だとの諸説もあっていずれが真なるかは不明である。ともかく藤澤から大河原の谷にかけて時行伝説があることは北条に何らかの関係があったことは考えられる」と延べ」「頭屋敷・別当・木戸口の名前があるのは時行がこの地に住んだ名残で大河原の内でも更に峻険な谷間に落人が潜伏したとしても無理のない土地である」などなど)・・・ただ、この本の著者にも詳しいことは分からないようです。

小渋湖のまんなかあたりに北から注ぎ込んでいる小渋川の支流(四徳川)があって、それを遡っていくと「四徳の里」です。
四徳の村も「三六災害」で瀕死のダメージを受け、全村移住を余儀なくされてしまったそうです。現在は無人だという。

雨はもうそれほどひどくなくなっていましたが、道がすごくて、四徳まで至る道の写真をほとんど撮れませんでした。
荒れ果てているということはないんですけど、川に沿って細くうねうねとして起伏がある過酷な道。でも、ちゃんと管理はされているらしい。四徳の村が放棄されてからこの道路沿いには集落はないはずですが、「四徳温泉」と「キャンプ場」がこの先にある。

事前に地図を見て、「北条時行が潜伏した四徳小屋があるとしたらどこだっただろう」と考えてみました。まあ、人にみつからないように建てた小屋でしょうから、案内板でも無い限り見つけることは不可能でしょう。地図に載ってないけど「四徳の集落」はどこにあったのでしょうか。おそらく四徳神社というのが集落の中心だったでしょう。

で、行ってみたんですが凄かった。どこまで行くんだ!と心配するぐらいの道の奥の奥にあって、よくこんな場所に人が住んだな、と思う所です。大河原の宗良親王の御所と同じ思想を感じる。さっきまで、「四徳の里から少し離れた不便な場所に四徳小屋はあるのでは」と考えていたのですが、こんな不便な場所なんだから四徳小屋はここでいいよ!
なんでこんなところにこの里はあるんでしょう?
明らかに農業は全然できない土地なので、林業か狩猟民か木地師が住むような場所だったのか。(平家の落人伝説があったといいます)。交通の場所としては西隣と東隣に「大伊那谷」と「大河原-分杭峠の道」があるのだからわざわざこんな所を通ることはない。まさに宗良親王が好みそうな場所だと思いました。(※私が思っている以上には折草峠の交通は頻繁だったそうです)


<四徳小学校跡>


<四徳神社>
主祭神は諏訪神(建御名方命)

道路が狭いので最初は分からないんですけど、林の中に広大な住宅地の跡があったことに気づく。

なんかいろいろある!
・・・が急に山ビルが怖くなってしまって、私はこれ以上奥には行きませんでした。
「四徳小屋」がここにあってもおかしくはない感じ。

 

最盛期には100戸の家があったといいます。畑もあった。
後になってから知ったので行かなかったんですけど、中川村文化センターにこの四徳集落を再現した大きな立体ジオラマがあるそうです。ネットでその写真(小さい)を見ると四徳の里は私が思っていたより広い範囲に家に分散していた。ジオラマには各所の地名も貼られているようですけど、その中に「四徳小屋」はあるのでしょうか。(見に行きたい)

 

北条時行は「中先代の乱」で「廿日先代」したあと、すぐに鎌倉を奪回されて諏訪へ逃げ、そのあと南朝方に降参し、けっきょく何もせずに死んだような印象があるんですけど、実は宗良親王とはかなり長いつきあいだったようで、16年間ぐらい一緒に行動しています。宗良親王にとっては比叡山で一緒に活動した猟奇的な兄(護良親王)が殺害されるきっかけを作った張本人ですから、彼に複雑な感情を抱いていたに違いありませんが、宗良親王と北条時行が初めて出会ったのは延元3年(1338年)の船旅の時。年齢は15歳差。
たまたま宗良親王と彼は同じ船に同乗することになったんですけど、遠州灘沖で暴風雨に遭い、座礁して遠州白羽に上陸。一緒に北浜名湖の井伊谷城に入ります。延元4年(1339年)から仁木義長・高師泰らの井伊谷攻略が本格的に始まりますが、延元5年(1340年)の井伊谷落城の直前に北条時行が伊那谷に出現し、「王徳寺城」で挙兵。(遠江国での北朝軍を牽制するためだったと思われます)。が、それは井伊城の陥落にはほとんど影響を及ぼさず、宗良親王は遠江を失った後、安倍川の城から富士山の麓、甲斐国を経て、越後国・寺泊、越中国・名子の浦に移り、最後に信濃国を頼って大河原に入る。北条時行はその間ずっと信濃にいたと思われますが、そこからまた宗良親王の片腕的になって戦ったってことですね。

わたしはてっきり、宗良親王が信州大河原に棲み着いた興国5年(1344年)以降に、北条時行もその寄騎として出城的な感じで桶谷ないし四徳にキャンプを張ったのだと思っていましたけど、大鹿村に伝わる伝説では、それより遥かに先立つ「元弘3年(1333年)に鎌倉幕府が滅亡したとき、諏訪氏に匿われた亀寿丸(=時行)が潜んでいたのが王家谷(桶谷)」ということになっているようです。うーーむ。諏訪湖と遠いじゃん。諏訪大社で手厚く匿われていたのではなかったのか。ここは諏訪家領だったのでしょうか? そもそも北条得宗家は王家じゃ無いのに「王家谷」というのはおかしい、やっぱりこの王家とは宗良親王のことではないのかと私は思っていたのですけど、宗良親王を匿った香坂高宗と諏訪氏の関係はどうだったのか。井伊氏にしろ知久氏にしろ石黒氏にしろ、「勤王の士」であって鎌倉幕府軍とは相性は良くなかったと思うのですが、宗良親王と北条時行が手を結んだことによって諏訪氏(と鎌倉幕府の残党)は南朝軍に組み入れられることになり、南朝を少し延命させた。幼い亀寿丸が潜んだのが四徳だったらよく分かる。四徳神社は諏訪系の神社でしたし、四徳と大河原は実は違う文化圏だということもわかります。

 

・・・四徳ですでに17時ぐらいになってしまいました。
今日はもっといろいろ行く計画だったのですが、大回りをたくさんしすぎて時間が無くなってしまいました。残念です。今日は「大草城」で締めくくるつもりだったのです。宗良親王は「信濃ノ宮」と呼ばれる以上に「大草ノ宮」と呼ばれる頻度が多かったのです。大河原と大草の里は近かったのか。それとももしかしたら中世には大河原は大草郷の一部だったのか。(少なくとも四徳は大草領域なようです)

でももう時間切れ、今日の宿に向かいます。
四徳の里から一気に飯田の市街へ。(道に迷った)
今日の宿はココ。

殿岡温泉ですって。
飯田の中心地からは少しだけ離れています。本当は久しぶりに「知らない町の居酒屋歩き」をしたかったのです。でも宿を決めようとしたとき(3日前)に雨と分かっていたので、やめてしまいました。予約するとき「健康ランドに宿泊スペースがある感じなのかな」と思ったのですが、逆で、本当に「ビジネスホテルに豊富なお風呂が付いている」という感じでした(笑)
飯田周辺のビジネスホテルは、浜松・掛川の標準よりも1000円ぐらい高い感じです。この宿は一泊朝食付き¥6000。ちょっと高い。浜松が価格が破壊されすぎているのかもしれませんね。(不景気だから)。逆に考えると、長野県南部は観光が良い感じで保持されているということですから、ちょっと安心します。温泉付きだし。
この宿、「館内はすべてハダシで」と言われたことがちょっと新鮮でした。さすが温泉宿。

部屋の窓から見た景色。

長野県はどこにいっても山の感じがとても素晴らしいのですけど、4日間雨のせいでほとんど山の写真を撮りませんでした。写真撮っても見た目の圧倒感は全然再現できないなあ~~。上の写真は午後6時ぐらいです。

ひとっ風呂あびてから、夕食へ。

この宿に決めたのは、¥6000の宿泊料に「ビール一杯無料」だったからです。(浜松の安宿ではビール1杯付きは普通なのにね~~)

館内併設の中華料理店。
とりあえず、ぎょうざと皿うどんとまーぼーどうふを注文。

餃子は浜松餃子ではありませんでした(当たり前)。血饂飩はなぜか2種類あり(ノーマル(醤油?)と長崎皿うどん)、佐世保市出身者のわたくしは当然長崎うどんにしましたけど、最近リンガーハットにすら行ってないなぁ。長崎ちゃんぽんと近江ちゃんぽんは知ってるけど、皿うどんが長崎以外にもあったとは。麻婆豆腐は「凄く辛いよ」と言われました。(辛くて美味しかった)

いや、凄く美味しい店でした。店内は宿泊者と外来客半々ぐらいな感じでしたけど、一人で広い4人テーブルを占拠してだらだら飲みながら長居が許される感じ。厨房の様子はやや殺伐としているが、おねえさまたちの対応はとてもいい。で、食べ終わったらこのたった3品でかなり満腹(笑)。(ビールは3杯か4杯)。あれ、私は居酒屋巡りをする予定じゃなかったっけ。(長野県で刺身か酒蕎麦を食べたかった ←このお店はそれも充実していた)。でももう駄目です。情けない。長野の地酒を飲みたかったです~。

飯田弁って浜松弁とほぼ共通なんですね。
徳川家康経由で三河弁と遠州弁がよく似ているのは知っていましたけど、飯田弁が同じなのはどうしてなんでしょう。「あばな」と「おやすみなんしょ」は言いませんけど。

部屋に入って読書をしまくりながらだんらだんら過ごしましたけど、部屋でビールを飲んだ記憶がありませんので、私は本当にあれで満足してしまったらしい。テレビの長野のローカル番組は静岡と全然違うので(当たり前だ)面白かった。佐世保で水害が非道いというニュースを見ました。この部屋には強力な空気清浄機が付いていて、ずぶ濡れの靴を乾かすのに非常に便利でした。(フロントの人は新聞紙をたくさんくれました)。お風呂へは3回ぐらい入りました。

朝。
朝食です。なんとこの宿ではこのご時勢でも朝食は野蛮なバイキングの人がやっているという。(静岡ではハラルド王形式は半年前に絶滅させられているというのに)
ただノルマン方式であっても、敵勢を目にして大声で叫ぶときと店員の右脇から1ヤードに近づく畏れのあるときはマスクの着用を義務づけられていました。

まぁ、私は朝はあんまり食べられませんので、このくらい。サラダ多め。
地元要素として野沢菜がうれしかったですね。

右側にある焼きそばみたいのは、細切り大根(?)と肉そぼろです。左上は高野豆腐のクリーム和え。

 

さて2日目です。
まずは飯田の町の中心地である飯田城跡に向かいます。
地図を見てて「JR飯田線はどうしてここだけ不自然に曲がっているんだろう」と思っていました。実際に車で走ってみて分かりました。なんだこの変な地形。飯田の町の形はおもしろいです。確かにこんな開けた場所(に見える)のに絶好の要害ですね。私が戦国武将でもここに城を建てると思います。(小笠原貞宗は別の場所を選びましたが)。飯田は浜松からすぐ(笑)ですので小さい頃から私は何度も来たことがあるはずです。でも、こんな変な町だとは初めて知った。(通過したことしかなかったんですね)
今回の旅は「(南北朝時代の)お城巡り」でありまして、さきだって飯田城についてもいろいろ調べたんですけど、「今回の旅とは目的がそぐわないな」と思って主要目的地からは外してしまったんです。ただし飯田城(の造り)もそれ単体ではすごく面白いお城だと思います。また来ましょうね、私。

で、飯田城自体は今回どうでもいいとして、
来たかったのはここです。

飯田城の本丸跡にある「柳田國男館」(柳田國男記念伊那民俗学研究所)。
今回の旅行を思いついたのは一週間前に『東国古道記』を読んだからですが、どうして飯田に柳田國男の博物館があるんだって。

柳田國男が旧姓・松岡国男といって兵庫県で生まれそこで育ったのは知っています。福崎町へはいずれ訪れたい。それから10歳で茨城県へ移ってあとはずっと東京住まいだったのですが、飯田市は柳田國男と何かあったんでしたっけ。もしかして旧姓の「松岡氏」が飯田市の北の方にある「松岡城」と関係ある? と長野県のお城ばっかり調べていた私は思ったのでした。信州の松岡氏は小笠原貞宗の与党として南北朝時代には宗良親王と敵対する側でしたが、戦国時代になって急速に“忠節の輩”井伊氏と接近し、井伊直親つながりで遠州とは関係が深いんですよね。
でも記念館へ行ってみたら、柳田國男の松岡氏は飯田市と全く関係が無かった。関係があるのは柳田氏でした。
(※松岡城も訪問予定地だったのですが、いろいろあって行けませんでした。このお城も図を見るだけでとてもエキサイティングなお城なので、、、 近いうちにまた行くぞ!)

柳田國男館の一階は大書斎です。
これは柳田國男の研究の絶頂期に、自宅兼交流の場として世田谷の成城に建てた家(「喜談書屋」)を、柳田國男の死後、飯田に移築した物だという。この建物を作るきっかけとなったのが、昭和2年に

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2 コメント

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Unknown (山童)
2021-11-19 00:12:59
こんばんわ。お久しぶりですね。
投稿するの3年ぶりかなぁ。スカルフェイス読みました?
中央構造帯をググっていたら懐かしきブログ主殿に再会という訳です。
中央構造帯は嘘か真かのゼロ磁場エピソードで、たまたま興味持ったのですね。私しゃ易(八卦)を手慰みにしますし、鍼灸(中医学)免許持ちですので、風水的なものに興味あるので。
一時期、転職や離職の話をなされていたので、その後は気になっていたのですが、お元気そうそうで何よりです。
間にコロナ禍も入り、未だ終えてませんですしね。
主様のコメ投稿していた時の施術所が在職3年になり、
いずれ辞める前提で、二足の草鞋生活に入ったところです。週3医療、週2は警備会社の出前教官してます。
講習の出前ってのも変ですが、法定研修が警備はあるので、シフトを抜けにくい現場や地域に、頼まれで出前するんですね(笑) 指導教官資格者なので。
コロナで社会は変わったと思いました。
まぁ、なるように成るし、ダメならダメだろう……くらいの開き直りで過ごしてきましたが、そろそろ本当にダメな企業や何かはアウトぽいですね。サービス業してるんで、それは肌感で感じます。
なので主様もお元気で良かった。
たまたま通行中で見つけたので投稿したもので、私のボロスマホの機能故に、直ぐ貴ブログへのリンクWordが消えてしまいます。なので御返事はなさらずとも結構です。
主様も私も何とか生きてる。
それが確認できましたから。
では主様に幸ありますように。
また縁が有ったらウエブで会いましょう。お元気で。
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ベンダーヤ。 (麁鹿火)
2021-11-24 01:45:09
山童さん、
大変おひさしうございます!

山童さんはすごいですね。こうして改めて文章を読ませていただくだけで、数年前の楽しかった会話の数々がたくさん頭の中に甦ります。前進を続けているどころか、分岐をしつつそれらを統合して新しい物にしている所がすごい。

私も幾度か(嘘でした一度でした)転職をしましたが、私の業界は転がれば転がるほど条件が悪くなるのが常態で、今は働けど働けど本当にとうしようもない貧乏状態なのですが、2年ほど続いた業界の異常状態のせいでとてもヒマだったことであり、またいろんなしがらみが生じて身動きがとりづらくなっていることもあり、あと半年くらいは今のままでいようかな、という状態です。私はムダに愛想の良いことだけが取り得なので、働くのが楽しいことが救いです。ただウチの会社は危ない方です。

中央構造帯。
また冒険行をされているでしょうか。実は私のこの記事でも分杭峠に行った(通り過ぎた)ことに触れるつもりですけど、わたくし、もう5年も全然旅行に行けなくなっていて、唯一1年4ヵ月前に行ったこの伊那谷紀行だけが例外なのです。ちょっと大切に文章を書き繋いでいきたいと思います。

どうかまたお会いできますように。
ご無事とさらなる転進の好展開をお祈りいたします。
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