オセンタルカの太陽帝国

私的設定では遠州地方はだらハッパ文化圏
信州がドラゴンパスで
柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

懸け河、総務省頑張る。

2010年03月13日 11時50分14秒 |   お城巡り

所用で掛川に行ったので、ついでに掛川城に寄ってきました。
このお城に来るのは2年振りぐらいでしたかねえ。前回は赤い鳥の宝探しで寄ったんでした。懐かしい。
掛川城って美しいね。
で、今回来たのは、2年前にはあった「戦国武士の館」をちゃんと拝観するため。2年前も今も戦国ブームだし、一体どうなっているんだろうと。

・・・来たら、本丸にあったその館は撤去されていました。い、いつの間に、、、
だがしかし!

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高根の花。

2010年03月06日 23時59分04秒 |   お城巡り


高根城の井楼櫓。ひときわ目立つ建物。

浜松市の中でも北の北の果てにある水窪(みさくぼ)町の、町を見下ろす三角山という山にある高根城に行ってきました。前から行ってみたくてたまらなかったんだ。

もともとは南北朝時代に尹良親王とそれを擁する奥山氏が作ったお城だそうですが、戦国時代には武田氏の所有となり、堅固な武田流の築城術で固められ、それが平成10年くらいに戦国時代の姿でそっくり復元されました。

同じ浜松市内とは言っても、(浜松市域は異様に広すぎるので)、我が家から高根城までは非常に遠いです。合併前の旧市名で言えば、私の住んでいる浜北市から天竜市を超えて、春野町、竜山村、佐久間町を経てその先にあるのが水窪町。水窪町の先が長野県です。我が家から車で2時間ぐらい。遠い。佐久間町と水窪町を合わせた地域を「奥山郷」といい、平安時代までは隔絶されすぎていて信濃国伊那郡に入れられていたそうですよ(今でも飯田市と関わりが深いのは似たようなものであるが)。中世になってここを管理したのが奥山氏で、奥山氏は南北朝時代には宗良親王に助勢し、奥山郷以外にも引佐町の井伊谷付近でも勢力を持っていて、奥山方広寺などにも関わりがあるそうですから嬉しくなってしまうのですが、その奥山氏ってのはもともとは天竜市に広く支配力を誇っていた天野氏の被官で、それが鎌倉時代のおわりころに?叛旗を翻して奥山郷で独立してしまった、というのでちょっと微妙になってしまいます。鎌倉時代の天野氏ってのは、わたくしがこよなく愛する伊豆長岡の天野藤内遠景閣下の直接の子孫ですからな。


高根城から見下ろす水窪の町。

高根城は水窪の町を見下ろす位置にあります。が、あんなに山道をウネウネ上がって来たのに、このお城のある山の標高は(海抜)420mですって。南アルプスに囲まれているから、もっと高いと思ったのに。ここより遙か南方にある秋葉山は800mです。
水窪の町は遠すぎて、来るのは子供のとき以来ですよ。小学生の頃、ボーイスカウトに入っていて、この町を集団で忍者の格好をして歩き回った事がある(笑)。

麓からの比高は150mぐらい。中腹に駐車場があり、そこから徒歩で数十m登ります(なかなかツライ)。
で林の中の道を抜けるといきなり出てくるのが、主郭と大手門。なかなか見事に復元されています。

が、わたくしにはいきなりこの門の意味がよくワカラナイ。
この門って大手門(=表門)じゃなくて搦手門(=裏門)じゃないの?
お城って、門を入って三の丸、二の丸を経て本丸に至る物で、そっち方面にある一番立派な門を大手門って言うものだと思ってたんですけど、ももももちろんそうじゃない例だってあってもおかしくないとも思うけど、確かにたった今登ってきた登山道は歩きやすかったから、ここに大手門があってもちっともおかしくないんですけど、だとしたら、あとで見る事になる巨大二重堀はなんなんだ?

ま、わたしはお城の仕組みなんて良く分かっていないし。

食い違い虎口のところから主郭を見上げる。
う、うつくしい突出部。

同じ場所から二ノ曲輪を見上げる。

その二ノ曲輪の上から食い違い虎口(=搦手門?)と横堀と木橋を見下ろす。

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一夜城。

2009年11月04日 10時29分45秒 |   お城巡り


『革新』の岡崎次郎三郎信康。

旧天竜市の首都・二俣町にある二俣城で、期間限定(10月31日~11月8日)で模擬天守閣が築造されていると聞いて観に行ってきました。その名は二俣一夜城!

遠江にある二俣城は、信州諏訪湖から発して延々200kmを流れてくる天竜川が赤石山脈を脱してようやく河口に近い浜松平野に注ぎ込む絶妙の箇所に位置しており、なんでこんなところが交通の要衝なのかよくわからないのですが、とにかく古来からの要めにあるという天下の堅城なのでございます。戦国期の徳川と武田の争奪戦の場として、とくに元亀3年と天正3年末の2度の攻防戦は、城攻めの典型的で顕著な例として有名です。また、徳川家康の長男・松平信康が短い蟄居生活の末切腹させられた哀惜の地として、あるいは大久保忠世、依田信蕃、堀尾吉晴など素晴らしい城将が歴代君臨した城としても有名です。ことなべて私は依田信蕃という人が(武田家家臣の中では)大好きなものでしてね、えへへ。
逆に、現在の二俣城には立派な石垣の天守台が遺っているのですが、研究の結果、「ここには過去いかなるかたちの天守閣風建築物が建っていたとの証拠がない」ということが認められており、なにしろこの二俣城は遠州では浜松城に次ぐ名城といわれ、でも随一の浜松城があんなので、第2位のこれが「天守閣は無い」といわれているのですから、子供の時分のお城好きの私はかなりがっかりしたものでございます。「だったらこの天守台ってなんのためのものなのだよ」と。
「でもこの天守台は堀尾時代ではなく徳川時代に建造された可能性が高い」と現地人は言う。そんなことあるかよ。あんなもの武田との交戦時代に立てて何の意味があるかよ。堀尾吉晴だって天下に名だたる築城主だよ。(出雲の松江城をデザインしたのが堀江吉晴です)
という邪悪な思いは当地に住む者なら共通するものだったようですね。
「第24回国民文化祭」というイベントを機に、急遽この二俣城の石垣の上に、ハリボテながらも冒険心溢れる天守閣が建造されることになったのでした。それが二俣一夜城。
どうです? この浜松城と松江城が素敵にコンビされたデザイン。

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高い城の男。

2009年08月19日 10時47分43秒 |   お城巡り

今日は小ネタ。
2週間ぶりにようやく休みが貰えたんです。半日だけど。
だので蜆塚遺跡の中にある浜松市博物館に行ってきました。
そこでは現在「全国城グッズコレクション」と称する市民コレクター展をやっているというのです。浜松在住のおふたりの歴年の収集痕を披露しているらしい。でも行ってみたら、「え、これだけ?」とつぶやきたくなる量でした。(量のことですよ。内容は素晴らしいんでしょうけどもね)。ここはきっと単なるアピール棚で、「どこかに特別展示室があるに違いない」と思うくらいでした。実際コレクターと称する人間っていうのはほんと凄いんですから、案外本当に特別展示室があるんだと思う。私が見落としただけで。

ただひとつっ。
そのおふたりの収蔵物のひとつとして、私には垂涎のものがささやかにさりげなく展示されておりました。

昭和20年代の浜松城のハリボテ天守閣!
以前に一度触れたことがありましたが、昭和33年に現在の浜松城の復興天守が建てられる直前、ここに別の建物が建っていたというのです。その貴重な写真。

本来の天守台の上にもう一段、ハリボテ石垣が造られているのが分かりますね(笑) 人が10人ぐらい乗っていますが、一体どういう構造だったのか。下の石垣の表面に草?が生い茂っているのも。さすが野面積み。石の上の草原。

・・・ってあれ?、この写真なんかの本で一度観た気もする。ちょっと見たこの意外にしっかりとした作り込みの印象に、だから私はこのプレ存在に気を惹かれるようなことになったのかもしれないなあ。

そもそも浜松城には、「17年間ここに在城した徳川家康は天守閣を造ったのかどうか?」という重大なナゾが控えているのでございます。通説では、「現在の浜松城の縄張りを完成させたのは家康が関東に左遷された後に入った豊臣武将の堀尾吉晴」だ、「堀尾はそのとき天守閣も造った。それが浜松城天守閣の最初だ」とされているのですが、一方で模範的な美しい野面積み(参考サイトさん)として有名な浜松城の天守閣の石垣は、家康時代からあったと言われてもいるのです。これが江戸城ならともかく、戦国後期に建物を作る計画も無しに天守台を作る事なんてあろうか、ということで、「実は家康時代にも浜松城にも天守閣はあった、信長の影響を受けて」、とする説も根強い。
そして江戸時代、さまざまな絵図から見るに浜松城の天守台の上になんらかの天守閣があったことはほぼ確かであるみたいなのですが、その実態は全く不明。「江戸後期にはすでに天守閣は無かった」とも言われます。で、明治初年には廃城令によって浜松城全体が破却されるのです。

第二次大戦後、昭和30年代にお城ブームが起こりまして、各地に復興天守が数多く作られます。現在の浜松城天守閣も昭和33年に市民の浄財を集めて華々しくコンクリで作り直したもの。しかしそれ以前に、現在の浜松城の位置に、ブームに乗ってこぢんまりとした天守閣まがいとそこに至るケーブルカーがつくられていたというのです。ケーブルカーですよケーブルカー。ロープウェイじゃなくてケーブルカー。
写真には「昭和20年代」と書かれていますが、30年代の天守閣ブームの嚆矢はウィキペディアには昭和29年の岸和田城だとされていますから、その前後にブームに乗じて浜松にこのハリボテが建てられたと仮定しても、たかだか5年弱しかこれは存在していなかった。幻の存在物。

実のところを言いますと、私は自分がお城好きだとは思うのですが、天守閣なんてどうでもいいと思っている輩です。城郭の中で高層建築物なんて飾りです。「信長の野望」ファンなので、お城の中で一番重要な箇所は城門付近だと信じ込んでいるのですが、とにかく「縄張り」や「防衛構想」が大好きで、学研の歴史群像の「戦国の城」シリーズを眺めながらニヤニヤしている時が一番楽しい。戦いで二の丸まで敵に侵入されたらもうそれは全てが終わりだよね。かといって、天守台に意味が無いというとそうでもない。どんな計画図でも中心点は必要ですからね。その中心点が高所にあって一番各所の状況を把握できるような設計であれば言うことは無しです。っていうか、そうでなくてはならないものではあります。だがそこに高い建物があらねばならぬのかというと、そうかもしれないしべつにそうでないのかもしれない。そもそも城は小高い山に作る物だからなぁ。

敷いて言えば、天守は燃えてナンボです。
城とは地域の要衝に建てられる物であり、要所とは必ず紛争の的になるはずの場所です。堅城であろうが美しい城であろうが、戦いの歴史のない城は存在意義のない城だし、城は作って破られ、燃えてなおかつ鮮やかに蘇るものなのです。その都度の容姿の変遷には興味がある。(大阪城とか江戸城とか、再建されるたびに容姿がだいぶ変わってしまってるんですよ。三代目江戸城なんか、大坂城バリに真っ黒です。)
では我らが浜松城はどうなのか。
実は私は“(熱海秘宝城と下田竜宮城を除いて)天守閣のあるお城が唯のひとつも存在しない伊豆”に長く住んでいて、でもお城巡りをしていて「楽しいなぁ~」と思うことが多かったですから上記のような思想を抱くに至ったのですが、初めて天守を持つ町・浜松に移り住み、いろいろと物想うことになったのです。

浜松城ほどのこぢんまりとした天守閣でも、地方ではなんか別格だぞ。
こんなチンケなものなのに、ちゃんと町のシンボルに成り得ているぞ。
だが果たしてこの浜松城はそれに見合うだけの歴史的な重みを持ち得ているだろうか。
結局天守閣て何なのか。
お城の側は変に天守なんて持たない方が幸せだと思っているんじゃないだろうか。だって本来は不必要な天守閣的建築物なんてものに、存在性を全て預けられているような形になっているんですもの現代は。一般的に。世間的に。

ハリボテ天守の話に戻りますが、浜松城のこのハリボテは現在は幻となってしまいましたが、実を言うと全国にはほぼ同時期の似たような存在はたくさん現存しています。「あやしい城」というサイトさんを見れば、おおまかの全貌のちょっとした片鱗はおわかりになるかと。もちろん星の数ほどあったであろうハリボテの大部分は、風に吹かれて消えて無くなってしまっているものが多いのでありましょうけど。

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つなし、よな、この城。此は誰。

2009年04月09日 09時00分37秒 |   お城巡り

振り返れば、浜松に越してきてから1年半にもなるんですよねえ。
最初は「徳川家康のことだけ調べよう」と思い、特に「浜松城と三方原合戦のナゾ」をメインテーマに据えようと思ったのに、徳川家康どころか他の記事もほとんど満足に書けない状態になってしまっています。惜しい。非常に悔しい。
去年の今頃も、桜の浜松城を撮りに出掛けた記憶がありますが、残念ながらその写真は消え去ってしまった。テレビで「浜松城の桜が真っ盛り」というニュースを(一週間ぐらい前に)見たので、懐かしく思ってまた行ってみました。

浜松城については書きたいことはありまくるほどあるのですが、どうも今はそんなに時間が取れそうにないので(ちゃんと、書きかけの記事を完成させたいんです。頭の中ではすべての記事は文章・構成が完成しているのに。越前旅行だって狸和尚の記事だって)、今日はただ撮ってきた写真を並べて、ちょっとだけ問題点を羅列するだけにしときます。

実は浜松城公園はそんなに広くないわりに地形が急峻で、なおかつ野面積みの石垣の壁が随所に迫り立っていて、天守閣の近くまで行ってもその姿が見える場所が極めて少ないです。星の数ほどあるいろんな人のお城巡りブログを見ていても、ほとんど同じ写真ばかりなのはその為です。
が、実をいうとこのお城の一番の見所はこんなチンケでデタラメな模擬天守なんかじゃなくて、この貴重な石組み構造の粋なのです。天守曲輪付近は本当に素晴らしい。

浜松城でも夜桜ライトアップが行われていて、よくテレビなどでもとりあげられていましたが、さすがに4/7ともなると派手に散り乱れてもいて、葉っぱもチラホラと出始めている。サクラももう終わりね。
でもそこかしこで座ってお茶飲んでる若いお母さんたちや宴会をしている会社員たちがいる。・・・・・今日って平日でしたよね? まったく羨ましいぜ。


浜松城の一階にある「若い頃の徳川家康の彫像」

いずれこの浜松城についてはきちんと立派な記事を書きますのでね。
いつか、いずれ、きっとね。
とりあえずいずれ書くつもりのテーマを羅列しておいて、今日のところは終わりにしておきましょう。

 

<問題点その①>.天守閣は誰が建てたのか
家康の頃、天守閣はまだ無かったと言われており、しかしこの石垣は家康が作ったという説が有力で、だからやっぱり家康の頃にはこの上に何かが立っていたとも言われている。
その話とは別に、昭和になって「市の象徴として」模擬天守が建設されるのですが、その設計をしたとされるのは名古屋市のなんとかという人で、その人はどうしてこんな形にしたのか。なにか根拠があるのか。なお、「予算が足りなかったので」ちょっと小さ目に設計したという。そういうのが当たり前に出来たそういう時代に興味があるし、浜松城は「小さいけれどもそれなりにカッコイイ」というのが一般の評価であるけれど、結局のところの実際の天守閣がどうなっているのかも気になります。
で、その昭和33年の再建前にはケーブルカーと何らかの建造物が建っていて、再建に伴ってそれは撤去されてしまったそうなのだけど、それがどんなものだったのかも気になる。


浜松城天守台の余り(笑)の部分

 

<問題点その②>浜松城は家康が遠州移住後に総力を挙げて建造を急いだ最重要拠点であり、従って家康の戦略思考の粋が表れているはず。しかし本には家康は浜松城を築くに当たって信玄が攻めて来るであろう方面だけに重点化して防備を固めた、とあります。それは本当か。

だって、どう考えても信玄は北から攻めて来るもの。実際来たもの。
三方原合戦の時は信玄は浜松城の西北に陣しました。

浜松城の模型。

これは江戸時代の浜松城の模型ですがね、本丸(天守曲輪とその周辺)に対してそのまま右側が東の方向。これを見て東側が特に防備を堅くしているとは言えないと思う。
三の丸に侍屋敷が結集しているのでそれを見て、「守りが厚い」と思う人もいるかもしれないけれど、それは違うと思う。で、この写真でてっぺんにあるのが、のちに話題とする「曳馬古城」です。
私が注意して見るべきだと思うのは東北方向と、それから南側の構造です。

<問題点その③>「作左曲輪」とは何か。

浜松城の天守閣はもちろんこの付近の一番の高所に建っているのですが、浜松城の防備は前面(武田軍が攻めてくると思われる東側)に集中していて、天守の背後はただ木が生い茂るだけの自然の山だったのです。
その山のことを「作左山」といい、その山の向こうに作左曲輪があります。ちょうど、韮山城で言えば江川砦か土手和田砦に相当する部分ですよね。
でも、なぜ「作左」なのか。浜松城には「玄黙門」とか「巴城門」とか「樹木屋敷」とか「清水曲輪」とか「馬門・馬櫓」とか、興味深い命名が多いのですが、人名が付いているものは他にはありません。下の地図では右手が北の方角。「御誕生場」って誰が生まれた地名ですか?(結城秀康と徳川秀忠は別の場所で御誕生してます)。

一応、公園内の案内板には「三方原の合戦の時、心細くなった家康が「大丈夫かっ!? 大丈夫かっ!?」と取り乱していたとき、本多作左衛門重次がただひとり落ち着いた様子で、「大丈夫です、兵粮は十分蓄えてありますから」と言った。これを聞いた家康は喜んで、戦いの後に彼が兵粮を集めていた曲輪を作左に与えた」と書いてあります。・・・・変な話。
本多重次は「岡崎三奉行」のひとりで、「仏高力、鬼の作左、どちへんなしの三郎兵衛(天野康景)」とか言われていたと思うのですが、この頃はほぼずっと浜松城に詰めていたらしいですね。岡崎奉行なのに。志木沢郁氏の『結城秀康』には、極めて渋くて重くてゆるぎない印象的な本多作左衛門重次が出てきて、ステキです。

ともあれ、私が行ったときの作左曲輪はカラスだらけでした。
・・・それは、夜になるとみんなここで花見宴会をしているからですね。

<問題点その④>「引馬古城」について。

私が浜松城で一番好きなのは、引馬古城の部分です。
家康が三河から遠州に進出してきたとき、浜松庄には「引馬城」という小城があって、そこには飯尾豊前守という野心的な小領主が住んでいたのですが、家康は最初自分の拠点を磐田市の見付にしようとしてその無謀を織田信長にたしなめられると、次にこの引馬古城に目を付けて、これを拡張する形で浜松新城を建造するのです。
ただし、この「引馬古城」は現在の浜松城の本丸・二の丸の位置にはなく、三の丸にちょこんとへっ付くような形で、いわゆる「出城」みたいな形で存在している。
で、「武田氏の脅威が北東方面に存在した」のなら、この引馬古城の位置こそが、この城にとって一番大きな存在だったんじゃないか。
で、引馬古城がこれまた変な形をしてまして、なおかつ現在までその変な形のまま現存しているのですが、その古城についての詳しい報告は、また後の別の記事に譲ります。


天守閣から見た引馬古城。・・・どの部分かきっと分からないでしょうね(笑)。ホテル・コンコルド前のこんもりとした部分のことです。けっこう遠いです。「浜松東照宮」があります。


「玄黙門」の部分から引馬古城を見る。三方原の敗戦のとき、家康はこの門から浜松城に逃げ込んだんですよ。この引馬古城の部分は、何度でも言うけど形が素晴らしい!

この浜松東照宮の一番の見所は手水鉢のところにある渋い形の龍の飾り物ですが、気付かないところに龍を見下ろすように、猫の置物もあるんですよ。かくいう私も写真を撮りまくって、家でそれを整理していたとき初めて気づいた。こんなところに猫が!って。
東照宮といえば

<問題点その⑤>「道を踏み外した女(ラ・トラヴィアータ)」は実在したか。

家康の前に引馬城主だったのは飯尾豊前守連龍という男だったのですが、彼から家康への城の受け渡しの過程が、きわめてナゾなのです。
飯尾連龍はとても反逆的な男で、それまで遠江を支配していた今川氏に対して親子何代にわたって度々反乱を起こし、そのつど今川氏真に赦されていたらしい。
家康が遠江に侵入してきたとき、連龍はいち早く家康の傘下に入ることに決め、いろいろと手引きをするのですが、警戒した今川氏真によっておびき出され、家康が浜松に達する前に謀殺されてしまったらしいのです。
わけのわからないのはここからです。
連龍の妻は「お田鶴の方」という女豪傑だったのですが、自ら剣を取って、侵略してくる家康軍と華々しく戦って戦死したと伝えられています。
・・・なんで?
ただし、このお田鶴夫人の伝説は江戸時代の書物(『濱松城御在城記』)に書かれているのみで実在が確認できず、実在は疑問視されているのだとか。でももちろん浜松人はこの美丈夫をこよなく哀悼し、浜松城の近くに「椿姫観音」というのを建てて、篤く祀っているのです。

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