オセンタルカの太陽帝国

私的設定では遠州地方はだらハッパ文化圏
信州がドラゴンパスで
柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

山神オコゼ魚を好むということ。

2017年07月03日 19時06分54秒 | 伊豆の歴史


6月11・12日に行った下田旅行の日記の続きです。
次のお店を求めて夜の下田の町を歩き回るのですけど、若い頃の自分は夜の町の徘徊がとても好きで、佐世保でも浜松でも下田でもシラフでよくやっていましたが、今となって思い返してみますと、悪趣味で不審なことこの上ありませんですな。今日の私は只の酔っ払いなので、反省はしません。



この日は月がとても赤くて丸かった。このホネホネの建物が移転する前の旧・ラーメン倶楽部の建物なのですけど、私が下田に住んでいた20年前のこの場所には九州ラーメンのお店があって、こんな見た目の建物ではなかった。九州出身のわたくしにはそのお店も嫌いではなかったのですけど(そんなに匂いがきつくなかった)、いつのまにか無くなっちゃいました。この裏に「なかがわ」があります。なかがわは20年以上前からここにあります。



(※上の地図、間違えちゃいました。「新下田橋」が通称“人魚橋”で、その下の橋は「みなと橋」でした)。
下田の町は、マイマイ通りとその先の了泉寺通り沿いにお寺がずらっと並んでいて、夜の徘徊にはちょうどよい。北から順に、福泉寺(=川路聖謨とプチャーチンの交渉の場)、稲田寺(とうでんじ=川路聖謨の宿舎。下田仮奉行所。お吉のつれあい鶴松の墓がある)、海善寺(=下田領主・戸田忠次の居住跡。将軍家茂の宿所)、宝福寺(=唐人お吉の寺)、下田八幡(=下田の町の中心)、大安寺(=薩摩十六烈士の墓がある)。















下田八幡宮まで来て、山門の両脇にある二体の仁王像にびびる。こんなのあるのすっかり忘れていた。写真だと明るいけど実際は完全な真っ暗闇で、「何かある」と思ってフラッシュ焚いてみたらこんなですもん。家に帰ってから調べて仁王像と知ったけど、こんなの悪鬼か山の鬼じゃないか。でも脇の説明書きを読むと、ペルリ提督の遠征記の挿絵にも、この両像はちゃんと描かれているんですね。






・・・で、歩いて次のお店を探したんですけど、2、3軒入ろうとしてみた結果、「もうラストオーダー」とか「今日は魚が売り切れている」とか言われてなかなか見つけられず、この時間(22時)の下田で全く開いてる店がないはずがないんですけどね、結果としてまさかの宿飲み(笑)



いや、ローソン駅前店で「インドの青鬼」売ってるの見つけてしまったから(笑)
わたくし「インドの青鬼」が大好きで、それは私が以前働いていた喫茶店が属していた会社で作っていたビールで社割りでよく買ってたからなんですけど、その会社を辞めてしまってからもいろんな種類を良く買っている。でもこの会社のシリーズのうち、「僕ビール、君ビール」というシリーズだけ飲んだことがなくて、なんでかというとこのビール、ローソン限定の限定シリーズだったからですって。(家の近くにローソンが無いので知らなかった)。今ローソンではよなよなセールをやってるそうで、伊豆から浜松に帰る途中にも何軒かローソンに寄ってみたら、どの店でも青鬼とこのビールを売ってました。ローソンではドラクエくじもやっていて、ビールを3本買ったらチューハイと缶コーヒーも当たった。



僕ビール、君ビール。
とても変わったビールでした。
インドの青鬼は何が好きなのかというと、ホップを大量に使っているせいで香り高く、そしてとても苦いのです。(アルコール分7%)。保存性を高めるためホップをふんだんに増やしたビールをインディア・ペールエールというそうなんですが、僕ビール、君ビールのコンセプトは、「香りの強調」。そのためホップをインドの青鬼の倍使っている。と、当然苦みも強くなるところところなんですが、独自の技術でその苦みをとりさっているんですって。結果、めちゃくちゃ独特な香りと爽快な飲み心地のものになっています。
僕ビール、君ビールには続編もあって、前作は苦みを抑えてみたものの香りが高すぎたこともあって、飲み進めていくうちに強い香りのクセにやがて強く幻惑されてしまうという特徴があって、それを、その香りすら抑えてみた(ホップの量は変えずに)、という作品だそうです。つまりインドの青鬼の倍のホップを使っているのに、インドの青鬼からは考えられないほど苦みも香りもない、という作品です。「そこまでホップにこだわる理由は何なのか」と思いますけど、これはこれでおいしい。

(・・・と説明したんですけど、この説明は誤っていて(酔っ払ってますからね)、検索してみたら、今年発売されてたのは「続編」の「続編」なんですって。初代はそんなにホップを使ってないそうです)

写真だと時計が6時23分を指してますけど、この時計間違ってます。というのはこのスタンドライトはコンセントを入れると時計が動き出すという仕組みになっているからで、つまりこのビジネスホテルは目覚まし時計をセットするのに、時計の針合わせもしないといけないというシステムです(笑)。
思いっきり酔っ払ったのちに知らないうちに寝てしまい、でもこの部屋思いっきりタバコ臭いので(だって禁煙室じゃないもん)安息に寝られるわけもなく(ぜんそくの吸入薬をたまたまカバンにいれてあって良かった)、苦しみつつ寝転んだりうつらうつらしていたら、朝になっていました。

朝ご飯です。


別館にあるレストランまで歩いて食べます。
最初に言いますが、この鰺の干物はかなり冷めています。だがしかし、この雰囲気はいい。鰺は事前セットされてるんですが、ご飯と味噌汁は私が席に座ってからよそわれます。それをやってくれるおっちゃんはすぐに新聞を読み始めて、それがとてもいい。下田大好き。
ただ、納豆ってなんなんですかね。朝、納豆など食べる習慣がないわたくしはとても苦心したんですが(私にとって納豆とは晩酌と共に食べるものです。酵素による栄養の吸収は寝る前の方が抜群じゃん)。なんで朝からネバネバせねばあかんねん。







2日目は下田の町のいろいろな所をとても精力的に巡ったのですけど、そのわりにはめぼしい成果がなかったので(とはいえ唐人お吉遺蹟の9割は巡った。4箇所だけ行ってないところがある)、詳細は後日に譲ることとして、食事の記録だけ。



昼食兼夕食は、『徳造丸』に行きました。
徳造丸はわたくしがまだ伊豆に住んでいた頃から猛烈に増殖しだしたいわゆる伊豆限定のチェーン店なのですが、わたくしは実は過去40年間行ったことがなかったのです。とにかく伊豆で徳造丸の存在感は強い。でも徳造丸と言えば金目鯛。「わざわざ下田まで行って金目鯛なんて食べてもなー」と思うじゃないですか。なのに短期間でこんなに僻地の伊豆でこんな急激な(ムチャとも思える)店舗展開をしているのにかかわらず、余り悪い評判を聞いたことも無い。これは怪訝なことです。「一度行ってみねばな」とわたくしはかねてから思っておったのでした。俺は一体何様なのだろうか。

徳造丸は稲取発祥の会社だったと思いますが、下田駅前店もかなり古いお店でしたよね。
わたしまけましたわ。結論から言いますと、「とても満足度の高いお店」でした。
まずいきなりつきだしで(居酒屋じゃないのに)、徳造丸名物『烏賊の山椒漬け』を出してくれるんです。小さい頃サンショウがあまり得意じゃなかったわたくしは、「山椒ってそんな匂いがあまりしないな」「山椒ってなかなかうまいじゃないか」って思っていたら、徳造丸名物のサンショウ漬けって、“山椒”じゃなくて“三升漬け”なんですって。どうりでウマイわけだ。(なんや。どういう意味や)
写真にあるヨーグレットみたいな変な錠剤は、実は紙おしぼりです。醤油差しのような物の中に入っている水をそそぐとムクムクとふくらんで一人前のおしぼりになるのですけど、私はついうっかり水をかけすぎておしぼりの用をなさないようになりました。



刺身や煮付けはよく食べてるけど、焼いたのはなかなか食べないので「金目鯛焼魚と刺身定食」を注文してみました。2100円(税別)です。焼き方を、「a.味噌焼 b.塩焼 c.味醂粕漬 d.西京漬」から選べるのですが、普通に「塩焼」にしてしまいました。味噌焼・西京焼きも気になりますね。ついでにサイドメニューの「トコブシの煮付け」(700円税別)も注文。



わお。トコブシは浜名湖にはいないのかなー。(※いない)
遠州灘にはいるんでしょうけど、遠州灘も砂漠だらけで岩場が少ないんで、なかなか見られないんじゃないんですかね。残念です。
トコブシの食感、大好きなんですけど、徳造丸のトコブシは「秘伝のタレ」とやらでとことん柔らかくなるように煮られ、味も甘い淡さでまるでハマグリを食べているよう(!)で、「ややっ?」と思った。でもおいしいです。トコブシの養殖事業は誰かが(静岡県が)手がけるべきです。



塩焼き、美しい。そして当たり前のように美味しい。
生でも煮ても漬けても焼いても干しても揚げても美味しいなんて、なんて素晴らしい。焼くしか手段のないウナギですら絶滅状態なのですから、キンメダイは絶滅しないでくれよ。
(このあとしばらく家で金目の干物を焼くことに夢中になりました)



刺身がなんだったか覚えてないのです。メジとカンパチだった様な気がするのですけど、写真でみるとカンパチ説には疑問が湧いてきてしまうし、この時期どこかで黒ムツを出してもらって食べた記憶があるんですけど、ここだっけ? でもカンパチだと言い張っても「そうだったっけ」と思ってしまう気もする。イカは「ソデイカ」だったことを良く覚えています。日本全国でスルメイカが獲れないことが話題になっている時期でしたからね。伊豆のイカ事情はかなり大変そうです。でもソデイカもモンゴウ大神君に似ていて非常においしい。
徳造丸下田駅前店、とにかくお姉様が明るく親切で、とても満足な印象のお店でした。




場所を沼津に移して、「沼津家」です。
5年ぶりぐらいじゃないかしら。
チャーシューメン、860円。



このラーメンの味も大好きで、よく食べに来ていたんですよねえ。沼津家の造りはある程度独特なのに、一部に吉田家や宝来家に共通するような香り(蔵前家にはない)があったりもし、ただチャーシューだけはめちゃくちゃ独特なのがとても懐かしい。とても美味しいです。
このお店のおっちゃんはとても寡黙で、客が入ってきても挨拶もしません。食券を買って注文をしても殆ど反応をせず、そのときしていた作業(皿洗いとか)をみっちり終わらせたあとに調理を始めるので、何も知らなかったら怒ってしまうでしょうが、出て行くときは凄い小声で「ありがとっしゃしたー」と言ってくれるので、あ、きっと私が入っていった時も聞こえないように「らっしゃっせ」ーって言ってたんだな、と合点するのです。私はこの店が嫌いではない。でも考えてみれば私がこのお店を知ってからでも15年、おそらく20年以上もひとりでこのおっちゃんはこのスタイルでお店を続けているんですよね。いつひょんな事情で無くなってしまってもおかしくはない。懐かしの味は自分だけで大事にしていきたい、と強く思いました。



本日の宿は沼津グランドホテルです。
朝食付きで5000円(税込)。破格に安いのに下田のゴールデンホテルと比べるとすごく立派で圧倒されてしまいます。恐らく建物自体はかなり古く、部屋の構造もひとむかしまえのものだと思われる物の、とても心配りの利いたものに手直しされており、しばらく前に泊まって感銘を受けた東横インとくらべても、かなり満足度が高かったです。やっぱり都会はすごいや。

しばらくベッドへ横たわってラーメンを消化させたあと、沼津の町を彷徨って夕食を食べる場所を捜します。



ところが、全然これぞ、というお店を見つけられない。わたくしも沼津の町は何度も来ていた気がしましたけど、そういえば一度も飲み屋とか行ったことなかった。おいしい沼津港のお魚を食べたいなんて欲を出していたら全然ピンとする場所に巡り会わず、沼津港まで行かないとダメなんですかね(そんなハズはない)。私が一番悪かったのはさっき宿で20時ぐらいまで寝ていたからで、やがてどんどん店が閉まりはじめ、結局『さかなや道場沼津店』に入ることにしてしまいました。沼津の町のお魚巡りは、いづれまた改めて来ましょう。
「さかなや道場」はチェーン店ですが、以前富士山に行ったときに「おさかな道場御殿場店」でお魚に稽古をつけてもらって、とても気に入ったんですよね。ところがなぜか浜松には道場は無く(同グループのはなの舞はあるのに。下田や伊豆長岡ですら道場が開かれているのに)、残念な思いをしていたので、だからついつい入ってしまった。(店舗の写真は撮り忘れました)



本日のお造り7種盛り、1390円(税別)。
見えない、よく見えない。こんなに見えないのはドライアイスをふんだんに使っているからで、さすがチェーン店はこういうのに力を入れるんですね。閉店間際のくたびれたおっさんの一人吞みなのに惜しみない。安いのに。



もう既に何の7種だったか忘れました。
おそらく、マグロ、カツオ、カンパチ、サーモン、イサキ、タイ、赤ムツ(ここで出たか?)、スズキ、アオダイ、ぐらいかな?(適当に言ってます)
アジとかイカとか無いんですよね。(不漁)
上の白い器がドライアイスの刺身(笑)
御殿場のお店でも少し感じたのですけど、このお店は氷をふんだんに使いすぎてお魚が少し水っぽくなってしまってる。冷たくておいしい。

続きまして注文したのは、



茶葉と地魚の天ぷら。(490円)
この“地魚”、ちゃんと聞いたはずだったのですが、もう忘れました。アジかな?(ですから不漁ですって)。うん、アジじゃなかったんじゃないかな。(てきとー)。



茶葉部分。お茶の葉っぱは美味しい、と知っているのは選ばれし静岡県民だけのはず。



そして焼き鳥5本盛り(790円)。
・・・カメラの中にこれだけしか写真が無いのですけど、この日私はこれしか食べてないんですっけ? 宿に帰って吞んだ記憶も無いし、いくら“小食”といつも言っていても、いつもはもっと食べてるんだけどな・・・(沼津家さんがまだ腹に残ってたんですね)
御殿場店もそうでしたが、このお店はお姉さん方がとても元気で魅惑的なお魚のお店だと思いました。




あとは適当に夜の沼津の町をうろつきます。



城岡神社。
沼津城の二の丸にあたる地点に建てられています。(ここが二の丸御殿から見て鬼門だったんですって)。
祭神は宇迦之御魂神。相殿に東照大権現と大國主之命がおられるといいます。



狩野川沿いの中央公園に「沼津城本丸跡」の碑が立てられていました。



へーー。
わたくし、沼津城(三枚橋城)ってよく知らないんですけど、沼津駅の三ツ目ガードを超えた先にある図書館の付近だと勝手に思っていました。(「三枚橋交差点」があるから)。確かその付近にあるちっちゃな神社にも沼津城ゆかりの何かがありませんでしたっけ?
・・・いまさら考えると、私、沼津の歴史についてほとんど何も知りませんね。むかし、さがみさんのために「香貫御前(←“土佐冠者”源希義の乳母?)と香貫長者について調べよう」と思ったのに、あれから10年経ってる。



川沿いにある「川廓(かわぐるわ)通り」というのが独特な感じで雰囲気があったのですけど、住宅地なので写真を撮ってませんでした。
中央公園にはこんな時間なのに若者がたくさんいます。



あゆみ橋(歩行者専用)から、御成橋。



あゆみ橋から御園橋と、香貫山。



あゆみ橋を渡った先にある香貫公園の八幡神社。


宿に戻って一晩寝てから、朝ご飯です。
このホテルは「朝食無料」と言っており宿泊者全員朝食付きです。最近ビジホによく泊まるようになったんですけど、朝食の扱いってホテルによって様々ですよね。「朝食が無料」って言われたら「おおっ」て自然とお得に感じて嬉しくなるけど、実際は本当に朝食が無料のはずがない。(部屋代に含まれているはず)。本音としては「サービスなんだから量が少なくても、会場が混んでても文句を言うな」という意味が込められていると思う。・・・というようなことは琵琶湖の東横インに行ったときに強く思いました。あの東横インは全体的には満足できる宿だったんですけど、朝食会場が酷かった。ごはんはちらし寿司でなかなか美味しかったと思うけど、めちゃくちゃ狭い場所に椅子がぎっしりならべてあって。そこに中国人の団体さんが大きな荷物をひいて次から次へと来るものだから、飯を食うどころではなかった。あれでは「今日は食べなくてもいいかな」「どうせタダだし」と思ってしまうし、そう思わせる作戦だったと思う。

といった個人的な思い出を念頭に置いての沼津グランドホテルです。



おおおお、とても感動的な朝食です。(無料ですから)おかずの種類がこれでもかと多いわけでないんですけど、なんと、焼きたてパンの種類がめちゃくちゃ多い。10種類ぐらいはあるんじゃないでしょうか。



実は行ったのが9時頃で、何種類かは売り切れてしまっているみたいですけど、それでもこの種類の豊富さはすごい。パンに力を十分に注いでいる朝食ホテルだったんですね。



実は廊下にこんな案内書きがあったので、どこか近くのパン屋さんで朝イチにたくさんのパンを焼いてもらって、それを並べているんじゃないかしら。だからこの日の私は運が良くて、日によっては9時なんかに行ったら全部売り切れてしまってパンが無い、という事態がありえたのかもしれない。だから当然焼きたてホヤホヤというわけでもなかったのですけど、どのパンも美味しくて、普段パンなどそんなに食べないわたくしも、たくさん食べてしましました。そういえば御殿場のホテルクニミもパンが美味しかったなー。パンの美味しいホテルって素敵だなー。あとは設置したホットプレートでずっと焼き続けているウィンナーも(おいしくて)衝撃でしたね。


さて、昨日気になった沼津城(中央公園)にもう一度行きます。





暗いときには気がつかなかった小さな大黒様と恵比寿様がいた。

このお城で一番印象的な部分は「川廓(かわぐるわ)」なんですね。川廓というのは、文字通り、本丸から見て狩野川に面した側の廓なのです。
沼津城は戦国時代には「三枚橋城」と呼ばれていて、天正5年に武田勝頼が建てたお城です。天正5年といったら長篠の戦いの2年後ですが、この城においては武田軍は敗けたことはなかった、不落の城でした。沼津には他に興国寺城や長浜城や戸倉城といった“名城”があったのですが、三枚橋城の出現によって駿東における武田の軍事力は強固な物になりました。
そんなお城の「大手口」はどこにあったかということが私の関心事です。




沼津城の見取り図です。
「三枚橋城」と「沼津城」は実はちょっと違ってて、1777年に廃墟となっていた三枚橋城の一部を利用して作られたのが沼津城だとのことですが、(「沼津城」は「三枚橋城」の3分の1ぐらいの広さしかなかったという)、ても、武田勝頼と高坂源五郎昌信の縄張りをある程度引き継いでいて、見れば見るほど面白いお城だと思いませんか?



川廓通りにあった案内板に「東海道分間延絵図」の沼津城がありました。
寛政~文化年間の沼津の図だそうです。天守閣はありません。

沼津という町はとても広い町ですから、わたくしたちは現在の沼津駅付近の繁華を思い浮かべて、東海道もきっと現在の国道一号のあたりを走っていたはずと、北条や徳川との戦闘を想定した三枚橋城の大手は北を向いてそちらに備え、現在よりも流量が多かったはずの狩野川は城の背後の堀を成していたはずと、勝手に思ってしまうと思うのですけど、実際はそうではなくて、沼津にとっては川が街道であり、城は川に向かって建っていたのですね。沼津の町の名前のもとになった狩野川河口の「沼」は寛政のころになってもまだ巨大な沼(=田)であったのです。
で、「東海道」はその「川廓通り」を通っていて、その狭い川廓通りと城の西側に江戸時代の「沼津の町」はあった。
現在歩いてみると、その川廓通りはとても狭くて路地みたいなので、面白く思うのです。



川廓通り。

私が沼津でいつも映画を観ていたジョイランドは、北側のお堀の中だったんですねえ。

おそらく勝頼が初めて城を建てた戦国時代にはここは人の住んでいないただの場所だったと思うのですが、(川を挟んだ香貫地区の方が栄えていたと思う)、位置的にはここは要衝で、武田氏が滅んだあと三枚橋城主となった大久保忠佐に嫡子が無くて廃藩となったあと、170年後に水野氏が新藩として沼津藩を起こし、沼津城を築城します。この間このお城は「廃墟」としてここにずっとあったんですって。江戸時代に廃墟として取り壊されもせず160年も放っておかれた巨城って、どういう状態になっていたんでしょうね。
『沼津藩の歴史』によると江戸時代にはこのお城は「ちっちゃな城」「おもちゃみたいな城」として有名だったそうです。

現在の沼津城の3倍の面積があったとされる三枚橋城は、漠然とした図しかなくて詳細がよく分からないのですが、中央公園にある案内板には「沼津城は三枚橋城の遺構の北側を利用して建てられた」と書いてあるので、狩野川の流れも少し変わっているのかもしれません。



静岡銀行沼津支店にある「三枚橋城の」発掘された石垣。
これは江戸時代のではなくて、武田時代の石垣なんですって。
武田勝頼は新府城でもやらなかった総石垣のお城を、ここに作ったことになる。(※新府城は平山城で、こっちは沼地の城だったからなんですけどね。)
でもすごい。



その先のリバーサイドホテルにある三枚橋城の石垣。
ホテルのデザインの一部になっています。
こう展示されている三枚橋城の遺構を見てみると、沼津の人々は江戸時代よりも武田時代の歴史の方を誇りに思っているようね。(※そんなことはない)



リバーサイドホテルの隣のナティ沼津の前にある、三枚橋城の石垣の石を使ったモニュメント。
この通りはこれだけではなく、変な造形のモニュメントが豊富な、アートな町でした。






さて、次は下香貫に移動し、「揚原神社」を目指します。
「揚原神社」は現在は「やなぎはらじんじゃ」と読むのですが、伊豆でも地元以外では殆ど知る人もない無名の神社だと思うのですが、実はなんと驚け! 延喜式の神名帳に「やきわらの明神」と記されているれっきとした明神大社なのです。しかも田方郡では唯一の大社!(※おとなり三島市に三嶋大社があるのですが、なぜか延喜式神名帳には三嶋大社は賀茂郡の名神として載っているので、伊豆の北部の明神はこの神様だけなのです!)

・・・ということを、以前我入道の大朝神社に行ったときに知って、とても興味を持ち、「ぜひ行ってみなければ」とずっと思っていたのですが、、、、 いざ来てみるとちっちゃいなー。普通の神社と規模は変わらないし、謂われとか書いた案内板も無い。この神社だってうまくやれば三嶋大社とか諏訪大社とか出雲大社とかと張り合えるぐらいうまく儲けられると思いますのに、、、、 (※明神大社とはいっても三嶋大社の神階は正一位で、揚原神社は従一位なのですが)

「名神大社」とは何なのかといいますと、Wikipediaによりますと、神々の中で特に古来より霊験が著しいとされる神に対する称号で、その土地や日本国全体に何か災いが起きたときに神を宥める「明神祭」がおこなわれる神社なのだそうです。「明神」と「名神」は同義。延喜式神名帳には伊豆國には5座の名神大社が載っていますが、揚原明神以外の4座はすべて三嶋大明神の関係者なので、それら4名以外ではこの揚原神のみが独自の地位を誇っているといっても良い。・・・・はずなのですが、来てみてもこの神がなんなのかよくわからず、なんかむやむやした気持ちに包まれるのみなのでした。

揚原神社の祭神は、「大山祇命」で三島神と一緒なのですが、一緒に「磐長姫」と「木之花咲耶姫」も祀られている。三島神とは別の系統で伊豆の火山や富士山を崇めた神なのでしょうかね。(※三島神は伊豆諸島の方から泳いでやってきた)


(・・・つづきます)
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