オセンタルカの太陽帝国

私的設定では遠州地方はだらハッパ文化圏
信州がドラゴンパスで
柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

ヴォーン・ウィリアムズ作曲 『富める人とラザロ』と五つの異版。

2007年06月29日 19時30分43秒 | わたしの好きな曲


これまた「ひどく美しいから」という理由で好きなんです。
本などによると、「スコットランドやアイルランドの民謡は、どうしたわけか日本人の心にしっくりくるような作りなものが多い」んだそうなんです。
グリーンスリーヴスや蛍の光やアニーローリーなどを思い浮かべてみると、そうなんですかね。演歌みたいな胸に迫るメロディがいい雰囲気なのかしら。音楽以外でもアングロサクソンはよく日本の歴史や文化や民族的性格が対比されることが多いですよね。島国根性。意味が分からないながらも共感してしまえる部分は大きいです。スコットランドやアイルランドはアングロサクソンじゃないんですけど。
で、英国で名の知られている作曲家(ってあんまり数はいませんけど)は、民謡採集を一生懸命している人が多くまたそれを自らの作品に組み入れているので、名前は知らなくてもなかなか耳に馴染む音楽が多いんですよ。20世紀前半の偉大なレイフ・ヴォーン=ウィリアムズはその最大巨人。
ヴォーン=ウィリアムズはまだ学生だった頃、師匠のセシル・シャープの影響を受けて、友人のホルストやグレインジャーたちとともに国中を歩き回って、民謡を採集したそうなんです。(民謡の採集っていったいどういう作業をするの?) 
で、その民謡をもとに作品をこしらえるんですが、「民謡から作った曲」という土的・朴訥的なイメージに反して、私の耳で判断するかぎりは、ヴォーン=ウィリアムズの作品は「美しく」、「迫力満点で」、「澄み切った厚い響き」になっているところが凄い。まるで「ターナーやコンスタブルの絵画のよう」と評されるのもうなづけます。そして次第に「民謡とはなんなのか」ということもわかんなくなってきます。だってこれ、氷川きよしがズンドコ節やソーラン節や黒田節を歌うよりもかなりえぐいですよ。原型がわけわかんなくなっちゃってるんですから。
一応、ヴォーン=ウィリアムズは、民謡について、次のように定義しているのだそうです。
「民謡とはメロディ(旋律)だけである。それ以外は自由」。
これだけで私たちが民謡に対して持っているイメージを完全に破壊してくれますね。でもうなづける。

※私が誤解しているのかもしれないので、ヴォーンウィリアムズが上について書いた文章を引用しておきます。(ネットで拾ってきたものですけど)私の要約能力には難があるかもしれない。
民謡を縦に規定するものと言えそうな面については、それが純粋に旋律的であるという事実がある。われわれは近代音楽によってあまりに和声に慣らされているから、和声を考慮しない純粋な旋律がありうることさえ考える事ができにくくなっている」「民謡の歌い手は、リズム形式に関して全く自由にふるまう。彼はあわれな民謡採集家の当惑など考えもしない。彼の歌をきいた採集家は後であらためて彼を問いただし、彼が熱中のあまり不注意に歌った箇所を、正しく修正しようと試みるかもしれない。しかしわれわれは不規則な長さをもった小節が現代作曲家だけの特権であるかのように考えがちだが、むしろ現代作曲家たちの方が先人の享受していた自由に復帰したのである」「芸術音楽は個人による作品で、民族音楽に比べて比較的短期間に作られ、紙に記されて一定の変更を許さない形で永久に固定される。民族音楽は民族の産物で、個人的なものより共同体的な感性と趣味を反映している。それは常に流動的である。その作品は決して完成せず、その歴史の中のあらゆる瞬間において、ただひとつの形態だけでなく多数の形態をもって生きている」(『民族音楽論』(塚谷晃弘訳、雄山閣)



難しいことは良く分からないので流しちゃいますが、要はヴォーン=ウィリアムズは民謡や古い旋律に材を取った作品を数多く作っている事、それらはとても充実した一級大作になってしまっていること、美しくて音が厚い事、理論にちゃんと乗っ取っていて聴き応えがあるということ、です。で、数ある作品でも『グリーンスリーヴズ幻想曲』や『トーマス・タリスの幻想曲』や『揚げひばり』や『ノーフォーク狂詩曲』などは名曲中の名曲として知られているのですが、私の関心としては次点として置かれているこのラザロ(←もちろんこれだって愛好家の間では存分に評価の高い作品ですが)が一番聴き応えがあって好きだと言う事です。 この作品は、1939年のニューヨーク万博の為に作曲された作品であるそうです。ハープと弦楽合奏のための作品です。 でも「万博のため」というのは単なる理由で、ヴォーン=ウィリアムズが民謡採集をしていく過程で、「聖書の中にあるラザロのエピソード」をテーマにした民謡が、スコットランドアイルランドで5つも見つかったので、面白く思ってひとつの作品にしてみることを思いついたのだとか。そりゃ面白かったでしょう。(イングランドにはそれが無かったのかどうかは、手持ちの資料ではわかりません)
みなさま、ルカ伝16章にある「富める人とラザロの逸話」を読んだ事ありますか? キリスト教にちょっと偏見のある私(←熱心な真言宗徒ですので)から見たらかなりアレなお話なのですが、こんなのにもとづいた民謡が、連合王国全土に5つもあるのがまず面白く思いますし、ヴォーン=ウィリアムズがまとめたそれが、まったく違う旋律の寄せ集めになっている(ように聞こえる)のが面白い。変奏曲じゃないんですよ。これはもしかして、「岡山県にある結末の異なる桃太郎伝説を全部集めて組み合わせてみた」、「文部省唱歌の中にある4つのこいのぼりの童謡を全部漏らさず合わせてみた」、「滝廉太郎の「花」と中島みゆきの「花」と森山直太郎の「さくら」とシューベルトの「ひまわり」を組み合わせてみた」と同レベルなのではありますまいか。その上で、この音楽が2度も最高の盛り上がりを見せる重厚で美しい作品に仕上がっていることが素晴らしい。


『富める人とラザロ』の逸話について。
検索すると、このラザロについて「イエスの友人で、キリストによって甦らされ聖者となった人」と書かれている事が多くありますが、実はそれはヨハネ伝に出てくる別人のラザロさんです。まぎらわしいですね。『X-ファイル』に素材として出てくるラザロさんもヨハネ伝の方の「復活した」ラザロさんでしたね。
ルカ伝に出てくるラザロのエピソードは以下の如く。
「ある金持ちがいました(この金持ちは名前すら示されない)。近所にラザロという名前の貧者がおりました。貧者ラザロは金持ちの家から出る残飯で生をつないでおりました。
この金持ちがとうとう天に召されたとき、あの世の聖者アブラハムの足下に、かつて自分が慈悲を示した貧者ラザロがいるのが見えました。彼はアブラハムに願いました。
地獄は苦しいです。私を救ってください。あなたの足元にいるラザロはかつてわたくしが施しをして救ってやったやつです。今度は私を救って下さい、と。
すると聖アブラハムは言いました。お前は生きている間、いい目を見たじゃないか。我慢しなさい。ラザロは生きている間不幸せだったのだからいまは救われるべきなのです。
それならば、と死んだ金持ちは言いました。
是非そのラザロを私の家族に使わして警告してください。豪奢をやめよと。こんな苦しみを、私は愛する家族には味合わせたくない。
すると聖者は言いました。
「それは貧者ラザロじゃなくてモーゼと救世主の役割りです」

・・・・・・・・悲しすぎる。
私はどちらかといえば境涯が貧者の方なので、この金持ちに同情する必要はないのですが、それにしてもこの逸話には腹が立つ。この文章の中には少なくとも金持ちの生前の落ち度は示されていないし(敢えて言うとすれば金持ちがあの世に行ったときにハデスにいて彼もそれに異を唱えないところでしょうか)、言動には必要悪は悪と知っていつつも敢然とそれを受け入れて最善をおこなったという、芯の強さが感じられるじゃないですか。なのに、聖者はそれを悪とし、貧にまみれたラザロを善と断ずるのです。そりゃ貧乏は苦しいですけど、因果がはっきりしていないためにこのエピソードは私は嫌いなのです。仏教の「蜘蛛の糸」を見ろ。金儲けをすることは悪い事ですか? しかしこんな身も蓋も無いようなものが、アイルランドとスコットランドでは5つもの異版で民謡として歌われているんですね。それもこんな美しい旋律で。


元の民謡がどんなものかは知りませんが、少なくともヴォーン=ウィリアムズによる音楽では地獄での責め苦や勧善懲悪の様子は微塵もうかがえません。それよりもむしろ「何かを成し遂げた英雄の人生」や「壮大な国土と歴史に対する讃歌」のようなものを感じます。少なくとも主人公は貧者ラザロじゃなくて壮麗でドラマチックな生涯を遂げた金持ちの方です(たぶん)。それが面白く感じましたし、題材と壮麗さのミスマッチが私の心を惹き付ける最大の要因なようです。英国万歳。そんなことをつらつら考えていたら、うっかり聖書まで読み込む事になってしまいましたよ。…はっ、これが孔明の罠か。

ヴォーン=ウィリアムズには私にとって魅力的な題材の作品が多々あります。
一時期、彼の交響曲全集が相次いで発売された時期もありましたよね。「じっと待っていれば、彼ほどの大家なのだから、その傑作はやがて漏らさず目に出来る」と信じて待っておりました。なのにその後CD不況になってしまい、それが果たせなかった事がちょっと悔しいです。










ネヴィル・マリナー


ヴォーン=ウィリアムズのさわやかな世界
1.トーマス・タリスの主題による幻想曲
2.グリーンスリーヴスの主題による幻想曲
3.揚げひばり
4.富める人とラザロの5つの異版

指揮;サー・ネヴィル・マリナー
アカデミー室内管弦楽団
(1972年、ロンドン(キングレコード)、¥1,800)

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吉松隆作曲 ピアノ協奏曲『花についての覚え書き』。

2007年06月28日 18時02分22秒 | わたしの好きな曲

しばらくの間、不眠に悩まされていた時期がありまして、でも寝ないわけにはいかないのですから、どうやったらよく眠れるだろうと困り果てていました。寝る前にビール(発泡酒)をグビグビ何㍑も飲むのは当然の事で、私はクラシック音楽好きでもありますので、「気持ちよく眠れる音楽」を必死になって探求しました。吉松隆氏の音楽は、そんな中でグイグイとのしあがってきた、私にとっての宝物の音楽であります。

 

 

吉松隆の代表作として、『プレイアデス舞曲集』という作品集があります。吉松隆という人は「美しい音楽だけを書きたい」ということだけを念じて作曲家を目指した人だそうで、この舞曲集に含まれた音楽は、その彼の妄執を具現化したかのように、溜息が出るほど美しい音楽ばかりが散りばめられているです。お洒落でなめらかで美人な人々の群れ群れ。まぁ、こんなたおやかな音楽ばかりに包まれて生活していたら、人って本当に幸せでしょうね。このCDには、買った当初の一聴目から聞き惚れてしまって、数年来の私の「心地よい睡眠のための音楽集」となっていました。しかしながら、この曲集があまりにも素晴らしいからといって、「じゃあ他の作品も聞いてみよう」と思って、何枚か買い求めてみた私は、とても戸惑う事になってしまったのでした。・・・・・・なにかが違う。

プレイアデス舞曲集Ⅰ
(舞曲集第Ⅰ集~第V集)
ピアノ;田部京子
(1996年、デンオン、¥2800)

プレイアデス舞曲集II
(4つの小さな夢の歌、3つのワルツ、ピアノ・フィリオ
 舞曲集第VI集~第IX集)
ピアノ;田部京子
(2001年、デンオン、¥2940)

私が吉松隆のことを始めて知ったのは、クラシック音楽に関する本によってでした。確か、私が大学生ぐらいのころから時折名前を見たんじゃなかったかな。(そういえば、私の大学の漫画サークルで吉松という名前のダンディな先輩が「オレのおじさんはクラシックの評論家をやってるんだ」と言ってたので、勝手に私はそれを吉松隆だと思い込んでいた時期がありました。そんなハズがないけど、懐かしいなあ)。吉松隆はその本では決して難しい事は言わず、マニアックな領域にどんどん踏み込もうとしている私に向かって、「クラシック音楽はバランス良く聴くのが楽しいんだよ。マニアックな楽しみは表面の近くにあるんだよ」ということを、楽しい語り口で語りかけてくれる人でした。
本はたくさん出しているはずですが、私がとりわけ気に入っている一冊はこれ。(監修者ですが、吉松氏が担当している部分もそれ以外の部分も、文章に味があってとても楽しい)

初心者からマニアまで、広い範囲をこれ一冊で扱っている本で、初心者から無理なくマニアの領域へ踏み込める作りの本です。ベートーヴェンとかバッハとかを聴くのが馬鹿馬鹿しくなってきたときにこれを読むのがよろしい。そんな感じの本です。オススメです。ま、私がお奨めする物にまともな物はあまりありませんけどね、でも少なくとも道を誤ろうとしていた大学生の時の私はこの本にとても救われました。まさか、これを書いている人が本格的なバリバリの大作作曲家だとは思いもしませんでしたね。

吉松隆の友人だという磯田健一郎の書いた『ポスト・マーラーのシンフォニストたち』という本を読むと、吉松隆はチャイコフスキーやシベリウスが好きで、「なにしろ音楽というものがあまりにも素晴らしいので、せっかく生きているのだからせめて美しい音楽のひとつも書いてからのたれ死ぬのも悪くない、とそう思って作曲を始めた」のだそうです。いいなぁ。私ものたれ死ぬ前に美しいメロディのひとつも書いてみたかったなぁ。その結晶があの『プレイアデス舞曲集』なのなら大したものだなぁ。

…と思って聴いてみたんですよ、交響曲『地球にて』とか交響曲『カムイチカプ』とか『朱鷺に寄せる哀歌』とかギター協奏曲『天馬効果』とか。・・・・・・でも、あれ? ちょっと違う。メロディは美しさを追求してるんでしょうけど、、、 これは完全に吉松が逆を目指そうとしたという「現代音楽」ですやん。私の好きな音楽じゃない。聞きにくい。芯がない。クラシックぽくない。(・・・・とまだ青かった私は思いました)。どうして吉松はプレイアデスっぽい作品をもっともっとかいてくれないんだろう?

そんななかで、唯一プレイアデス舞曲集以外で、ほんのちょっとだけ私の気を惹いていたのが、1998年に発表されたこの「メモ・フローラ」だったのです。

このCD、出た直後に買ったような記憶はありますが、頻繁に聞くようになったのは最近になってからです。先に書いたように、これを聴きながらだととても良く眠れるんです。一番の好きポイントは、細部がプレイアデス舞曲集に似ていながら、全体は正反対を目指しているという点です。実はプレイアデス舞曲集はとても美しい曲集でありながら、もはやクラシック音楽じゃないんです。あれは盛り上がりの盛大な短いムード音楽の群れだよ。一方で、この「メモ・フローラ」という作品は、実は吉松マニアの間ではあまり評価が高くありません。実験的な野心が強く表れている吉松作品のなかで、あまりにも個性の主張に欠ける優しい作品すぎるんですよね。私も最初は、「耳に優しいけどほとんど印象に残らない作品(だからよく眠れるんだ、と)」だと思っていました。それがですね、何度も聴いて(よく寝ている)いるうちに、次第に正反対の感想を持つようになってきてしまいました。今では、個性が強い美女軍団のプレイアデス舞曲集よりも、こっちのCDの方を良く聴きます。一番の原因は、「花についての覚え書き」というタイトルだと思いますけど。今では必ず脳内で花についての思いを巡らせば眠れるようになってますもん(条件反射)。

作曲者による作品解説
「メモ・フローラ(花についてのメモ)」という題名は、宮沢賢治が書いた何かの文章から取ったのだそうです。私は宮沢賢治が(というより岩手県が)大好きなので、なおさら心のどこかで惹かれるものがあったのかも知れません。しかしながら、これは宮沢賢治の小説でも詩集でもなく「自分の家の庭の花壇に、どういう配列で花を植えるか」ということを記したノートの題辞なのだそうな。賢治がペンネンネンネンネン・ネネムや雁の童子を構想する傍らで、気分転換のために庭に出て、花壇にどんなふうに花を植えるかちょっといろいろと試行錯誤した様子、その光景を想像するだけでワクワクなってきませんか。庭の花壇なのだから強烈に個性を主張したりはせず、ひたすらささやかにセンスを示すだけで勝負です。配列をちょっと変えるだけで、一角の雰囲気は劇的に変わるんです。
さっき「メモ・フローラはプレイアデス舞曲集っぽくない」と書きましたが、第三楽章はプレイアデス舞曲そのものです。盛岡は夜空が伊豆の百倍素晴らしいんだろうなあ。でも私は第一楽章がキレイで一番好きです。第二楽章は全然印象に残らなくて「エッ」と言ってる間に第三楽章が始まってしまうのですが、良く見ると第二楽章も10分41秒の長さがあるんですねぇ。ほんとですか? 捕らえどころのないぬらりひょんのような感覚ですが、それを努めて頑張って聴いてみるのもいいものです。

 

吉松隆作品集2 『メモ・フローラ』
1.ピアノ協奏曲「メモ・フローラ」(32分)
2.鳥は静かに(8分)
3.天使はまどろみながら(13分)
4.夢色モビールII(7分)
5.白い風景(全3曲、10分)
ピアノ;田部京子
指揮;藤岡幸男、マンチェスター室内管弦楽団
(1998年、シャンドス、¥2,600)

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おれたちはスパルタ人だー。

2007年06月27日 10時34分19秒 | 映画

いくつか映画も観に行きました。
『パイレーツ・オブ・カリビアン~世界の果てで~』、『スパイダーマン3』、『女帝~エンペラー~』、『300』ぐらい。残念ながら期待に胸を膨らませていった『パイレーツ~』と『スパイダー~』があまり面白くなかったのは、私の体調が悪かったせいだと思います。本当に残念です。もっと私好みに話が展開していってくれれば良かったのに。「女帝」、これは良かったです。とりわけ映像(というより舞台セットが)がすごく凝っていたから。時代も大好きな五代十国の時代だったし(五代十国にあんな王様いませんでしたけど)。物語や登場人物にはクセがありすぎて、観ている最中は「うーーーん」と唸っていましたし、皇帝の親衛隊の甲冑がヘンテコでしたが、しかし帰ってきて何週間も経った現在でも、印象的な場面の映像が何度も何度も頭の中に鮮やかに浮かんでくること! なんだか、作品としてよりも体験として楽しい作品だったです。音楽は譚盾(タンドゥン)。一番の功績はこの人でしょうね。タンドゥン大好き。

そして。

いつもポスター等を見るたびに『309』と読んでしまいながらも、とても気になっていたこの作品。とうとう見てきました!
しかし、この題名どうにかならなかったのかね。300だって309だってどうでもいいような内容でした。だって敵軍は100万人もいるんですから。むしろレオニダス王とファラミア卿と隊長で、『3』でもいいような感じですよ。(むしろけなげなアルカディア人たちの民兵たちの方が英雄的でかわいそうだった)。こと隊員の数の多寡で切迫感を与える意味では、『MUSA~武士~』の方が勝れているような感じがしたです。いえね、こっちの映画では人数はそれほど重要ではない、というだけのことです。私はこのようなおざなりな題名がどうしても我慢できません。
それにしても、スパルタ人は、かっこいい!
ジェラルド・バトラーが叫ぶ『This! is! Spartaaa!!』、かっこいい!!

どうですこの禍々しさ!
一度彼らと刃を交えたペルシャ兵たちが、次(プラタイアイの戦い)で、この赤いマントを見ただけで尻込みしてしまったというのも、うなづけます。そういう納得をさせてしまうほどに、今回のこの映画は熱い血潮を感じさせてくれるような素晴らしい作品でした。原作が漫画だという事で、ちょっと普通の映画とは違うような間合いやスピード感も良かったのかもしれませんね。ザックザックと走りながら藪を切り裂いていくような感じ。
しかし、なんでこの人たちは裸でモッコリなんだろね。

この映画については「アメコミが原作」だということで、「歴史的な細部の作りは期待しない方がいい」とよく言われました。
しかし、上のスパルタ人たちの見事な姿を見てしまうと、そんなこと言ってられなくなります。うをおおおおおおっっ、スパルタ人かっこいっ!! なんといってもスパルタ人って世界史の中で最も変な人たちですので、逆に歴史的な部分を再現した方がヘンテコ振りが発揮されるような気がします。というわけでわたくしの場合、「映像のために歴史的事実には目をつぶる」というよりも、「映像の中のスパルタ人っぽさ」を見つける事に一生懸命になっておりました。

以下、凄かった点と気付いた点を羅列。
①.歴史の中のスパルタ人のヘンテコ。
良く言われる「スパルタ教育」について、「深い谷に落として凶悪な獣と戦わせる」シーンは見事でしたね。プルタークなんかが良く挙げる「女性の地位が高いのは広いギリシャの中でもスパルタだけ」も再現されていて、痛快だったです。巫女による託宣のシーンも、合理主義がスパルタの精神なのに古代的滅茶苦茶も多大に混じっている様が描かれていて、良かったです。ギリシャには行った事がありませんが、スパルタの町の映像は理想通りでした。アテネとは違う感じ。郊外に広がる麦畑の映像、良く本に載っているスパルタの廃墟の映像とイメージがぴったりで、涙を流せました。
逆に、「描写が足りないんじゃないの?」と思った点。
たしかスパルタって、常に王が2人いたんじゃありませんでしたっけ? 王がもう一人いたらレオニダスも楽だったでしょうに。また、スパルタの中でもスパルタ人は極少数のエリートで、彼らの生活は多数の奴隷たち(ペリオイコイ)によって支えられていた事。映画には奴隷が一切登場しませんでした。アメリカ映画だから? で、スパルタ人とペリオイコイを合わせて「ラケダイモン」というのですが、それがスパルタ人全体を呼ぶ総称だったはず。スパルタ兵は持つ盾に必ずラケダイモンの頭文字の「Λ」の文字を刻むのですが、これはちゃんと映画では再現されていて、感激しました。

②.裸の兵士たち。
むっちむちのハダカにばかり目が行ってしまうのですが(笑)、この様な形態のギリシャの兵隊たちのことを専門用語で「ホプリタイ」といいます。ホプリタイは日本語にすると「重装歩兵」。そう、彼らは“裸”なクセに重装歩兵なのですよ。ぶわはははははは! 仕方が無いじゃん、専門用語ではそうなんだから。一応「ホプリタイ」とは「ホプロンを持つ者」という意味で、ホプロンというのは彼らの持つ丸くて重い盾(直径1mぐらい)のことなんですねえ。つまり、ギリシャでは盾さえ持っていれば他はスッポンポンでも重装備。さすがに本当はいくら無謀なスパルタ人でも裸で戦うことはそうそう無かったと思いますが。(普通は身体にも甲冑を付けます)
ちなみに、ジェラルド・バトラーがかぶっているいかにもな感じの凶悪なカブト。凄く恐いのでスパルタ人のトレードマークなのかと思いきや、これ「コリント式かぶと」というんですって。これは重い上に動き辛かったそうで、ペルシャ戦争の次のペロポネソス戦争の時に、スパルタ人はもっと軽くてかわいらしい兜を発明し、それが「スパルタ式」と称されたのだそうです。そのスパルタ式兜の姿は映画のコレとは全然違うのです。微妙に残念。
ともかく、ギリシャ兵にとっては丸盾(ホプロン)こそが全てであり、この盾を巧く使って密集隊形を作り、盾の隙間から槍を突き出す。槍は逆手に持つのだそうです。映画ではその密集陣戦術が見事に描かれ、わたくし思わず感激に涙を流してしまいました。(←泣いてばかりだなオレ)

③.スパルタ人の性格。
まあ、スピード感のためには仕方がなかったことかもしれませんけど、アテネ人が一切(名前しか)出てこなかった事が残念だと思いました。勝手な見方かも知れませんけど、スパルタ人って、小癪いアテナイあってこそのスパルタ人だと思うからです。
まず冒頭。ペルシャ人の使者がスパルタを訪れて高慢な態度でレオニダス王に降伏を迫るシーンがありましたが、確か史実ではクセルクセス王のこの遠征では、ペルシャはアテナイとスパルタにだけは使者を派遣しなかったんじゃありませんでしたっけ(送っても無駄だから)。誇り高いスパルタを表すエピソードでありますが、アテナイも同様であります。この時点でスパルタは猛烈にアテナイを意識するはず。映画ではスパルタを納得させる為にアテナイの名を出していましたけど。
私だったらアテナイとスパルタの対比だけで萌え狂えられます。
で、ペルシャの使節を殺害したレオニダス王は、有志の300人を率いてテルモピュライの渓谷に出掛けていくのですが、映画の中では地図が示されなかった為に、戦場となるテルモピライがまるでスパルタの入り口にあるかのように錯覚してしまう。
映画を観た人の中には、「彼らは愛する自分の都市を防衛するために死んだんだね」「祖国愛ってすごいね」と勘違いした人も多かったに違いありません。
地図を見ると、テルモピュライはスパルタからは遥か遠く、こんなところ抜かれてもスパルタはまだ全然平気です。そこを守るのはアテナイの役割だろ。なのにスパルタは(ギリシャのリーダーとなって)わざわざここまで出張り、そして命を張って奮戦した。なぜならばここはギリシャの入り口であるから。スパルタは普段は孤高を保ちますが、ギリシャ全体の危機の前には頼まれたら断らない。ギリシャで一番壮絶な戦いぶりをするのは、スパルタ人でなければならないのです。ちょっと角度を変えて描くだけでスパルタ人のヘンテコな思考振りは強調できたと思うんですけど、この映画ではなされませんでした。一方で、だからこそややこしいことをくだくだ描くより、「なにもかも捨てて一心不乱に戦う」爽快で猛烈なスパルタ像が見られたのかもしれないですけど。

<ネットで無断で拾ってきた地図です。ゴメンナサイ>

テルモピュライの戦いに先立つ10年前の、ペルシャのダレイオス大王が攻めてきた「マラトンの戦い」のことも決して忘れてはいけません。ペルシャの大艦隊がアテナイに近いマラトンまで攻め寄せてきたとき、アテナイはギリシャ中に救援要請をするのですが、スパルタはこれに参戦しなかったんです。スパルタは「神聖な祭りの最中だから」という理由で兵の派遣を少しだけ遅らせてしまったんです。まさかこの戦いでアテナイが勝てるとは誰も思っていなかったから。でも卓越した名将ミルティアディスの采配でアテナイは大勝利してしまいました。この勝利でギリシャ内でのアテナイの発言力はグンと増し、スパルタは焦ります。「スパルタはペルシャが恐かったんだぜ」という陰口も散々叩かれたんだと思います。それからの10年間、スパルタ人たちがとれほど悔しかった事か。
それが、10年後のテルモピュライの戦いでスパルタ人たちが100万vs300人という無謀な戦いを仕掛ける事になった、直接的な原因だと思うのです。
いくらアテナイのミルティアディスが凄かったといっても、マラトンの戦いは3万vs1万ですからね。レオニダスだったら100万(20万とも)vs300でも楽勝で勝てるでしょうし、万が一があったとしても伝説になれるに決まってます。

戦闘民族スパルタ人。
念のために言っておくと、スパルタのレオニダス王は、最初っから100万の大軍に300人だけで突っ込んでいったのではありません。王はギリシャ連合軍の統率者として連合で策を練りました。そして、強大な水軍を持つアテナイに海側を任せ、アルテミシオンに陣を敷かせました。自らはギリシャ諸都市の歩兵連合隊を率い、ペルシャ軍を迎え撃つためにテッサリアの平原に向かいました。(このときのギリシャの兵の人数がどのくらいだったか、本にはほとんど書いてありませんね。数千はいたはず)。しかしペルシャの陣があまりにももの凄かったので、少人数で守りやすいテルモピュライの隘路まで後退。ここでギリシャ人達を良く率い、しばらく持ちこたえました。ところがギリシャ人の中に内通者が出て、クセルクセス王にテルモピュライの迂回路を教えてしまいます。
この時点でレオニダス王はテルモピュライは持ちこたえられなくなったと判断し、ギリシャ諸軍に撤退を指示。自分たちだけはここに踏みとどまって時間稼ぎをしようと、300人だけを率いてペルシャ軍に突撃していくのです。
映画だと、退く事を知らぬ猪のようにただ突っ込んでいった無謀で熱い戦士たち、というような感じですが、本当は、次の局面で同胞たちがかっこよく戦う機会を作る為に、時間稼ぎの為に犠牲になることを選んだかっちょいい男たちの物語だったのですよー。しんがり戦は一番難しい戦い方だそうで、後者の姿の方が数倍も素晴らしいと思うのは私だけでしょうか。
・・・・あ、いや難しい事を一切言わない映画も凄く楽しかったのですから、そんなことを言いたくなるのは多様な物語を楽しみたい歴史好きだけの悪いクセなんですけども。

⑤.それはそうと、ギリシャになんて行った事がないので、噂に名高い極悪地形「テルモビレー渓谷」が一体どんな光景だったのか、とてもワクワクしてしまいましたねえ。そして素晴らしかった。ほんとにあんな光景なんですか? ゲーム・シルクロード漫遊記の「死の渓谷」みたいです。ネットで検索すると現在は有名な観光地になってるそうで、写真もいくつか拝見しましたが、映画のテルモピレーはすごく邪悪だった。


<また拾ってきた写真。なるほど~>

「テルモピュライ」という語はギリシャ語で「熱い門」という意味で、それはこの谷間の間に熱い温泉が噴き出し、もうもうと蒸気がたちこめているからというのですが、実は映画中では一回も「テルモピュライ」という地名は言われなかった。スパルタ人たちが「ホットゲート」と何回も言ってるので何の事かと思ってたら、それがテルモピレーの事だったんですね。

⑥.クセルクセス王。
そういえば、この映画に対して、イラン政府が猛烈に抗議した、ということもニュースになっていましたね。ペルシャ帝国があまりにも「悪の帝国」として描かれすぎていて、真実をねじ曲げているとか。

祖先の描写に怒りをあらわにするイラン人

ごもっとも、、、 と言いたい所ですが、他の領土を狙って侵略してくるようなやからは、当然悪の権化として描写されてしかるべきです。たとえそれがアレクサンドロス大王やカエサルであっても。
ただ、クセルクセス王の姿にはやっぱり笑いました。
これ、イラン人(アーリア民族)じゃないじゃん。アフリカ人じゃん(役者の方はブラジルの人だそうですが)。あまりにも素晴らしすぎて惚れました。コリン・ファレルの映画の中のダレイオス大王はまともだったのに、どうしてこんなになっちゃったんでしょうか。やっぱりイラン政府も怒るべきです。

で、クセルクセスの親衛隊として「不死隊」という精鋭たちがいるのですが、彼らは雰囲気が映画「女帝」の中のヘンテコ親衛隊たちと似てました。(あまり強くありませんでした)

 

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契丹。

2007年06月26日 17時58分05秒 | 小説・漫画

折角なので、許せる限り記事を増やしておきますー。
最近は許される限り時間を盗んで本を読むように努めていました。とはいっても私は調べ癖が祟ってあんまり本を読むのが早くないので、読める量は少ないのです。じっくり読むのが好きです。
『十二国記』(一気に全部読み通しました。やっぱりコレ、凄い緊張感の作品ですね。私も胎果なんじゃないかと思いました)、『21世紀少年』(これも改めて一気に。初読再読では気付かなかった伏線ばかり。最終巻が待ち遠しいですね)、『蒼天航路』(これも一気に全部。思えば通して読んだのは初めてだったのでした。号泣しきり)、『秘神界』『アーカム計画』、『幻し城の怪迷路』『宇宙幻獣の呪い』『ゾンビ塔の秘宝』(さすがにきっちり遊ぶ余裕は無いのでパラパラと流し読み。面白いなあ。自分は復刊を待てなかったことが本当に悲しい)、山岸涼子『ツタンカーメン』、『マダムとミスター』『退引町お騒がせ界隈』『だからパパには敵わない』『狼には気を付けて』、聖千秋『サークルゲーム』、『めぞん一刻』『人魚シリーズ』、『ブッダ』、竹宮恵子『イズァローン伝説』、ロード・ダンセイニの諸作品、名将言行録、海音寺潮五郎のいくつか、木原敏江『杖と翼』。
改めて見ると漫画がやたら多いですが、仕方のないことであります。
本棚に積んである未読の作品よりも、好きだった作品の方に手が伸びてしまうのも、もう私が齢だということであります。
そして志木沢郁様の三冊。昨日と今日で一気に。なんて研ぎ澄まされた綺麗な文章なんでしょう。鋭くて痛い。改めて惚れちゃいました。惚れ直すまでもなく惚れていたということを改めて感じました。この、豪快でアレで切ない福島正則にまたまもなく会えるんですねえ。

戦争小説としては、実に理想的な本でした!
楽しかった。
宋の2代目太宗(趙匡義)の時代、その軍隊で煌めいた楊一族と、中原を狙う遼(契丹族)との戦いを描いた作品でしたが、まぁ! この時代もまた素晴らしい名将が満ち溢れていること。これに先立つ五代十国の時代は大好きで良く本を読んでいましたが、この時代の事はよく知らなかったので、目からウロコがポロポロ落ちました。

北方謙三の本を読み終えるのは初めてなのですが(いつも冒頭だけでやめてしまう)、この人の小説って全部こんな感じなのでしょうか? 戦闘のエキサイティングを重視した作風? あまりにも凄いです。人ごとの戦術の違いを描き分けます。一方で、物語が戦闘の描写とそれを上回る訓練の様子と、それ以外のちょっとしたことだけに終始します。宋という時代は武官よりも文官を重視し、国土の安寧を図った時代だという風に理解していましたが、少なくともこの小説の中ではそれを気配しか感じさせません。(これ以降の物語と成るのかも知れませんね)。国土を見事にまとめたはずの宋の太宗は燕雲十六州の奪還に妄執し、配下は忠実にそれに従います。宋の人も遼の人もみんな戦う事が楽しくて仕方が無いみたい。上下2冊がずっと戦闘だらけなので、もっと短くしても良いと感じましたし、似たような作品を数多く書く田中芳樹だったら、英傑と並べて戦闘人間では無い普通の人を登場させることでバランスを取るだろうに、とも感じました。

田中芳樹の『中国名将百選』という本があります。この小説の舞台では曹彬、楊業、耶律休哥という3人が挙げられている。なんとも贅沢な時代だ。英傑の人とさまを存分に眺められるのは豪勢なことであります。もっとも田中芳樹の本では曹彬の素晴らしさが強調されていますが、北方のこの本ではすでに曹彬は老いぼれている。ちょっと無惨。なので実質は楊業(と7人の息子たち)と耶律休哥の一騎打ちです。って、楊業の7人の息子たちが素晴らしすぎるので、耶律休哥の素晴らしさが際立ちます。

最初気になったのは、楊家の軍勢の多さです。
楊業はもともとは北漢の地方軍閥(?)のひとつだったのですが、支配領域がやたら狭いのに私的に2万もの兵を抱えている。しかも厳しい教練によって、2万の兵がことごとく精兵! 日本の戦国時代の戦争を読み慣れてしまっているもので、この数字には気が遠くなってしまいました。中国ではこれが普通なんですか?(兵を養う為に北方との塩取引を大々的に経営している、という記述もあるんですが)
楊業には7人も息子がいて、そのだれもが傑物。そんなのいやーん。
ただ、7人もいてわけがわからなくなるかと思いきや、長男・楊延平から始まって二郎延定、楊三郎延輝、楊四郎延郎、楊五郎延徳、楊六郎延昭、楊七郎延嗣と順番になっていて、作中では常に「四郎」「六郎」というふうに呼び合ってくれるので、意外と分かりやすくて良かったです。物語ではこの兄弟たちの性格を描き分けることに最も力を注ぎ(ただ、二郎だけが影が薄かった)、この兄弟のチームワークが抜群で、読んでいてとても爽快だったです。さすが群像劇!って感じでした。特に六郎が最初一番の出来損ないとして登場するのですが、みるみる成長していき、一番の名将となっていく。これはいい。

一方で遼の側。
契丹族の遼は戦闘民族で、兵そのものが強く猛将が多いのですが、この本の真の主人公は耶律休哥で、この人の前では他の人はことごとく霞んでしまいます。孤高の性格が祟って、遼軍の全体指揮を執る簫大后(この人なにもの?)に疎まれ辺境の地に追いやられているのですが、遠くにあって輝きを増し、簫大后はやむなく休哥を戻します。実は大后自身が耶律休哥のことを憎からず思っている、という設定。面白すぎます。
耶律休哥は大后に向かって「五千以上の兵はいらない。そのくらいが丁度いいから」と言うのですが、5千でも凄いですよねぇ。遼は宋と違い国民皆兵制を取っておるのですが、休哥の軍はとりわけ厳しい訓練を経てきた精兵中の精兵です。休哥はこの5千の中から更に100騎を選び、“赤騎兵”として組織します。この休哥の軍の戦い方の描写がとことんねちこくて凄い。お互い鍛え抜かれた楊家の軍と休哥の軍がぶつかり合う場面に一番の面白味がありました。もちろん休哥だって楊業だって不敗じゃないんですよ。でもどちらも兵を大量に失ってもすぐに同等の兵を補充してしまってる(ように見える)。
宋軍の中で休哥と同等に戦い会えるのは父の楊業だけですが、ニヒルな四郎も堅砦に拠って休哥を驚かせる攻めぶりをみせ、また六郎と七郎は急遽精強な騎馬隊を作り上げて休哥を追撃できるまでになる。

しかし、楊家がどんどん強くなっていたのに関わらず、彼らも加わった燕城での遼と宋の大合戦では、遼の戦術には敵わず(休哥は遊撃隊として一番嫌な見事な戦いぶりを見せます)、宋の諸将の足並みのささやかな乱れに乗じられて楊家軍も大敗。楊業を始めとして楊平、二郎、三郎、五郎が戦死する、というところで取りあえず話が終わったのでした。切ない。
続きが読みたーーい。と思ったのですが、そういえば続きはハードカバーでこの間本屋に並んでいましたね。いつ文庫になるのかしら。それまで三國志を読もうと思って、12巻から読み始めたのですが、4/1ぐらいで読むのを辞めてしまいました。三國志はもういいや。とりあえず簫大后、その娘と敵将・四郎のロマンス、宋の文官・寇準の活躍あたりが気になります。私が田中芳樹の本でちょっとだけ知っていた楊家将縁起の内容とは、北方謙三の書き方はイメージが大分違っていましたので、それにも興味津々でございます。この時代の遼の皇帝・聖宗はまだ幼少であるとして登場すらしませんでしたが、この皇帝って一気に遼の国土を何倍も広げた名君じゃなかったでしたっけ? その君主と苛烈な簫大后の関係も気になるところでございます。

 

読みました。
・・・・・こ、こんなの外伝でやって欲しい、、、、って毎回言ってますね。
だって、クム編は『パロへの長い道』『豹頭王の挑戦』『快楽の都』『タイスの魔剣士』『闘王』『もうひとつの王国』と延々7冊も続いてるんですよ。そんなに長く続けるようなエピソードじゃないのに、、、、 しかも、これまで延々と描いていた伏線(タイスの町の地下の水迷路)を無視して話が展開していくような気がする。(読者の期待を気持ちよく派手に裏切ってしまえるのが栗本薫のいいところですが)
ネタバレしちゃうと、タイスの地下には「地下の支配者」として君臨する人物がいて、その人が今回のタイトルの幽霊の正体、でも彼の悲しいエピソードは前巻『もうひとつの王国』で詳しく語り尽くされているので、改めてそれを読まされても「ふーーん」としか思わない。ホントに、そろそろクムを脱出してパロに向かってくれーっ

しかも、今巻の主人公はグインでも幽霊でもなく、グインの仲間たちの中で唯一することが無くて部屋でぷらぷらしていた侍女のフロリーでした。そのフロリーがひょんな事からクム大公のタリク陛下に見つかってしまい、大公は純粋無垢なフロリーに一目惚れしてしまって求婚、ところがそのタリク大公に求婚していた高貴な令嬢が逆上してフロリーをとらまえ、監禁して拷問をする、というのが今巻のお話の柱だったのでした。・・・・ほんと、どうでもいい。作者だけは、ちょっとおまぬけなタリク大公の描写を工夫してすることを楽しんでるんでしょうが。タリクのしょーもなさは遥か前に描かれてますのに。

次巻は7月発売ですが、今度は「外伝」(←外伝も21冊目!)なんだそうです。
・・・・・・外伝。いまさら外伝で語るようなことってありましたっけ。
『重病人探偵アルド・ナリスの事件簿』の続きだったら嬉しいんですけど。

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