オセンタルカの太陽帝国

私的設定では遠州地方はだらハッパ文化圏
信州がドラゴンパスで
柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

天使ですよ。

2014年11月13日 20時29分06秒 | 今日の、エウクストロネラ


私の勤める舘山寺の喫茶店では、玄関に家康公の初陣の甲冑が飾られているのです。
来年は家康が神となって400年の記念の年なので、うちでも期間限定でこれを飾ってるんですって。でもそもそも家康が神となったのは静岡市でだし、家康がこの甲冑を着たのは18歳での駿府あるいは三河寺部城・尾張桶狭間でなので、浜松市が関与しているべきものでもないのですけど、来年は岡崎市・浜松市・静岡市の三都市で共同して大々的にイベントをするというのです。その一環で私の勤務先にもこの甲冑が飾られているという。
勤務当初、「この会社には極度の家康好きがいるんじゃないか?」と思って密かに探したのですけど、どうもそういう人は居ないのでした。なんだこの会社。

お客さんはこの甲冑を見ると、ほぼ揃えて「家康って背が低かったのね」と言います。
確かにこの甲冑は小さいのです。調べると家康公の身長は「150~160cm」だったそうですが、これは当時の身長の相場としては「中の上」に位置するそうです。信長公や秀吉殿下は「140~150cmだった」というのに比較して言われるんですね。でも、今の目から見るとこの甲冑は小さい。この頃の全ての高貴な甲冑はオーダーメイドで、余分な重量を削ぎ落として最適化するために、完全に18歳(実年齢)の身体にフィットした形状に作られているんでしょうかね。



毎日この甲冑を眺めていて、一番気になったのが頬甲にあった変なトゲ。
なんだこれ。
ちょうど10/11に静岡出張に行ったとき、静岡駅前の静岡市美術館で「久能山東照宮展」というのがおこなわれていて、そこにこの「家康の初陣の兜」の本物が飾られているというので、見に寄りました。うぉう、頭頂部しかない。しかも私の店に飾られている甲冑も本物とは細部がかなり違う(複製品ですからね)。でもなるほど、ほっぺたのトゲにはこういう用途があるのか。この美術展では数多くの甲冑が飾られていていろんな実物があったので、それらと較べて私は心から納得できたのでした。

ただし、この「家康公の初陣の甲冑」は、実は同じ物が二つ存在しているのです。
(1).「金陀弥(きんだみ)具足」(=久能山では「金溜塗(きんためぬり)具足」と呼んでいる)と(2).「白檀塗(びゃくだんぬり)具足」です。(※どちらかが予備のために制作された)。今回の美術展では2つ並べて展示されていたのですけど、残念ながら全体の展示では無かった。(頭だけ)。でも、両方ともいろんな本で見ると、うちの喫茶店に飾ってある複製品とは頬のトゲの形状がかなり違っている気がするんですよね。ウチのはうちので現在の造形師の作った創意のものなのか。かなり高そうなんですけど。

で、仕事の愚痴なんですけど、「この会社は残業が無い。まるで天国のようだ」と浮かれていた私なのですけど、一ヶ月前に宿直シフトも入り始めたところ、宿直の日だけデフォルトで5時間の残業、宿直の次の日は公的勤務時間は6時間(-_- ・・・2日足して18時間なのですが勤務形態がいびつすぎる)ランダムで0~1時間の残業となってしまったのでした。なんだこれ。今のところ週に2回宿直です。宿直って業務自体は基本的に好きなんですけどねえ。来月の給料はどうなってしまうのだろうか。



●2014/11/08 23:26
「ある僧が信長公にお目見えしたとき、蜜柑をたくさん台に積んで献じた。森長康(蘭丸)がそれを持って信長公の元へ持って行こうとしたところ、信長は「お前の手ではそれは浮雲(あぶ)なすぎる、倒すなよ」と声をかけた。案の定座敷の真ん中で蘭丸は転び、台は壊れ蜜柑は飛び散ってしまった。信長はそれを見て、「それ見た事か、言っただろ」と言った。次の日、皆が蘭丸に「昨日の事は気にするなよ」と声をかけたが、蘭丸は迷惑がらずに言った。いえいえ、昨日は殿にあんな風に声を掛けられたので、このまま無事に殿に蜜柑を届けてしまっては、殿が間違っていると言ってしまってる物だと思ってわざと倒れたんですよ。殿の目利きは何事においても正しいのですから」(『名将言行録』)


●2014/11/03 03:11
「セビーリャは西欧最大の都市で、長年市民は次々と支配者を受け入れたり拒否したりした。13世紀の指導的市民ウマル・イブン・ジャッドはハフス朝のザカリーヤー1世の派遣した総督を歓迎し、キリスト教徒には融和的であった。しかし1246年に市民が蜂起して事態が変わった。イブン・ジャッドは殺され新しい市会が結成された。市民たちはハフス朝の関与を拒否し、キリスト教徒たちも追い出すことに決めた。これは失敗だった。グラナダ、モロッコ、チュニスのイスラム諸王は激怒し、キリスト教国のアラゴン王国の軍臣ペラヨ・ペラスも即時の正面攻撃をカスティーリャ王フェルナンドに求めた。セビーリャの都市は、網状に存在にする要塞によって堅固に守られていたので1248年まで堅固に防衛できた」
「この都市の市壁と堀は12世紀末の最新技術で建設されていた。井戸からは常に豊富な水をくみあげることができ、食料は無尽の水運で四方から供給できた。造船業は発達していて有能な武器製造者とギリシャ火薬の利用に長けた軍事技術者がいた。市には少数精鋭の戦闘力を誇るスペイン・アラブ人の一族も住んでいた。しかし市民は全体的に温和で平和的であり、国難には耐えられるかもしれないがたゆまず戦い続ける事はできなかった。他方、キリスト教徒は百戦錬磨の戦士たちであり、他地域での勝利で士気も高まっていた。セビーリャの科学力とキリスト教徒の攻城力には雲泥の差があったが、セビーリャは試練に接することとなった」(D.W.ローマックス『レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動~』


●2014/10/28 15:06
「矢作川の橋が洪水で流されたので、家康公はすぐに架け直すよう命じた。家臣たちは主に言った。費用が莫大に掛かります。またこの川は領地にとっては天徳です。敵が来たときこの川の所で止められるのは都合が良い物で、橋は架けずに渡しにするようにと命ずるべきではないでしょうか。これを聞いて公は言った。この橋は古来から有名で謡曲にも歌われている。そのようなものを私が廃せば、三河は金をけちり敵を恐れたとして全国かつ後世の人から嘲笑されてしまうよ。国が治まるも乱れるも人の和であって土地の険しさではない。とにかく早く橋を架けよ」(『東照宮御實紀』)


●2014/10/28 14:21
「ナポレオンが軍事や政治の面で偉大な天才だったことを疑う人はいなくとも、その人間性の豊かさを讃える人にはあまりお目にかからない。有能と有徳ははっきり別なものである。この人物の性格はどことなく幾何学的で温か味に欠け、才能に恵まれながらも感情は枯渇していた。たとえば「セントヘレナでのナポレオンの自己省察の言葉は、まるで昆虫学者の観察記録である」(フリュジエ)と評されるのもそのせいである」(両角良彦『反ナポレオン考』)


●2014/10/28 12:43
「刑罰は罪状によって決める。裏切り・逃亡の罪は木に吊るす。臆病・卑怯・破廉恥によった罪を犯した者は、頭から簀(す)をかぶせて泥沼に埋め込む。この両者の相違は、「犯行」は見せしめにすべきであるが、「恥行」は隠蔽されるべきという考え方による」(タキトゥス『ゲルマニア』)


●2014/10/26 01:26
「朝昼夜に庭に水を打つ事は意味深いんだよ、と利休居士は常々語っていました。とくに茶会の後に打つ水を「立水」と言いますよ、と。これに対して宗及が異をとなえました。「立ち水とは、客に早く帰れって言ってるんじゃありませんか」。それに対して休師は優しく言いました。茶の湯は大体2時はかかるものです。亭主は茶の湯で濃茶から薄茶までさまざま技を繰り出し大いにもてなしますが、狭い茶室での作法は大宴会場とは違います。美味しいお茶を飲んでいただいたあと亭主が最後に出来るもてなしは何がありますか。話でとても盛り上がっていたとしても、正しい客ならこれも合図だと思うんですよ。亭主は露地をあらため、粗略の無いように手水鉢に清冽な水をたたえ、草木に水を打って鮮やかさを与え、客を見送るのです」(井伊直弼『閑夜茶話』)


●2014/10/26 00:34
「われわれは凡庸の年久しい沈滞にだれていて、何か新たなる努力に取り掛かり、もしくは生活の特に厳粛な部分の滅多に繰り返さぬ物を実験しようというには、酒を使って気を換える必要は時々あった。(中略)酔えない人間には無用の企てのようだが、酔えばまずたいていの者は面白くなるものに決まっていた。天の岩戸の昔語りにもあるように、面白いというのは満座の顔が揃って一方の大きな光に向く事であった。すなわち人心の一致するところであった」(柳田國男『明治大正史 世相篇』)


●2014/08/12 21:32
「毎日見ていればどんな事も当たり前になる。それまで考えだにしなかった事も身に覚えが出てくる。誰しも心の内には天狗的なものがあり、己のした事を人々が天狗の仕業と呼ぶようになり、なるほど己は天狗だと観念として流布すれば、それで納得する輩が出る。天狗だから、天狗なのでと、天狗が流行する」(黒田硫黄『大日本天狗党絵詞』)


●2014/07/29 00:14
「弥子瑕(びしか)という人は美貌で以て衛の霊公のお気に入りであった。衛の法では許可なく君主の車を使用した者は両足を斬ると定められていたが、弥子瑕は自分の母が病気で倒れた時にその法を犯してしまった。だが霊公はそれを聞いて「足を斬られることを怖れぬ弥子瑕はなんと類い稀な孝行者だ」と言って褒めた。また供をして果樹園に行ったとき、彼の取った桃があまりに美味かったので半分を霊公に献ずると「お前はなんと余を愛しているのか。一番良い物を余に残してくれるとは」と喜んだ。
だが年月が経ち、容色が衰え寵愛が薄れると、霊公は事あるごとに弥子瑕を罵倒するようになった。「こやつは元来悪いやつだった。無断でみだりに君主の馬車を使い倒して涼しい顔をしていたし、また主に自分の食い残しを平気で喰わせる奴だったよ」」(『韓非子』)


●2014/04/21 12:06
「梶原景時追討のあと、小山左衛門尉・和田・畠山らが集って雑談する中で渋谷次郎が言った。「景時は橋を外して館に籠もって戦うべきだったのに、逃亡して途中で討たれたのは何故だ。いつも奴が言っていたこととは違うではないか」(※景時の屋敷の防御の堅牢さは有名だった)。畠山重忠が言った。「事態が急すぎて樋(堀)を掘ったり橋を引いたりしている余裕がなかったのでは?」 それを聞いて安藤右馬大夫右宗(かつて暴僧文覚を素手で捕まえ縛り上げた男である)が言った。「畠山殿はお大名ですな。橋を引いたり懸けたりして戦ったり、城郭を作ったりすることは知らぬようだ。ただ近辺の小屋を壊して橋の上に積み、火をかけるだけでいいのだ」」(新井白石『読史余論』)


●2014/02/06 05:30
「ニューデリーのホテルに専属の占星術師がいて泊まり客を相手に商売していたが、ホロスコープの値段は200ルピーだったし、あとで訪問した有名な占星術師パルサイ氏の場合もわたしの占いに対して350ルピーを要求した。ひと月1000ルピーぐらいで生活している人の多いインドとしてはかなりの額だと思ったので、そのことをのちにインド人の友人に話すと、彼はこれは決して高くないと言った。彼の言うには、占いはインドでは生活上きわめて大きなウェイトを占めていて、とくに結婚の場合にはホロスコープによって相性を調べるのが普通である。結婚のように一生を決める大切なことに対しては300ルピー程度の出費は当然だというのである」(矢野道雄『占星術師たちのインド~暦と占いの文化~』)


●2014/02/06 01:21
「狼 獅子 雄牛 ロバの最後
優しき雌鹿はマスチフ犬と共にあり
甘いマナはもはや彼らには降らぬ
マスチフ犬に一層の監視と用心が必要となる」
(ノストラダムス『百詩篇集』(第10巻99篇))

・・・これは1999年の終末の後の世界の様子だとされている予言です。(その根拠は何も無いのですけど)。一行目は誤訳とされていて「最後には狼と獅子と狂牛と哀れなロバだけがいる」という意味らしいです。(その予言はどの時代であっても真実じゃないのか)。要は「マスチフ犬」ですね。「ジャパニーズ・マスチフ」といったら土佐闘犬のことだそうですけど、「雌鹿(朴某)と友にあるマスチフ」といったら土佐じゃないけど安倍某もしくは民主某のことですよね。(どっちも滅びろ)(決して格の落ちる舛添某のことじゃないよね) がんばれ日本がんばれ。
・・・念のために言っときますけどわたくしは浜松のサツキちゃんの熱烈な支持者ですよ。


●2014/02/02 15:33
「アリーに挑んだムアーウィアと廃位を要求されたカリフ(アリー)は地位が違った。彼はただの州知事だった。この事件でアリーがコーランから仲裁されたという事実が彼とカリフを対等の地位に引き上げ、アリーはこの結果単なるカリフ権の要求者の地位へと引きずり落とされた。ただし、アリーはカリフとはみなされなくなったが、2年後にアリーが死去するまでムアーウィアのカリフ権も一般には認められていない」(フィリップ・K・ヒッティ『アラブの歴史』)


●2014/02/02 11:38
「教主アリーと挑戦者ムアーウィアの最後の会戦は657年7月28日に行われた。マーリク・アル=アシュタルに率いられたアリー軍が勝利をおさめるばかりになったとき、ムアーウィア軍の頭の回る指揮官アムル・イブン・アル=アースが策をほどこした。突然、槍先に結びつけられたコーランが上空に掲げられた。武力による決着ではなく、流血を避けてコーランに裁決を委ねよう、というのである。アリーは人が良い人間で、側近たちも支持したのでそれを受け、「アッラーの仲裁と言葉に従う」と約束した。その歴史的会談で何が起こったのかは良く分かっていない。その結果アリーは敗北者となったのだ」(フィリップ・K・ヒッティ『アラブの歴史』)


●2014/02/02 10:52
「地名「ウェールズ(Wales)」は古英語「wēalh(よそ者)」の複数形wēalasが変化したもので、もともとは外から来たアングロ・サクソン人が先住のケルト人を呼ぶときに使った言葉であった。wēalhはまた「奴隷」を意味する言葉でもあり、当時のアングロ・サクソン人を中心とするゲルマン人に滅ぼされたケルト人の置かれた立場をよく示している。そのwēalhから派生した人名に「ウォレス(Wallace)がある。この語は古英語からノルマン人の言葉waleis(よそ者)を経て人名となった」(梅田修『ヨーロッパ人名語源事典』)


●2014/02/01 19:46
「異国人と戦う上で気をつけなければならないこと。
異国人は血戦(=肉弾戦)に鈍いので、様々な奇術奇巧を駆使して人の気を奪う。異国人同士はその技を互知しているが、日本人はその術を見れば肝を潰して恐れ入って弱気になるだろう。日本人の持ち前である血戦も弱くなる。小西や大友などがそうだった。ただし異国人の奇術は繰(カラクリ)である。武など無い。恐れずただひたすらに切り込むべし。心得のためにその奇術を記す。
〇火矢(所々に火が燃える)〇神炎(所々に煙立つ)〇毒霧(晴天に霧起こる)〇火禽(数多の火の玉中天を飛ぶ)〇火獣(数多の火の玉地を走る)〇八面砲(八方に飛び出る鉄砲)〇水底龍王(水の底にて雷の如く鳴る)〇地雷〇リュクドシキップ(中天を鳥の如く自由自在に乗り回す船←気球軍鑑のこと)」
そのような怪物を日本に使った例はまだ聞かない。しかしながらそれらの制法は『兵衡』『武備志』または『ゲレイキスブック』等に詳しいのである。日本は閑暇のときに制作してみてその実否を試すべきである。私は清貧な人間なのでこんな怪物をいくつも試作することなどできないが。後賢を待つ」(林子平『海国兵談』)


●2014/01/31 14:34
「第三連隊長吉丸大佐の戦死を聞いて、私の腹は煮えくりかえったがどうにもならぬ。私はかつて大佐の部下であったころ、戦車単独盲進をつねづね戒められていたことを思い出す。大佐は精悍ではあるが、決して猪武者ではない。ただ対岸に悪戦苦闘を続ける小松原兵団主力に対する安岡支隊の責任を支隊長の身になって考えられた結果、人事を尽くした上の攻撃前進であった。後日このことで「歩、砲分離して戦い、損害を大ならしめた例」として非難する者もあったが、士の心もわからぬも甚だしい。だれが洒落や冗談で死地に飛び込めるものか」(『戦車と戦車戦』~日本が負けたのかノモンハン戦車戦の真相(関東軍参謀陸軍大佐・野口亀之助)~)


●2014/01/31 13:47
「駿河でたびたび火災があった。そのため君(家康)は、本多佐渡守正信に「たとえ過失であろうとも、火を出した者は必ず切腹にすると触れを出せ」と命じた。正信は承知して退出し、また翌朝登城したが何も言わなかった。君は正信に昨日の件をどうしたか尋ねた。正信は答えた。「私は家でよくよく考えてみました。必ず切腹させると言ったとしても、仮に井伊兵部が火事を出したとしましょう。彼ほどの者に切腹の命令など出せないでしょう。身分の低い者の過失は切腹で、井伊ならば罪に問われないとなれば、法度は成り行きません。昨日の時点で私もどうでしょうなと思いましたが、家に帰ってさらに良く考えて、ますますそのような命令は出すべきではない、諫止しなければならぬ、と思った次第です」と申し上げた。君は「いかにもお前の言うとおりだ」と言って感心した」(『東照宮御實紀附録』)


●2014/01/08 10:49
「ペローの功績は、細かい所以外は何も書き加えず物語の本体を変えなかったことにあります。その書法は「可能な限り単純である」という点で賞賛に値するものです。フランス語という言語は、今日の形態に沿うなら、まるで自ずと襞を作るように警句風の言い回しになったり細かく切り込んだ対話になります。(巻き毛のリケと間抜けなお姫様の会話や親指小僧の終わりがそんな感じです)。おそらくフランス語それ自体の性格によって、子供の昔話を語るという欲求を持たずに素朴にそして素直に子供の昔話を語ることほど難しいことはないのです」(『グリム童話集』序文)


●2013/12/30 09:24
「徳川期を通じて平田篤胤ほど天狗の存在を信じ、敬し、それを強調した学者は他にない。彼の信じた天狗の世界は一般人には見えない別の世界で、彼はそれを幽境とか幽世(かくりよ)とか呼んで、彼はそこに棲む天狗と通信することを念じ、媒体を通じて手紙と和歌を託したこともある。彼の信じた天狗は霊界の棲息者で、きわめて特殊な霊能を具えた人間のほかには言葉を交わすことはおろか姿を拝むこともできない神霊と見ていた。そのくせ人間界のことにはあらゆる面に通暁し、働きかけ、天狗隠し・天狗倒し・天狗笑いと跳梁し、罰を下し学問・武技まで習得しているという」(知切光歳『天狗考・上巻』)


●2013/12/26 09:12
「ヨーロッパやニュージーランドでも鰻の胃の中身を調べている。一匹の鰻の胃の中から二種類以上の餌が見つかることは非常に稀なようだ。研究者は、鰻は集団全体としてはいろいろなものを食べるオポチュニストだけれど個々の鰻は決まった種類の餌を専門的に食べるスペシャリストなのではないかと考えている。岡山でおこなった調査の結果でも、やはり二種類以上の生物が一匹の鰻の胃の中から出てくる割合は非常に低く、3%程度だった。これに対して児島湾で獲れたアナゴを調べてみると、一匹のアナゴから二種類以上の生物が出てきた割合は13%を越えていた。鰻は一番捕らえやすい種類の生物に意識を集中し、他の生物を無視することで効率よく捕食することができるのではないかと考えられている」(海部健三『わたしのウナギ研究』)


●2013/12/26 01:56
「12月19日、何にしても約束であると諦めている。この12人は誠に因念の悪いものである。萬一助かったればそれこそ今度は皆大難を通過し運勢朝日を昇る如しサヨナラ。
廿日午後6時に至り晴天風北のあらし。21日午前7時より帆を巻き上げ風南にして波低し、サウエスへ走り風の都合で沖に出したり灘へ入れたり、とにかく西へ西へと行く方針である。午後4時より風変り流した。午後1時より追手にてウェス走り営業中ならば流して●天キである。この丁子で三日も吹けば必ず山が見えるはずである。
22日午前6時まで18時間ウェスに走った。午前9時まで21時間走り22日午前9時より又も西風流し始めたイカリ二丁ほりこみ。
23日同じく流れて居る。22日萬坊という魚を突取り、色々として食い遊んでいた。午前5時萬坊目方20貫位、どう考えても西へ船を出す事出来ず東へ行ったとしたら、アメリカまで4ヶ月、しかしここで船を待つのも男らしくない。又船に出合うのもおそい。
24日朝から晩まで遊び次第流れ次第、12時萬坊一本、48時間流した。
24日午前9時から午後9時迄、25日午前9時まで72時間流れ、西に向かう事出来ずに東へ向かう事にした。
26日いよいよアメリカに向かうことに決定しイカリを上げ風を七三に受けてノーイスにカヂを向けて進み出した」(良栄丸日誌)

・・・犯人はマンボウだ!(短絡的な推理)
(※良栄丸遭難事件とは昭和元年に起きた謎の事件


●2013/12/26 01:37
「ミイラ漁船漂着のニュースが全米を沸き立たせているとき、貨物船ウェスト=アイソン号のリチャード・ヒーリィ船長がシアトルの港湾管理委員会を訪れ「この幽霊船なら太平洋上で出会ったことがある」と申し出た。それは1年前の12月23日、荒れ狂う暴風雨の中を航行していたとき、波間を一隻の木造船が木の葉のように漂っているのを発見した。船長は一目でそれが遭難船であることを見て取り、ただちに救助信号を送って荒れ狂う海のなか自船を良栄丸へ近づけ、しきりに救助を申し出たが、船の船窓あるいは甲板に立っていた10人ほどの船員は、だれひとり何の反応も示さず、まったく魂の抜けた人間の集団のようにアイソン号を眺めているばかりだったので、空しく引き上げたという。12月23日付の良栄丸の航海日誌にはこの出来事については触れられていなかった」(庄司浅水『世界の秘話』)


●2013/12/26 01:01
「マルスは言うまでもなく軍神であるから、勇ましくも恐ろしい相貌で表現されるのが本来である。13世紀頃までのマルスは、武装した猛々しい姿で馬車を駆っているのが普通であった。その傍らにはしばしば飢えた狼が描かれ、恐ろしさを強調していた。それが14世紀から特に15世紀になると、この戦さの神の表現が、何とものどかな時にはだらしない物になってしまうのである。有名なボッティチェリの「マルスとヴィーナス」では、軍神は甲冑すら脱ぎ捨てた裸の姿で眠り呆けている。そばに打ち捨てられた兜や槍は、キューピットたちのおもちゃになっている始末である。(中略)近代、例えばロダンが戦争の神を掘り出したときには、それはもはやマルスではなくてベローナだった」(高階秀爾『ルネッサンス夜話』)


●2013/12/25 18:44
「1492年。そうはいかぬ。ポルトガルを出し抜いた者がいた。信じられないことが起こった。コロンないしコロム、あるいはコロンボという男(ペトルス・マルティルによればリグリア人の通称コロヌスというクリストフォロス、他の人の伝えるところによると「全く無名の男」)がスペインの旗の下に、アフリカを回る代わりに大洋を西に向かって航海し、彼の陳述によれば「最短の道(ブレヴィッシモ・カミーノ)」を通ってインドに達したのである。彼はマルコ・ポーロの伝えたフビライ・ハーンには会わなかったが、まずチパング島にいき、それからマンギ(中華國)に上陸した。そこから数日でガンジス河に到達した、というのであった。欧州は恐懼した。不思議、不思議、こんな具合に地球は想像以上にやはり小さいのだ」(シュテファン・ツヴァイク『アメリゴ』)


●2013/12/25 16:38
「1486年。凱歌があがった。アフリカ大陸周回が達成された。バルトロメウス・ディアスがトルメンソート(嵐の)岬、則ち喜望峰を廻航した。そこからもう南へはもう向かわぬ。今度はひたすら東へ航路を取るのだ。この航路はかつて2人のユダヤ人使節(アビシニアのキリスト教の王プレスター・ヨーンが欧州へ送った使者)がポルトガル王に渡した地図に記されていたものだった。インドは目の前だ。しかしバルトロメウス・ディアスの部下たちは力が尽き果てていたので、ヴァスコ・ダ・ガマに偉業を譲ることになった。だがそれで充分だ! 何人ももはやポルトガルを超すことなどできはしない」 (シュテファン・ツヴァイク『アメリゴ』)


●2013/12/22 09:13
「1400年。インドに到達することがこの世紀の夢となった。しかし実はそれは一人の個人の夢であった。その個人とは、生涯をかけて航海を希求したポルトガル王子のエンリケ。彼自身は決して大洋を航海したことはなかったけども、世は航海者ハインリッヒと呼んでいる。彼の生涯をかけての努力は「香辛料の生い茂った土地に到達する」インドの島々、モルッカ諸島に達するという夢に向けられたのだった。オスマントルコ人は紅海をルミー(異教徒)に対し閉鎖し、有利な通商を独占企業として奪っていた。その虚を衝く方法を切り開くのは商業行為であるのと同時に、キリスト教の十字軍行為ではないだろうか」(シュテファン・ツヴァイク『アメリゴ』)


●2013/12/22 08:54
「1297年。年老いた髭面の2人の男が、どちらかの息子とおぼしき若い青年に付き添われて船でヴェニスに到着した。この3人はリアルト橋の近辺では見たことの無いような異様な服装をしていた。長くて厚い上衣は毛皮で縁取りされ、随所に奇妙な房を垂らしていた。更に奇矯なことは、彼らの風体はまさに外国人以外の何者でもないのに、彼らがポーロという名前でヴェニス人だと言い張り、真性のヴェニス方言を操ったことである。彼らは法外の物語をたくさん喋ったが、もちろん彼らの話を真面目に受け取る者は無かった。ヴェニス人は彼らの話に熱心に耳を傾け、そして大いに笑った」(シュテファン・ツヴァイク『アメリゴ』)


●2013/12/22 05:03
「西暦1300年。欧州は、視線を遮っていた神学の頭巾を脱ぎ捨てた。いつもただ瞑想するだけでは意味がない。いつもただ古い書物を巡って新しいスコラ的な解釈を議論するのも意味が無い。神は創造者である。神は人を自身の似姿にあわせて創り給うたのだから、神は人間も創造者であることをお望みである。すべての芸術・学問においてギリシャ・ローマが模範として遺されているが、おそらく我々はすぐにこの水準に到達できるであろうし、あるいはこれを凌駕することも可能かもしれない。だがしかし、この解放された精神に対して、大地はなぜかくも狭隘でありつづけるのか」(シュテファン・ツヴァイク『アメリゴ』)


●2013/12/22 04:44
「西暦1200年。一旦は奪取できた聖なる墓所も、再び失われてしまった。十字軍は失敗に終わったが、しかし空しくはなかった。欧州はこの遠征で深い感動を受けたからである。自分の力を感じ、自己の勇気を測り、そして再びこの世界にはいかに多くの新たな別のものが神の空間と故郷を持っているか、則ち異なれる天の元に別の空間・別の果実・別の織物・人間・動物・風習のあることを発見したのである。自分たちは世界の片隅でいかに窮屈に重苦しく暮らしていたか、そしてサラセン人たちはどんなに豊かに、洗練された豪奢な生活を送っているかを目にして驚愕し、恥じ入ったのであった」(シュテファン・ツヴァイク『アメリゴ』)


●2013/12/22 04:32
「西暦1100年。いや、世界は滅びなかった。神はもう一度人類を憐れみ給うた。人類は生き続けることを許された。人々は神の恩寵に対し感謝を捧げねばならない。己が感謝の念を祈りの手の如く天に向かって差し上げねばならない。こうして大教会堂・大聖堂、あの祈祷の石柱がそそり立った。人々は神への仲介者キリストに神への愛を表明せねばならない。その墓所が異教徒の無道な手に委ねられていることに、もはや堪えられようか。騎士たちよ、立て。信仰深き者たちよ、立ち上がって東へ向かえ。城を、町を、村を出でよ。国を超え、海を越えて前進せよ」(シュテファン・ツヴァイク『アメリゴ』)


●2013/12/21 17:51
「西暦1000年。世界は重く鈍い眠りに閉ざされている。眼はあまりに物憂く、五感はあまりに疲れすぎている。人の精神は長い瀕死の病の後のように麻痺し、人が世界について知っている事は何一つ無い。奇妙なことに人間は以前知っていたことを全て不思議に忘れ去ってしまっていた。読み書き計算する方法も忘れ果てた。王や皇帝でさえ、自分で羊皮紙に署名することができなくなっていた。学問は木乃伊となった神学となって枯れ果て、全地平に見通しの利かぬ濃霧が立ちこめている。城や町の城壁の中に人は潜んで、東方から幾度となく侵入してくる野蛮なものたちに対抗するしかなかった。人々は窮迫と暗黒の中に敢えて勇気をいだかずに暮らしていた」(シュテファン・ツヴァイク『アメリゴ』)
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