オセンタルカの太陽帝国

私的設定では遠州地方はだらハッパ文化圏
信州がドラゴンパスで
柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

あやしうこそものぐるをしけれ。

2016年05月22日 23時52分21秒 | 今週の気になる人

これは秋葉寺の何かよく分からない彫り物。

「永正15年6月1日、富士禅定の一行が突然の嵐に襲われて、13人もが遭難死した。---其の内に内院から大きな熊が出てきて先達3人まで喰い殺された。これは熊ではない。大鬼神(天狗)のしたことだという噂が立った。徳川幕府以前の富士登山は、それほど危険が伴っていたのである。その頃から富士の裏山小御岳の正真坊は、荒天狗として里の者達に恐れられていた」(知切光歳『圖聚天狗列伝』)
「富士講には独特の唱文の唱え方、加えて独自の文字まで作成していて、第三者には窺い知ることのできない口伝が多いので困るが、頂上の仙元大菩薩と北口中腹の小御岳正真坊を信仰の中心としているらしい。同書にある「小御岳太郎坊正真」という呼び方は富士太郎すなわち正真坊を指すものかと途惑わされるが、富士太郎坊は南口、小御岳正真坊は北側の天狗として別々に考えるべきである。そのことは他の史料で明らかである」(知切光歳『圖聚天狗列伝』)
「東方の小結、富士小御岳正真坊は、由緒・知名度その他の点で(西の小結・彦山豊前坊と比べて)たしかに若干の見劣りがするが、決して小粒ではない。しかも山の高さ、品位においては何といっても霊峯富士山の北口、山梨県側を司る正真坊である。正真坊は荒っぽいことでは定評がある。武田信玄の在世時代の前後百年のことを誌した都留郡の日蓮宗寺院の『妙法寺記』は富士山麓の農民の悲惨な生活をありのままに記録した貴重な民俗資料として珍重されているが、その『妙法寺記』に、富士山の中腹で多勢の天狗が鬨の声を挙げて騒いだのは不吉の前兆であるとか、天狗が突風を起して砂礫を飛ばし、岩石が降ってきて登山者が圧死したとか、北側の天狗の生々しい記録が残っている」(知切光歳『天狗の研究』)




五合目には5つぐらいの巨大なお土産売り場&休憩所があって、たくさんの人(主に外国人)がひしめいているのですけど、そのうちの一つが非常に天狗推しなのでした。



日本の天狗文化って、海外ではどういう説明をなされているのでしょうかね。
「天狗」を発明したのは中華の人たちでその歴史も古く、中華の天狗の姿は日本と較べても比べものにならないほど種類が多く多岐に渡っているのですけど、現在の中国では天狗は全く姿を消しているだろう。これは完全に日本独自の風習なはず。この独特な信仰形態を、ここにいる外人さんたちに知らしめてさしあげたいのですけどね。







店内には天狗の姿が各所にアピールされてあるのですけど、富士山土産としては天狗グッズはひとつも売られていないのでした(笑)


さて、順路が逆になってしまいましたけど、吉田口の登り口となるのが富士吉田市にある「北口本宮冨士浅間神社」です。



同じ「浅間神社」でも、山梨県の方は富士宮本宮の「冨士氏」とはほとんど結びつきはありません。
知切光歳尊師の説明によりますと、戦国時代~江戸時代にかけて角行とその一統(身禄、光清ら)が『富士講』を起こした時、富士宮側はあまりに冨士大宮司家と村山修験者(大宮司家の分家が長となっていた)の威勢が大きかったのであえてそれを避けて、北口からの登拝をするようにしたという。この北口の方が江戸から近くて便利だったので、江戸時代中期から富士講が大流行すると、富士宮口よりも北口(吉田口)の方が栄えたという。

一応簡単な位置づけを示しておきますと、

《静岡県側》
山宮浅間神社(富士宮市)「世界で最も古い浅間社」を名乗っているのがここ。第7代孝霊天皇の頃に起こった富士山大噴火の害を憂れいて第11代垂仁帝が浅間神を奉じた(推定紀元前27年)。その場所は「富士山の山足の地」というが、浅間大社の説明によると「山足」とは特定の場所を示す語句ではないという。日本武尊が駿河ノ国造たちに陥れられピンチに瀕したとき富士山に祈ったら運が開けたので、感謝のために現在地に磐座を設置した。(推定紀元後110年)。
富士本宮浅間大社(富士宮市)駿河國一宮。大同元年(806)に坂上田村麻呂が平城天皇の命を受け山宮を現在地に移した。大宮司家として君臨する冨士氏(和邇氏の係累)が坂上田村麻呂に伴って当地に来たのは801年。富士宮の浅間社の大部分は大社と深い関わりを持つ。(人穴浅間神社は違う)
富知神社(富士宮市)…孝霊天皇2年(推定紀元前289年創建。「富知」は「ふくち」と読む。大社を造ろうとしたときその場所にこの神社があったので、邪魔なので近くに移した。祭神は大山祇神だが「富知=福地」とは「恵まれた土地」を表す言葉で、大社への「土地譲り」は水の神から火の神への国譲りを示す出来事だという。
富士根本宮村山浅間神社(富士宮市)…孝昭天皇2年(推定紀元前474年)に富士山中腹に建てられた社を、大宝元年(701)役行者が現在地に移した。中世には"修験の霊地"として栄え、富士登山を行うものは必ずこの地で身を清めてから登った。神仏習合の最も理想的な形が見られた場所で、浅間大社との関係もおおむね良好だったという。明治以降は甚だしく衰微した。
冨知六所淺間神社(富士市)…孝昭2年(推定前474年創建。「冨知」は「ふじ」と読む。“四道将軍”のひとりの建沼河別命が強く崇めたという。延暦の頃、富士山の火害が著しかったので富士山山腹から現在地に移した。中世には「三日市浅間」と呼ばれるほど周辺で盛んに市が開かれた。地域では「どらヱモン神社」として親しまれている。※参考
東口本宮浅間神社(須走浅間)(小山町)…延暦の大噴火は東麓からだったため、山を宥めるために大同2年(807)に創建。伝説では弘法大師はここから富士山に登ったとされる。
新橋浅間神社(御殿場市)…「御殿場口」が整備されたのは他に較べて新しく(19世紀)、この浅間神社の興隆の歴史も新しい。(だが一説には源頼朝が御殿場で巻狩りをやった時に創建)。愛鷹山(瓊瓊杵命)と桜姫をセットで祀っていることが特長。
須山浅間神社(裾野市)…景行天皇40年(110)創建。日本武尊がここを通りかかった時になにか(奇瑞)があって建てたそうで、そのあと400年後になぜか蘇我稲目もここで何か関係したみたい。御殿場口が開かれる前はここが「東口」だったが、現在は「南口」と呼ばれている。

《山梨県側》
冨士山下宮小室浅間神社(富士吉田市)…大同2年(807)、延暦帝の東征の成功はここから冨士山に祈願したおかげだとして坂上田村麻呂が創建。「後に各村で浅間明神を一祠に祀るが、今も猶上吉田には子生まれて百日の後社参するに、先ず下宮へ参詣す」だそうです。神紋は「桜」紋。「神様が着るお召し物」としてたくさんの女性用の着物が飾られている。一番古いのは120年前の奉納物。大塔宮の首塚と雛鶴姫の遺跡がある。
北口本宮冨士浅間神社(富士吉田市)…景行天皇40年(110)に日本武尊がこの場所のすぐ近くにある丘(大塚丘)に立って富士山を仰いだのが始まり。神社として本格始動(?)したのは北条義時の頃。江戸時代には長谷川角行、村上光清と関わりが深い。伊藤身禄は光清とは対立していたはずだけれど、なぜかここでは一緒に祀られている。
冨士御室浅間神社(河口湖町)…北側で最も古い浅間社を名乗っている。文武帝3年(699)に二合目に建てた社が本宮で(石を立てて作った室だったので“御室”というのだという。その場所は現在「奥宮」となっている)。天徳2年(958)に現在地に里宮を建てた。「小室浅間」と「御室浅間」は兄弟的な関係。読みはどちらも「おむろ」。武田信玄が最も保護したという。
新倉冨士浅間神社(三国第一山)(富士吉田市)…文武帝の慶雲3年(705)年の創建。延暦の大噴火を愁いた朝廷は大同2年(807年)に勅使し、鎮火の儀式を行ったのがここだという。このとき平城天皇は「三國第一山」の称号を与えた。もちろん三国第一は富士山そのもののことだが、いつしかこの神社の呼称となった。景色が抜群に良いため「外国人に最も人気のある富士山神社」だという。
北東本宮小室浅間神社(大明見浅間)(富士吉田市)…崇神天皇6年(推定紀元前92年)の創建時は別の神社(阿曽谷神社)だったが、応神天皇の頃の富士山の噴火の時に応神天皇の第2皇子を迎えて浅間神社となった(らしい)。聖徳太子もここを訪れ「富士山北東國本宮阿座眞明神」という名を与えた。大明見(おおあすみ)の里は徐福伝説や『宮下文書』と関わりの深い土地だという。
河口淺間神社(河口湖町)…この神社にも「三國第一山」の扁額がある。貞観6年(864)の富士山大噴火がおこると朝廷は駿河國の職務怠慢を責め、甲斐國側にも浅間大社を造営すべしとの勅を出す。甲斐ノ国の式内社で明神大社の格を持っているのはここだけである。…と、そのとき建てられた“大社”はどこかというと今では3つの論社があって、実はよく分からない。当然その“大社”は“甲斐ノ國・一宮”であるはずだけど、他の2社に較べて河口湖のここは一宮を名乗ってはいない。河口湖北岸は富士山登山口からは遠いが、「河口御師(おし)」は吉田御師と同じぐらい興隆していた。
神託を受けて体長が2尺~7尺に伸びたり縮んだりしたという甲斐側初代祝の伴真貞のミハカは河口浅間にある(らしい。笛吹にもある)。
忍野八海浅間神社(忍草浅間)(忍野村)…大同2年(807)の創建。源頼朝が保護した。木花咲耶姫命と共に「鷹飼の神(邇邇芸尊)」「犬飼の神(大山津見命)」を祀る。伝・運慶作の金剛力士像もある。境内に「天狗社」として武甕槌神の祠がある。
一宮浅間神社(市川一宮)(西八代郡)甲斐國一宮浅間神社(笛吹浅間)(笛吹市)…西八代郡の方は景行天皇の御代、笛吹市の方は垂仁天皇8年(推定紀元前22年)の創建で、貞観6年の大噴火のとき朝廷の命で木花咲耶姫が遷座されたという。富士山からはちと遠いのは噴火の直接の害を避けるため。どちらも武田信玄が最も保護した。




こんなにある富士山周辺の浅間神社ですけど、天狗探求的に必ず訪れるべきなのが、富士吉田市にある「北口本宮浅間神社」なのです。
ほら、あんなところに天狗様が!





なんてステキな天狗さまだら!
「天狗の浅間」といわれるこの神社において明瞭に天狗がおわす場所は実はこれしか無いのですけど、参拝するに当たって一番要所となる位置(五合目の小御岳神社の天狗面と同じ位置)に天狗は飾られてござらっしゃる。

そして、「冨士太郎杉」と「冨士次郎杉」。



北口本宮の第一神木が太郎杉。
太郎杉! やっぱり北口の天狗(小御岳正真坊)は「太郎坊」なんじゃん、と安易に思いそうになりますけど、「次郎杉」とセットになっているのが怪訝ではある。京都の大天狗には「太郎坊」と「次郎坊」がいるのですが、東側では「次郎坊」って聞いたことが無いのですよね。そもそも神社の公式な説明では、この神杉を天狗と絡めては語っていないのでした。日光東照宮にも有名な「太郎杉」がありますし、一番立派な杉のことを「太郎杉」と名付ける習いは東国にはあるのかもしれない。もしかしたら南極の二匹の犬にちなんでいるのかもしれない。(※非公式に「北口の天狗と太郎杉」の関係を述べている人もいないではありません)
でも、天狗の神社で太郎杉といったら、ふつうはてんぐ様だよなあ。



太郎杉から見て、拝殿と本殿の繋ぎ目あたりを護るあたりの控えめな位置に「次郎杉」があります。本当に天狗護神でも宿っていそうな杉様だなや。



…さて、このあたりで富士山の天狗の特徴について説明しなくてはなりません。
知切師は「北口の天狗はとてつもない暴れ者」と言っていますが、この天狗はどこから来たか。
たとえば京都や九州では大天狗は明確に名山と結びついていて、それらの山々の大棟梁天狗はまさしく神の如しです。例えば、愛宕山太郎坊は火の神カグツチの第4の霊感(=娘?)として生まれ、カグツチ自身の化身として神と山と一体化しつつ山全体を巨大な翼で覆っている。秋葉山三尺坊の場合は、信州戸隠に神童として生まれた小坊主が越後國栃尾で突如覚醒し各地を数百年飛び回ったのち遠州秋葉山で神霊を見て降り立ち、秋葉権現(=大己貴)と一体化して護山となった。
こういった説明は「冨士山大天狗」には無いように思われる。

現在「冨士山の神様」として一般的に名前が出てくるのは「木花咲耶姫」というたおやかな女性ですが、この美女は太古からの天狗伝承とは全く結びつかない。「桜に宿る天狗」などというのは聞いたことが無いし(←そうでもないか。吉野と上州あたりに出没すると聞いたことはあった)、でもおおかたの天狗はたった一週間で散ってしまう桜の根性無しなど軽蔑している(と思う)。
そのあたり甲斐國側の小御岳神社は頭が良くて、「岩神」である磐長姫を持ち出すことによって、「冨士山の最も古い地層である小御岳の岩山から生まれた岩天狗は自分のかわいい妹(冨士山全体)を護山する(磐座信仰の変形)」と言っているのですけど、磐長姫信仰の本場である静岡県側では、そもそも磐長姫が天敵である木花咲耶姫の近くにいることなどありえないので、そういう説明をフンと鼻で笑う。磐長姫を信仰するならば、富士山を誉めてはならないのです。富士山神学的に言えば木花咲耶姫も新参の神で、もともとの「浅間神」は、姫の父上である「大山祇命」なのですけれど、この大神は日本全国7千万の山々すべてを統括する神でなかなか忙しく、個々の山の個々の天狗などには構ってはいられないようなイメージがある。

では、冨士山の天狗はどこから出てきたのかというと、「富士行者」(←静岡県側)と「冨士講先達」(←山梨県側)なのです。富士山の天狗とは、この人たちが説明する「冨士山の自然の不思議」の顕現です。
中世頃から富士の登山は盛んになったと言われてますけど、やはり富士山はとてつもなく厳しい山でした。今でも少しの不注意で富士山で死ぬ人のニュースを耳にします。でも、富士山ほどの山ですから、何百度も富士山に登って山頂でお茶することを日常とする人たちもいて、そういう人たちが「先達」として有料で登山者達のガイドをする。富士山は登るのは簡単だけど死ぬのも簡単。それは江戸時代から言われていたことだと思います。
ちょっとでも時季を外したり道を外したりしたら簡単に遭難する山。そういった登山で先達たちがお客さん達を統率するためにみんなで創り出した神の鞭が、「富士山の荒々しい天狗たち」だったのだと思います。実際にわたくしたちが漠然と思っているより、富士山の自然って荒々しいそうですね。たとえば御嶽山や浅間山や剱岳だったらみんな確固たる決意を持って登るのでしょうけど、富士山ぐらいだったらむかしから「だって富士山でしょ」と言いながらジーンズとハイヒールで登る人が多かったんじゃないか。
そういった加波の国の人たちを嬉々に見つけて神の鉄槌を細々に様々に与えていた人たちが、富士山の天狗さんたちだったと思います。
一見して、行者さんたちの天狗さんたちを見つめる目は優しい。

「富士山修験の最後の法印と言われた秋山芳秊翁(明治26年生まれ)から直接聞いた話だが、彼らが夏山にこもる入峯の行に入ると、必ず飯綱さんの場所(=宝永山の下方にかつてあった社)で木札を納めてゴマを焚いたという。飯綱さんが座る場所にモミの枝を敷いて、赤飯のむすびを奉納する。その際、変わったことに赤飯を空中高く放り上げて、「天狗!」と大声に叫ぶ。その声に反応して天狗がむすびを受け取るのだといい、三度ほど繰り返すと、近くのモミ林の枝に一つぐらいはひっかかって落ちてこない。すると「天狗さんが受け取ってくれた」と言って喜び、全て落ちてくると「今日はお天狗さまの機嫌が悪い」と言って大慌てで後ずさりして下山したものだという。その際、飯綱さんに背を向けないように本当に後ずさりして退去したという」(遠藤秀男『富士山歴史散歩』)
「さらに秋山翁の話によれば、山麓の大モミという所にむかしは行場があり、山伏が泊まって行をした。その夜天狗が必ず来ては悪戯を仕掛けたという。突然大風が吹き、枝がボキボキ折れる。その音を聞いても古参の者は驚かず、「天狗の奴がまたイタズラしてらァ」と言って平気で寝ていたが、新参者は恐ろしさで寝付けなかったという。翌朝小屋を出て見ても、枝の折れた跡もなければ大風の通った跡もない、というのが通常だった。ただ彼の祖父はそこで疝気だった事があり、「天狗に金玉を抜かれた」と言っていたそうである」(遠藤秀男『富士山歴史散歩』)
「彼らは13日間を山中で修行して下山するのだが、その間の食事はカユだけであった。そのカユも、お椀一杯に米が36粒しか入っていないという薄いカユなのである・そのため頂上周りをして行場に帰る時には、空腹のため「夜道に黄色い星がとんで歩く」というほどだったという」(遠藤秀男『富士山歴史散歩』)
「江戸の学者原徳斎が文政11年(1828)に表口村山から登山した際、山中で用便をしたくなった時に案内人の強力がこう教えたという。「鼻高様が住んでいらっしゃるから、お山を汚さぬように懐中紙を地に敷いてなさいませ」。「これを守らねば、ときとして怪事もまま有るとぞ」」(遠藤秀男『富士山よもやま話』)


富士山の浅間神社業界において、北口本宮は新参だったのだと思う。
後進ではあったが立地は良かった。(富士山が最も威勢が良かった王朝期はこのあたりは最も危険で、他の神社は少し離れた場所にできたからです)。だからこそ戦国時代に長谷川さんが目を付けたのだと思うし、戦国時代に流行しかけていた天狗ブームをどこよりも先駆けて取り入れる余地はあったし、「富士山天狗」という独特の文化を創り上げる可能性はあったと思う。富士山には天狗(=自然の驚異)は太古から有ったが、富士山の歴史の変転そのものが存外に激しいために、富士山周辺に住む人々の神霊に対するとらえ方も激しく変化があった。現在でも富士山の天狗信仰は北口周辺が一番色濃く残っていると言われますけど、結局のところはそれは江戸時代中期ぐらいのブームの残滓なんだ、と(自分にとっては)噴飯たることを思わざるをえませぬ。『富士講』という信仰は現在でも少しだけ残ってはいるのです。でも江戸時代の中頃に「宝永大フィーバー」という再度の盛り上げが起こり、この時山梨県側の富士山の天狗の人たちは何をしていたのか、それが私の気になるところです。





要するに北口本宮はこういう飾り物に象徴される神社なのです。







天狗グッズも2点だけ売られておりました。
北口本宮の神紋は、「桜」。おお! そりゃそうだよね。







「三国第一山」の語句がこんなに気になるとは思ってなかったので、その時撮った写真はこんなに不鮮明なものでした。


さて、この浅間神社で最も興味深いのが、この神社には「火祭り」の行事があるということです。
「火祭り」といえば天狗。
8月の終わりに北口浅間宮から始まる「吉田の火祭り」は「日本三奇祭のひとつ」と呼ばれるほどだとか。
浜松人には、火祭りがどうやったら「奇祭」になるのかよく分かりませんけど。

ただ、この「吉田の火祭り」は調べれば調べるほどよく分からない祭りです。
まず、神社で行われるまつりなのですから神事であり、神様の何らかの逸話にまつわる捧げごとなので「火坊天狗」がいる山なら何の不思議は無いのですけど、北口浅間宮の場合、祭りのおこりがはっきりしていないらしい。富士吉田の町で起こされた火が吉田口の登山道を通ってそれぞれの山小屋で続き、それが富士山五合目まで続くというのですから、富士山の火神に捧げる神事であり、その担い手が富士山五合目の「小御岳正真坊」であるというのが一番わかりやすい説明なのですけど、実はこの祭りは「浅間神社」ではなくてもともとは境内にある摂社(もともとは別の神社だった)「諏訪神社」の神事だったという説が強いんですって。
諏訪神社と言えば水の神。なんで水の神社で火祭りをすんねん。

このあたりが、“火の神”を奉じる秋葉神社や愛宕神社がやっている“防火”の神事と、噴火に悩まされた富士山の国の人々が“水の神様”に祈った“鎮火”は思想が違うというしかないようです。




北口浅間内にある諏訪神社

神社が掲げる「一説」として、
浅間神社の祭神である「木花咲耶姫」には、夫に不貞を疑われて憤懣した姫は産屋に火をかけ、燃えさかる炎の中で「火照命」(ほでりのみこと=海幸彦)、「火闌降命」(ほすせりのみこと)、「彦火々出見命」(ひこほほでみのみこと=山幸彦)の三つ子を産んだという神話がある。これにちなんで「木花咲耶姫」=「火の女王」=「優美と猛々しさを併せ持つ富士山の化身」とみなして火祭りの神事をおこなう。

と言っているのですが、これはあくまで「一説」で、

古記録を検証すると、有力なのは
諏訪神社の祭神である「建御名方の神」が国譲りの争いに負けて「建御雷」に追われ全国を逃げ回っていたとき、富士山の住民が手に松明を持って神様を迎えた。それを見て追っていた建御雷軍は「援軍がいる」と勘違いして一時退却したので、諏訪の神様は富士吉田にしばらく滞在した。その故事からいつしか、大松明を焚き上げて町角に設置し諏訪の神様を称える火祭りをおこなうようになった。

という起源説だそうです。
ここには天狗が出てくる余地は無い。が、やっぱり吉田の火祭りの起源は不可解です。
なんでここに諏訪の神が出てこないといけないかわからん。そもそも全国に他に「火祭り」をやっている諏訪神社はあるのだろうか。と天龍川のほとりで生まれ育ったわたくしは非常に関心が湧くのでした。この吉田の火祭り、もっと詳しく調べてみたいですね。




山中湖から見る富士山。
こっち方面から見る富士山の形は、静岡県民が想う富士山とは違う形です。新鮮。

…事前に富士山の浅間神社と天狗について適当に調べてからここに来たのですけど、「北口浅間にだけ行けば大丈夫!」と思い込んでしまっていたからそこにしか行きませんでしたが、実は河口湖畔の「御室浅間神社」にも天狗面があり、そこも「天狗の浅間」らしい。また、忍野八海の浅間神社にも建御雷を祀った「天狗社」があるというのですが、この時は知らなかったのでした。…とほほ、また来なければならんのか。

(…つづきます)
コメント (2)
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富士山を誉めるな。

2016年05月13日 05時09分12秒 | 今週の気になる人


浜松市でもうひとつの「天狗の凧の町」といったら上西町ですが(←三組町もあるけどネ)、凧はともかく上西町の屋台は天狗とは全く関係が無いらしいのです。上西町の凧は「富士山の天狗のウチワ」でそれは町の鎮守・富士神社の神紋に由来しているというのです。





でも、上西町の富士神社に行っても全く天狗要素は感じられなくて、がっかりしてしまいます。
そもそも富士神社の神紋は「天狗のウチワ」に似てはいますが本当は「棕櫚(シュロ)の葉」で、似てはいるが天狗の羽団扇では無いというのが大日本天狗黨の公式見解です。



棕櫚(しゅろ)っていうのは静岡県では陽光と風の強い広い場所によく植えられている南国っぽい植物ですが、実はかなり昔に日本に入ってきていて、『枕草子』にも「見た目は悪いが、舶来な感じがして格の低い家の植物とは思えない」と書いてあるそうです。どうしてそんな棕櫚が富士神社の神紋となっているのかというと、奈良時代から静岡県側の冨士浅間神社の大宮司を勤めている「冨士氏」の家紋であるからであって、棕櫚は「神の依り代となる木」と見なされていたからなんですって。上向きに広がるシュロの葉の形が、霊々しい神の光の顕現だとされてもいたようです。富士山と棕櫚はイメージ的に合わない気もしますけど、決して天狗のウチワとは似て非なる物なのだそうです。
じゃあ、天狗の持ってる本物のウチワって何でできてるのかというと、あれは「山鳥の羽」もしくは「天狗自身の羽根」、もしくは「八つ手の葉」なんですって。
でもそれはあくまで建前で、知切光歳の言うには、中世の冨士氏は天狗信仰をかなり前面に押し出していたみたい。



知切光歳の言うには、そもそも冨士氏はシュロの葉を天狗のウチワとみなして神紋としたそうです。(そんなことを明言している文献はひとつもないんですけどね)。でも確かに、シュロの葉なら「葉団扇」と言うのが本当なのを、冨士氏の紋は、棕櫚の「羽団扇紋」という名称なんですよね。棕櫚の葉団扇を浅間神社では表向き「天狗のウチワとは違う」と言ってはいますが、最初からシュロの葉を「天狗のウチワ」としている神社も少なからずあって、それは「富士山の(!)小御岳神社」「加波山神社」「妙義神社」だそうです。

現在の富士山の天狗信仰ってどうなってるんだっけ?
面白く思って、浅間神社巡りをしてみることにしました。



まずは富士宮市の「富士山本宮浅間大社」。
じつは富士山の周辺には20ぐらいの浅間神社があるのですが、全部が密接に結び合っているわけではなくて、ほとんどが「たまたま祭神が同じ」で「たまたま名前が同じ」「だって眼の前にこんな立派な富士山があるんだから、同じような神社がたくさんあるのはしょうが無いじゃん(進化の収斂)」「うちが本当は本物なんだぜ」ぐらいの関係です。「駿河國一宮」である「富士山本宮」も少しだけ影響力が抜き出でてはいますものの、この地に数ある浅間神社のうちのひとつなのです。
で、「富士山大宮司家」の「冨士氏」が本拠地としていたのがここ富士宮なのですね。
つまり「富士山天狗の棕櫚の羽団扇紋」の本拠地でもある。



境内を適度にぶらついて・・・
ショックを受けましたのは、無い! 無い!
棕櫚の木が一本も生えてないのは想定内でしたけど、神紋すらほとんど無いですやん。
(唯一、拝殿正面の一番目立つところに“棕櫚紋”が存在をアピールしてましたけどね)



これが浅間大社の羽団扇紋。
世の他の棕櫚紋の数々と比べて、本家の神紋はシュロの葉よりも「幹」を強調しているのがよくわかりますね。
なお、現在の浅間大社にはシュロの木は(おそらく)一本も生えてませんけど、こちらのサイトさんによると、数ある「富士参詣曼荼羅」のひとつにシュロの木が生えている様子を描いた物があるらしい。だから実際ここにシュロの木が生えていた時代もある可能性があるってことです。が、今回はその場所(廃仏毀釈で撤去された三重の塔があった場所?)には行かなかったので、現在そこがどうなっているか見てきませんでした。あの社務所っぽい建物がいくつもあった区画ですよね。
なお、上記ブログさんの記事で「葵紋と棕櫚紋が交互に描かれている」とされている本殿上部の“大棟”の部分の紋は、現在ではただの菊の御紋です。



浅間大社の本殿は二階建てなのが特徴で、こういうのを「浅間造り」というのだそうですが、あの二階部分には何の意味があるんでしょうね。何かがおわすんでしょうね。天狗みたいな。(←寝不足的な発想)




さて、今回の旅の目的は、「富士山の太郎坊大天狗の探求」です。
ずっと京都の愛宕山の太郎坊の研究を続けているのですけど、なんか血迷って「京都の太郎坊と富士山の太郎坊って実は同一人物なんじゃないか!?」と悩んでしまうまでになってきてしまったので。
だから、富士宮の浅間大社から、修験の聖地・村山浅間を経て、高鉢山を横目に眺めながら御殿場の「太郎坊」に向かおうと考えていたのですが、実はこの日はあまり天気が良くなく(前日まで雨が降ってましたからね)、富士宮まで来てみても雲が厚く、富士山はまったく見えなかった。「空気が抜群にきれいで景観にすぐれている」と評判の御殿場口五合目の「太郎坊」にこの天気の下で行くのは惜しい気がしたので、(明日は晴れだという予報だったし)予定を変更して、人穴の仁田四郎忠常遺跡を北上し、逆回りで富士山を巡ることに決めました。
で、「魔界の牧場」「朝斬り高原」を通りながら「人穴ってこの付近だよね」と思いつつ運転していると、なんか「富士山の芝桜まつり」みたいなものをやっているようで大渋滞。辟易しつつ精進湖までやってくると、ようやく道路は快適になり、ついでに雲が晴れて富士山がよく見えるようになった。「あれ、人穴ってどこだっけ?」と思って慌てて地図を見ると、遙か前に通り過ぎておりました(笑)。なんと、あの「魔怪の牧場」の近くでしたよ。(この道路(国道139号線)沿いにあるものだと思っておりましたよ。←途中で県道71・75号線に入らないと行けなかった)
まぁ、通り過ぎてしまった物は仕方が無いので、次なる目的地を目指します。
鳴沢村の「魔王天神社」です。
鞍馬山の魔王尊サナート・クマラや長命寺の大魔王・太郎坊など、大天狗ってなんか「魔王」という言葉が好きなんですよね。



ここでいう「魔王」とは、仏教用語で言う「第六天魔王」のことです。
仏教用語である仏教上の人物であるのに、祀ってある場所はほぼ「神社」っていうのがひとつめのポイントね。
織田信長が第六天魔王だったのが有名ですけど、他に後醍醐天皇とか足利義教とか細川政元とかも「第六天魔」と呼ばれていたのだそうです。
浜松に住んでいると「第六天」といわれてもピンと来ないのですけど、伊豆には50ぐらいの第六天があるそうで(知らなんだ)、関東全体には3千以上もの「第六天の祠」があるのだそうです。その分布を見ると、北条氏・武田氏が何か関係があるんでしょうかね。
では、「第六天信仰」ってどういう物かと思って調べてみると、ほとんどの説明サイトでは「よくわからない」って説明されてるんですよね。ほんとよく分からない。よくわからなさ加減が爆裂しているので、適当に説明してみますね。



まず、魔王の本名は「パピヤス」と言います。インド人です。
別名を「他化自在天(たけじざいてん)」と言って、「他人の悦びを自在に自分の物にしてしまう」から、そういう名なのだそうです。この魔王が棲んでいる世界を「第六天」と呼びます。人の幸せを奪う「魔王」が棲んでいる「世界」だからそこは「地獄」なのかと思いきや、実は仏教用語で言う「天上界」いわゆる「天国」の一つなのです。仏教では「人は輪廻転生を繰り返す哀れな存在で、だから苦しむのである」と教えていて、人はその行いにもとづいて、来世で地獄に落ちたり、この世で動物や虫に生まれ変わったり、運が良ければ天国に行けたりするのですが、天国というのはひとつじゃなくていくつものグループがあり、「欲天」と呼ばれる天国のグループの最上位にあるのがこの「第六天」なのですって。でも最上位とは言っても、「欲界」の上には「色界」という計18の世界、更にその上に「無色界」という計4つの世界があります。当然「地獄」にはこれ以上の種類があって、そういうのを嬉々として考えいちいち名前を付けるのが特徴なのが「仏教」だと思って良い。で、人は「天国」に行けたとしても決して幸せでは無くて、そもそものその「輪廻」から抜け出そうというのが仏教の目的なのですね。
「第六天」というのは6つある「欲天」の6つめなのでそういう名です。ちなみに「第一天(初天)」が一番人間界に近くて須弥山の麓にあり、持国天・増長天・広目天・多聞天の住まう「四大王衆天」、「第二天」は須弥山の頂上で帝釈天の住まう「忉利天」、その上にある「第三天」が閻魔天の住む「夜摩天」(道教や陰陽道ではえんま様は地獄で裁判官をしているのですが、仏教では天国にこの人の家があるんですね)、「第四天」が「弥勒菩薩」がいる「兜率天」、「第五天」が「どんなことでも楽しみに変わる」という「化楽天」、「第六天」が逆に「どんな楽しみも魔王に奪われる」という「他化自在天」なのです。仏教では「欲があるから人間は苦しみから逃れられない」「無になろう」と言っているから、無理矢理にでも欲を取り除いてくれるこの仏尊はありがたい、と、そういう考えなのです。
で、「6つの中で最高位にある第六天」というのは、ただ単に距離の問題だそうです。56億7千万年後に仏と成って人類を救済してくださることになっているミロクさまが兜率天(とそつてん)にいるのは、その下の三つが人の欲(悪)を狩ることに夢中で、また上の2つが快楽の追求に熱心すぎるのに対して、ここが一番住みやすかっただからだそうです。
第六天の魔王は実在した人物(?)で、アンクル釈尊が菩提樹の下で居眠りをしていた時にいろいろ誘惑したと手塚治虫の『ブッダ』に描かれている、あの兎によく似た巨大な齧歯類だそうです。アルマ・マーラー(第六天魔王の別名)はアンクル釈尊がなぜか気に入っていたそうで(彼の欲の形が他の人とはだいぶ異なっていたから)、『大般涅槃経』には魔王と死ぬ間際のアンクルの楽しい会話が収録されているそうです。



では、こんな大魔王を祀る祠が関東地方になぜ多いのか?
それがよく分かりません。(みんなわからないと言っている)
信仰の対象としての「第六天」は、「福神」としての扱いなのが第2のポイントです。

明治になって「神仏分離」が行われたとき人々は困って、ほとんどの場合「元は仏教だけど悪魔(←誤解)だし、つまり仏尊じゃねーから神社にしちゃおうかな」と思ったらしい。現在は第六天の化身(垂迹した姿)は多岐にわたっています。一番多いのは、『古事記』の中の「神代七代」のうちの六番目「オモダル神」(=“顔のハンサムに非常に恵まれた神”の意)と「アヤカシコネ神」(=“信じられないくらい頭の賢い神”の意)の夫婦神としている例だそうですが、(だとすると“神道”では天は「第七天」(=伊弉諾・伊弉弥のこと。この場合の“天”とは場所のことではない)まであるってことだ)、他の例では「第六天はずばり天狗」としている所も多いとウィキペディアには書いてありますけど、甲斐ノ國・都留郡鳴沢のこの「魔王天神社」の場合は「魔王の正体」は「フツヌシの神」(=剣の神)だという。

…でも、この「大魔王天神社」も面白いんですけど、今回私が訪れたのは、それが目的ではなかったのです。
富士山にはむかし天狗が沢山いたんですけど、富士山の天狗達を統べる総帥的な大天狗は2人いる、というのが天狗界の常識です。
富士宮口側の大天狗・富士山太郎坊(陀羅尼坊)と吉田口の大天狗・小御岳正真坊と。
富士山はあまりに広すぎるので、二人の天狗が管轄を分割しているんですって。どの本にもそう書いてあるんですけど、この二人が別人って言う証拠はどこかにあるのか?
実は「富士山にふたりの大天狗があるという明確な証拠はいくつもある」って書いているのは知切光歳師なのですが、わたしはまだ学が浅いので、そういう説明が信じられない。

山梨県側の大天狗が「小御岳正真坊」(こみたけしょうしんぼう/せいしんぼう)で現在は吉田口五合目の「小御岳神社」に祀られているのですけど、もともとはその祠はこの鳴沢村の魔王天神社の敷地内にあって「古太郎坊」と呼ばれていて、承平7年(937)に富士山の現在地に移されたという。
なんだ、正真坊も太郎坊なんじゃん。
が“古”太郎坊と書いてあるのが微妙であるのでして、実は正真坊様が「古・太郎坊」もしくは「小・太郎坊」のいわゆる「元祖太郎坊」で、そのあと別の「新・太郎坊」もしくは「真・太郎坊」みたいな「本家太郎坊」がよそからやってきたのかも知れない。「太郎坊」というのは天狗界の大棟梁の名なので、太古の富士山で壮大なお山のボス猿争いみたいなものがあって名前を奪われたのかもしれない。
「太郎」と言う名前を発明したのは9世紀初頭の嵯峨天皇です。嵯峨天皇は言葉遊びが得意な天皇で(「子子子子子子子子子子子子」が有名。←ライオンはネコ科ではなくて齧歯類であると証明しようとした論文すが、この天皇は子供がたくさんすぎて(48人もいた)、誰が「元祖太郎」なのかは分かっていないという。仁明天皇がおそらく「元祖・次郎」でしたでしょうね。10世紀には「タロリアン」「ジロリアン」という呼称はたぶんハイカラの最前線だったと思います。「八幡太郎」「鴨二郎」「新羅三郎」は11世紀初めの人たちです。

魔王天神社の説明板には違うことが書いてあります。
「もともとは別の場所(八代郡下部熊野神社の亥の方角に十間)にあったのを、享禄元年(1528)に神慮があって(=何かがあって)現在地に遷す。拝殿はあるが、山全体がご神体のため本殿は無い。地元の民は「風の神」として災害除け(主に対・颱風)に信仰した。第二次大戦中は武運長久のため賑わった」
…これって、もともとこの山(小さい山)に何かの風の神がいたのを、戦国時代に「魔王天」を上書きすることによって変えてしまったってことですよね。(剣では風は斬れない。いやいや、風が“剣の神フマクトの化身”なのか)
鳴沢村の役場のサイトによると、拝殿のうしろに、奉納された「三つ叉の戟のレプリカ」が大量に突き立てられているそうです。でもそれは拝殿を覗き込んでも見ることはできませんでした。



…いや、そうでもないか。頑張って覗き上げれば見えたんだな、剣の叢が。
天狗が剣の姿だったりすることはあるのだろうか。



いや、魔王尊天は古太郎坊ではないのです。古太郎坊はどこにいたんでしょうかね。
現在もどこかにその痕跡はあったりするだろうか。
それが今回の訪問の目的でした。

…結果としては、何も分からなかった!








…続きましては、吉田口五合目の「小御岳神社」を目指します。



富士スバルラインは往復で2060円もします。高い。
途中でいくつかの休憩所(トイレ)があるのですけど、天狗探求的には「奥庭駐車場」には必ず寄らねばなりません。
そもそも小御岳神社が富士山五合目にすえられたのは、ここが「天狗の御庭」と呼ばれる場所だったから。
その「御庭」から少し下った場所が「奥庭」。
これが面白いんですね。
普通の神社は「本宮」に対して「奥宮」は山の高いところにある。
富士山の場合は「御庭」に対して「奥庭」の方が人里に近い位置にあるんですね。富士山山頂から見て奥庭が奥(下)の方にあるのです。



こんな感じの坂道(意外と急)を下っていくと山小屋「奥庭荘」があります。



奥庭荘の目の前には「天狗岩」が。



「この奥庭を土地の人々は天狗の庭といい、昔富士山に棲む天狗様が日夜この庭で遊んでおり、この天狗岩は天狗様が山頂より小脇に抱え持ち下ってここに据え、天へ昇る時又天から降る時の台石としたので、天狗様の霊魂がこもっていると伝えられ、里人は山内に入ると必ずこの天狗岩を拝み、道の守護・猛獣・怪奇の無難を願っている。この天狗岩を信仰すると男女の仲が開け、夫婦は円満になると里人は伝えている」



確かに溶岩がこの形で切り出されているのは少し不思議ですね。



岩の陰には作りかけ(?)の天狗の頭も。
この下の穴に何かありそうですね。
(「なにかありそう」どころじゃなくて家に帰って写真を調べてみると、確実にこの穴の中に金色に輝く何かがあるのですけど、この時は気づいていませんでした。…また行かねばならんのか)



そしてうしろに回ると天狗の簑(隠れ蓑?)も。

奥庭駐車場には20人ぐらいの人がボランティア解説員の研修をしてました。ちょうどここが森林限界なので、解説することが多くてボランティアも非常に楽しいでしょうね。吉田口五合目では「天狗の御庭」が森林限界の上にあり、「天狗の奥庭」が森林限界の下になるのです。
奥庭荘は精進湖口から車ではなく徒歩で上る人の宿所となる施設です。泊まってみたい。レストランのメニューに「天狗餅」(600円)、「天狗鍋」(1800円)があって、でもこの時はお腹がすいてなくてスルーしちゃったんですけど、今ひどく後悔しています。食べときゃ良かった。せめて(富士道者が愛飲していたという)コケモモジュース(400円)は飲んでおけば良かった。



そこから車で少しの富士山五合目へ。



すげえ!
大型バスが50台以上は停まれるぐらいの駐車場が沿道にあるのですけど、ほぼギッシリ。駐車場から道路からお店の中にまで人がごった返しているのですけど、聞こえてくる言語はほぼ中国語か台湾語。(私は聴き分けができません)。ここにいる倭人は割合で言ったら100人に一人くらいじゃないでしょうか。浜松にある私の喫茶店などにも、富士山へ行った帰りに寄ったという中国人や台湾人が大量に来るのですけど、それはこういうことかと納得いたしました。
そこからこの五合目の名所である“小御岳神社”へ。
天狗様そのものを御神体としている神社って、ありそうでなかなか無いんですよ。
っていうか、天狗って、神か?
(秋葉山や愛宕山では“権現”のさらに化身である“護法”という扱い)





山梨県神社庁のサイトより。

祭神=磐長姫命、桜大刀自命(さくらのおおとじ=木花開耶姫命)、苔虫命(=磐長姫の別名)
「小御嶽は富士山より先に出現した山であり、地勢的に有名な地に鎮座し、山岳信仰の霊地として、朱雀天皇承平7年(937)7月17日の創建にして、後花園天皇康正2年(1465)社殿の御造営をなす。富士山小御嶽石尊大権現、富士山中宮とか、富士天狗宮とも称し、富士登山者の守護神である。故に往古より、お中道巡り、富士山頂へ至る行程の拠点とし、富士行者が参籠して大行となす。明治7年(1874)11月参籠中の行者の失火に依り、御社殿を初め、諸建造物を焼失、明治9年7月17日再建、昭和50年6月17日信仰者の寄進により神明社殿が竣成した。平成3年3月、麓、富士吉田の地に小御嶽の遙拝の場として冨士山小御嶽神社里宮を竣成した。また神徳は関東地方並びに全國より多くの崇敬者を有し、富士登拝者の家運隆昌、交通安全、延命長寿、縁結びの守護神として崇敬されてゐる。神事として富士山開山祭(7月1日)には大天狗、小天狗にて鳥居に張られた注連縄切りを行ひ道開をして、女性が負ふ富士型神輿、飾り神輿の渡御があり、登山者の安全と富士山の平静を祈願する」

…なんで祭神として磐長姫がふたりもいるのか。
要は磐長姫の護法が小御岳坊ってことですね。富士山は決して褒めるな。褒めるなよ、絶対だぞ。

社殿が非常に近代的で小洒落に見える神社ですけど、7月1日に本殿の前にある「大天狗」「小天狗」の2つの小祠の間から富士山の山開きの儀式が始まるそうです。とても大切な場所であります。







「野州都賀郡富山村大字下宮川 願主大塚源作 娘タミ」と書いてある。
後ろの幕にある模様は、これは何なのでしょう?





ここの天狗様はなぜか非常に「眉」が強調されています。
とても畏怖心を喚び立てられる造形ですよね。

記念品売り場には天狗グッズも豊富です。







富士山天狗のイメージ。



「中庭に天狗の斧が横たわっている」と聞いてはいましたけど、この時はすっかり忘れていまして、家に帰って写真を確かめていますと、これか!
(だれも関心を示してはいなかった)
奥にある社は日本武尊社。
ここも外国人が非常に多く、映っている人たちの10人に8人は中国の人たちですけど、この人たちは富士山に充満している天狗成分に対してどういう気持ちを持つだろうか。
そして「日本武」って、読めるのかな。

で、わたくし普段、御朱印なんて集める風習は無いのですけど、
「天狗の御朱印帳」があったので買ってしまいました。1200円。



今でもわたくし、天狗を神様扱いしているかのような様子を見るとニヤリとしてしまわずをえません。だって天狗って『妖怪百科』に載ってるような存在だぜ。「鵺大明神」みたいな代物なんですよそれ。
なのに天狗神社は日本全体に分布している。それはなぜか? というのがわたくしの関心の大部分なのです。
玄松子さんによると、宮崎県の天の岩戸神社にも「天狗の御朱印帳」が売られているそうです。買いに行きたいなぁ。(20年ぐらい前に行ったことがある)



御朱印。300円。
朱印って何なんでしょうね。
わたくし、こういうスタンプを作ってみたくて「EZスタンプ匠」というのを4年ぐらい前に買ったのですけど(1まん3ぜんえんくらいだった。その時は仕事で使うつもりだったのです)、一度も使わずに(笑)押し入れに仕舞ってある。またスタンプのデザインをしてみたいな。
これから天狗に関係ある御朱印だけ(できるだけ)集めることにしましょう。



五合目の展望台からの光景。当たり前ですが静岡県側と全然違う。

(…つづきます)
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天狗連盟。

2016年05月06日 21時28分43秒 | 今週の気になる人


10月に職場を改めてから半年が経ちました。
今の職も拘束時間はやたら多いし錆残過多だし給料も安いし通勤時間もひたすら長いのですが、休日は週二日確実にあるのです。(前の職場とは段違いだ)。今の私の生活は非常に満ち足りています。休みがあるってなんとすばらしい。私は休んでいる間に生きている人間なんですよね。
休みの間に何をしているかって言ったら、もちろん私の場合は読書です。再び、私は過去このくらいは無いってくらい読書に勤しんでいるんじゃないかしら。本っていいよね。



さて、5月の3~5日は浜松祭りでした。
私の勤める喫茶店は海老塚町にあるのですけど生来海老アレルギーなので海老がたくさん埋められた塚の伝説(←海老塚町の名の由来)なんてどうでもよくて、わたくしの浜松まつりについての関心はただひとつ! 千歳町の天狗のタコと屋台なのでした。
2年前に見に来たとき、あんまり満足に天狗の屋台の写真が撮れなかったので、改めて写真を撮りに来ました。
ザザ前の大通りには各町の屋台が勢揃いしていたのですが、なんといってもザザのある場所が千歳町なので、天狗の屋台だけは近い場所のザザ脇の一等地に待機していました。
(同様に、近い地区である砂山町のお狐さまの屋台や海老塚町のお海老さまの屋台もどこかの特別な場所にいたのでしょう)



かっこいいよね! とくに鼻のそりぐあいが秀逸。



この目はピカピカ光るんですよ。箱根大天狗神社の天狗面を思い出します。でも、タイミング悪くて光った瞬間の写真は撮れていませんでした。般若連の佐鳴台の般若(=築山御前)の瞳も光りますよ。



天狗連の解説についてはこちらさまが唯一なのですけど、この部分は「懸魚(げぎょ)」っていうんですって。その題材が、「牛若丸の鞍馬山での天狗修行」。それはいいとして、その下にある彫刻はなんなのかしら。ここも懸魚(げぎょ)



題するならば「乱鴉の饗宴」(←ゲーム・オブ・スローンズ)かしらね。

諸細部の彫り物は源義経の生涯を表しているのだそうです。



黄瀬川での頼朝と義経の対面。



鵯越の逆落としの場面かな。



先頭を駆けるのが義経と弁慶だそうですけど、(弁慶が)よく分かりません。



平家の都落ち?



静御前ですって。



ここはよくわかりません。
“宝物”と獅子と、食べられる化け物。



屹立するように見える見事な大天狗。(松尾神社の猿田彦神)
どうして浜松の松尾神社では「白鬚神」(=猿田彦神)が祭神でそのシンボルが天狗なのか、よく知りません。(ふつうは大山咋(おおやまくい)神なんですよね)
京都の松尾大社の「天狗岩」と何か関係があるのでしょうか。

『浜松市神社名鑑』より。

松尾神社(まつのをじんじゃ) 静岡県神社五等級 旧郷社
鎮座地;浜松市元魚町29番地
祭神;白鬚神・大山咋神(おおやまぐいのかみ)・厳島姫神(いつくしまのひめのかみ)・徳川家康公・他
由緒;御祭神白鬚神は猿田彦神にして浜松の産土神で衣食住を開発され、八方除の守護神と仰がれ諸災難を除かせられる。
大山咋神は醸造・土木・延命の守護神。
厳島神は交通安全。弁財天として智恵・安産の守り神と崇敬されている。
当社は和銅年間の創建で、浜松の総鎮守とされ浜松城内の守護神松尾神社と合祀される。浜松城を松尾城と言う訳である。城主の祈願所として四石五斗を受け、宮司は城内木香間に勤仕した。その功により時を違えて大和当麻国行・井上真改・銀造飾太刀を賜る。享保三年正一位。慶応四年明治天皇より総社の故を以て菊御紋の御茶碗一個下賜される。



松尾神社なのに白鬚神を主神として祀っているところは、ここ以外は無いんじゃないですかねえ。
(熊本県山鹿市の松尾神社にも猿田彦石があるそうですけど)
浜松市のここの場合は、この場所にもともと白鬚神を祀る何かの施設があって、そこに徳川家康が、浜松城内にあった松尾神社を移すことによって半分上書きしたんだと思う。
つまり、「松尾=天狗」という図式が明確に現れているのは浜松独自の風習だって事だ。
(近いうちに松尾大社の天狗岩も見に行ってきますね)
大山咋神は決して天狗の神様ではないんですけど、「日吉神(山王)」とは大山咋のことであり、「日吉=お猿さん」→「お猿さん=猿田彦(庚申信仰)」→「猿田彦=天狗」という連想ゲームはあるのかもしれませんね。
でも修験道(=それぞれの山にそれぞれの神がいる)的な考えで言ったら、山裾全般の里山平和主義世界みたいなものを司る凡和な神に、天狗的な要素は無いんですよね。
浜松市にはもう一箇所、遠州灘沿いの倉松町にも松尾神社があるんですけど、そっちは大山咋を崇めている普通の松尾社です。
現在は磐田市になっている「池田荘」も平安時代は松尾大社の荘園だったんですけど、現在はそこに松尾神社は無いみたい。京都の松尾大社は秦氏と賀茂氏と深い結びつきがあるそうですよ。
結局、どうして平山城の浜松城(が建てられる前の引馬古城の裏山)に山の神を奉る松尾神社があったんでしょうね?
コメント (34)
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