オセンタルカの太陽帝国

私的設定では遠州地方はだらハッパ文化圏
信州がドラゴンパスで
柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

我が名はプリンセス・ダルマ。譬えこの名を知らずとも偏屈王の名には覚えがあるはず!

2013年06月30日 18時39分56秒 | 伊豆の歴史


6月12・13日に行った旅行の日記のつづき。
旅館にて夕食を召し終わったあと、まだまだ飲む余裕があることに安堵いたしました。よし、散歩がてら夜の修善寺のどこかに飲みに出掛けることにしましょう。そもそも深夜の修善寺を歩き回ることを目的にこの宿を選んだのです。修善寺という町は夜が一番面白い町(…と15年前にここに住んでいたときに思ったのです)

第一の目的地は、宿から5分のところにある征夷大将軍・頼家公の墓。


※この写真は色相・彩度を操っています。あなたの目の異常ではありません。以後同様。

15年前、女性を連れて初めて丑三ッ刻にこの場所を訪れたとき、墓の背後のあまりの奥黒さにおののいて腰を抜かしたことがありました。何かがわだかまってる気がして!(普段、オバケなんて全く怖くないこのわたくしがですよ!) そういえばこの女性とは長崎でも真夜中の相浦港近くの愛宕山神社に登っていたとき、恐くなって途中で引き返してしまったことがある。「なんだよお前恐がりじゃん」と浅子さんは思うと思いますが、他の山は夜だって平気だもん。頼家様の墓はそれと匹敵するぐらいの怖さだったのでした。以後、いろんな女性と修善寺に来る度に夜の頼家公の墓に一緒に詣でることにしてたんですが、、、、 怖かったのは最初の一度きりでした。結局の所、あの女性が何かあったのかなあ。
と、でも、その頃の私のことがとてつもなく懐かしい。



夜の頼家公の墓碑。実はこの石はただの記念碑でして、本当の墓はこの後ろに隠されていまして(なぜか小さな2つの墓が並んでる。誰の?)。じっと見たけど何もいませんでした。
ま、夜と言ってもまだ20時ですからね。



闇の中の指月殿。政子妃の遺念は、、、 残念ながら私は鈍感なのでした。



そこから15分のわれらが従五位参河守範頼卿の墓所に。
同郷人の浜松人たるわたくしに、蒲殿は何か伝えたいことは無いですか、だって私は今日2回もここに来たのでございますよ、とじっと眼を凝らしたんですけど、やっぱり何もありませんでした。(そりゃそうか)。だってそもそも修善寺の伝説に従えば、頼家公も範頼卿も殺されたのはここではなく信功院の近く(もしくは別の場所)ですもんね。いいです蒲公、また来ます。



さらにそこから5分の“赤蛙公園”に向かいます。
そこでは今はやりの「蛍まつり」をやってるというのです。



赤ガエル公園って変な名前ですね。何度もここへ来てますが私はここで赤ガエルを見たことがありません。
それどころか修善寺全体で普通の雨ガエルしか見たことがありません。
全国的に今年はホタルが豊漁のようで、どこにいっても「今ならクリスマスのような蛍の光が見られる」と言われます。
だがこの日は折り悪く台風が近づいていた日で、旅館の人は「とりあえず中止の連絡は来ていない」などと心細いことを言っていた。
ところがなんのなんの、台風だというのにホタルはやはり豊作じゃないか。



旅館の人は「雨の日と晴れの日を比べたらホタルの数は愕然」と言っていたが、確かに乱舞とは言えないまでも、ささやかに侘びあるビーム光線がほたほたと飛び交っていたよ。いいじゃないかホタルおっさんひとりでも。だが当然ながらそれが私の一般的なコンパクトデジカメで映像に撮れる筈も無く、あれだね雨粒がホタルみたいだね。キレイだ。もちろんフラッシュを焚けば螢もちゃんと見えるが、風情もへったくれも無い。聞けば修善寺には源氏ホタルばかりで平家ボタルは一切見られないそうである(嘘)。



結局、1時間以上も私はここでウロウロしていました。雨で人が少なかったし。



有名な竹林の小径なんか範頼・頼家の鎌倉時代には存在しなかった場所なんだから、却ってそっちの方がコワいですね。



そこから飲む場所を捜して歩くこと10分。滝亭の前に焼き鳥屋があったので入ってみました。
とりあえずビールでいいか。静岡人はサッポロビール!





出てきた焼き鳥。イヤン、ちょっと好みじゃない(肉質が)。いえいえ、私だって最近家で毎日焼き鳥を焼いていて、肉の種類や焼き方にはいろいろあることを存ずるようになってきてますから、こういう焼き方だって全然有りなのはわかるのですが、最近のワタクシには肉はうるさいのでした。
そんなことよりも、さっきからこの狭い店内に中国人もしくは韓国人の方々が次々と入ってきて、彼女彼らと女将の会話が面白すぎて、とても気になります。そういえば、昼間外国の人たちをたくさん見たなあ。韓国の人たちだろうなあ。彼らが鎌倉時代に興味を持って修善寺に来てくれているのなら、わたくしも大いに嬉しいのですが。とにかく奥さんは外国語は一切解そうとはせず(当たり前だが)、話しかけてくる若者達を小気味よく切りさばく。若者達は手に手にガイドブックを持っていて、「これください」とジェスチャーするのですが、奥さんは本を見て「無い!」「それも無い!」と全部断る。結局のところこんな小さな店がガイドブックに載ってるわけもないのだから、何があの本に「オススメ」として載って、女将さんは何を無いと言って果断に断ったんだろう。(外人が本を指さして注文する行為が可笑しいって言ってるんじゃないですよ。私だって同じことするでしょうから。結局、本が何の役にも立たなかったことがおもしろかったっていってるんです)
彼らは最終的に焼き鳥をおとなしく食べていました。このお店にはカウンターの前にショーケースがあってそこに食材が並べられてましたので、ショーケースを指さす方が遙かに早かったのです。



気を取り直して注文してみた「チーズ奴(豆腐ではありません)」。
ぎゃーー!! うめえ、これうめえ。これ毎日食べたい。
豆腐じゃないけど豆腐だよこれ。



続いて注文してみたのは「ニンニクの丸揚げ」。
ぎゃーー!! なんだこれ、これうめえ。これうめえ。
昔は大のラーメン好きであった私なのですが、ラーメンには決してニンニクは入れません(最初から入ってる場合は除く)。逆に焼き鳥屋ではニンニク焼きはよく注文する。店によってニンニクの扱いが全然違うんですよね。
だが丸ごと揚げたニンニクがこんなにホクホクで百合根のように甘くエパミノンダスの斜行陣のように攻撃的なものだとは!!
もとより、こんなの自宅でもできる! こんど(休みの前日に)やってみよう!

つづいて、焼きナス(500円)を注文したのですが、写真に撮らなかったようです。
充分満足してお会計したのですが、4000円弱! 安い! …と思ったけどよく見たらそんなに食べてないですね。(ビールは3本飲んだ。)まぁでもすごく旨くて満ち足りた。



酩酊して宿に戻り、少し横になったら一瞬で朝でした。いかーーん、たくさん伊豆の本を持ってきてあったのに~。旅館の館内の写真(人のいない浴場とか)を撮るつもりだったのに~。



私の認識からしたらさっき夕食を食べたばかりなのに、すぐさま朝食なんて食べられるワケがない。
見たら、普通の朝食で少しほっとしました。



でも、大好きなアジが少ししか食べられないっす。朝鍋にいろいろ入りすぎっす。



昨日担当してくださったお姉様に、「ご飯これだけしか食べないんですか? 大丈夫ですか?」と言われました。ごめんなさいごめんなさい。
でもやっぱり旅館って、夜と朝で一緒の人がお世話してくれるとこんなに心安らぐものなのですね。心しておこう。

チェックアウトは10時。宿に車を置かせてもらって、ふたたび修善寺探索に繰り出します。
今日の最初の目的は「不越坂」の踏破。
服部さんは書きました。「当時、私達は温泉場からみゆき橋を抜けハリストロシア教会の前を通り、嵐山を右手に見ながら登っていくと簡単に城山にたどり着くことができました。この道を降りると城山神社、修善寺東小学校(立野)に通じます。私達が中学校の時、瓜生野(うりゅうの)にあった修善寺中学校が狩野川台風で流れ、修善寺中学校の温泉場にいた生徒は、毎日教会の所から、2年間城山の脇を通り修善寺東小学校の仮校舎に通いました。中学生で30分位かかりました。鎌倉時代はこの道(越路・恋路)を通って修善寺温泉に入りました」。

問題を整理しておきましょう。現在は車で修善寺に入るには、3つのルートがあります。修善寺駅方面の横瀬から月見ヶ丘の脇を抜けて国道136号線で入る道。大仁から有料道路(修善寺道路)に入って山をくり抜いて作った修善寺トンネルをくぐってくる道。北の熊坂から山を越えて修善寺ニュータウンの中を通って入ってくる細い道。かつては南から修善寺温泉街に入る(もしくは出る)ための「不越坂」という峠道があったのですが、それは現在“修善寺道路”“天城北道路”に吸収されてしまって、一般的ではありません。
このうちメインの道と考えられる現国道136号線が、むかしは湿地であり沼地になっていて「通れない」状態だったら、(※実は「通れなかった」だなんて誰も言ってないのですが)、太古の修善寺はどういう状態だったのか。結局の所、現136号線とは違う、「横瀬八幡の裏山から半経寺を通って神戸(ごうど)に出る山道」は実在したようで、「その道のことを覚えている人」もけっこう居るらしい。なんと現在とは違う、監獄状態の修善寺じゃないですか。そもそも修善寺に伝わる伝説で一番古いのは、独鈷の湯伝説でも修禅寺開創でもなく「桂谷の一番奥の巖窟に潜む降魔を調伏した話」。それが修善寺谷の閉鎖と結びついた基本的説話だとしたら… 範頼や頼家にも大師の業魔 夢が広がるじゃないですか。
服部さんは「恋路坂の方がメインだった」のように書いています。これは実破してみなければなりますまい。



台風に由来する雨は夜の間にすっかり消えてしまったようで、しっとりと晴れていました。菊屋の裏にある対山荘から、みゆき橋の前を通り、ハリストス正教会の横を抜けて、嵐山を右手に見ながら修善寺の城山を目指す。(むかしは城山は「眞葛山(まくずやま)」もしくは「金山」という名前だったそうです)。この道は狩野川台風の頃から変わってないようですね。
道は修善寺の谷間を見下ろすように段々高くなっていき、修善寺道にぶつかる手前に、さらに細い登り道があります。ここが恋路坂の入口です。



その入口。



忘れてたけどわたし、この道歩いたことあるな。それは紛れもなく5年前に修善寺城に登ったときで、城から下ってきたあとこっちの道も歩いてみたんだった。
道は草深くなってますけど、車のタイヤの跡も見える。少なからず今でも人に普通に使われてる道みたいです。



道は登り、“越路トンネル”の上を横切ります。見下ろすと沢山の車が猛スピードでトンネルを通り抜けていきますが、写真ではほとんど巧く写りませんな。



この坂の呼び名について。
正式な名称は「越路坂」ですが、修善寺の伝説により「不越坂」「恋路坂」と呼ばれる事もある。どれも読みは一緒で「こいじ(こえじ)がさか」なのですが、漢字によって意味が全部正反対になるのが面白い。思うに北条政子は「恋路」(彼女はロマンチストだから。対象はもちろん佐殿ですよ)と呼び、若狭局は「不越」と言ったんじゃないんですかねえ。若狭はともかく政子妃がこの道を歩く理由が全く思いつきません。横瀬口にも政子遺跡があるのですから。なお、「越路坂」と書くときのみ、実は正確な読みは「こしじがさか」です。伊豆の大動脈となる修善寺道を建設したとき、「不越トンネル」は流石に縁起が悪いから、「越路」に改称したのだと思います。

また、修善寺の伝承では「若狭局は2人いた」とされているのも抑えておきたいポイントです。
比企能員の娘で頼家の室となり一幡を生んだ彼女は、建仁3年の比企氏の乱で比企館の中で焼死したとも、一幡を連れて山に逃れたが小四郎の郎党に追われて斬られたとも、三嶋大社で癪を起こして死んだとも言われます。頼家が修善寺に流され幽閉されると、死んだはずの若狭局は側に侍ります。翌年、小四郎の魔の手が頼家に迫ると若狭局はわずかな供と共に越路の坂を通って逃れます。

<修善寺マイスター教則本より>
若狭の局は比企能員の娘で頼家の側室となり一幡を授かりますが、頼家が修禅寺で暗殺された後父の地である比企の里(現在の埼玉県東松山市)に落ち延び比企尼山に草庵を建て、ここの北側に「大谷山寿昌寺」を建立し剃髪の身となり頼家の菩提を弔ったと言われています。
後の藩主森川氏が寿昌寺を遷し「扇谷山宗悟寺」を建立しました。この寺には頼家の位牌が寺宝として大切に祀られていますが、修禅寺の法名「法華院殿金吾大禅閣」とは違う「大相国公一品寿昌義仁大居士」となっています。
頼家の側室若狭の局は頼家の身に危険が迫ったとき、共に最期を迎える覚悟でいましたが、愛息一幡のために父親の地である比企の里に落ち延びて行ったといわれています。
若狭は「こんなに悲しい思いの地には二度と戻りたくない。再びこの坂を越えることはないだろう」と泣きながらこの坂を越えていったと言います。以来この坂を不越坂と呼ぶようになったと言い伝えられています。


岡本綺堂の『修禅寺物語』(大正7年)は二人目の若狭局となった娘の悲しい野望(野望なんど全く抱く余地もないところが哀しい)を描いた戯曲ですが、他にも「若狭は二人」と明記した本を読んだことがあるんですけど、何の本だっけ。成立の古い昔のガイド本ではこの女性の名を記してないことが多いです。この名も無き女性が若狭という名になったのは岡本綺堂が悪かったのだと思う。

『修善寺村誌』(大正3年)
「元久の昔源頼家此地に害せらるるや、侍姫驚愕して走り出で此山脈を越へんとすると時、再び越へじと言ひしより字となりしと言ふ。麓を硯澤と言ふ。昔日硯材を出せしが、下品なりしを以て竟に止めたりと言ふる」

『日本傳説叢書<伊豆の巻>伊豆の傳説』(大正7年)
「眞葛山と小嵐山との間を通つて、狩野村に達する道路に不越坂と呼ばれるところがある。昔、源頼家の害に遭つた日、その侍姫、逃れて漸く此坂の上に至つた。遙かに修善寺の方を顧みて『嗚呼、今日の路、また越えじ。』と言つて慟哭して去つたところであるといふので、不越(こえじ)の名を得たのであると言ひ傅へられている。
不越坂の傳説、或は猫越峠を誤り傅えたものではあるまいか、ねつこたうげの音は「否越(ねこえ)峠」即ち、なこえ峠と附會して、「越えじ峠」としたのではあるまいか。或は又、宇佐見村から網代村に至る笠松峠の東南、海に突出せる一大丘の根越山を附會していふのかもわからないといふものがある。」


歩いた感じ、全然越えるのに難しい坂ではないです。気持ちよく歩けます。
この坂を越えた若狭局がどこに向かおうかとしたのかということですが、推定ですが函南に隠棲していた比企の尼のところですよね。比企の尼は没年が不明の人ですが、少なくとも範頼事件(建久4年)のときには生存していたという人がありますので、その9年後の頼家の死の時点に生きていた可能性も充分ある。そして比企の里にいたら当然比企氏事件で名前が出てこないわけがないから、別のもっとゆかりの深い場所にいただろう。やはりこの道は「地元人でないと知らない道」だったのだとしないと、伝説の整合性が無いのですね。越えるのは全く大変では無い道ですけど。
坂をくだると、懐かしい変な赤い洋食屋があります。

そこから本立野の町に入り、しばらく歩き回る。
むかし私もここに住んでいたわけなんですけど、変な町だなあ。古の雰囲気が漂っている。修善寺城から見てこの場所が大手の前になるので、城下町にも当たると思うんですけど、本で「本立野が隆盛したのは大久保長安による金山開発のおかげ」というのを読んだことがある。もちろん狩野川を使った水運の町なんでしょうね。



そこから城山神社へ。
以前行き方がわからなくて散々迷った道ですけど、なるほど、山田製麺の隣の細い道を登って行くのね。神社の前は一面茶畑です。ぐり茶かなあ。祀られているのは火産霊神。
狛犬がやたらとかっこいいです。前にも言いましたけれど、この神社の境内自体がまるで要塞みたいな城砦空間になっているのですが、畠山道誓入道の時代には入口付近には何も作らないことが通例ですので、城の遺構はもっと上の方にある。





「登り口はどうなってるのかなぁ~~」とひょいと見てみますと、



看板は以前と同じ物(だと思う)だけど、以前と雰囲気が違っちゃってる。以前は「最初から山登り」って感じだったのに。
道が整備されたんだな。



実はこのときまで山に登る気なんて全く無かったんですけど(だって一度登ったことある山だし)、「これはもう一度登れっていわれてるのかなあ、やだなあ」と思わざるを得ず、ぐずぐず悩んだ末、やっぱり登ることにしました。ヤレヤレ。

どうせ、一度登ったことがあるので、様子はよくわかっています。そもそも248mしかない山ですし中伊豆はもともとの標高がそれなりにあるので、そんなに登らなくてもいいんです。ひょいひょいのひょいです。
…と思って歩き始めたんですけど、そんなに登らず疲れないうちに、本当に覚えのある青いロープウェイ施設に着いちゃいました。ウソっ!!! こんなに簡単な山だったっけ。



いいや違う、絶対に違う。前回よりも遙かに簡単になってる。だって前回はもっと岩のゴツゴツした道を歩いてきたもん。
と一瞬混乱したんだけど、もともとこの山には道の険しい岩肌伝いの登り口(前回私はこの口から登った)と、一般向けの新たに作られた道(前回私は帰りにこの道を使った)があって、近年この登山口が整備されて、楽な道から容易にアタックできるようになったんですね。だって私は前あの朽ちた看板の所から登ったら岩道だったんだったら。今回登った登り道は、当然畠山道誓入道の時代には存在していなかったに決まってます。だってあんなに容易に登れるようじゃ、折角の山城の要害が泣く。私の記憶の中にある岩肌の道の方は、隣町大仁町の「金山城」の登り道とかなり似た雰囲気を持っておりました。



この図は『静岡の山城ベスト50を歩く』(2009年)をもとに作成。2006年に比べると修善寺城の情報は格段にたくさん入手できるようになってます。いい時代だなあ。
前回(2006)のルートが尾根伝いを歩く水色の道で、今回(2013)のルートは谷道を登る黄緑色の点線の口。今の登山道(黄緑色の道)は遙かに歩きやすいのですが、お城ってそんなに登りやすくては困るのです。実は未だ書き終えていない12月19日~21日にかけて行った伊豆旅行でも大仁の金山城に登ったのですよ。修善寺城と金山城は同じ畠山道誓が造った城でも(山の)規模が全然違っていて、金山城の場合は登り口が谷間でもやがて尾根を歩くように道がなっていて、その延長上に城郭がある。そこが修善寺城との共通点かなと思って。



「畠山国清古戦場 城山公園」と書いてあります。
畠山国清というのは、畠山道誓入道のことです。『太平記』の中ではわたくしの最愛の人物のひとりです。
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俵の鼠が米喰ってチュウ。

2013年06月14日 01時44分39秒 | 伊豆の歴史


前の記事も書き終えてないのにホントすみません。…今度こそ最後まで書けるかな?
ようやく連休を貰えたので、伊豆に行ってきました。ようやくだぜ。
今回は諸々の事情から、「修善寺に泊まろう」と決めてました。
「台風が来る」と言われてましたので、ちょっと心配ではあったのですが。

計画では朝6時ぐらいに出発して、8時ぐらいには伊豆に着いて、夕方までにいろいろ歩いていろいろ見てみるつもりだったのに、早起きしたつもりが二度寝してしまって気がつけば11:00だった(…いつものことだ)。
万全の支度を調えて新東名の引佐インターへ向かう。思えば新しい車を買って早2ヶ月。ドライブはなんとまだ2回目です。(前回は川根へお茶紀行、、、 あぁ何てことだ、この記事もまだ書き終えてない)
スイスイ飛ばして引佐インターへ20分後に到着。やっぱり遠いですね。浜北の家から浜北インターへは10分でしたから。
で、満面の笑みでゲートを通り抜けようとしたら、ETCのバーが開かない。
「あれ? ETCの場合も通行券を取らないといけないんだっけ?」と(馴れないものだから)アタフタしていたら、マイクで「お客さん、ETCカードの有効期限が切れてます!」と大きな声でいわれた。あたふたほた、恥ずかしい~。この間とり付けたばかりじゃぜ?(切れているのはクレジットカードの期限)。そういえばクレジットカードはこの間新しいのが送られてきていたけど(カードなんて滅多に使わない)、ETCカードは自動で更新されませんの? まだ一度しか使ったことないよそのカード。なんで一緒にETCの方も送ってきてくれないのか。
気を取り直して一路東へ。前回(旧車で)沼津インターまで1時間ぐらいで着いた記憶があるのですが、今回は1時間40分ぐらいかかり(なんででしょう?)、沼津の町中に下り立ったのは12:45ぐらいでした。

ちょうど昼飯でも喰いたくなった頃合いですが、実は前日家で色々料理の実験をしてまして、食べ過ぎまして、それほど腹が空いてない。伊豆に来たら何が何でも一番行きたいのは「鯨やさん」なんですが、「こんな状態で行ってもなぁ」「いつも同じところしか行かないのもなあ~」と思ってしまって、今日は沼津での懐かしいお店に行ってみることにしちゃいました。



沼津家さん。懐かしいぃぃ~~っ。写真に写っているのはわたくしです(どうやって撮ったんだよ)。
沼津家へは何度も通った。嫌いになれない店でした。思えばあの頃は、沼津でもラーメン屋巡りのローテーションを組むのに選択肢は非常に限られていた。この一帯がこんなにラーメンうじゃうじゃの混沌状態になってしまうだなんて、全く思ってもみなかっただろう。沼津家は通し営業だったし、夜遅く来ても開いていたので、よく時間を潰しに来た思い出がある。



肉嫌いになったしまったわたくしですが、「沼津家の肉って何か独特だったよね」と懐かしくなって、チャーシューメン(840円)を頼んでしまいました。そうよ、これこれ!
香りが良い。この香りを嗅ぐ為に来たようなものだ。スープは、豚よりもまず切っ先の広い太い醤油の味を感じてとても良い。目が覚める醤油の鋭さです。かといって麺とスープの混じり合うあたりは充分まるい。ワシワシいけます。チャーシューも堅くモキュモキュしていて、肉苦手でも美味しく食べられる。海苔の香りも浜名湖の物とは違う。



声を出してくれるのは店員のおねえさまだけで、店主は一切喋らず動きもゆっくりなのですが、トイレに行こうとしたら店主は喋らずにいて親切に場所を示してくれたので、私はこの店主、嫌いじゃないです。やっぱり湯切りの動きが面白いです。また来たい。ずっと食べずじまいだった「黒塩」を食べて見たい。

そこから一路、修善寺へ。
と思ったけど途中やっぱり気になって一匹の鯨をのぞいたら、定休日だった。なんと、休みなんてものができたのか。ついでに江川代官屋敷の郷土史料館に用事があって寄ってみると、そこも休館日でした。いやーーん。




さてさてさて、今回の旅行の目的は、「修善寺温泉区への入口の地形を調べること」と「越路ヶ坂を歩いてみること」の2点です。
たしかに、横瀬の月見が丘の赤い橋から温泉街までは寂しい長い道が続いており、なんか不自然だと感じておりました。
服部さんがおっしゃるように、古代に桂川河口がせき止められてダム状になっており、うなり石の付近まで深い沼地状になっていたとしたら、、、、、
こんなに牢獄となる場所もありませんね。
ここに閉じ込められた殺生将軍頼家公の悲嘆も相当な物だったでしょうし、そもそも弘法大師がなんでそんなところを選んでやって来たのかも気になる。
(※このブログは、「伝わる伝説は全部現地で実際に起こったこととみなす」前提でやってやります)



修禅寺方面から流れてくる桂川と、狩野川との合流地点。
うーーむ、そもそも狩野川本流の水量が以前はこの3倍はあったでしょうから、むかしの光景を想像することが難しすぎる。
ここは修善寺の「横瀬」と呼ばれる地域ですが、道が狭く、民家が密集しています。赤い大きな橋(修善寺橋)がかかってまして、ここの光景が現在の修善寺の象徴。この橋を渡るか渡らないかで現在の「(新)修善寺市街」と「旧修善寺温泉街」への分かれ道となります。旧修善寺温泉街の方は、NTTの薄暗い建物を過ぎますと、山沿いの寂しく長い道となる。ここから温泉街までは車で4分。
ここのところを今回丹念に歩いてみたんですけど。
うーーむ。
おっしゃる「一面がむかし沼地だった」という面影が、全く窺い知れません。
桂川の渓流は百年の間にかなり土地を削っているようで、下の川と上の道路はかなり傾斜の激しい河岸段丘になっています。段斜はなかなか鮮やか。ここに全面に水が溜まっていた、もとより「往来が厳しい(他のルートを模索しなければならないほどの)」とは到底思えませんでした。



桂川の河口を塞いでいたとしたら当然その役割が与えられるのは、「修善寺の赤い橋」の傍らのこの“月見ヶ丘”でしょう。ここは「配流の悲しき殺生将軍・源頼家公が鎌倉の都を偲んで月見をした場所」という伝説が伝わっております。この岡は「道路拡張の折りに半分削られた」と言われており、、まさしくこの道を塞いでおったんでしょうな。…と思ったんだけど、半分削っだけでは現在のこの道を塞ぐことは出来ないです。丘の南側の桂川の出口が現在断崖絶壁になっているのを見ても、月見が丘の北側には普通に通い路を作るはず。修禅寺前温泉が重要な土地だったのならば。「月見ヶ丘の前には向山があった」と何かの本で読みましたが、今の私にはその山も特定困難。



月見ヶ丘がせき止めていた沼地があったであろうNTT先の土地の現在の光景です。一面沼地であった光景を想像するのもたやすいのですが、実際歩いてみるとなかなか高低差もあって、「え?」と思う感じです。ここではやはり一番面白いのは「月見ヶ丘」であって、山頂に数基の石搭があるのが見えます。何の記念碑(墓)だろう。麓には最近伊豆で増殖している「千円床屋」があって(私が住んでいた頃にはここはガソリンスタンドだった(今でも床屋なのに「灯油95円」って書いてあるがな))、山には登れる道があるのですが、それにはこの床屋さんの敷地に入らねばなりません。うーーん、床屋さんに事情を話してここに登るのは、また次の機会にしておこう。

思うに頼家は日常的にここには来ていたわけですから(修禅寺にある伝説に従えば、子供たちを引き連れて)、沼地を渡ってでないとここに来られないとしたら、かなりちぐはぐな伝説になる。その沼地が「いつごろにあったのか」が問題となるのですが。頼家の時代に「沼地があった」とは、どの伝説も述べていない。

月見ヶ丘の傍らにあるのが「横瀬八幡神社」です。これまた私にとってはなつかしい神社です。



“困った顔の狛犬”とか(かわいい!)



“北条政子の女隠石”とか(ひわい! …と思いきやここには子を思う母の感動エピソードが!)



この横瀬八幡の裏側を見てみますと、たしかに民家の脇を登って行くような細道があるのですけど、手持ちのタブレットで地図を見ながら歩いてますとこの道がどうしても温泉街に続くようには見えなかったので、途中で歩くのをやめちゃいました。(あとで考えれば、これが非常にもったいなかった)

この時点で考えたことは、服部さんが「現在の修善寺駅─横瀬─温泉場のバス道路が開通したのは比較的新しく、それ以前は現在の横瀬の八幡神社(当所は、ここより200m東側の月見ヶ丘にあった)の裏から山づたいに半経寺(かつては修禅寺の一郭、現ホテル滝亭のあるところ)まで来て温泉場に入ったようです。横瀬から温泉場側に少し入ったところは岩盤がそそり立ち、修善寺城の岸壁と重なり桂川沿いには温泉場に入れなかったようです」と書かれた道とは、「実は現在の道路(国道136号線)なんじゃないか」ということでした。この道路から下を流れる桂川を見下ろせばかなりの高差がありまして、特別な盛り土もしてないように見えますので「山づたいの道」とも言えなくも無いと思ったのです。
この日の探索はこれだけで終わりました。

でもしかし、あとで本を何冊か読んでみますと、やっぱり私の認識は間違いのようです。
修善寺ふるさとの会編纂の『修善寺の案内』(2005年)によりますと「鎌倉時代は水位が高かった時代で、言い伝えによると、修善寺に入るには駿河湾から船で横瀬まで来て、今のマツダ自動車裏で舟を降り、横瀬墓地まであがり、横に八幡神社まで来て、神社の裏を山に登り、山の中腹を通って「うなり石」の裏山のすそを通り、山裾沿いに温泉場へ入ってきたようである。八幡神社の裏山の道は、昔、おじいさんに連れられて通ったが、今では途中でわからなくなってしまい通れないようである。この道の脇に伝説に出てくる「夜泣き松」があった。「子ノ神」からは今も通れる道が残っている。」
うおぅ、やっぱりあの道が正解だったのか。「子ノ神」ってどこでしょう?
この本には丁寧にも写真で昔の道と思われる道の軌跡を解説しています。それによると確かに現在の国道136号線よりも高い地点(ただし同じ山の同じ斜面)にむかしの古道はあった。
『修善寺の栞』(この本は少し昔の本の復刻のようです)の「半経寺と古道」の項には、「宝物館図を見ると半経寺は山側を向いている。もとの修善寺町役場の裏に行き止まりの道があり、何とか去留庵へ登れる道も残っている。去留庵ができる前は畑になっていて道は山側に向いていたとのことである。同じような例が横瀬の八幡神社にもあり、神社の裏から夜鳴松の前を通る山道を覚えている人も多く、宝物館図には八幡神社も山側を向き、神社と山の間に道が画かれている。すなわち現在の道は明治後に改修したもので、古い道は横瀬の裏道から八幡神社の裏山を越え、大下(おおしも)から半経寺の裏山を通り、半経寺でまた山越えをして、下神戸(しもごうど)の裏を通り、神戸洞(ごうどほら)の通称・公園道路、もちろん昔は狭い谷道だったろうが、戸田や大沢・堀切へ抜ける古い道と考えても良いので、ここから修善寺門前の道へ抜けていたのであろう。」
…うーーむ、文章を読んでも地図を見るとさっぱり理解できん。
結局の所、現地を2時間近く歩き回ったのですが、結論としては感想は出発前と全く同じ物でした。…つまり、探索に失敗しました。
めそめそめそ、こんなこともあるさ。


気を取り直して、今日のお宿です。
今回泊まることに決めたのはこのお宿でした。



ひとえにここゆいず ねの湯 対山荘

美人の女将と若女将がいると評判だったからここに決めたのさ。
もとい、頼家様のお墓と越路ヶ坂が近いこととお値段が手頃だったこと、デザイナーズ旅館を謳っていたことに興味を惹かれて、ここに決めたんだってばさ。
個人的な理由から「デザイナーズ〇〇」というのが好きではないのですが、思えば前回伊豆で泊まった「井川館」もデザイナーズ〇〇っぽくなっていたのだった。その流れ。



「修善寺唯一のデザイナーズ旅館」だそうです。
しかし、外観からはそんなの全然感じさせない、しっとりとした良いたたずまいです。ついでながら、このお宿では「デザイナーズルーム」と「普通のお部屋」は1まんえんも違うので、車を買って引っ越したばかりで手元が不如意なわたくしは、当然普通のお部屋に泊まるのでした。
おぉ、普通のお部屋だ。ほっ。



このお宿、かなり覚悟して来たのですが、普通の部屋でお願いしてしまったわたくしには一切嫌いなデザイナーズ的な部分が見えることは無く、こじんまりと隅々まで心が行き届いた、気の手触り満点な、ステキな和の旅館に見えました。なんなんだ。従業員の方もそんなに多くは出会わず、会った人はみんな気のいい方達ばかりで、なんとなく好きになった。女将も若女将もやはり美人でしたしね。館名になっている「ひとえにここゆいず」というのの意味がわからないんですが「ひとえに」の部分は女将さんのお名前かな? 「ここゆいず」? …「ここ・湯・伊豆」? 「二個・濃ゆい・'ズ」? 「エニコ・来ゆ・出ず」だろか? 「エニココ・ユイーズ(ブルガリア人・25歳)」ってのもあり得る。

明るいうちに修禅寺の温泉街を歩いて一周。赤蛙公園から範頼卿の墓から、範頼・頼家ふたりが閉じ込められた信功院から頼家の墓・指月院まで。
修善寺は決して史跡が豊富な場所ではないんですけど、適度に歩ける広さの範囲の間に、全てが集まっている感じがいいんでしょうかねえ。ごみごみとした印象を、川のせせらぎの音がすべて覆い隠してしまっているような町です。一度来れば充分な町なんですけど。



蒲の冠者・範頼卿の墓。このお墓が無粋にコンクリートで覆われてしまったのは、何年前であったかしら。2007年に来たときはまだ味のある朽ちた土の土台でしたから(ああ、その時の記事もまだ完成させてない)



場所を移動した独鈷の湯。なるほど、川の流れを妨げてはいない。(以前はもう少し左上にあった)。これを移動させるというニュースがあったとき(2009年)、私はぶーぶー言ったんでしたが、あれから4年も経ってたんでしたか。

だいぶ歩いて汗だくになったあと、宿へ戻ってお風呂とお食事です。
ここのお風呂はあまり大きくはありませんが、良い雰囲気。アルカリ性単純温泉で(低張性・アルカリ性・高温泉)だそうで、伊豆長岡の井川館もアルカリ性単純温泉だったのですが、それに較べても遙かに柔らかい。聞けば修善寺温泉郷の温泉って極めてユニークなシステムを取っているそうで、修善寺内で涌く何十本もの源泉を使うことを止め(資源の枯渇を招くから)、厳選された4~8本の源泉から採ったお湯を一箇所に集め、均質にさせてから各旅館に配り、また一箇所に集めて循環させているそうです。(と、赤蛙公園の脇にあった大きな看板に書いてあった)。同じ温泉地にあっても源泉の場所によって含有物は全然異なるもの。修善寺ってかなり思い切ったことをやってますよね。…と思ったけど、われらが舘山寺温泉も同じようなものか。舘山寺の方が遙かに湧出量が少ないだけで。大正3年の『修善寺村誌』には20もの湯元とその違いを詳細に述べているのですが、現在はそれらは地下の底深く眠っているというわけです。



お食事だっ。(いきなり写真がブレてしまった)
綺麗だ。だがお品書きを見ると、メニューのうち半分がすでにここに並べられてしまっている(笑)。無粋なわたくしにはどれが前菜でどれが先付なのかようわからん。



お品書きには「伊豆修善寺の雨音」というタイトルがつけられていまして、お姉様がひとつひとつ詳しく説明してくださる。わたしはこのお姉様が大好きになりました。



“先付け”が、とまと豆腐・サワガニ・穴子寿司。
“前菜”が、栄螺の土佐煮・桜桃甘藷(まんなかの二つ並んだ丸いもの)・稚鮎・雨蛙のお豆・小芋の田楽・合鴨のローストですって。
前菜と先付けが一緒の皿に乗ってるらしい。結局のところ、先付けと前菜ってなんなんでしょう? とはいえどれもが繊細かつ大胆。心が入っていてとても美しく、楽しい。
私も、こんな料理を作りたい(作るべきだ)なあ…

意外もこのメニューの中でのメインはこれだったりする(笑)



それから、沢蟹もなかなかバリバリいけて、びっくりした。我らが浜松でも確か井平のあたりで沢蟹が郷土料理になってたはず。よぉし、今度買って(もしくは獲まえて)来よう。



造り。伊豆ではマグロも地魚になるのがすごいところですよね(浜名湖に比べたら)。でも私はマグロは嫌い(地のものって感じがしないから)。あと、鰺と障泥烏賊と、シャケかと思ったら“アマゴ”ですって。伊豆ではシャケはいないけどアマゴは地魚になるのかしら。(大仁のスーパーでは売ってなかったから分からん)。
この造りには“伊豆の海 川の流れ”というタイトルが付けられていました。







椀の物の「福子焼き&潮仕立て」と一番人気らしき「マスカルポーネ利久プリン」。
「福子」って何だ? フッコ?(お姉様が説明してくださったと思うけど忘れました)
千利休もマスカルで大変ポーネだな、…と思ったらここの人は「利久」でした。前田利久? 牛タン?
だが確かにこれは濃厚で、美味でした。…ゴマなど使ってないから変だと思ったんだ。





メインは鮎の塩焼きで(これが元因で私は細江に帰ってからも鮎ばかり食べることとなりました。鮎ってウマイな)、煮物は「夏野菜の炊き合わせ」。夏野菜っていいながら、実質ウナギと湯葉が主役でした。

そしてシメは「黒米ご飯」。修善寺って言えば黒米だよね。



でも黒米っていいながら赤い。赤と黒。



お酒は富士錦酒造による「対山」(1260円)。
伊豆じゃ富士錦がひじょうな勢力を持っているのですよね。他には花の舞(浜北)も置いてありましたが、さすがに花の舞は毎日飲んでいるので今日は珍しく富士錦だ。なんとなーーく富士錦酒造には先入観があるのですが、今日のこれはとりわけねっちょりしてまして、とても美味なお酒でした。

総じて感想を申し上げますと、とても手の先の技の光った、まことに好ましい料理の数々だったです。配置のセンス、このようにやりたいんだけどなかなかはできない。
また別の季節に是非訪れてみよう、と思いました。
コメント
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